19世紀カザフ詩人ムラトの作品とその特徴




4.ムラトの思い描く「郷土」

 この章では,彼が具体的にどの地域を自分の郷土ととらえていたのか,彼が想定した郷土の領域はどこだったのかについて考えてみたい。

 まず,「ウシュ=キヤン」という題名に,彼が対象として想定した地域がどこであるかが端的に現れていることから,この言葉について見てみよう。カザフ語で,ウシュ殱hは数字の「3」を,キヤンqiianは一般に「遠い場所,遥かな所」を意味するため,「ウシュ=キヤン」は「3つの地方」の意味となる。なお,先行研究では「ウシュ=キヤン」を「3つの時代」と訳すものもあるが(36),キヤンという言葉に「時代」という意味はなく,また具体的にいつの時代を意味するかも不明であるため,これは完全な誤りである。

 それでは「3つの地方」とは具体的にはどこを指すのであろうか。ムラトは「(ロシア支配下の)エディルは血の土地/ジャユクは汚れた土地/マングスタウは塵の土地(U3)」と,エディル(ヴォルガ)川,ジャユク(ウラル)川,マングスタウ地方を「3つの地方」として挙げている。この地域はかつては,モンゴル帝国の後継国家のひとつジョチ=ウルスの中心地であり,その後はノガイ=オルダの中核をなした,中央ユーラシア史上重要な地域であった。ノガイの勇士を歌った叙事詩では「ノガイの国」を表わすのに,「エディル(ヴォルガ)とジャユク(ウラル)」という表現がしばしば使われる。ムラトはこれにマングスタウをくわえて,「3つの地方」としているのである。なおバシュコルトに伝わる叙事詩「エディゲ」では,バシュコルトスタン南部を流れるノゴシュ川がマングスタウに代わって3つの地方をなしている(37)。エディルとジャユクを中心に,ときに自分の故郷を含めた地域を加えてノガイを表すことは,ノガイの流れを汲む地域ではよく使われる表現法となっている。「3つの地方」とは,ノガイの領域を表わす呼び名であったのである。

 ムラトは「ウシュ=キヤン,それは7つの郷土(j柮t)が広がるところ(S4)(38)」と自分たちの故郷がある地域とみなしている。「7つの郷土」とは具体的に何かを意味するのではなく,おそらく「7(jet)」と音韻的にかけて,その広大さを表現しているのであろう。  次に,別の代表作の題名でもある「サルアルカ」についてみてみよう。サルアルカとは,一般にはカザフ語でカザフスタンの中央および東部に広がる地域を指す(39)。「サルアルカ」は,ムラトが飢饉のためにマングスタウに移る際に歌われた詩である。彼は,「われらはサルアルカからここに移りやってきた。サグズとジェムを横切って (S1)」と歌っている。ムラトはウラル川流域やボケイ=オルダ領内を活動領域としていたのだが,このフレーズからは, ムラトがカスピ海北岸および北東岸を流れるサグズ川とジェム川以北のかつて居住していた地域をサルアルカと認識していたことが読み取れる。すなわち,彼の地理認識ではカスピ海北岸の草原地域はサルアルカに含まれるが,マングスタウ地方はこれに含まれないということであり,19世紀のカザフ人の地理認識の一例として注目に値する。

 さて,ムラトの作品には非常に多くの地名が現れるが,それらが具体的にどの場所を表わしているかを知ることで,彼の地理に関する認識をうかがい知ることができると考えられる。そこで,彼の作品に登場する地名がどこにあるかを詳しく検討してみたい。それらの地名は古名のものも多いことから,すべての地名を同定することは困難であるが(40),彼の作品を編纂したハレル=ドスムハンメドウルの注釈を参考にしながら,19世紀や20世紀初頭の地図(41)にもとづいて作業を行った。表と地図を参照していただきたい。

