叙事詩に見るアブライ=ハンの系譜と生い立ち




(2)アブライの少年時代


     彼は成長し、14歳になった。/

     忍耐強く、思慮深く、彼の言葉には勇気があった。

     (アブルマンスルは)父について母に訊ねた。/

     母は知っていることを彼に説明した。

     この地にどのようにしてさまよいながらやって来たかを、

     父も祖父も曾祖父も戦場でカルマクに殺されたと。

     その先の先祖については知らぬと、

     サルアルカに居住していたらしいと語った。

     「何があってもその国へ行こう。/

     わが仇を生かしてはおかぬ」と

     「わが先祖三代を殺したカルマクに(攻めよう)」と

     母は息子の考えを改めることができなかった。(42)

 アブルマンスルは、母から自分の故郷がサルアルカ(カザフ草原)にあることを知り、自分の祖先の故郷を探すために旅立った。彼が14歳のころに旅立つこの場面は、ワリハノフの「従者の忠誠心に13歳のアブライは助けられ、(中略)アブライはキルギス草原に向かった(43)」という記述とも符号する。また、アブライ=ハンの書記マメドフは1768年に「ジュンガルのカルマクがそこ(タシュケント)を攻撃・占領したので、10才のアブライはアブルマンベト=ハンが治めるトルキスタンの町へ逃亡していった。」と伝えている(44)。

 このように、アブルマンスルはウルゲンチあるいはタシュケントで寡婦となった母から生まれ、十代でトルキスタン・カザフ草原に向かったと考えられる。しかし、それはあてのない旅でもあった。


     (アブルマンスル)「我が家はウルゲンチにあったが、

     トルキスタンには我がオルダも、

     生きていく糧もない。(45)

      そして、やがて彼は当時のカザフの有力者のもとに身を寄せるようになる。

     幼い少年は故郷を探して、みすぼらしい姿で広大な沙漠をさまよった。

     祖先の生まれた地を探しながら、

     トルキスタンのアブルマンベト=ハンのもとに着いた。(46)

 故郷を探して旅だったアブルマンスルが仕えたアブルマンベトは、18世紀前半のカザフのハンたちである。先にも触れた「名君」タウケ=ハンが1718年に没すると、彼の後を息子のセメケが継いだが、当時のカザフは内紛が起こるなど政治的に不安定で、ハンの権威も低く、セメケがその政治的手腕を発揮することはなかった。彼の後は、彼の甥アブルマンベトが継いだ。アブルマンベトは、セメケと同様に中ジュズ(47)を中心に活躍した18世紀中頃のハンである。血統的には、このタウケに発する血筋が正統とされていたが、その一方で、ジャンギルの息子ワリー以降アブルマンスルにつながる家系は、傍系で正統ではないと考えられていたのである。

 さて、アブルマンスル(アブライ)を特別に庇護した人物として、大ジュズを中心に実権を握っていたトレ=ビーTole biyなる人物がいた(48)。彼はタウケ=ハンによって統治者の一人に任命され、1730-40年代にトルキスタン、タシュケントなどを中心に権勢を有していた。叙事詩にはトレ=ビーを頼るアブルマンスルの様子が描かれる。


     ある家を訪ねることにした。/

     挨拶をしながら敷居をまたいだ。/

     訪ねたその家は、ウイスン(49)のトレビーの家であった。

     大ジュズを治める者の家であった。/

     トレビーはこの子供について訊ねた。

     「名前は何だ?どの出身だ?どの町からやってきたのだ?」

     「自分のことをよく知らぬのです。

     両親や先祖、故郷も親族もありません。

     私に名前を名づけてください。/

     カザフの国、私の国を探してやってきたのです。」

     長く切らなかった髪が伸びすぎていた。

     ぼさぼさの黒い帽子のように見えた。

     頭が垢まみれになっていたので、

     彼に「サバラク」という名が付けられた。(50)

 アブルマンスルの乱れた髪を見て、トレ=ビーは「サバラク」と命名した。「サバラクsabalaq」とはカザフ語で「髪が乱れている」という意味である。こうして、長旅でみすぼらしい姿になっていたアブルマンスルは「サバラク」と呼ばれるようになり、トレ=ビーのもとで牧民として働く。


     ここに留まり、ラクダを世話せよ。/

     トレビーはそういって、笑って(彼を)受け入れた。(51)

