卑しいは癒しである。誰しもが背徳への憧れを持っている。悪によって想像力が生まれる。悪は正義を補償する。悪が正当化することによって罪を定められ罰を手に入れられる。理想の向こう岸には現実がある。限り無く夢に近い現実(リアリティ)は、意識化された理想の歪みを矯正する。少し下に降りてみよう。遊んでみよう。欲しいものに手を伸ばしてもいいのだ。力づくで奪いたければそうすればいい、逃がしたくなければ閉じ込めてしまえばいい。罰が欲しければ望めばいい。何でもできる、想像の中では。

ー緊縛願望ー

 緊縛してみたいと思った事があるだろうか。征服と恐怖と嫌悪感。隷従と思考の喪失。緊縛とは一種の拷問である。拷問と嗜行を別 けるのは、そこにある免罪符が何なのかに寄るだけだ。

 緊縛とは他者の自由を奪う若しくは他者に自らの自由を預ける相互理解によって行われるフェチズム行為だ。そして観る者にとってはサディスティックな欲望とマゾヒスティックな欲求の結実された至高の悪である。

 神社の境内にのたうつしめ縄を見て欲情する人はいるのだろうか。いてもおかしくはない。そもそもしめ縄とは男と女の絡み合いである。稲わらが男と女のように強く結びつく事で、多産・豊

穣を祈願する。男女の関わりを「ヨリ」と表現するが、ヨリとは二本の紐状のものが一本に寄り絡め合わされる事だ。縄はそれ自体、男女のまぐあいを象徴し想起させる。その縄が人の身体に絡み付く、それは二重にエロティックであり緊縛独特の美を艶びかせている。また、しめ縄には聖と俗を分ける・境界を引く力がある。縄によって縛られたモノには聖なるモノへと昇華したかのような神々しさを感じないだろうか。

 別けるという事は、護り護られるという事でもある。聖別、俗別と区別する事によってお互いの交流、侵入を封じて防衛する事ができる。「ハレ」と「ケ」、「彼岸」と「此岸」の往来が希で、鬱と躁の揺らぎに流され病との境界が曖昧な”現代”。縄によって縛るという行為にはかつての日本人が持っていた精神安定に役立つ叡智が隠されているのかもしれない。

 そして緊縛がただ相手の自由を奪う拷問と袖を分かつ時には、聖別されたモノを尊ぶという不文律が働いているのではないだろうか。緊縛とは罰でも罪ですらもなく、身を捧げて行われる聖なる儀式なのだ。そんな目も眩むような麗しき儀式の主役となった少年少女。何重にも背徳的、これが白か黒か、はたまたその間を行き来する事こそが至高の遊びなのか自問自答するのも一興だ。

 また、少年少女を包む制服と眼鏡、それらも彼等の美を拡大さ

せる。制服とはある組織への隷属の証しであり、組織のルールの形態化である。自由であるはずの彼等を縛るルール。そのイロニッシュな束縛は何とも哀れで美しい。そんな彼等が身につける眼鏡。眼鏡とはインテリジェンスの象徴(大人的だ)であると同時に、直接的接触を阻むストイックなフィルターであり、身体を補う義体であり、弱点の露出だ。虚弱で完成された彼等を彩 る小道具、いや、片割れに相応しい。

ー背徳への憧れー

 大人は少年少女に憧れる。それは懐かしさであり、未知なるモノへの好奇心に似た異質なモノに対する緊張を伴っている。

 少年少女の美とは、かくも儚い脆弱美だ。然し彼等は非力だが、大人には行使する事の出来ない極めて魔術的でオカルティックな儀式と呪文を内に秘めている。それは時に大人の無防備な部分に容赦無く刃を突き立てる。共感を許さない虚ろとしか表現する事の出来ない瞳は、苦しみおのおく大人の開かれた傷口と、雄叫びと、身悶える様子を観察する。力に頼ってストイックな制服に包まれたその脆弱な身体を暴こうとすれば、大人達は思いもよらぬ 彼等の反撃に成す術も無く征服されるのだ。

 少年少女は大人の過去では無い。(全ての大人がかつては少年少女であったのにもかかわらず)少年少女とは女であって女では無く、男であって男では無い。未発達な性の象徴は完成されたエロスであり、未来に獲得する成長の果 ての性の投影やオマージュでは無い。一つの確立された少年少女という“性(さが)”にして、時間からも独立した想像上の永遠なのだ。