  地図からわかることは,作品中に現れる地名のほとんどがカザフ草原西部・カスピ海北岸にあるということである。彼の作品にはウルゲンチやブハラ,タシュケント,コーカンドなど中央アジアの主要な都市も言及されるが,それらは,「敵を追いやった,ウルゲンチやブハラへ(U7)」,「ウルゲンチとブハラからは,コングラトやタシュケント,コーカンドからは,住むべきところを見つけられなかった(U24)」のように,明らかに自らの領域とは異なる,異郷の地として現れるに過ぎない。しかしながら,カザフ草原西部やカスピ海北岸の地名は,「タロクペの岸や,サクマルの流域で夏営した (U8)」,「タイソイガンとカラバウの地を住処とした(U15)」などと,自らの生活空間として数多く現れる。これらの地名が彼の作品に現れる理由として,もちろん,ムラト自身がグリエフ郷の生まれであり,ボケイ=ハン国領内やウラル,マングスタウなどカザフ草原西部に暮らしたということが挙げられる。そして,この領域は小ジュズの分布する地域と一致しており,ムラトの小ジュズへの帰属意識がよく現れているといえるだろう。

 しかし,ここで注意しなくてはいけないのは,これらの地域がノガイ=オルダの勢力地域とも重なるということである。ノガイ=オルダは,サライチュクを首都とし,その領域はウラル川を中心に,東はアラル海沿岸のシル川下流域やカスピ海北東岸,西はサマラ川からアストラハンに至るヴォルガ川流域に囲まれる地域であった(43)。この領域は,地図に現れる地域と重なることが分かる。先に,ムラトの作品がノガイの叙事詩など口頭伝承から大きな影響を受け,「ノガイの国」を讃えている点を指摘したが,彼のこのような「ノガイ」への懐古の指向を考慮すると,この領域は彼の属する小ジュズ以上にノガイの領域を意識したものと考えるのが自然かも知れない。ムラトは,ノガイの領域を念頭におきながら,これらの地名を意識的に作品に取り上げたものと考えられる。また,こうした地理感覚が作品に取り込まれた背景には,彼の時代には「集団の記憶」としてのノガイの残像がまだ残っており,その領域にたいする意識の継続があったのではないかと考えられる。ムラトにとって,「7つの郷土が広がる3つの地方(ウシュ=キヤン)」は,失われたノガイの領域であり,彼が理想として思い描く「誇らしい郷土」であったのだろう。19世紀後半にも,ノガイ=オルダの存在はこの地域に大きな影響力を持っていたのである。

5.ムラトの作品のジャンル的特徴と「ノガイ」の詩の伝統

 「ウシュ=キヤン」や「サルアルカ」などは,これまで見てきたように,地名や人名が列挙され,カザフの過去の生活を讃え,同時代の状況を憂い,人々に訴えかけるという特徴をもつが,さらにこの章では,これらの作品が「トルガウ Tolghau」といわれるジャンルの詩との共通点を多くもつことに注目して,その特徴について見てみたい。  トルガウという言葉は,本来は「回す,捻る(tolgha-)」といった意味であったが,これが転じて「熟考する,熟慮する」を意味するようになった。それがさらに詩のジャンルを表わすようになったのだが,ジャンルを意味する用語としてのトルガウは,カザフ・カラカルパク・ノガイにのみに使われる(44)。

 トルガウとは,ジュラウやアクンが歴史的な出来事について,もしくは歴史上の人物に向かって歌った詩のことで(45),教訓的なトルガウと英雄的なトルガウとに大きく二分することができる(46)。このうちとくに英雄トルガウは,英雄叙事詩ときわめて近い関係にあり,両者は,形式の面においては,7-8音節からなり脚韻を踏むなどといったこと,内容の面からは,歴史上の出来事や社会的に重要な問題を扱い,勇士の果敢さや故国愛などのモチーフが見られるといった点で共通している。こうしたことからトルガウは英雄叙事詩から派生したとする見解もある(47)。一方,英雄叙事詩と英雄トルガウとの違いは,叙事詩が展開あるあらすじをもち,ある個人やその行動について描いているのにたいして,トルガウは詩人の人生観や世界観,その時代における希望や不安,悲しみなどを中心的なテーマとしているという点である。ムラトの「ウシュ=キヤン」や「サルアルカ」は,まさにトルガウ的性格を持つ作品であるといえよう。

 なおトルガウは,カザフでは上記の二種類の意味をもつが,カラカルパクでは現在ではもっぱら歴史詩,とくにオルマンベト=ビーにまつわる詩を意味する(48)。オルマンベトは,上述のように各種の口頭伝承に登場するが,カラカルパクではとりわけ重要な意義をもっている。カラカルパクでは,オルマンベトの死後,すなわちノガイの崩壊後に,ノガイの一部がカラカルパクと呼ばれるようになったと見なされているからである(49)。

