はじめに
アブライ Abilayはカザフの著名なハンである。「18世紀のハンのうち、もっとも強力なハンはアブライであった(1)」といわれるように、彼は中央アジアの歴史において、きわめて重要な役割を果たした。近年、彼にかんする研究が本格的に行われつつあり、その成果も表れているが(2)、彼の幼少期などほとんど明らかにされていない問題もある。これは、アブライに関する文献史料が少ないこと、とくに彼の幼少時代について記述した史料が現在のところ希少であるためである。
アブライの名がはじめて史料に表れるのは、ロシア史料で1740年、清朝史料で1738年のことであるから、1711年ころの生まれとされる彼がすでに青年期に達しているころである。カザフのハンの中でも「傍系」とされていたアブライが、青年期のころすでに、カザフ社会において少なからぬ実権を握っていた理由や背景を知るには、彼の生い立ちを知る必要があるが、文献史料にはそのような記述がきわめて少ないのである。
1 アブライの先祖たち
アブライは、モンゴル帝国を興したチンギス=ハンの子孫であった。中央アジアではチンギス=ハンの血を引く者のみがハンの位に就くことができた。それゆえ、アブライもハンに即位することができたのである。
「余は東方のシュングスというハン(6)である。
余はこれより至る所を支配する」と宣した。/
すべての民に恩恵をもたらし、
両手を広げ広大な地域を攻めた。
シュングスには跡を継ぐ四人の息子がいた。
彼らはジョシュ、シャガタイ、オゲデイ、トレといった(7)。/
ある者は右をある者は左を支配しようと、
全世界に手を広げそれを目指した。
金帳と白帳のハン国を創り、
家畜を富みを金銀を集めた。(8)
詩中にあるジョシュ(ジュチ)は、カザフの諸ハンの祖先で、ジュチ=ウルス、すなわちいわゆるキプチャク=ハン国の創始者でもある。ジュチ=ウルスの名はチンギス=ハンの長子ジュチに由来する。ジュチ=ウルスについて叙事詩は、
ジョシュの息子バトゥは広大な草原に
金帳の旗を指した。
エルティス(9)川の両岸の広大な草原や
ウラル山、アラル海の沿岸、
カスピ海とサルアルカ(カザフ草原)で、テンシャン(天山山脈)で
ジョシュはハンとなり、国の長となっていた。(10)
シュングスハンの孫ベレケハン、
エディル(11)に強国を建てた。
トカイ=テミルはベレケの親族、
ロシアの民を従えて、その土地を併合した。(12)
と謡っている。この国は、13世紀前半にジュチの子バトゥが父の所領を拡大させ、キプチャク草原に起こした国家である。ここでは、叙事詩がジュチ=ウルスの領域をほぼ正確に表していることに注目したい。
さて、一般に「カザフ=ハン国」といわれる勢力は、15世紀中頃にセミレチエ地方で、ジュチの血を引くケレイKereyとジャニベクJanibekによって形成されたといわれている(13)。カザフ=ハン国の創始者であるケレイとジャニベクについては次のように謡われる。
ケレイは6のアラシュ(14)のハンとなった。
彼のあらゆる公正な規範が広まった。
ハンの公正さは民の幸福であった。
夏も冬もその性格が変わることはなかった/
ケレイハンが亡くなった後、
民は彼の代わりにジャニベクをハンに戴いた。/
彼は民を世界を地の果てまでも手にいれて
民衆に公正な模範を示した。(15)
このように、ケレイとジャニベクがカザフのハンとして治めた後、ジャニベクの息子カスムがその後を継ぎ、ハンとなった。叙事詩では、カスム以降のハンは以下のように列挙されている。
カスム=ハン・ママシュ・タヒル・ブイダシュ・トグム
ハクナザル・シュガイ・サリムがハンとなった。
カスム=ハンほど公正なハンはいない。/
「カスムハンの示した道」と呼ばれ、
それは彼らの遺産として後々まで残された。/
外敵が攻めてくればそれを懲らしめて、
タウェケルハンは強い影響を及ぼした/
エシムハンは並みのハンではなかった/
言葉は鋭く考えは賢く動きは巧みで/
「カスム=ハンの示した道」を行い
「エシム=ハンの古い法!」を作った。/
父の「エシム=ハンの道」を継いで、