 そんな死に至る病(老い)を持たずして産まれた彼等には、死の象徴が良く似合う。メメントモリを嘲笑うかのような久遠。あらゆる死の要因に縛られた大人達は、どんな刃も毒もその永遠を奪い去る事の出来ぬ 事に絶望し、ひれ伏し、最後には手を合わせる。

 彼等にとって死は生の延長ではない。生を妨げ、奪い、死をも

たらす罪すらも存在しない。彼等は罪を恐れない。罪が無ければ罰は成立しない。限り無く無罪の彼等は人間というよりも動物に近い...。彼等は肉を裂く事で、血の流れを止める事で、いずれ命が奪われる事を知らない。永遠を生きる彼等には死は自分達の活動を妨げる害悪ではないのだ。

 彼等は大人が知らない多くの“遊び”を知っている。それらの多くは大人達が安心する画一的な定義とルールと理性を尽く覆すので大人には到底参加できない。だがその拒絶は羞恥心の所為ではない。少年少女の遊びには罪悪感が無いのだ。罪悪感とは大人が社会的便宜上身につけた道徳であり、限りある時間の中で自己を、種を、環境を保存する為の自傷多害に抗する恐怖に基づく想像力、先入観だ。死が訪れず、罪の意識もない。そして“閉ざされた社会”の中では、非道徳も彼等の規律を乱さない。彼等を不快にさせるもの、それは永遠の退屈を紛らわすあらゆる行為を邪魔するものだけ。

 だが、彼等の遊びは彼等にだけ許された行為だ。大人には罪悪感があるのだから。だが罪悪感とはまた、欲求の裏付けだ。奔放なるリビドーに対する抑止力だ。父・母・己・社会...いずれのコンプレクスがその頑な門を護っているにせよ、それらは何かの「形」で無意識の牢獄から解き放たれるのを望み、機会を伺っているのだ。

 少年少女は退屈しきっている。大人によって永遠の中に閉じ込められ、大人になる事、死を味わう事、絶える事も許されない事に。大人は永遠の獄(ひとや)に閉じ込めた彼等を愛玩する。いつまでも脆弱な身体を哀れみながら、道徳に束縛されない自由に憧れながら、死に侵される事のない永久(とわ)を崇めながら。少年少女の儚さは、過程としての一時期の無常さではなく大人になると何処か届かぬ 場所に消えてしまう無情さにあるのだ。

 暇を持て余した目が、こちらをじっと見つめている。さあ、少年少女との楽しい遊びの時間のはじまりだ。  だが、彼等との遊戯にあまり夢中になってはいけない。それは何時終わるとも無い永劫。道徳の裏側の失楽園。心地よい地獄。大人はとっくに追放されてしまった世界なのだから。

 

 

壊と補完の二つの意味あいをもつ。あなたの彩 を置く事で、既に出来上がった絵を壊す破壊行為としてのぬり絵。未完の、色が塗られていない絵を色で埋める事で完成させる補完行為としてのぬ り絵。破壊と創造、幼い子どもが無意識に繰り返す遊びの源流がぬり絵には込められているのだ。適度に制限された退行と満足感がぬ り絵の心地よさなのだ。

 絵画において色彩とは情調である。それが描かれていないのだ。ぬ り絵とは感情の欠けた彼等、図に心を与え埋めていく作業なのだ。また、絵とは鏡だ。彼等の心が満たされる事は、描いているあなたの心を満たす事でもあるのだ。

 目を閉じた少年少女を見てみよう。その唇にも頬にも指先にも、肌の何処にも色はない。彼等が生きているのかそれとも死んでいるのかを決めるのもあなたなのだ。

 あなたも目を閉じてみよう。あなたの目にはまだ何も焼き付いてはいない。さあ目を開いて道具をとろう。まず何色で彼等を彩 ってあげようか?