 トルガウの伝統は15世紀半の伝説的詩人アサン=カイグに始まるといわれ,以後トルガウを歌った詩人には,ドスパンベト・シャルキイズ・アクタンベルディ・シェルニヤズなどがいる(50)。彼らは,カスピ海北岸の草原地域を中心に活躍したと伝えられている。彼らのトルガウには,故国愛や勇士の勇敢さが反映されるとともに,エディルやジャユク,アゾフ,オイルなど,キプチャク草原西部の地名が現れ,これらの地を讃えている。このようにトルガウは本来,これらの地域と密接なかかわりがあるのである。

 トルガウのジャンルの成立と発展に寄与したのは,「カザフ文学創始者の一人(51)」ともいわれる,15世紀の詩人カズトゥガンである。これまでに伝わる彼の作品は,規模こそ大きくはないものの,トルガウの典型的特徴を示している。カズトゥガンは,ウラル川右岸やナルン,カブルシャクトゥ,エディル川のアフトバ,ボザンの地に暮らした。民間伝承では,彼は勇士で軍の長でもあったと伝えられ,実際彼のトルガウは勇士の気高さや強靱さを強調している。生没年は不明であるが,15世紀の人物であったとされる(52)。故郷であるナルンやカラスとの別れに際して心中を歌ったトルガウや敵の危機にさらされた故郷を嘆くトルガウなどが伝えられている。

 ムラトは,エディルやジャユクなどについて歌ったアサン=カイグやカズトゥガンなど伝統的なトルガウの詩人の影響を受けたが,とくにカズトゥガンから強い影響を受けた。彼は,カズトゥガンについて,その名も「カズトゥガン」という作品に歌っている。ここでは,カズトゥガンと彼の名を戴いた作品との関連について見ていくことで,ノガイの伝説的な詩人からムラトが深い影響を受けていることを具体的に明らかにしてみたい。

 カズトゥガンの言葉に霊感を得て作られた「カズトゥガン」では,自らの郷土を次のように歌っている。

     エディルを住処とするな,カルマク(53)がやってきてこれを取る。

     ジャユクを住処とするな,異教徒たちが町を奪う。

     アシュタルハンを住処とするな,その町は奪われる

     エディル(Ed値)を奪えば,国(el)を奪う。/

     ジャユク(Jaiyq)を奪えば,命(jan)を奪う/

     オイル(Oiyl)を奪えば,考え(oi)を奪う。

     ああ,人々よ!この住所から立ち去らなければ,ここを見捨てなければ,

     カザフの服を着続けられるであろうに(54) これらはカズトゥガンの残した言葉「哀れな我がエディルよ,/汝に幸あれかし,私のもとから消えてしまったエディルの故郷よ!(55)」という故郷について嘆き想う詩のテーマと重なるものである。ムラトの作品には,ここに揚げたエディル川やジャユク川,オイル川の他にも数多くの川の名前が現れるが,このような川を郷土の象徴とする発想や川にたいする強い思いは,中央ユーラシアでは古くから存在した。たとえば,突厥時代に記されたオルホン碑文には,「蒼天のテュルクのテングリ(天・神),テュルクの神聖なる大地と川は,このように言った,テュルクの民が滅ぶことのないように,民として存在するように(56)」と記されている。このことについては,突厥にとって河川が,天空や大地と並んで「ナショナル」なものとみなされていたことを示すとの指摘がある(57)。カズトゥガンやムラトの作品に見られる河川のモチーフは,突厥時代から息づく,河川を神聖な存在として崇める思想の現れでもあるのかも知れない。

 ムラトの作品は,このような内容やテーマの類似点だけではなく,表現方法もカズトゥガンの作品と告示しており,その影響の強さを示している。たとえば,ムラトの作品「カズトゥガン」の

 Buyrshnnyng jalghyz qyrqar azuy,/ Bidaiyqtyng jalghyz soghary (58)

(若ラクダの狡猾な歯/雑草がひとつ靡く。)

というフレーズは,

 Buyrshnnyng b柎a shainar azuy, Bidaiyqtyng k嗟 jaiqaghan jalghyzy, (59)

(若ラクダが潅木を齒む歯/雑草がひとつ湖に生えている。)

というカズトゥガンの作品中に見られるフレーズと類似している。さらに,

 Balyghy taidai tulaghan, Baqasy qoidai shulaghan (60)

