はじめに
19世紀後半におけるカザフの知識人には,ふたつのタイプがあった。ひとつは,ロシア式の教育を受け,外界の文明を積極的に摂取しようとした近代知識人たちで, チョカン=ワリハノフ(1835-65)やアバイ=クナンバエフ(1845-1904)などがその代表的人物として挙げられる。こうしたタイプは,ロシアの植民地政策が深まるにつれて強まっていったロシアとの文化的接触によって形成されていったものである。たとえば,ワリハノフは陸軍幼年学校で,アバイはロシア式学校で,それぞれロシア式の教育を受け,ロシア的な教養を先駆的に身につけていた。ワリハノフはドストエフスキーと親交を保ち,またアバイは多くのロシア文学作品を翻訳するなど,ロシア文化との深いつながりが注目される。彼らには,学問と啓蒙への強い意欲やロシアなど外界の文明を摂取しようとする態度が見られ(1),彼らがカザフ社会の近代化に先鞭をつけた人物であることは,ここで改めて述べるまでもないだろう。
当時の知識人のもうひとつのタイプは,カザフ社会の変容やこれを取り巻く状況について,口承で詩を歌った伝統的な詩人たちである。18世紀後半以降,中央アジアにたいするロシアの植民地政策が本格化していくなか,カザフ草原を中心に中央アジア各地で数多くの叛乱がおこったが,それらはいずれも鎮圧され,民衆の間にはあきらめと服従と苦しみの色合いが濃くなっていった。とくに19世紀後半,伝統的なアクン(詩人)たちは,こうした暗い世相を反映する作品を数多く作ったのであった。
1.ムラトの生い立ち
まず,ムラト=モンケウルという人物について簡単に説明しよう。19世紀の代表的なカザフ詩人ムラトは,1843年(5)にウラル州グリエフ郷のカラバウ(現カザフスタン共和国アトゥラウ州)で,モンケという人物の次男として生まれた。彼は,小ジュズ・バイウルのベリシュ(6)という部族のカラトカイ族の出身である。ムラトの父モンケについては,名の知れた富者でカザフ西部のタイソイガンやカラバウの地を治めるビー(7)であったという説(8)と,貧しく質素な牧民であったという説(9)とがある。ムラトが幼い時に父モンケが死んだため,ムラトは兄マタイに育てられながら(10),ムッラーのもとで読み書きを学んだ。マタイもムラトと同様に秀でたアクンであり,ムラトは幼少時より兄から詩を学び歌うようになった。
ムラトは人生の大部分を,詩を歌い,古くから伝わる作品を学び語ることに費やした。そのためたいへん貧しかったという。彼は15歳で,トイ(祝宴)のアイトゥス(詩の競技)で歌い勝利している。アイトゥスとは中央アジアに固有の口承文芸のジャンルで,カザフやカラカルパク,バシュコルトなどで行なわれる詩人同士の「詩の掛け合い」のことである。アイトゥスで詩人は,それぞれ楽器を伴奏しながら,即興で詩を作り,自分の考えを表わすとともに相手をやり込める。ムラトはアイトゥスでは負けたことがないほど優れたアクンであったといわれる。数多くのアイトゥスに参加したが,バラ=オラズ,ジャントリ,ジュルクシュ,トゥヌストゥク,イジムシャイルといった5人のアクンとのアイトゥスが書き残されている(11)。なかでもジャントリという娘とのアイトゥスは,もっとも高く評価されている(12)。
このように,彼は若いときにはもっぱらアイトゥスでその才能を発揮していたが,後に叙事詩や系譜などを学び,それらを語るようになる。ムラトは叙事詩を,ビーでもあったアクン,エセト=ビー=カラウル(1779-1869)から学んだ。古い叙事詩を熟知していたエセト=ビーは,ムラトの師匠のひとりと考えられている(13)。ムラトが6歳からエセト=ビーのもとで牧民として暮らしていたという伝承もあるが,詳らかではない(14)。