     彼はトレの片腕となった。/

     歳に比べ力は優れ、賢かった。/

     命じられたどんな仕事も喜んでやった。/

     (ビーは)この子供に注目し、あらゆることをやらせて試した。(52)

 トレ=ビーは、将来アブライ=ハンとなる少年サバラクを牧民として使いながら、彼の才能に注目し、その力を試していた。非凡な能力を発揮するサバラクは、指導者としての能力にも長けていることが詩には謡われている。その逸話を示そう。


     ビーはある宴に招かれた。

     (サバラクを)試そうとサルクトを持ってきた。/

     トレ=ビーの従者は彼に(羊の)頭を与えた。/

     (サバラクは)泉で手を洗い、たくさんの仲間を呼んだ。

     彼らに目や耳を与えた。自分は唇の部分を食べた。/

     従者はトレ=ビーの家に戻り、見たことすべてを話した。

     (トレ=ビーは)尊敬すべきハンの末裔の王子に違いないと察した。/

     (サバラクの)行いはすべて尋常ではなかった。

     トレ=ビーは彼に心引かれた。(53)

 サルクトsarqitとは、「余った料理」を意味する言葉であるが、転じて宴の席で余った料理をそこに加われなかった人に分け与えるという、カザフの習慣を指すこともあった。トレビーは、普段は口にすることのできない羊の頭をサバラクに与えることで、彼がどう行動するかを試してみたのである。サバラクは客人を饗応する際に与えられる、耳や目といった美味とされる部分を仲間に寛大に分け与えた。このことは、彼に非凡な指導力があり、高貴なる血筋を引く少年であることをトレ=ビーに知らしめた逸話として、口頭伝承で広く伝えられているが、実際は当初よりサバラクの血統を知っていて、彼を庇護したと考えるのが自然であろう。あるいは、トレ=ビーは自分の勢力拡大にサバラク(アブライ)を利用したのかもしれない。

 

(3)アブライの出陣

 トレのもとで成長し、指導者としての頭角を表したサバラクは、やがて、カルマクの度重なる攻撃の知らせを聞く。そして、先祖代々の仇討ちのため、戦闘への参加を決意する。


     シャルシュがカルマクを率いて攻めてきた、

     カザフを奪い取ろうとして押し寄せた。/

     サバラクも出陣の準備をした。

     若いから無理だとの言葉を聞きいれず。

     (トレ=ビー)「おまえは若い。敵に立ち向かうな。

     槍に立ち向かえば屍となろう。

     アウル(54)にいても戦うのに等しい。

     獣の敵から家畜を守るならば。」

     (サバラク)「仇のために母を捨てて来たのです。

     我が心をぼろくずのようにしてまで来のです。

     先祖の血の仇を取れずに、カルマクの奴隷となるために

     私は生まれてきたのでしょうか?」(55)

 そして、出撃を志すサバラクは、その名が知れ渡る勇士ボゲンバイと知りあい、彼にカルマクへ攻撃の同行の許可を願い出る。


     カンジュガルの老兵ボゲンバイが、

     ある日(トレの)もとに来た。

     カルマクに向かう途中であった。

     仲間の兵士を率いて。

     サバラクはボゲンバイに言った。

     「私も一緒に連れていってください」と。

     (ボゲンバイ)「おまえを連れていこう!少年よ!」(56)

 ボゲンバイBogenbayは1720-30年代にカルマクの攻撃に立ち向かったカザフ軍の司令官として戦ったバトゥル(勇士)である(57)。彼はすでに1710年代には司令官としての実権を握っていたといわれる。たとえば、1710年からその翌年にかけてカルマクがカザフに猛攻撃をかけたときに、カラクムに各ジュズの代表が集まって、司令官にボゲンバイを選出したという(58)。彼を中心としたカザフの反撃によって、失った牧地を回復しただけでなく、カルマク(ジュンガル)の領域にまで侵攻し、多くの捕虜や家畜を得た。ちなみにこのような反撃もむなしく、1713年にはすでにカルマク(ジュンガル)の反撃を受け、カルマクのカザフ攻撃はさらに激しさを増していくのである。

 なお、カンジュガルQanjighaliとは中ジュズのアルグン族Arghinに属する集団である(59)。のちにアブライがアルグンの指導者となり、アルグンの遊牧地コクシェタウなどがその本拠地となった背景には、このようなボゲンバイとの深い関係があるのかもしれない。