ジャンギル=ハンも栄華をもたらせた。(16)
これらの人物の順序はそのままカザフのハンの序列となっており、カザフのハンに関する正確な情報と考えてよかろう。
ジャニベクの息子カスムQasim(統治期間1511-18)はカザフ社会における統治制度を確立した、初期カザフ=ハン国の名君として知られている。詩の中にもあるように、彼の功績のひとつは、後世までもカザフ社会の規範として伝えられた「カスムの法典」であった(17)。「カスムの法典」の詳細については不明な点が多いものの、財産法・刑事法・民事法・兵役法・登用法の五つの法律からなり、これらの適用により社会秩序が安定したといわれている(18)。
カスムの死後、カザフ人はセミレチエ地方からウラル川流域まで、北はイルティシュ川までといった広大な地域にまで広がった。16世紀にカザフ人はシル川流域への勢力拡大に努めたことから、シル川流域の農工定住民との関係が密接となり、シル川流域のサイラムやヤス(現在のトルキスタン)が商業都市として発達した。とくにハクナザルXaqnazar(統治期間1537-80?)の治世には西方へ拡大し、当時分裂状態にあったノガイを従えるなど、彼の時代にカザフ=ハン政権が強化されたといわれる。
16世紀末期のタウェケルハンTawekel(統治期間1582-98)は、ブハラ=ハン国の分裂に乗じて、トルキスタン、タシュケント、サマルカンドを占領するなどカザフの勢力を拡大したハンであった。彼を継いだエシムEsim(統治期間1680頃-1715)は、「カスムの法」を引き継ぎながら、それまで用いられていた慣習法を整理した「エシムの古い法」によってハン国を統治した(19)。
17世紀中頃のカザフハン、ジャンギルJanggirの後裔については次のように謡われる。
ジャンギル=ハンが死んだとき
アズ=タウケがハンとなって玉座についた。
ハンとなったタウケは国を治めた/
彼は有り余る力とすぐれた知恵をもっていた。(20)
ジャンギルの死後、タウケTawke(統治期間1680頃-1715)がその後を継いだ。祖父エシムが残した「エシムの古い法」を反映させて、タウケが作った「ジェティ=ジャルグJeti jarghi」は、カザフ史においてもたいへんよく知られている法典である。この法典は、伝統的な慣習法とシャリーア(イスラーム法)とを折衷して作られたもので、イスラーム的要素はとくに婚姻や家庭に関する規定にみられる。たとえば、「ジェティ=ジャルグ」では「一人の男は四人の妻を娶ることができる」と規定していたという(21)。タウケは「ジェティ=ジャルグ」に基づいて政治を行った名君としてその名がよく知られている。
(2)アブライの先祖たちの悲運
さて、ジャンギルにはもう一人、ワリーという息子がいた。カザフの系譜に詳しい、20世紀初頭の詩人シェカリムによると、「ウルゲンチのガイプ=ハン(カイプ=ハン)の娘から生まれたワリバキという子供がいた。ジャンギルの跡を継いでアズ=タウケがハンに即位すると、ワリバキは屈辱を感じ、ガイプのもとへ去った(22)」。叙事詩も、
(ワリーは)(タウケの)ハン即位に怒って国を離れた。
彼のナガシュ(23)、カイプカンのもとに向かった。
この地に安息を見出して、しばしの間留まった。(24)
と、ワリーがタウケのハン即位に立腹して、カイプ=ハンのもとに身を寄せたことを伝えている。タウケの即位が1680年ころと考えられていることから、ワリーがウルゲンチに向かったのは17世紀末のことと思われる。
カイプ=ハンのくにをカルマクが襲った。
「アクタバン=シュブルンドゥ」の始まりであった。(25)
そのころ、カルマク(26)は、カザフ草原南部やカスピ海周辺をはげしく攻撃しており、その際、カイプ=ハンのいるウルゲンチも攻めたと考えられる。なお、「アクタバン=シュブルンドゥAqtaban-shubirindi」とは、1720年代のカルマク(ジュンガル)の攻撃による「大惨禍」を意味する言葉である。叙事詩は、ワリーがそのようなカルマクとの戦いで戦死したと謡う。
(ワリバクは)侵入する敵を阻止した。