エセトから学んだ伝統的な叙事詩を,ムラトは若い語り手たちに教えた。ムラトから叙事詩を学んだ若い語り手の中に,ムルン=ジュラウ(15)がいる。ムルン=ジュラウは,カザフの代表的な叙事詩語りである。彼は「ノガイ大系」といわれる,ノガイ=オルダの英雄たちを歌った叙事詩を数多く語ったが,それらのうち「タマ=バトゥル(16)」,「ナリク=バトゥル」,「ショラ=バトゥル」,「クルンシャク=バトゥル」などノガイ大系の14の作品をムラトから学んだ。すでに広く名の知られていたムラトから叙事詩を学ぶために,ムルンは彼を探す旅に出て,サグズ川岸のアシュコルトいう場所で出会った。「私は叙事詩「エディゲ」をムラトから何度も聞いた。ムラトは私が知っている詩人のなかで,もっとも力ある詩人であった」とムルンは語っている(17)。
ムラトは30歳過ぎまで独身のまま,ボケイ=オルダ領内やウラル地方など各地を流浪し,詩を歌っていたが,32歳のときにベリシィ族のナウシャという娘と結婚した。ムラト夫妻は,ダウレトカリ,サル,スンデトカリという3人の息子とサビラという娘の三男一女に恵まれた(18)。息子ダウレットカリ(1877年頃-1960年代)もまた,幼少時代より父や他のアクンたちから詩を学んだという(19)。
ムラトの作品は,彼の死後2年経った1908年に,カザンのカリモフ印刷所ではじめて出版された。同書には「ムラト=アクンがグマル=カズ・ウグルに語った詩」という書名が付されている。グマルは,18世紀末の「スルムの叛乱」の首謀者として知られるスルム=バトゥルの孫である。同書は全部で24ページからなり(20),ジャンギル=ハンが死去した際のアラシャ=バイトク=ジュラウの言葉やアダイのバルワニヤズ=バトゥルが戦死した時の言葉,勇士カズトゥガンの言葉などが収録されている(21)。二回目に出版されたものは,1924年にタシュケントで刊行された,研究者ハレル=ドスムハメドウル(1883−1939)の編纂・解説による作品集である。これは,1991年にアルマトゥで再版されている。また,彼の作品は1920年代にもカザンで出版されたようであるが,部数が少なかったためにその詳細は不明である(22)。
このように、ケレイとジャニベクがカザフのハンとして治めた後、ジャニベクの息子カスムがその後を継ぎ、ハンとなった。叙事詩では、カスム以降のハンは以下のように列挙されている。
ソ連時代にもムラトの作品は数回出版されたが,彼の評価は否定的に扱われることが多く,作品が広く知られることはなかった。その理由は,ムラトがロシアの植民地政策をいぶかしく思い,あからさまに批判したからである。実際,ソ連時代には,「ムラトは歴史に依拠し,郷土への愛やそれを防衛する際に発揮される勇敢さや剛勇さを讃える数多くの詩を作った(23)」と肯定的に受け止められることもあったが,彼の作品は「もっとも保守的」な作品とされ,「ハンの政策や部族中心主義を理想化し,ロシアの進出による新しい経済状況や政治体制を否定し,過去への回帰を夢見た(24)」と概して否定的に評価された。また,ムラトの「罪状」は,ロシアの植民地政策に反対するテーマが明確だったこと,もうひとつは作品の主眼がエディゲの子孫に向けられていたことであったという指摘もある(25)。ソ連が崩壊すると事態は一転し,ムラトの作品や彼について書かれた書籍が刊行されたり,1993年にはアトゥラウで「ムラト生誕150周年記念」が催され,彼の墓廟が建立されたりするなど再評価されるようになっている。
2.ムラトが見たカザフの状況
当時の状況にたいするムラトの見解は,作品に如実に現れている。この章では,ムラトが見たカザフの状況について論じる。
彼が詩人として活躍していた時代は,どのような時代であったのであろうか。はじめに,彼の時代背景を概観してみよう。