 さて、アブルマンスルが祖父や父の仇を取ることを強く望んでいることを理解したトレ=ビーはボゲンバイに彼を託し、馬を与え、別れを告げる。


     16歳になったとき、ボゲンバイがやってきた。

     サバラクの内心を理解したのか、

     トレビーは(彼を)ボゲンバイに託した。(60)


     (サバラクは)馬群から一頭の馬を選んで乗った。/

     トレビーは手を挙げてバタを唱えた。/

     「ルスタムのダスタンのように有名になるように。

     少年よ、いずこへ行っても無事であるように。

     多くの人々におまえの情熱を示すように。

     おまえに無数の兵士が従うように。

     セイトバッタルや勇士タルグンのように

     神が長生きさせるように!」(61)

 バタbataとは祈祷・祝福の言葉である。若い世代が、礼儀正しく、忍耐強く、慎み深くあるようにと願い、また家畜に富み、故国を守る勇敢な勇士になるようにと祈願して唱えられた(62)。また、別れに際して幸運と無事を願いながら、旅に出る者や出征する勇士に唱えられることがしばしばあった。叙事詩にはバタを唱える場面が多く描かれるが、それは、周知のように、アブライに関する叙事詩にも例外ではない。

 トレビーのバタに、ルスタムやセイトバッタル、エル=タルグンなどのテュルク系叙事詩の主人公が勇士の手本とされて、謡われていることはたいへん興味深い。ちなみにアブライ自身もすぐれた勇士の模範として、バタに謡われている。

 幼少のアブライの庇護者がトレビーではなく、ダウレット=バイであると謡うヴァリアントもある。そのヴァリアントによると、トルキスタンにやってきたアブライと彼の付き人ウラズが、ダウレットのもとでしばし滞在している。ワリハノフもこれとよく似た逸話を書き記している。「伝説によると、近い親類であるアブルマンベトのもとへトルキスタンから向かっていたアブライは、事情により、祖父(子守り男)ウラズや一頭の馬とヤクシリクのダウレトバイの治めるカラウルス出身のカザフ人のもとで過ごしていた。そこでアブライは馬群を見張る仕事をしていた。彼の主はウラズを通じてアブライの出自について知り、名馬を彼に与え、アブルマンベトのところへ連れていった。(63)」また、別のヴァリアントでは、トレビーのもとを離れたアブライがダウレトバイのもとに身を寄せる様子が謡われており、アブライはトレビーやダウレトバイなど複数の有力者の庇護を受けていたことがうかがえる。

このような有力者に庇護されたことやボゲンバイなど当時の著名なバトゥルたちに師事し、その頭角を表したことが、アブライのその後の勢力拡大、ひいてはハン即位に大きく貢献していると、叙事詩からは読み取れるのである。また、トレビーやボゲンバイらも、「傍系」とはいえハンの血を引くアブライを庇護することで、ハンの権威が弱まり、群雄割拠していた当時のカザフ社会で、各々の勢力を拡大し、自分の権力を強化しようと考えたのではないだろうか。

 さて、ボゲンバイに従うようになったサバラクは、カルマクと干戈を交えるため、長い行軍を行う。


     サバラクはバトゥル(ボゲンバイ)に従い、/

     カラタル川やイリ川(64)を沿って進み、

     多くの川を渡った。(65)

   叙事詩は敵カルマクの統治者について、次のように謡っている。


     ジョンガルでは新たに、カルダン=セレンがハンになった。

     腕から武器を捨てることなく、カザフの仇敵となった。(66)


     カルマクの随一のバトゥルはシャルシュであった。

     ガルダンハンは彼を高く評価していた。/

     広大な国にもシャルシュに比肩するものはなかった。(67)


     ボゲンバイが出撃しようとしたことや

     アブルマンベトの(サバラクの出撃を認めぬ)言葉に満足せずに

     (サバラクは)私が行こうと許可を求めた。

     サバラクはボゲンバイのもとへ行き、ひざまずいた。/

     四代前からの我が先祖の仇を倒そうと(68)

 詩中のカルダン=セレン(ガルダン)とは、1730-40年代のジュンガルの統治者ガルダン=ツェレン(1671-1745)のことである。彼は、カザフ草原南部やシル川流域への攻撃を指揮し、ジュンガルに最盛期をもたらせた統治者のひとりとなった。

 シャルシュは、叙事詩ではガルダン=ツェレンの息子あるいは弟として描かれる。シャルシュとアブライとの戦いは多くの詩歌に謡われ、カルマクを代表する勇士として知られているが、彼の詳細については不明である。

