「……い…きろ、……おい、起きろよ」
肩を揺さ振られ、男は目をさました。
熟睡してしまっていた。ずっと以前基地にいた折、あの曹長に「戦場では熟睡するな」と言われて以来、それを守っていたのに。
まだ眠い。いったい何かと、彼を起こした人物に目で問う。
「囲まれてる」
良雄がひそやかな声で答えた。
ぼやけていた意識が一気に臨戦態勢になる。
「数は?」
「多いな…米比軍だ」
まだ太陽は昇っていない。薄明かりに目が慣れてきて、男も周囲の状況をやっと自分自身で飲み込むことができた。
三人は取り囲まれていた。米比軍の人数は以前遭遇した部隊の十倍ではきかない。
武装も格が違うことは、一目瞭然だった。ほとんど全員が重装備している。それに対しこちらは、弾の無い銃が一丁に竹槍が二本。……勝てる訳が無い。
「どうする」
男の問いに、英二は答えた。
「…降伏、だな」
良雄は英二に食ってかかろうとした。しかし英二の言葉が先だった。
「日本に帰りたくないのか!」
良雄の動きが止まった。
「捕虜となっても生きていれば、いつかは帰ることができる。だが死んだらそれで終わりだ。……会いたい人が、いるんじゃないのか」
良雄は何も言わなかった。だが、その表情と震える手が、答えを雄弁に語っていた。
落ちた沈黙は長く、重かった。
その扉を押し開き、男は良雄の肩を叩いて言った。
「降伏しよう……」
…数分後、彼らは米比軍の捕虜となった。
捕虜となった彼らは最も近くの村に連れていかれた。彼らがとりあえず目的地としていたマヨヤオのそばの、あまり大きくない村だった。
マヨヤオは過去に日本軍によって治められていた時期があった。その時、日本軍兵士たちがマヨヤオの人々に日本語を教えたという。
マヨヤオからその村へ疎開してきた人が多かったことも手伝って、捕虜と彼らの間の意志疎通は難しいものではなかった。英二は英語もいくらか話すことができたため、意志の疎通はほぼ完璧といって良かった。
そして、そこでの捕虜としての待遇は想像よりずっと紳士的、あるいは友好的なものであった。そんな米比軍の態度に三人は拍子抜けすらした。
「幸運だ」
英二はそう言った。男もそう思った。
良雄も最初こそむっとした表情を崩さなかったが、降伏の判断は正しかったと、ぼそりとつぶやいた。二人はそれで了解した。これが良雄の、不器用な感謝の伝え方だった。
とりあえず彼らは牢のようなところに入れられた。
「…それで明後日にはアメリカ軍が来て、簡単に検分が行われることになると思います。今はマヨヤオに入ることが先決らしいから、たいしたことないです多分」
夕方に食事を持ってきた若い兵士はそう言った。
三人を捕虜にしたゲリラ隊のなかで一番日本語が上手い青年だった。三人にもきつくあたることはない。後で食事を下げに来ます、と青年は言うと外にでていった。
捕虜たちは物も言わず食事に取り掛かった。これまで、一日に乾パン一個さえ食べられなかったこともあった。それに比べたら、粗末だが温かい食事は天国のようだった。昼は移動中だったため乾パン三個に水という食事だったが、それでも随分嬉しかったものだ。夜になって出た温かい食事に、三人はまさにむしゃぶりついた。
食欲が満たされて、差し当たり身の安全も保障されているということもあって、男たちはようやく一息ついた。
やっと、少し安らぐことができた。
鉄格子の向こうに見える切り取られた小さな空は闇の色に色彩を深めていた。
そして、男がうつらうつらし始めた頃。
「今日は何日なんだろうな」
男が口癖のようにしていた問いを、今度は良雄が口にした。
男の意識は突然、眠りから引き戻された。
まるで冷水を浴びたようだと、彼は心のどこかで思った。
しかし、なぜそうなのかが分からなかった。自覚していなかったというべきだろうか。
良雄の声で目覚めたのではなく、良雄の問いの内容ゆえに意識が覚醒したのだと。
とうとう男は気付かなかった。
「今度見回りがきたらきいてみろよ」
と、眠そうな英二が言った。そんなつまらないこと、と言いたげにも見えた。
しかし、男は即座に答えていた。
なにゆえ目が覚めたのか、自覚がないままに。
良雄の問いによって、男が一瞬にして気付いてしまった真実。それが、虚無の深淵を覗き込むような感覚に彼自身を突き落としたからであると、分からずに。
ただ、その鍵を口に乗せた。
「七月……八日だろう」
二人の戦友が振り向いて、怪訝な目で見る。
「七月……八日だ」
「…………………」
戦友たちの表情に、怪訝さ以外のものが加わった。
それは、困惑。
…男は涙を流していた。己もそれと気付かぬうちに。
「え……?」
つっと流れてきた塩辛いものが唇の端に吸い込まれて、初めて男は自分が泣いていることに気付いた。
「なぜ……自分は………」
なぜそう思ったのか分からない。
しかし、…七月八日だと、思ったのだ。
根拠のない、確信。
そしてそれは、正しかった。
そうだ。
「天の星と地の星は死と生の星でもあるんだって」
夢のなかに出てきた妻の言葉。
いま、思い出した。
きっと、昨日が七夕の日。
そして多分、妻は死んだのだ。
彼女は天の星になった。天上のどこかで輝く星に。
そして彼女は、生涯にただ一度の奇跡を、叶えた。
もう二度と会えない、自分に会いたいという夢を。
死して、否、死したからこそ、叶えた。
あの邂逅は、妻が天上の二つの星に祈った、願い。
最後の……最期の、願い。
これも、根拠なく、確信していた。
そしてそれも、正しかった。
それが正しいなどと、思いたくなかった。
分かりたくなかった。
信じたくなかった。
男は瞬間的に、無意識のうちに、自らの心の一部を閉ざした。
けれど、…感情は残る。
閉ざしきれない感情が、あふれる。
涙が、とまらない。
自分がなぜ泣いているのか、分からぬままに。
いや、その理由を心の奥底に閉じこめて。
自分の心に、許されぬ理由。
思うことさえ、許されぬ理由。
だから男は、その涙の意味を知らない。
知っているはずが、ないのだから。
いま理由を知るは、天に輝く二つの星のみか。
――――――瞬きもせず、拭うこともせず。
暗くなった夜空を…星空を、男は鉄格子の窓越しに見つめる。
その双眸からは涙が静かにこぼれ続けていた。
完