19世紀後半,中央アジアの主要都市を次々に占領したロシア政府は,中央アジアにおける植民地統治のため,1867年にトルキスタン総督府をおいた。カザフ草原では翌1868年10月21日に「オレンブルグおよび西シベリア総督府諸州における臨時統治規定」が発令され,カザフ草原はウラル州(ウラリスク),トルガイ州(オレンブルグ),アクモリンスク州(オムスク),セミパラチンスク州に分割され,ボケイ=オルダ(26)はアストラハン県に属することとなった。ムラトがすでに著名な詩人として名声を得ていたこの時代,カザフ草原西部で増税に苦しむカザフ人は,新しい統治体制を不服として叛乱を起した。1869年の小ジュズのカザフ人による叛乱や翌70年のマングスタウのアダイ族による叛乱である。
これらの反乱が起きたころ,こうした暗澹たる時代の空気を反映した悲嘆的な詩が多く歌われるようになった。これらの詩を歌った詩人たちをカザフ文学史学では「ザルザマン(悲しみの時代)」と呼んでいる。「ザルザマンZar zaman」という名称は,カザフの詩人ショルタンバイ=カナイウル(1818-81)が著した「ザルザマン」という題の詩に由来している。この時代,ショルタンバイの他にもドゥラト=ババタイウル(1802-71)など同時代の他のアクンたちも,共通するテーマで多くの詩歌を著したため,一連のこのような詩風を「ザルザマン」と呼ぶ。なかでもムラトの作品は「輝かしい過去」を懐古する作品を歌うと同時に,ロシアの影響が自分たちの周りに着実に迫っていることを嘆いていることで知られている。
カスムの死後、カザフ人はセミレチエ地方からウラル川流域まで、北はイルティシュ川までといった広大な地域にまで広がった。16世紀にカザフ人はシル川流域への勢力拡大に努めたことから、シル川流域の農工定住民との関係が密接となり、シル川流域のサイラムやヤス(現在のトルキスタン)が商業都市として発達した。とくにハクナザルXaqnazar(統治期間1537-80?)の治世には西方へ拡大し、当時分裂状態にあったノガイを従えるなど、彼の時代にカザフ=ハン政権が強化されたといわれる。
それでは,彼はこの時代をどのように見ていたのであろうか。彼の作品の中でもっとも精彩を放つ作品とされている(27)「ウシュ=キヤン?h Qiian(3つの地方)」と「サルアルカSararyqa(カザフ草原)」から具体的に見ていきたい(28)。前者はロシアの「臨時統治規定」導入後に起きた「1869-70年の叛乱」が平定されて間もない1873年頃に書かれ,後者は「兎年の大飢饉」といわれる飢饉(1879年)のために家族とともにマングスタウ地方のアダイ族の親類のもとに身を寄せていた1880年に作られた。「ウシュ=キヤン」は約350行,31節からなる韻文作品で,一行が7-8音からなり,「サルアルカ」はおよそ230行,27節で,一行11-12音節の作品である(29)。なお,作品の引用は,「ウシュ=キヤン」をUと,「サルアルカ」をSとそれぞれ表わし,その後に節を数字で表わすことにする。
当時のカザフの状況についてムラトは,
荒れ果てたるこの土地よ,悲しみのため魂が抜けはてた U1。
荒れ果てたるこの時代の,不幸を私は認めない! U31
かつては幸福であったのに(それは)どこへ行ったのか S2/
今日までこのようなことを見たことがなかった! S27
とかつてない不幸な状況に置かれていると認識し,この状況を悲しみ嘆く。彼が「ザルザマン」のグループに分類されるのは,まさにこのような悲嘆の作風によるためである。また,ロシアの植民地支配については,
ロシアは勝利して,まずエディルを奪った。/
サルタウ,アストラハンの地を奪った。/
エディルの後は背後からナルンを奪った。/
森の木を葦を柳をも奪った S3
(ロシアは)この国の民(qara)のみならずハンまでも奪った。
カザフのハンは彼らの釘,大地は彼らの遺産/
ハンが玉座から滑り落ちたあとは,彼らの幸福が残った S8
と植民地になった祖国の喪失感を歌う。ロシアとカザフとの関係は,
敵はボルゾイ犬(tazy)(30),われらは狐なり/