 ボゲンバイに一騎討ちの許可を求めたサバラクは、バタを求めて、敵に立ち向かう。


     鎧兜を身に付けて「赤い馬」に乗った

     見知らぬ少年がバタを求めている。/

     「アッラーよ、アルワクよ、人々よ

     私にバタを与えよ。」/

     「敵の大軍を倒して無事に戻って来い」/

     勇士サバラクはバタを受けて疾走した。(69)

 カザフ人にはイスラームやシャマニズムとならんで祖先崇拝の信仰があった。人々は、困難に陥ったときや助力を必要とするときに先祖の魂であるアルワクarwaqに願をかけた。ここでは、アブライもアルワクに願をかけている。また戦闘のみならず、流行病や不妊、旱魃、飢饉、天災などのときにも、人々はアルワクに助力を求めた。アルワクにたいする信仰は、カザフだけでなくクルグズやウズベクなど、中央ユーラシア=テュルク系民族に広く見られる。

 そしてついに、サバラクとシャルシュとの一騎討ちが始まる。


     (シャルシュ)「まず貴様に先攻の権利を与えよう。

     その後、おまえの首を斬り落としてやる。」

     (サバラク)「シャルシュよ、先攻はカルマクだ。

     古くからのしきたりを変えるな。」/

     (シャルシュは)大きな手で鋭い槍をつかみ近づいていった。

     白い鎧に目を向けると光が閃いた。/

     サバラクは「アブライ」というウランを叫んだ。/

     一尋の鞭を「黄色い五歳馬」に打って、

     跳びはねて駆けて攻めた。

     鋭い刀がうなじから音をたてて、シャルシュの頭がすばやく落ちた。/

     (サバラクは)馬を再び翻し跳びはねながら戻った。(70)


     シャルシュは馬から落ちた。塵埃を高く巻き上げて。

     サバラクはこの戦いで、最初の勇姿を示した。(71)

 叙事詩は戦闘のしきたりについても伝える。ここでは、一騎打ちの決闘はカルマクの先攻、カザフの後攻と決まっていたことが伝えられており、騎士道ともいえるようなルールにのっとった戦いの叙述は、勇士の高貴な精神を理想化しているといえよう。

 ところで、サバラクは戦いに際して「アブライ」と叫んでいる。これはウランuranといわれる、戦場における「鬨の声」のことである。中央ユーラシア=テュルクには古くから、それぞれの部族集団に固有のウランがあり、そのほとんどが部族の著名な勇士や祖先の名前を用いたものである。一般に、ウランは一部族にひとつであるが、いくつかのウランを使う部族もある。また全カザフに共通する「アラシュ Alash」というウランや各ジュズにそれぞれ共通して使われるウランもある。さらに部族のウランとは別に個人が自分自身の祖先の名をウランに用いることもあり、サバラクが叫んだ「アブライ」などはこれにあたる。なお、「アブライ」という名も18世紀中ころからカザフ人に共通のウランになったといわれている(72)。

 サバラクがアブライを名乗るようになったのは、彼が「アブライ」のウランを叫んだことに由来すると伝えられる。


     (アブルマンベト)「少年よ、何ゆえウランを「アブライ」と叫んだのか」。

     このくににはないこのようなウランをどこから見つけたのか?」/

     少年は言った。「アブライは私の偉大な祖父です。

     名の知れた無敵の勇士でした。/

     我が敵に勝つために(その名を)叫んだのです。/

     祖父は自分の名を自分で叫ぶことはなかったので、

     このウランを人々は知らなかったのです。(73)


     (アブルマンベト)「おまえは怯むことなく

     敵に「アブライ」と叫んで向かった。

     余はこの少年が何をするのかと思ったものだ。/

     今ここで、おまえに「アブライ」という名をつけよう。

     サバラクの名もアブルマンスルの名もここに捨てよ。

     これでおまえの先祖アブライの名が消えることはない。

     天の星が輝くように!」

     サバラクはこれ以後アブライと名乗った。

     年老いた老人からバタを受けた。

     彼の名声と名は人から人へと伝わり、

     その勇敢さは国中に知れ渡った。(74)

  叙事詩は、合戦でカルマクの勇士シャルシュを倒したサバラクが、その偉勲を当時のハン、アブルマンベトに認められたと謡う。また、サバラクは、祖父「カンイシェル=アブライ」の霊力にあやかって敵を打ち破ろうとして、祖父の名をウランとして叫んだことから、アブルマンベト=ハンによって「アブライ」と命名されたのであった。以後、彼はこの名前で世に知られるようになるのである。なお、この逸話には、アブライが祖父「カンイシェル=アブライ」の名を復活させて、人々の記憶に残そうとする祖先崇拝的な側面も見て取れる。

 そして、自分の先祖や故郷について知るために長い旅を続けて来たアブライが、ついに自分の出自の詳細について知るときが来た。


     (アブルマンベト)「おまえの名は何だ?先祖は誰だ?故郷はどこだ?