 だが、これだけは云っておこう。どんなに枠を得ようとも、あなた自らその色をとり、その彩 りを落とした時点であなたは自己表現しているのだから。いや、それ以前に“この枠”を選んだ時点であなたの無意識の表出ははじまっているのだ。どんなに誰かの作った枠だろうと。

 .........いや、あなたは全て解っている。このぬり絵を手にする意味を。自責の念にかられながら眺めているかもしれない。何と云われようとも罪悪感を拭いきれないかもしれない。

 だが、卑しいは癒しである。社会はある理想的目標に、集団で志向する事を善しとする。だが、個人はその善悪を正当化できない場合には行き場のないストレスを抱える事になる。社会的理想とは違う方向を志向するう者は、いつも異端とされる。そして敢えて異端者として生きるとするならば、社会と対峙し自らの理想を支え続ける強靱なる精神力とエネルギーと創造力

−眼鏡少年少女緊縛ぬり絵と癒し−  

 ぬり絵という遊びが大人を魅了する。幼い子ども(姿・形の未習得な)の願望充足であったぬ り絵遊び。それが言葉を習得し、高度に駆使できるようになったはずの大人の心に新しい満足感を与えている。そこにはぬ り絵特有の簡易さと安全性が大きな役割を果たしている。

 絵画とは形態化する事である。無意識・意識に関わらず、四次元五次元ともいえる脳内イメージを形に表すには、ある程度の技術が必要だ。それがより視覚認知に近い二次元三次元の定型に則したモノで在れば在る程、形態化にあたる際のハードルは高くなる。そのハードルが描画を小難しくさせる一因だ。ぬ り絵は他の絵画行為ほど評価に対する義務感が生じない。この簡易さが塗り絵の良さだ。

 そして、ぬり絵とは制限のある遊びだ。既に紙には図が描かれている。枠・ルールの無い中での遊びには危険が伴う。塗り絵とは、すでに用意された秩序に寄り添うものだ。絵画行為のもつ混沌と、自己破壊のリスクは少ない比較的安全な遊びといえる。

 また、絵画とはエクスタシーの疑似体験だ。緊縛は命を束縛する。血液の循環を妨げ、新陳代謝を鈍らせ、筋肉の弛緩と緊張を邪魔する。緊縛による擬似的生の破綻が生む快楽。くわえ、少年少女を愛し自らの自由にしたい。それは罪をともなう行為だ。(それらを絵に描く事すら罰に価するかもしれない...)

 だが絵と現実の間には、大きな隔たりがある。たとえ目を奪いたくなる程趣向に偏った(フェティッシュな)絵であったとしても、所詮は絵だ。【絵が直接人を殺める事はできない】のだ。それに、それはあなたの一部であって全てではないのだから。しかし、その思いもよらぬ 自己の跳燿と欲望と思しきものに驚き疲弊してしまう事もある。(その形が願望を直接表現するものとも云えないし、その苦痛が必ずしも有害なものともいえない。)

 そして既に人が描いたものに手を加えるという行為には、破

が必要となる。

 だが、社会への適応に手一杯な”現代人”にとって、異端に生きる為にエネルギーを割く事などできないのだ。そうして個性は 抑圧され続ける。背徳的なテーマを扱う事は「信念」「不安」「社会的配慮」に向き合う事だ。それら三つは背徳的と一概に云えない場面 でも心を凝固させ、日常のささいな悩みから、大きな問題にまで、向き合う事を避けさせる。時に変化を圧しとどめるそれらの観点、そして抑圧された個性に、背徳的なテーマに触れる事で擬似的に向き合い発散する事ができるのだ。

 また、あなたの選んだぬり絵はあなたの心を反影(反映)している。そこに描かれている線はあなたが持ったテーマに限り無く近い、若しくは関係がある。あなたの投げかけに沿った応えをその都度返してくれる。あなたの無意識の世界の探索に必要なヒントと、ヒントをイメージさせるきっかけに溢れたテーマを知らず知らずに選んでいるからだ。塗り進めていくにつれ、それが線と呼応しながらあなたにフィードバックしてくる。時にあなたのイメージを反芻し、明確化しながら。線に沿って描いているつもりで、逆に線があなたの筆先に寄り添ってきているように感じる事もあるかもしれない。

 そしてもし、塗り絵からはみ出した情緒が「形」を求め形態化したとしたら、あなたは何を描いているのだろうか...。

2008.10

参考・引用文献

瓜生 中、渋谷申博(著) 2000 呪術・占いのすべて 日本文芸社

名和弓雄(著) 昭和38 拷問刑罰

福島脩美、田上不二夫、沢崎達夫、諸富祥彦(編) 2004 カウンセリングプロセスハンドブック 金子書房

眼鏡少年少女緊縛同盟ぬり絵