逃げようにも自由にはならぬ/穴に入っても引き出されて S28
と犬にそれに追われる狐にたとえられる。さらに,カザフがロシアの植民地とされた状況について,
宗教の違うものたちが,やってきてこの国を治める。/
ひとつの不幸が千もの不幸に増えて大きくなっていく。
(かつての)時代に戻って正しくさせよ U29
ムスリムの子供たちはだめになっていった。
どこから広い土地を探して見つけだせようか S8
とムスリムのアイデンティティを示しながら,「異教徒」とムスリムという対立構造をも呈している。
またムラトは,ロシアとの文化的な相違についても言及する。たとえばロシア人の服装についても「服を着ても袖はなく,裾はあっても帯はない(U27)」とカザフの民族衣裳との違いを取り上げて,嫌悪している。カザフの衣裳はそでが大きく,帯で縛るものであり,ロシア人の着ていた西洋式の衣裳とは大きく異なる。このフレーズはそうした違いに基づくものである。
このように,ムラトはロシアにたいしてネガティブなとらえ方をしていた。これは,彼と同世代のアバイが,「技術や知識を発達させた」ロシアに敬意を表し(31),文学をはじめとするロシア文化を積極的に吸収したり,ロシアから学ぶことは長所や模範となる点が多いと指摘して,「ロシア語を学ぶ必要がある。知恵も,財産も,技術も,科学も,みなロシアにはある。ロシアの科学は世界の鍵であり,それを知る者には世界は容易く落ちるものだ(32)」と書いていることとはまさに対称的である。
伝統的知識人のムラトはロシアとその植民地支配について批判的に歌っているものの,彼の作品において「反ロシア性」は中心的なトーンをなしているわけではない。ムラトの作品において,より一層強調され,大きな比重を占めるのは,「豊かないにしえの国」と「それを護る勇敢な英雄」,すなわちノガイ=オルダとその指導者たちへの称賛と憧憬であった。
3.ムラトの作品と「ノガイ」
小ジュズ,バイウルの出であるムラトには,カザフというアイデンティティがもちろんあった。彼のカザフ人としての意識は,
草原に埃を巻き上げた,町を攻め立てた,
我が先祖がカザフになった時,何度も攻めた大地。
敵を追いやった,ウルゲンチとブハラへ! U7
7つの民(j柮t)が移り去った後,我が祖先カザフの子供が,住居とした場所。
千もの馬を駆り,百もの雄ラクダを(杭に)繋いで(いたが),
その豊かな財が失われた場所。U5
という部分に明確に現れている。ムラトはたしかに自らをカザフとみなしていたのである。
しかし同時に,ムラトは「ノガイ」への憧憬の心を強くもち,自分の郷土をかつてノガイが繁栄した地であると想定していた。そのことは,ムラトの作品に「ノガイの国」やノガイの勇士たちの要素が強く現れていることに示されている。彼の作品のもっとも大きな特徴として,ノガイが輝かしい栄光の過去として理想化されていることが挙げられるのである。これは,新体制による混乱や飢饉などで,当時の現状が厳しく暗かったことが作用しているためであるが,彼がノガイ大系の作品に精通していたこととも無関係ではない。ムラトが,ノガイ大系の著名な語り手であるムルン=ジュラウに多くの叙事詩を教えたことも,彼のノガイについての知識の深さを示している。
彼は,「かつてこの地からノガイが去った,ムスリムの子供が去った S9」と,自分の郷土からノガイ(とその栄光)が消えてしまったことも「悲しみ」として歌っている。ムラトが歌う,去ってしまった「ノガイ」とは何か。ここでノガイ,すなわちノガイ=オルダについて簡単に説明しておこう。ノガイ=オルダは,14世紀末から16世紀初頭まで中央ユーラシア,キプチャク草原に存在した。ヴォルガ川とウラル川流域を中心的な領土とし,ウラル川下流域のサライチュク(サライシュク)をその首都としていた。16世紀前半がその全盛期と考えられ,ロシア・カザン=ハン国・クリミア=ハン国・アストラハン=ハン国などと複雑な外交関係を維持し,この地域の歴史に大きな影響を与えた。16世紀後半頃から,内部の権力抗争が激しくなり,ロシア派とクリミア派とに分かれて争った結果,大ノガイ・小ノガイなどに分列し,それぞれヴォルガ川を東西に挟んで広がった。16世紀末にその勢力は弱体化し,東方からのモンゴル系遊牧国家ジュンガルの攻撃によって,17世紀前半にはほぼ崩壊したのである。なお,現在北カフカス北部に居住するノガイ人は,ノガイ=オルダの住民の後裔で,その名称を引き継いだ人々である。
