ぎゅうぎゅう詰めの列車から、男はやっと解放された。
そして、故郷の駅に降り立ったとたんに抱きつかれた。
「……!」
「よかった……無事で………!」
ここで列車から降りたのは、自分ただ一人。
待ち受けていたのも、ただ一人。
列車からひゅうひゅうと冷やかす声がかかって初めて夫婦は列車の中の大勢の帰還兵の存在を思い出し、その状況に気付き、二人揃って赤面した。あわてて二人は離れたが、冷やかす声はまだ続く。
それを打ち消すように汽笛が鳴り、列車は行った。
「…ただいま」
「おかえりなさい」
笑い泣きの表情で、妻が男の顔を見上げる。
「…父さんと母さんは?」
出迎えにきていない両親。何があったのか、と言外に問うた。
「疎開先からまだ帰っていないのよ。でも、……だから、無事よ」
男は、ほっと胸を撫で下ろした。
「さぁ、帰りましょう。あなた」
「ああ、帰ろう」
男は妻の肩を抱いて、歩きだした。
夕焼けが二人を照らしていた。
ゆっくり風呂に入るのも、まともな食事も、男には久しぶりのことだった。
人心地ついて、男はふと、昔したように散歩にでたくなった。夜の散歩だ。
一緒に行きたいと言う妻と外へでて、川の方へ向かう。
月明かりは弱い。が、明かりなしで歩ける程度には明るかった。
浴衣を着るのも久しぶりだが、それで散歩するなんて、いったい何年ぶりだろう。まして、夜にこうして妻と並んで歩くなど。
小さい頃は、よく祖父と夜の散歩に出掛けたものだ。春夏秋冬どの季節も覚えているが、彼が一番好きなのは夏の夜だった。
結婚したばかりの頃、一度だけ、妻を連れて夏の夜を歩いた。
満天の星空の下で蛍の光が乱舞するのを瞳輝かせて見ていた妻の姿を男は覚えている。
母親に「若い嫁を夜に連れ出すな」と言われてからは連れ立つこともなかったが、今日は両親共にいないことだし、まあいいだろう。
(ああ、ここは変わっていない)
自分と同じく浴衣姿の妻と他愛無いことを話しながら、男は思う。
水田を渡る風の薫りも冷たさも、畦道を飛び回る蛍の群れも。
こうしていると、戦争があったのが嘘のようだ。
(幻だったのかもしれない)
本当に、そうかもしれない。戦争のことは、うまく思い出せないのだ。
生きる、生き抜くことに必死すぎて。夢中すぎて、生も死も、混然としたイメージ。
…よくわからない。
川のせせらぎが大きくなった。土手に着いたのだ。
対岸のさらに向こうの方に、いくつかの家の明かりが見える。知らない家庭の光。しかしその光の下に人が暮らしていると思うからだろうか、ほっとするような優しい光だ、と男は思った。こんな気持ちをずいぶん長いこと忘れていたような気がする。
今来た方向を振り返れば、北斗七星が見える。そう妻に言われて初めて、満天の星空に気が付いた。男は思わず苦笑した。
土手に上ってから、しばらくぼおっと歩いていたが、やがて二人は腰を下ろした。
男が左の方の草をそっとちぎって手に取った。
大切なものを手にするかのような丁寧な動作に、反対側にいた妻が何かと覗き込む。
手の中で光っているのは…
「蛍?」
「蛍の幼虫だよ」
妻は目を見開いたぽつりと言う。
「不思議な色…」
「でもきれいだろう?」
「ええ」
その草を元の場所より少し遠いところにそっと下ろすと、男は仰向けになった。その隣に、妻が横座りになっている。
「星がきれい……」
妻の言葉に、彼も頷いた。こんな解放された気持ちで空を見上げるのは久しくなかった。服役中もそれ以前も、空を見上げるときはいつも敵機の影にどこか怯えながら、または警戒しながらだった。昼でも、夜でも。だからこそ、身についてしまったその窮屈さゆえに、先程まで空を見上げるのがためらわれて、…それに気付いて苦笑したわけだが。
「何もかも久しぶりだ……」
人間らしいことは、何もかも。
今、『人間らしく』空を見上げる。
蒼い闇に砂粒をまいた様に、小さな光が集まって帯のように浮かび上がっている。
「星はいい……」
心があらわれるようだ、というと陳腐な表現だが、本当にすがすがしい気分になった。
戦争でささくれだっていた心が、癒される気がする。
心の中にまで涼風が吹き込むのではないかというほどに、男は夜の空気を吸い込んだ。冷たいが、かすかに甘い。
そのまま大の字になって、全身の力を抜く。
視線は星空をさまよっている。
…もしも、夜空に星がなかったら、どうだろう。
そんなことを、男は思った。
雲のない夜空。それなのに、星がひとつも見えなかったら。
月もなく、空虚な闇のみが夜空を支配していたら。
きっと人は、星があるから夜空を見上げるのだ。星があるのを知っているから、曇りの日や雨の日も、夜空を見上げるのだ。晴れてほしいと、思うのだ。
雲の向こうにあるのが空虚な闇でしかなかったら、人は、空を見上げたりはしない。雲ひとつない日に空を見上げることは、もしかしたら人の心に恐怖を呼び起こすかもしれない。