カザフとカルマクは殺戮しあった。
突然ワリバクが殺された。
彼の一人息子は孤児になった。
生まれたときにアブライと名付けられていた。
幼少から優れており、腕白で乱暴者だった。/
「カンイシェル=アブライ(血を飲むアブライ)」と人々は呼んだ。(27)
戦死したワリーには一人息子「カンイシェル=アブライ」がいた。彼は、アブライ=ハンの祖父で、彼とは同名異人の人物である。父ワリーとともにカイプ=ハンのもとにいた「カンイシェル=アブライ」は、カルマクの猛攻に抵抗し、その戦いの中で勇猛さを見せつけた。カンイシェルQanisher、すなわち「血を飮む」との渾名は、彼の獰猛さにちなんでつけられたといわれる。
しかし、カンイシェル=アブライもまた父と同様に、カルマクとの戦いで戦死する。そして、彼の自身の運命と同様に、一人息子が残されたと叙事詩は謡っている。
(カンイシェル=アブライは)戦いで非業の死を遂げた。
アブライの一人息子が残された。/
(その子には)父の名を残すために、
ワリーと名づけられていた。
人々はあだ名を合わせて呼んでいた。
「コルケム=ワリー(美しきワリー)」と。
彼自身、その名にふさわしく美しかった。/
カルマクとカザフは殺戮し合い、
敵は容赦無く「美しきワリー」を殺した。(28)
カンイシェル=アブライの遺子は、祖父の名に因んでワリーと名づけられていた。彼こそが、アブライ=ハンの父である。人々にその美しさを讃えられ「美しきワリーKorkem Wali」とも呼ばれた名うての勇士であったが、彼もまた祖父や父と同様の悲運を辿り、カルマクによって悲運の最期を遂げたと叙事詩は伝える。アブライ=ハンの先祖について、シャカリムは、「三人の先祖(ワリバク、「血を飲むアブライ」、「美しきワリー」)はウルゲンチのカイプ=ハンのもとで過ごし、ハンにはなれぬまま亡くなった」と、叙事詩と同様の情報を記している(29)。
一方、アブライの先祖がトルキスタン市やタシュケントの支配者であったという説もある。19世紀後半のカザフ知識人で、アブライの曾孫にあたるショカン=ワリハノフは、「彼(アブライ=ハン)の祖父もまたアブライという名で、トルキスタン市の統治者であった。彼は戦闘での勇猛さが称えられて、威厳があり、名誉ある称号「カンイチェル(血を飲む)を与えられた」「(「美しきワリー」は)父(すなわち「血飲みのアブライ」)の威光を受け継ぐことができなかった。トルキスタンを陥落させた近隣の統治者は彼を殺した」と記している(30)。また、アブライの系譜に詳しい、彼の書記マメドフは、1768年、ロシア政府に「アブライ=スルタンの父や祖父はタシュケントのハンであった」と伝えており(31)、先攻研究ではこの説がワリハノフよりも信憑性が高いとされている(32)。
以上のように、アブライの祖父や父は由緒あるチンギス=ハンの血統を引きながらも、ハンに即位することもなく流浪しながら、次々とカルマクによる非業の死を遂げたと叙事詩は伝える。しかし、このような悲運の血統から、「18世紀の名君」アブライが生まれるのである。
2 アブライの生い立ち
(1)アブライの誕生
アブライの出生については詳らかではなく、叙事詩などの口頭伝承のみがその情報を伝えているといえる。彼の誕生について、叙事詩は謡う。
戦で「美しきワリー」は死に、
若い妻は寡婦になりさまよった。
彼女は若く美しい女性であった、
タシュケントの方に嫁ぎにいったのだった。/
お腹には6ヶ月になるハンの子供がいたけれども、
生きていくために嫁いだのであった。
お腹の子供が生まれて、/
その子にはアブルマンスルと名づけられた。(33)
このアブルマンスルAbilmansurこそが、のちにアブライ=ハンとなる人物である。アブライの正確な生年もはっきりとはわかっていないが、一般に1711年ころと考えられている。その根拠は、アブライの没年が1780年夏から1781年春にかけてと考えられ(34)、また享年は69歳と伝えられるからである(35)。また、アブライの曾孫アフメト=ケネサリンは、アブライは1780年に70歳で亡くなったと伝えている(36)。叙事詩には、