ムラトは,ノガイの勇士について,
ノガイの勇士たちが,千もの羊を育て,/万にも馬を増やした
麦やメロンを栽培し,大地に果物を植えた U9
とその「功績」を讃える。ノガイの勇士たちは,「ウシュ=キヤン」や「サル=アルカ」では,たとえば次のようにムラトの故郷の地とからんで,具体的に現れる。
荒れ果てたる青きジャユクよ,橋を架けて渡った地よ,
アサン=カイグが,カズトゥガンが(33),
オラクが,ママイが,テルアグスが,
ショラが攻めて駆けた地よ。 U3
最後の勇士イサタイが,悔いを残した地よ U4
ナリクの息子,勇士ショラが,不安げに叫んだ/
ハンが悲しんで移っていった地よ U10
クレクの息子老コジャクや,エステレクの息子タルグンが,
困窮した時に助言を与えてくれた地よ U17
カラクプシャクのコブランドゥが駿馬に乗って駆けた地よ U18
18年にもわたって戦ったオルマンベト=ビーが死んだ地よ U19
アイサの息子アネト(34)が,敵を攻めて奪った地よ U21
「ウシュ=キヤン」と「サルアルカ」では,ノガイの勇士たちの活動や人物像が具体的に歌われることはなく,また叙事的描写もないが,ムラトはノガイの勇士の名を列挙して,自分の郷土が「栄光の勇士たち」がかつて活躍した土地であることを鮮明に歌いあげているのである。なお,「ノガイ」という言葉は,当時カザフでは「タタール人」という意味でも使われていた。たとえば,アバイは「ノガイを見てみれば,兵役にも耐え,貧困にも耐え,非業にも耐え,ムッラーやマドラサを守って,信仰に仕えることにも耐えている」と同時代のタタール人を「ノガイ」という言葉を用いて讃えている。つまり,ノガイという言葉には当時,歴史的なノガイと同時代のタタール人という,ふたつの意味があったのであるが,ムラトの作品に現れる「ノガイ」は,タタール人ではなく歴史上のノガイを意味している。こうした作品における「ノガイ」という言葉の意味の違いも,当時の知識人の関心の所在を表しているようで興味深い。
「ウシュ=キヤン」と「サル=アルカ」に登場する勇士を列挙すると,次の通りである。エディゲ,ジャンブルシュ,テルアグス,アイサ,アネト,オラク,ママイ,ショラ,ナリク,コジャク,タルグン,コブランドゥ,オルマンベト,イサタイ。これらの勇士たちはいずれもカザフの英雄叙事詩に歌われる著名な人物たちで,コブランドゥやコジャクなど架空の勇士もいるが,その大部分はエディゲやオラク,ママイなどノガイ=オルダの有力者など歴史上の人物である。ここで,これらのノガイの勇士たちについて簡単に説明しよう。
エディゲは,ノガイ=オルダの「創始者」といわれる,中央ユーラシア史における著名な人物である。キプチャク草原の支配権を巡る,ジョチ=ウルスのトクタミシュ=ハンとの争いは多くの口頭伝承作品に歌われ,広くユーラシア各地に伝えられており,この地域の口頭伝承の代表作となっている。
(カンイシェル=アブライは)戦いで非業の死を遂げた。
アブライの一人息子が残された。/
(その子には)父の名を残すために、
ワリーと名づけられていた。
人々はあだ名を合わせて呼んでいた。
「コルケム=ワリー(美しきワリー)」と。
彼自身、その名にふさわしく美しかった。/
カルマクとカザフは殺戮し合い、
敵は容赦無く「美しきワリー」を殺した。(28)
