カザフには、数多くの口頭伝承が伝えられているが、とりわけ、叙事詩(ジュル)のジャンル はその中核をなしていた。叙事詩は、ジュラウやアクンといわれる語り手によって人々に伝え広められてきた。ジュラウとは、かつてはハンやバトゥル(勇士・戦士)に賢明な助言・教訓を与えたり、事件を予言したりする有力者の側近としての役割も担った、伝統的なジュルを人々に伝える語り手のことで、アクンはアイトゥス などで日常的なテーマを即興で謡う「民間の即興詩人」で、現在は一般に詩人を表す言葉である 。叙事詩は、アクンではなくジュラウによって語られていたが、19世紀には両者のはっきりした違いはなくなり、ジュラウにもアクンにも語られるようになった 。
これまで、多くの叙事詩作品が書き取られたり、録音されたりしているが、その作業が始められたのは19世紀も中葉になってからのことで、本格的な採録は20世紀に入ってから行われた。叙事詩という文化遺産の伝承と保存には、19世紀から20世紀にかけての語り手(ジュラウやアクン)がとくに重要な役割を果たしてきた。
しかしながら、そのような語り手がどのような人物で、どのような生涯を送り、またどのようにして語りを学び、叙事詩を語るようになったかという点について具体的に知られる機会はこれまできわめて少なかった。また、作品が採録された過程についてもあまり知られていない。さらに、語り手をとりまく「語りの伝統」についても掘り下げて検討する必要がある。
そこで本稿では、カザフの叙事詩の語り手の一例として、著名な語り手であるムルン=ジュラウを取り上げ、彼の生涯とその語りの伝統について具体的に見ることによって、叙事詩語りの特徴を理解する一助としたい。
1 作品
ムルン=ジュラウ(1859-1954)は、19世紀後半から20世紀前半に活躍した、カザフの叙事詩の代表的な語り手である。彼は非常に多くのパートリーをもち、とくに「クリムの40人の勇士」といわれる一連の叙事詩を得意としていた。これらの作品は、1944年にタシュケントで行われた「中央アジアのフォークロアに関する全連邦学術会議」において世界的に重要があると宣言されるなど、芸術的にも優れた作品とされている。
ムルンの語った「クリムの40人の勇士」のうち、筆者が確認した限りでは、部分的なテクストも含めて35の作品が採録されている 。「クリムの40人の勇士」は、通常、・アンシュバイとその子孫たち、・カラドンとその子孫たち、・個々の勇士たちの3つのグループに分けられ、とくにグループ・にはエディゲやヌラディン、オラク、ママイなどノガイ=オルダ の創始者とされるエディゲの先祖と子孫が描かれている。そのため「クリムの40人の勇士」はノガイ大系とよばれる叙事詩群に属するとされる。ノガイ大系とはノガイ=オルダの統治者・有力者について謠った叙事詩群のことで、ノガイ=オルダを中心とするキプチャク草原をその舞台とし、14世紀末から17世紀前半のノガイ=オルダやカザン=ハン国、クリム=ハン国でのできごとが謡われている。クリミア半島やここを本拠地としたクリム=ハン国を意味する「クリム」が冠せられているものの、「クリムの40人の勇士」には、ノガイのくにやカザン、クリミア、エディル(ヴォルガ)川・ジャユク(ウラル)川流域などの地名が表れる。なお、ノガイ大系は現在、カザフ、バシュコルト、カザン=タタール、クリム=タタール、カラカルパク、ノガイなどといったキプチャク草原の諸民族に伝えられている 。
ところで、ムルンは「クリムの40人の勇士」以外にも、様々な叙事詩を語ることができた。彼自身の述べるところによると、それは以下の通りである。
1 「40人の勇士」
2 トゥルクメンの「コログル」
3 「アラブのラムズ皇帝、ウスラウ皇帝」
4 かつてマングスタウにあった「7つのくに」について
5 カザフ(アダイ )がマングスタウに住みついたことについて
6 マングスタウ住民の帝政植民地政策にたいする不満や
納税拒絶、農民反乱
7 アダイのアブル以降の著名なアクン、ヌルム=シュルシュグルウル、
アクタン=ケレイウル、カシャガン=クルジュマンウルについて
この中には、「コログル」や「オグズ」「クルンシャク=バトゥル」、「ラムズ皇帝とウスラウ皇帝」など、リストに列挙されてはいるものの、古文書館に残されていない作品がいくつもある。その理由として、ムルンが高齢であることに気を遣った研究者が書き取りを躊躇したため、採録されなかったとの指摘がなされている 。
2 幼少時代
「ムルン=ジュラウ」とは諢名であり、彼の本名はティレゲンといった。ムルンとはカザフ語で「鼻」を意味する。彼がムルンと呼ばれるようになった由来について、彼の息子ダウィトバイや親戚のイサ=アディルハノフは、「(ムルンは)薄い先の尖った髭で痩せて背が高く、浅黒い大鼻の人物であったため、彼の兄嫁が「トゥムスク(動物の鼻面)」と呼んでいた。そのため人々は彼をムルンと呼ぶようになった」と言っている 。