あなたとお別れした、あなたが73歳のときに。(37)
68歳の金曜日に、あなたは苦しんで亡くなった。(38)
と、ヴァリアントによって異なる享年が謡われるが、70歳前後に亡くなったことは確かなことのようである。なお、アブライの生年を1711年ではなく、1706年とする見解もある(39)。これは、アブライがカルマクの宿敵シャルシュ(後述)を倒した年を1726年と推定した上で、18世紀の詩人ウムベテイ=ジュラウ Umbetey jirawの詩「20歳になったとき、カルマクと戦ったとき/シャルシュの首を取ったとき(40)」から算出したものである。しかしながら、カルマクのシャルシュとの戦いが、必ずしも1726年に行われたとは断定できず、またその時のアブライの年齢が20歳であったと断定する根拠にも乏しいことから、アブライの生年は1711年ころと考えるのが妥当であろう(41)。
註
(1) Bartol’d V.V., Raboty po istorii i filologii tyurkskikh i mongol’skikh narodov, Moskva, 1968, str. 224.バルトリドは、中央アジア研究の碩学。
(2)日本では、佐口透『ロシアとアジア草原』吉川弘文館、1966年、同「カザーフ民族史料についての覚書」『内陸アジア史論集』1964年、同『新疆民族史研究』吉川弘文館、1986年、川上晴「アブライの勢力拡大」『待兼山論叢書』14号、1980年等があるものの、本格的な研究はほとんどなされていない。
(3)坂井弘紀「英雄叙事詩が伝える「ケネサルの反乱」」『イスラム世界』44号、1994年。同「カザフの英雄叙事詩にひそむ歴史:『エル=タルグン』の歴史背景に関する一考察」『内陸アジア史研究』12号、1997年。同「テュルク英雄叙事詩の地域的特徴―『チョラ=バトゥル』の分類をもとに」『地域研究論集』3(2)、2000年。
(4)アブライなど歴史上の人物を謡った叙事詩は、英雄叙事詩と区別して歴史叙事詩と呼ばれることがある。
(5)本稿では、以下の7つのヴァリアントを利用した。(1)Ablay xan. Sheriyazdan Sultanbayulyによるヴァリアント。Tarixi jirlari 1. Ablay xan. Almati. 1995. 88-129b.初出は『哈薩克叙事長詩選4』北京、1985年。(2)Sabalaq - Ablay xan. Oljabaj Nuralyuly の語りによるヴァリアント。Tarixi jirlari 1. Ablay xan. Almati. 1995. 129-143b.. (3)Sabaraq, Änwar Qongqan ulï (4)Sabalaq. Mashhur Jusip (5)Ablay xan anggimesi. Kokbay aqinの語りによるヴァリアント。Tarixi jirrlari 1. Ablay xan. Almaty. 1995. 63-87b..(6)Ablay xan... Aq atan. A. Nabiuliによるヴァリアント。Tarixi jirlari 1. Ablay xan. Almaty. 1995. 32-49b..(7)Ablayding tarixi. Shadi tore Janggiruli (1855-1933)によるヴァリアント。Tarixi jirlari 1. Ablay xan. Almati. 1995. 144-283b..以下、各ヴァリアントは上記の題名で表記する。
(6)チンギス=ハンのこと。
(7)それぞれ、チンギス=ハンの息子たち、すなわちジョチ、チャガタイ、オゴデイ、トルイのことである。
(8) Ablay xan. Sheriyazdan Sultanbayuly 88-89.
(9)西シベリア・カザフ草原東部を流れる河川。
(10) Ablay xan. Sheriyazdan Sultanbayuly 90.