ジャンブルシュ(ヤムグルチ)は,エディゲの孫ワッカスの息子である。彼はたとえば,1481年にジョチ=ウルスのアフメド=ハンをチュメニのイヴァク=ハンとともに攻めて殺害するなど,兄ムサとならんでノガイ=オルダの勢力をさらに拡大させた人物として知られる。テルアグス(アギシュ)は,このジャンブルシュの息子で,16世紀はじめに,従兄にあたるムサの息子セイヂャク(サイド=アフマド)とともにクリミア=ハン国を攻めた。その後クリミア=ハン国に敗れると,これと同盟関係を構築して,安定化をはかった。ジャンブルシュ・テルアグス父子はともに叙事詩にも歌われるノガイの代表的な勇士である。
アイサ・アネト(アフメト)父子は,ノガイの勇士としてムルン=ジュラウなどの伝える叙事詩に歌われる。アイサはムサの息子シギム(シェイフ=ムハンメド)の息子に同定される可能性があるが, これまでのところその確証には欠けている。
ママイはムサの息子で,シャー=ママイ(シェイフ=ママイ)の名でも知られるノガイの著名な指導者である。彼は1540年代のノガイでもっとも有力な人物であった。民間伝承では,ママイには子供がいなかったため,そのことを大変後悔していたと強調されるが,実際文献史料を見ても,彼には世継ぎがいなかったようである。しかし,オラクの息子カラサイとカズが彼の息子の代りとして彼に従い忠孝したという伝承が伝えられている。オラクはママイの兄弟であるという説とママイの甥であるという説とがあるが,現在のところママイの甥という説が有力である。いずれにせよオラクとママイは年齢も近く,「兄弟」として育てられたことに違いはないようである。オラクとその息子カラサイ・カズ兄弟については,ムラト自身が「カラサイとカズ」という英雄叙事詩で歌っている。この作品には,オラクが自分の兄弟たちに謀略によって殺害される様子が描かれているが,そこにはしだいに激化しつつあったノガイ=オルダの内訌が反映している。ちなみに,ママイやオラクについての伝承はカザフのみならず,カザン=タタールやバシュコルトなどにも伝えられている。それぞれのヴァリアントは,採録された場所や語り手の「民族」に基づいて,タタール版やバシュコルト版などと分類されている。それらは,それぞれの「民族文化」とされ,あたかも文化遺産の「分割相続」の様相を呈している。
ショラは,ノガイ=オルダの人物ではなく,カザン=ハン国の勇士であるが,時代的・地域的な近似性から,ノガイの勇士たちと同列に扱われることが多い。彼の名は,父ナリクとともにロシア年代記にも現れる。ロシア史料によると,ショラ(チョラ,チュラ)はカザン=ハン国内のロシア派についていたとされるが,タタールやバシュコルトの文献や口頭伝承ではロシアと戦って,戦死したと伝えられる。カザン陥落を描いた,彼を主人公とする叙事詩は中央ユーラシア各地に伝わり,この地域に共有される文化遺産となっている。
オルマンベトは,16世紀末,ノガイ=オルダ末期の指導者で,オルマンベト=ノガイといわれる集団を率いた人物である。当時のノガイ=オルダは大ノガイと小ノガイとに大きく二分していたが,それらの内部でも覇権を巡る争いが絶えなかった。彼は,こうした内紛で殺害されたという。彼の名が登場する口頭伝承は少なくなく,多くの叙事詩は「オルマンベトが死んだ時,10のノガイが崩壊した時」というフレーズではじまる。それらの作品では,オルマンベトが死んだころは「新たな時代」がはじまった時期だと認識されているようである。
コジャクとタルグンは,現在のカザフやバシュコルト,ノガイなどに伝わる「勇士タルグン」や「タルグンとコジャク」などの叙事詩に登場する人物である。作品の内容から,この作品は16世紀前半のノガイ=オルダ分裂・崩壊の時代を描いていると考えられる(35)。