     おまえには満足した。説明いたせ。」/

     (サバラク)我が遠き祖先はワリバク。

     その後の祖先は「血のアブライ」。

     我が父「美しきワリー」という人が、

     私にアブルマンスルと名づけた。

     これらの先祖はみな勇士であった。

     誰もが戦闘では千人分に値した。

     我が祖先はみな敵に殺された。

     我が心にはつきることのない悲しみがある」。/

     少年にアブルマンベトはこう言った。

     「おまえの祖先はエシム=ハンだ。

     エシム=ハンからジャンギルが生まれた。

     ジャンギルからはワリバクとアズ=タウケが、

     タウケからはアブルカユルとボラトが生まれた。

     ボラトからはセメケとアブルマンベトが生まれた。

     アブルマンスルよ、おまえは余にとって親類にあたるのだ。

     この先祖の系譜を忘れずに覚えておくのだ。/

     おまえの故郷はアラシュなのだ。/

     余はアズタウケの孫、

     そしておまえはワリーの曾孫なのだ。」(75)

 系譜はカザフ人をはじめ中央ユーラシア=テュルク系民族にとってきわめて重要な存在であった。カザフ人同士が出会ったときに、系譜によって関係が近ければそれだけ特別な援助やもてなしを受けることができた。また、結婚に際しては、共通の先祖から七代以上離れている必要があった。カザフ人はたとえ8歳の少年でも自分の先祖を少なくとも六代までそらんじることができたという。チンギス=ハンの血を継いだ人物が歴代のハン位に就いていたことは上述のとおりであるが、ハンの血筋を引く者にとって系譜の知識はとくに不可欠なものであった。そのため、曾祖父のワリバク(ワリー)までの系譜しか知らないアブライにたいして、アブルマンベトはエシムまで遡る系譜を教えたのであった。エシムから連なるアブルマンベトの系譜は、ワリハノフ(76)やリョーフシン(77)のものと一致しているが、ボラトとセメケについては、ワリハノフやボケイハノフ(78)の系譜では父子ではなく、兄弟とされており、こちらが一般に流布されている。

 自分の由緒ある出自や栄誉ある祖先について知り、血縁者アブルマンベトの庇護を受けたアブライは、その後次第にその勢力を拡大し、カザフ社会の統治者へとなっていくのである。

おわりに

 叙事詩が伝えるところでは、チンギス=ハンの血を受け継ぐアブライは苦難の幼年時代を過ごしながら、カルマクに殺害されたとされる4代前からの祖先の仇討ち志し、ついにカルマクの勇士と戦い、次第に頭角を表していった。また、その背景には、トレ=ビーやボゲンバイ、アブルマンベトといった有力者の強い後ろ盾があったことが、叙事詩からうかがえるのである。

 最後に、本稿では触れなかった、叙事詩が伝える「その後のアブライ」について簡単に述べたい。アブライはその後も、長年にわたってカルマクとの抗争を続けた。ある日、彼はカルマクの捕虜となり、ガルダン=ツェレンのもと囚われの身となるのだが、カルマクの首領ガルダン=ツェレンとの毅然とした態度でのやりとりの末、解放される。その後、アブライはバランスの取れた巧みな外交手腕で、ロシアや清朝と交易を中心とした関係を発展させ、その一方で、コーカンドやクルグズには遠征を行うなど、活発な外交活動を展開させた(79)。カザフの人々に認められたアブライは、古来からの伝統的なしきたり(80)に則って、ハンに即位する。そして、「中心に立つ黄金の支柱(81)」と称えられたアブライは、


     「このように団結していよ。

     (そうすれば)いかなる外敵にも敗れぬであろう。/

     幸と富は団結にあり、との言葉は真実である。」(82)