(その魚は雄馬のように立ち上がった/その蛙は羊のようにざわめいていた。)

という部分に至っては,カズトゥガンの作品のものと全く同じフレーズが使われており,彼がカズトゥガンの作品を正しく継承し,それに基づきながら,アレンジして歌っていることが明らかである。

 また,カズトゥガンに時代的にも作品のテーマにおいても近い詩人にシャルゲズ(シャルキイズ)=ティレンシィウルがいるが、ムラトは彼についても「シャルゲズ」という題の作品で歌っている。そこには,カズトゥガンの例と同様に,シャルゲズの作品からの影響を見い出すことができる。シャルゲズの「勇士ショバン」という作品には,節の最後に「アルスタンベクの息子スルタンがいる」や「イサルの息子ジュルムがいる」といったフレーズがくるという特徴があるが,ムラトも「シェルゲズ」において,節の終りに「ナリクの息子ショラがいる」,「ムサの息子ママイがいる」などと歌って,シェルゲズを模倣している。

 このようにムラトはテーマや表現方法において,トルガウの伝統を踏襲しているといえる。ムラトの作品には,一定のあらすじをもった「カラサイとカズ」など英雄叙事詩のほかに,あらすじのない,その時代の状況を歌った作品があるが,このような作品はまさにトルガウとしての要素を満たしており,トルガウと呼ぶにふさわしい。カズトゥガンやシェルゲズ以降,ノガイの勇士やかつてのノガイの地域をテーマとするトルガウの伝統は,ドスパンベトやジエンベトなどの詩人に引き継がれ,ムラトにまで伝えられた。しかし,このような伝統的な手法に則った作品がムラト以降,ほとんど見られないことから,彼を「最後のトルガウ詩人」と呼ぶことができるであろう。

6.ムラトとカザフの未来

 「ザルザマン」の詩人は現状を悲観するのみで,それらを克服する方法を何ら見い出すことができなかったということが,これまでしばしば指摘され,ある種の定説となっている。彼らの作品を見る限り,その指摘は決して誤りではないであろう。たしかに「ザルザマン」の詩人たちの作品からは,時代を嘆き悲しむ暗澹たる雰囲気が漂う。しかし,ムラトについて言えば,彼は新たな時代への対応の必要性を感じていた。ムラトは,ロシア式の教育とその知識の応用の必要性を認めていたのである。同郷のダウレトゥンベト=マシャクウル(1848-1907)がオレンブルグのロシア学校で学問を修め,故郷に帰ってきた際,ムラトは彼に助言の手紙を書いている。その手紙は「留学から戻った青年への手紙(1876年)」と題する作品として現在も残されている。

     青年よ,オルンボル(オレンブルグ)から無事に戻ってきたか,

     かつて志して発った旅路から(61) と,ムラトはまずダウレトゥンベトの帰郷を喜ぶ。そして,

     おまえは井戸に新たに涌いた目ではない,

     先祖の時代には泉のごとき政(まつりごと)があったのだ(62)

と過去の政治のやり方を評価しつつも,

     二つの国(j柮t)の法(zakon)(63)を等しく知れば,

     我が希望あり,狭い道を迷うことはなかろう(64)

とカザフの法のみならず,ロシアの法律も遵守することを認め,単にロシアの支配にあることを嘆くだけではなく,ロシアとカザフの法を知れば,希望がうまれることを若い世代に諭していた。もはや,ただカザフの過去を熟知しているだけではだめで,ロシアの法とそれに関する知識を拒絶するのではなく,今後はそれらを知り,ロシアについて学ぶ必要があるとムラトは悟っていたのである。さらに,ロシア式の新たな教育を受けたダウレトゥンベトに