最後に,イサタイとは,小ジュズ・バイウル族の出身であるイサタイ=タイマノフ(1791-1838)のことである。彼は,ロシアの「傀儡」であったボケイ=オルダのジャンギル=ハンにたいして,1836年に起きた叛乱の首謀者であった。この叛乱はジャンギルの背後にあるロシアの植民地政策にたいする抵抗の現れでもあった。イサタイはノガイの勇士ではないが,かつてのノガイの主要な領域で活躍した彼を,ムラトはノガイの勇士たちと同列にとらえているようである。なお,この19世紀の代表的な叛乱もまた,叙事詩など口頭伝承で語り伝えられている。
ロシアの植民地支配とそれにたいする叛乱,飢饉による困窮という現状を目の当たりにして,ムラトが縋ったのは,かつてこの地に栄光をもたらしたノガイの勇士たちだった。カザフにおいてノガイという存在は,きわめて大きなものであったのである。
ところで,先に見たようにムラトにも,カザフ人としてのアイデンティティはあった。しかし,カザフのアイデンティティをもつ語り手が,カザフのハンではなくノガイの勇士について代々語ってきたということは,必ずしもカザフのハンたちが,カザフというアイデンティティの求心力や象徴として機能していたわけではないことを示唆している。実際,「ノガイ大系」の勇士と同時代のカザフ=ハン国の「名君」ジャニベクやハックナザルなどについて歌った叙事詩は管見の限り皆無であり,カザフのハンが叙事詩に歌われる例としては,18世紀のアブライ=ハンなどに限られている。また,カザフ=ハン国の成り立ちを歌った作品もこれまで見い出されていないことから,カザフ=アイデンティティの形成にカザフのハンやカザフ=ハン国がどのような役割を果たしたか,いつごろからその役割を果すようになったかという疑問が生じる。この点については,かつてのノガイ=オルダの領域で叙事詩のジャンルがとくに発達したこと,ジュラウという言葉が現在では,主にアクトベなどカザフスタン西部で使われていること,「鞭を与えて,中ジュズを裁きに向かわせよ,桶を与えて,大ジュズを家畜に向かわせよ。槍を与えて,小ジュズを敵に,向かわせよ」というカザフの諺に見られるような小ジュズの伝統的な尚武の気質などを考慮しながら,検討していく必要があろう。
註
(1) 宇山智彦「20世紀初頭におけるカザフ知識人の世界観ムM.ドゥラトフ『めざめよ,カザフ!』を中心に−」『スラブ研究』44号,1997年,4頁。同「チョカン・ワリハノフ」『しゃりばり』239号,同「アバイ・クナンバエフ」『しゃりばり』241号。
(2)Omar柩y, Bauyrjan, M柮at M嗜gke柩y, Almaty, 1993; Omar柩y, Bauyrjan, B枷haugha baghynbaghan jyrlar, Almaty, 1998など。
(3)ノガイ=オルダは,14〜17世紀のキプチャク草原において大きな役割を果たした遊牧政権。
(4)筆者は,中央ユーラシアに伝わる英雄叙事詩を中心とした口頭伝承における「ノガイ」についての検討を行ない,ノガイという存在がこの地域の民族形成やアイデンティティとも深い関係があることを明らかにした(坂井弘紀「中央ユーラシアの叙事詩に歌われる「ノガイ」について」『東欧・中央ユーラシアの近代とネイション?』, 2001年)。
(5)1842年という説もある。Qazaq qoljazbalarynyng ghylymi sipattamasy 4, Almaty, 1985, 202-b.; Omar柩y, M柮at M嗜gke柩y, 26-b.
(6)ベリシィはグリエフ郷やボケイ=オルダ領内,ウラル川沿岸に居住していた。Khalel Dosm枳hamed柩y, Alaman, Almaty, 1991, 105-b.; Vostrov V.V., Mukanov M.C., Rodoplemennoi sostav i rasselenie kazakhov: konets 19-nachalo 20 v., Alma-Ata, 1968, S.234.