(11)ヴォルガ川のこと。イテル川ともいう。
(12) Sabalaq - Ablay xan. Oljabaj Nuralyuly 130.
(13)Qazaqstan tarixi 2. Almati. 1997. 335b.
(14)アラシュとはカザフの別称。「六のアラシュalty alaw」とは「全人民」を意味する。
(15) Ablay xan. Sheriyazdan Sultanbayuly 90.
(16) Ablay xan. Sheriyazdan Sultanbayuly 90-91
(17)Valikhanov Ch.Ch. Sobranie sochineii v piati tomakh. T.1. Almaty. 1967. str.636.
(18)蘇北海「哈薩克族文化史」、烏魯木斉、1989年、364頁
(19)蘇北海「哈薩克族文化史」、烏魯木斉、1989年、364頁
(20)Ablay xan. Sheriyazdan Sultanbayuly. 92.
(21)蘇北海「哈薩克族文化史」、烏魯木斉、1989年、365-369頁
(22)Shakarim, Qudayberdiuli, Turik, Qirghiz-Qazaq ham xandar shejiresi, Almati, 1991, 25b.
(23)ナガシュ naghashは母方の親戚をいう。ナガシュ=アタ(母方の祖父)やナガシュ=アガ(母方の伯父)などのように使われる。
(24 Sabaraq, Änwar Qongqan ulï 289
(25) Ablay xan anggimesi. Kokbay aqin 63
(26)カルマクとは、16-18世紀にかけてジュンガル盆地を中心に栄えた遊牧国家ジュンガルにたいする中央アジア側からの呼称。
(27) Ablay xan. Sheriyazdan Sultanbayuly 92
(28)Ablay xan. Sheriyazdan Sultanbayuly 93
(29)Shakarim, Qudayberdiuli, Turik, Qirghiz-Qazaq ham xandar shejiresi, Almati, 1991, 27-b.
(30) Valikhanov Ch.Ch. Sobranie sochineii v piati tomakh. T.1. Almaty. 1967. str.426.
(31)Istoriya Kazakskoi literatury.T.2. Alma-Ata. 1979. str. 41.
(32)Suleimenov R.B., Moiseev V.A., Iz istorii kazakhstana 18 veka. Alma-Ata. 1988. str.23.
(33)Ablay xan. Sheriyazdan Sultanbayuly 93-94
(34)当時の書簡等によると、1780年6月にはアブライの存命「が確認され、また翌81年3月に彼の死が伝えられている。Kazakhsko-russkie otnosheniia v 17-19 vekov. Alma-Ata. 1964. str.101-103.
(35)ロシア陸軍大佐やアブライ=ハンの息子ワリ=ハンが当時のロシア皇帝エカチェリーナ二世に送った書簡によると、彼は69歳に亡くなったと伝えられている。
(36)Kenesarin. A. Sultany Kenesary i Sadyk. Alma-Ata. 1992. str. 55
(37)Ablay xan. Sheriyazdan Sultanbayuly 128
(38)Sabalaq. Mashhur Jusip 238
(39)Kalibek Daniiarov. Istoriia Abylaj-xana : gosudarstvennogo deiatelia, polkovtsa, diplomata, politika. Almaty. 1998. Str. 49-51.
(40)Aldaspan. Almati, 1971. 133-b.
(41)このほか、ロシア将校の書簡にもとづいた1713年生誕説もある。 Mukhtar Maghawin. Qazaq tarixining alippesi. Almati. 1995. 102b.
中央ユーラシアのテュルク系民族には、叙事詩をはじめとする口頭伝承の伝統が強く、数多くの作品がこれまで伝えられてきた。叙事詩には、彼らの「歴史観」が反映され、そこに歴史上の人物や出来事が描かれることが少なくないことは、筆者がこれまで幾度となく指摘してきたことであるが(3)、アブライ=ハンもまた口頭伝承に謠われてきた歴史上の人物なのである。彼について謠った叙事詩(4)は、彼の勢力範囲や政治構造、周辺地域との戦争や貿易はもちろん、彼の出自や生い立ちも伝えている。