少なくとも、憧憬をもって見上げることはないだろう。
空虚な闇、どこまでも深い闇は、ただそれだけでは人の心も空虚にさせるように思う。
星があるから、夜空は美しいのだ。宝石に例えられる星々が夜空を彩るから、人は夜空を見上げるのだ。
星をつかもうと子どもは空に手を伸ばす。届くわけはない。それを知って、誰もが大人になる。望んでも叶わないことがあるのだと知って、人は大人になる。
しかし。
望んでも叶わない。それを知ってなお、人は星を見上げる。
いや、叶わないからこそ人は星を見上げるのだ。
憧憬とはそういうものだ。
『星は憧憬の象徴』
とは誰の言葉だったか、よく言ったものだ。たしかに、星以上にそれを象徴するものはないだろう。
…とりとめもなく、男はそんなことを考えた。
しばらく黙って、二人で星を眺めていた。
時折、目の前を蛍がよぎっていく。
ひんやりとした空気は、草の匂いがする。
水の音と、それを飾る蛙の声。虫の声。
遠くから、蝉の鳴く声も聞こえてくる。
二人の間の沈黙を破ったのは、妻の声だった。
「天の星と、地の星だわ」
いつのまにか目を閉じて様々な音に耳を澄ましていた男は、ふっと目を開け、妻を見た。
「天の星と地の星?」
聞いたことがない。
そう言うと、妻は優しく笑んで、二つの星を指差した。浴衣の袖がゆれる。
「あれと…あれよ」
天の川を挟むように、ひときわ明るい光を放つ二つの星。
あれはたしか、七夕の伝説の星ではなかったか。
「織姫星と牽牛星っていうんじゃなかったか?」
そうですけど、と妻は答える。
「七夕のお話にでてくる織姫って、天女だったんでしょう? 彦星は地上の人だったのよね。だから、天の星と地の星なのよ」
男は再び空に視線を移した。
「なるほどね……。でも、そういう呼び名、初めて聞いたよ」
妻が微笑む気配を感じた。
「いつもね、神様と仏様と、あの星に祈っていた。あなたが無事でいますように、って」
妻は、さらに笑んだ。
「あなたが無事で、本当に良かった」
「……でもあの二つの星って、普段は会えないんだぞ?」
「だからよ。今は会えなくても、絶対にまた会えますようにって」
「…ああ、そうか」
男も笑った。
それからひとしきり、妻は七夕の伝説を語った。
男は黙って聞いていた。こんな風に彼女が話し出すのはあまりないことだったから。
最後に、彼女は星空を見上げたまま、こう言った。
「…織姫と彦星って、本来なら出会うはずのなかった二人だわ。そしてやはり、最後には引き裂かれてしまう。運命どおりに。
……けれど、二人は年に一度だけ、出会うことができるのよね。愛し合っていても会うことを許されない二人が、天の川で出会うの」
男も知っている、七夕の伝説。
けれども彼は、妻の次の言葉には首を傾げることになった。
「私たちも、生涯にただ一度だけ、それができるのよ」
「あ?」
「天の星と地の星は、………………でもあるんだって」
妻の言葉が耳を通り抜けた。一部、聞き取れなかった。
しかし、男は聞き返すことをしなかった。
己の中に生じた違和感を、解きほぐすことができなかった。
妻が、言葉を続けたから。
…妻はゆっくりと、はっきりと、言葉を紡ぐ。
「自分の最期に、もう二度と会えない人、どんなに望んでも絶対に会えないはずの人と、一度だけ会うことができるのよ……天女の織姫と地上の彦星のように」
一息おいて、もう一言付け足した。
「……だから、あの星に祈ったの」
沈黙が、降りる。
夜風が、妻の言葉をさらっていったかのように。
あるいは、夜の闇がこごってできた虚空が、妻の言葉を吸い込んだかのように。
その蒼い沈黙を破ったのは、男だった。
視線は空を射たまま。
声が、かすれていた。
「今日は……何日だ?」
どこか場違いな、筋違いな言葉。
しかし、先程の違和感の正体。もやもやとした疑問の正体。
結局、ここに凝縮されるのではないか。
そして、それが表すものは………?
まだ正体の見えない恐怖。その存在の予感に、男は震えた。
否、正体を「見たくなかった」のかもしれない。
…否、正体を「忘れてしまいたかった」のかもしれない。
けれどもう一度、今度はさっきよりしっかりした声で、男は問うた。
「今日は何日だ?」
妻の答えは、ない。
訝しく思って隣を見ると、妻の顔にはどこまでも透明な笑みが浮かんでいた。
はかない印象の、透き通った、美しい笑み。
確かに、美しかった。
だが、そんな笑みを、彼は見たくなかった。
何かを覚悟した者のみが浮かべられる表情だったから。
何を覚悟したというのか?
男はそれを知っている、と思った。確かに知っていると思った。
どこかで、経験がある。この微笑の「覚悟」の結果を、見たことがある気がする。
だが、思い出せなかった。
……思い出したくなかった。