(7)ビーbiとは,裁判も行なう指導者のこと。
(8) S汳nsh獲iev, Khanghali, Qazaq 嚇ebiet地地g tarikhy, Almaty, 1997, 608-b.
(9)Dosm枳hamed柩y, Alaman, 102-b.
(10) Bes ghasyr jyrlaidy 2, Almaty, 1989, 127-b
(11)Qazaq qoljazbalarynyng ghylymi sipattamasy 6, Almaty, 1989, 148-152 better.
(12) S汳nsh獲iev, Qazaq 嚇ebiet地地g tarikhy, 613-b.
(13)エセト=ビーはムラトと同じベリシィの出身で,その作品はマカシュ=アキムという人物によって採録され,1908年にカザンで出された「ジャクス=ウギト」として公刊された。クルバラク=バトゥルとジョマルトベルディ=バトゥルの孫でもある。
(14)Qorqytov, Ber談, Atyrau biler men batyrlary, Almaty, 1992, 62-b.
(15) ジュラウjyrauとは,叙事詩語りのことである。かつては,ハンやスルタン,バトゥルなど有力者に,助言の詩を作って歌うこともあった。
(16) バトゥルbatyrは勇士・英雄の意味。
(17)坂井弘紀「カザフの叙事詩語りの肖像〜ムルン=ジュラウの生涯を中心に〜」『叙事詩の学際的研究』,2001年3月,55頁。
(18)Omar柩y, M柮at M嗜gke柩y, 76-b.
(19)Sonda, 78-b.
(20)28ページとの説もある。Omar柩y, B枷haugha baghynbaghan jyrlar, 57-b.
(21)Qazaq k稚abynyng shej池es 1807-1917, Almaty, 1996, 146-b.
(22)Shakarim, Qudayberdiuli, Turik, Qirghiz-Qazaq ham xandar shejiresi, Almati, 1991, 25b.
(23)Istoriia kazakhskoi literatury 3, Alma-Ata, 1979, S.61-62.
(24 Istoriia kazakhskoi literatury SSR 3, Alma-Ata,1979,S.346.
(25) Omar柩y, M柮at M嗜gke柩y, 7-6 better.なお,ロシアの一部を領有していたエディゲは,ソ連時代,否定的な評価を受けた。
(26)1801年,カザフ・小ジュズのボケイ=ハンによってカザフ草原西部,カスピ海北岸につくられた政権。
(27) Winner, Thomas G., The Oral Art and Literature of the Kazakhs of Russian Central Asia, Durham, N.C., Duke University Press, 1958, 97.
(28)いずれも, Dosm枳hamed柩y, Alaman, 1991; Seid知bekov, Aqseleu (bas red.), ?lem: b池地sh jyl shyghuy, Almaty, 1991に収録のテキストを利用することにする。
そのような伝統的詩人の代表にムラト=モンケウルがいる。ムラト=モンケウルM柮at M嗜ke柩y(1843-1906)は,カザフ文学史上重要な詩人とされ,英雄叙事詩や系譜など伝統文化を伝える語り手でもあった。後続の世代にも文化的・政治的に多大な影響を与えたといわれている。しかしながら,彼に関する専門的な研究はこれまで乏しく,彼の生涯を伝記的に論じたり,作品の特徴について概説したりした先行研究はあるものの(2),それらはムラトの作品について具体的かつ詳細な検討をしているとはいいがたい。たしかに,現状を嘆き悲しんだムラトは,過去の栄光を懐かしみ,そこに「逃避」した。しかし,そこで注目されるのは,彼が懐古し,理想化した過去とは「ノガイ(ノガイ=オルダ)(3)」であったことである。カザフの民間伝承において,ノガイ=オルダとその有力者たちを描いた叙事詩や伝説は大きな位置を占めているが(4),彼の作品にもノガイの存在が色濃く映し出されている。彼の作品は,19世紀後半においてノガイがどのように認識されていたかを知る上でも,多くの示唆を与えてくれるにちがいない。