     二つの国の法を等しく知れば,心にはひとつだけの目があるものだ,

     目のない者は歩んでいた道に迷う,(我が)道に迷っても,

     (おまえは)手をとり導いてくれる。/

     我が民(khalyq)が迷ったときに導かないのなら,

     知識が何の役に立とう(65) とカザフが迎えた新たな時代に,その知識を人々のために活用するよう呼びかけている。

 ムラトが期待をかけていたダウレットゥムベトは,オレンブルグから戻ったあと,故郷にて勤務した。彼の弟ドスムハメドは,自分の息子の命名をムラトに依頼した。ムラトは,その子に「ハレル」と名付けた(66)。教養ある兄から強い影響を受けていたドスムハメドは,やがてその息子をロシア=カザフ学校で学ばせた。このハレルなる人物こそ,ムラトの作品の出版に際し,編纂や解説を行なうなど尽力したハレル=ドスムハメド,その人である。ハレルは,1917年,カザフ人自治政府「アラシュ=オルダ」に参加し,翌年結成された「アラシュ=オルダ西部支部」において中心的役割を果したことでも知られる。彼はまた医師や研究者,啓蒙家として社会・政治的に大きな役割を果し,歴史・文学・言語・医学・生物学と多岐にわたる分野で著作を残したが,彼も多くのアラシュ=オルダの指導者たちと同様,1930年代の「粛清」の犠牲となった。ハレル=ドスムハメドウルは,自分の名付け親であり,またロシア式の教育を受ける間接的なきっかけをつくったムラトに敬意を表わすとともに,彼の作品を高く評価していた。「ムラトの言葉が人々に与える力は大変強い」,「(カザフの)文学の歴史において,ムラトの言葉の重要性は限りないものである」と彼は述べている(67)。

   先行研究においては,ムラトは現状にたいする解決策を見出せず,「この時代をどのように癒すべきか」という問いにたいして,まったく答えを出すことができなかったとされ(68),また彼は,植民地政策が若い世代の教育に有害な影響を与えると恐れていたとされてきた(69)。たしかに彼の詩には,新しい時代への明確かつ具体的な指針は示されておらず,過去への回顧と現状への悲嘆が歌われている。しかしながら,ムラトは「ウシュ=キヤン(1873年)」や「サルアルカ(1880年)」でロシアの植民地支配の嫌悪感を現わしていた同時期に,「留学から戻った青年への手紙(1876年)」に示されるように,カザフとロシア双方の法律を知って人々を率いよと説いていた。ムラトは,自分たちの過去の歴史や伝統を尊重しながらも,時代の狭間で葛藤し,若い世代には新たな時代における指針を示していたのである。

おわりに

 本稿で,ムラトの作品を検討した結果,明らかになったことをまとめてみよう。

 まず,ムラトの作品には多くのノガイ=オルダの指導者や有力者が描かれ,ムラトが彼らを自らの過去の英雄,「理想の姿」としてとらえていたことが確認された。彼は,同時代(19世紀後半)の現状をノガイという存在を用いて歌った。ノガイが19世紀後半においても,このような形で意味をもっていたということは興味深い。カザフというアイデンティティとともに,「ノガイ」もまた自らの拠り所とされていたのである。

 また,ムラトの作品に登場する地名について具体的に検討してみると,その大部分がカザフ草原西部やカスピ海北岸の地域にあることがわかった。これはもちろん,これらの地域が彼の出身地や活動範囲を含んでいることもあるが,注目すべきは,これらの地域がノガイ=オルダの領域に重なるということである。ムラトは,「3つの地方(ウシュ=キヤン)」,すなわちノガイ=オルダと重なる領域(ひいてはそれを引き継いだ小ジュズの領域)を自分の理想とする「郷土」と見なしていたのである。

 19世紀後半以降,ムラトのような伝統的詩人が社会に及ぼす力は弱まり,新しいタイプの近代的知識人が影響力を発揮しはじめる。そして,ロシアへの嫌悪感や過去の称賛を歌ったムラトの姿勢は,同時代の近代的知識人であるワリハノフやアバイの先駆的な態度とは異なり,ただ後ろ向きであったとみなされがちである。しかしムラトは,若い世代にカザフとロシアの二つの法律を学べば希望があると述べており,新たな時代の到来を受け入れる建設的な助言もしていた。このことは,近代における伝統的詩人のあり方について考える上で示唆を与えるであろう。

    今後は,ムラトのみならず,彼と同時代の伝統的詩人の作品をも考慮しながら,19世紀後半の詩人の特徴について検討していく必要があろう。また,カザフの社会と歴史においてノガイという存在はどう意味を持っていたのか,ノガイはカザフの民族形成にどのような役割を果たしたのかについても,「集団の記憶」である叙事詩や系譜,ノガイと深いかかわりをもつ「トルガウ」などの口頭伝承を含め,様々な角度から考える必要がある。


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