という言葉を残して天寿を全うした。そして、その遺体は聖地トルキスタンに埋葬されたのであった。

 アブライの虜囚やロシア・清朝に対する二重朝貢、当時の交易については、当時の書簡や遣使の報告、外交文書などの史料からうかがい知ることができるが、叙事詩にもこれらに関する独自の情報が織り込まれているのである。それらは、アブライの内政・外交政策や18世紀のカザフ社会を研究する上で示唆を与えるが、今回は紙幅の関係で詳しく述べることができなかった。別の機会に改めたいと思う。


 

(42)Ablay xan. Sheriyazdan Sultanbayuly 94-95

(43) Valikhanov Ch.Ch. Sobranie sochineii v piati tomakh. T.1. Almaty. 1967. str.426.

(44)Istoriia kazakskoi literatury. T.2. Alma-Ata, 1979. str.41.

(45)Ablay xan... Aq atan. A. Nabiuli 33

(46)Sabalaq. Mashhur Jusip  229

(47)当時、カザフには大中小3つの「ジュズjuz」と呼ばれる部族連合体があった。大ジュズは現在のカザフスタン東部、セミレチエ地方を中心に広がっていた。

(48)Dawitov Sarsenbi. Tole biy. Almati. 1991. 10b.; Moiseev V.A. Trudnye gody. Istoriia Kazakhstana : Belye piatnia. Alma-Ata. 1991. Str. 5.

(49)ウイシン(uysin)は大ジュズの主要部族のひとつ。

(50)Sabalaq - Ablay xan. Oljabaj Nuralyuly 131-132

(51)Ablay xan... Aq atan. A. Nabiuli 33

(52)Ablay xan. Sheriyazdan Sultanbayuly 96

(53)Sabalaq, Änwar Qongqan ulï 295-297

(54)アウルは、数戸−数十戸からなる、遊牧を行うための基本集団のこと。

(55)Ablay xan. Sheriyazdan Sultanbayuly 98-99

(56)Sabaraq, Änwar Qongqan ulï 298

(57)Valikhanov Ch.Ch. Sobranie sochineii v piati tomakh. T.1. Almaty. 1967. str.662.

(58)Sulejmenov R.B., Moiseev V.A. Iz istorii kazaxstana 18 veka. Alma-Ata. str.20.

(59)Shejire. qazaqting rwu-taypaliq qurilisi. Almaty. 1991. 23b.

(60)Ablay xan... Aq atan. A. Nabiuli 34

(61)Sabaraq, Änwar Qongqan ulï 299

(62)Negitov S., Qaziuli T.(qurast.). Aq bata. Bata sozder. Almaty. 1992. 5b.

(63)Valikhanov Ch.Ch. Sobranie sochineii v piati tomakh. T.1. Almaty. 1984. str.217.

(64)いずれも、バルハシ湖に注ぐ、セミレチエ地方の川。

(65)Ablay xan... Aq atan. A. Nabiuli 34

(66)Ablay xan... Aq atan. A. Nabiuli 35

(67)Ablay xan. Sheriyazdan Sultanbayuly 105

(68)Ablay xan. Sheriyazdan Sultanbayuly 106

(69)Sabaraq, Änwar Qongqan ulï 301-302

(70)Ablay xan. Sheriyazdan Sultanbayuly 107-8

(71)Ablay xan... Aq atan. A. Nabiuli 37

(72)Aq bata. Bata sozder. 159-b.

(73)Ablay xan. Sheriyazdan Sultanbayuly 110

(74)Ablay xan. Sheriyazdan Sultanbayuly 111

(75)Ablay xan. Sheriyazdan Sultanbayuly 110-11

(76) Valikhanov Ch.Ch. Sobranie sochineii v piati tomakh. T.4. Almaty. 1985. str.174.

(77)Levshin A. I. Opisanie kirgiz-kazach’ikh, ili kirgiz-kaisatskikh ord I stepei. Almaty, 1996. str.161.

(78)Alikhan Bukeikhan. Izbrannoe. Almaty.1995. str.114. (79)実際には、1755年にカルマク(ジュンガル)が清朝によって滅ぼされたことにより、カザフ社会に一定の安定がもたらされたことがその背景にある。

(80)「白いフェルトにアブライを座らせ、四人でそれをつかんで、持ち上げる」という儀式。

(81)Ablay xan. Sheriyazdan Sultanbayuly 124

(82)Ablayding tarixi. Shadi tore Janggiruli 281