イサによれば、ムルンの曾祖父クルカラにはアイグルとダングルという二人の子供がいた。アイグルはムルンの祖父にあたる。
ムルンの来歴については、もっぱら彼自身が語った3つの伝記によって知ることができるが 、これらはそれぞれ、細部において相違点が見られるため、彼の近親者の情報なども加味して、検討する必要がある。ムルンの父の名前については、1942年および1949年の伝記によればセンギルバイ、1947年の伝記ではセンギルベクと異なる二つの説がある。しかし、ムルンの墓の墓標に「ムルン=センギルベクウル」と書かれていることやムルンの息子ダウィトバイ=ムルノフが「父が1942年にアルマトゥに行ったときのパスポートにはセンギルバエフと書かれているため、センギルバエフと言われているが、父の本名はセンギルベクである。墓には本名が書かれている」と述べていることから、センギルベクが正しいと思われる。なお、センギルベクの子供たちには、ティレゲン(ムルン)の他に、彼の兄弟トレゲン、ティレウリがいる。
ムルンはマングスタウ半島のボザシュ半島に生まれ育った。彼の出生地についても、伝記によってそれぞれ異なり、様々な説がある。1949年の伝記には「カラトベのコングルオルパという地で生まれた」とある。しかし、1947年の伝記にはボザシュのイトケルディという地に生まれたとあり、また32歳の時にヌルム=ジュラウに「出生地はボザシュという半島のイトケルディ川の上流である」と語っていることから、ボザシュ半島イトケルディ川流域に生まれたものと思われる。
彼の生年についても、伝記には異なる情報が記されており、1947年の自伝では1859年の誕生と、1949年の伝記では1860年1月15日誕生となっている。なお、彼の墓誌には、ムルンが1859年に生まれ、1954年8月29日に逝去した、と記されている。
このように彼自身による3つの伝記には異なる情報が記されているのだが、これらを総合的に考えると、ムルンはセンギルベクなる人物の息子として、マングスタウのボザシュ半島で1859年頃に生まれたと見なしてよいだろう。
さて、ムルンの祖父アイグルや父センギルベク、兄トレゲンなど彼の家族はみな生涯宝石職人に従事していたため 、ムルンも幼少から宝石などの美術に馴染んでいた。宝石職人との一家に生まれ育ち、自身もまたこの職業を志したムルンは、一体どのように詩人としての頭角を表すようになったのであろうか。
彼は、宝石をはじめとする芸術一般に興味があったが、言語芸術にはとくに強い関心があった。彼がこのような言語芸術に熱中するようになった最初のきっかけは母カルドゥコズの存在であった。彼女は口承による物語や伝説、歌、叙事詩などを豊富に知っていた。
ムルンは父の仕事を手伝い、宝石に関する技芸を学びながら、古くから伝わる伝統的な叙事詩を著名なアクンやジュラウから聞いて、叙事詩語りになることを強く望むようになった。しかし、それは父の反対によって叶わなかった。
1870年から1873年にかけて起こった、帝政ロシアに対するマングスタウの農民蜂起の混乱の中、ムルンの一家は、この半島からアラル海周辺、カラカルパク、ウズベク、トゥルクメンなどを転々とした。叙事詩語りを志す若い彼もかの地でウデルバイの子供マウリムベルディという叙事詩語りと一年ほど過ごした。カラカルパクの語り手カルズとともに5年間隣人として暮らし、カラサイ、カルム、ベギムなどの語り手たちとも接して叙事詩を学んだ。
3 師匠
このようにムルンは様々な語り手と接し、叙事詩を学んでいったのだが、その過程で、彼に大きな影響を与えた語り手がいる。それは、カシャガン=アクンとヌルム=ジュラウ、ムラト=アクンである。彼らは著名な語り手で、その名はすでに人々に知れ渡っていた。彼らはムルンに「クリムの40人の勇士」やトゥルクメンの英雄叙事詩「コログル=バトゥル」などを教え、彼の師匠ともいえる存在であった。
彼が、長く師事したカシャガン=アクンは、カザフの即興詩人で、本名をカシャガン=クルジュマンウル(1841-1929)といった。彼は、現在のトルクメニスタン、ダシュハウズ近郊に生まれ、マングスタウのクルクケズに没した。彼は、幼い頃に孤児となり、15-16歳のときに兄サルセンバイ一家とともにアトゥラウ地方に移った。詩は非常にすぐれた語り手であったため、幼少からすでにアクンと呼ばれていた。彼は、マングスタウ半島、ホラズム地方やエディル川、ジャユク川、ジェム川、サグズ川などの流域に滞在し、カザフの著名なキュイ奏者クルマンガズや才能豊かな語り手ヌルム、アクタン、ムラト、ジャシルケン、カシュクンバイなどの優秀な人物たちと出会い、頭角を現した。彼は、主に「クリムの40人の勇士」を生涯にわたって語り広めた。ムルンは、カシャガンに、21歳から25歳にかけておよそ5年間師事した。カシャガンから、「コブランドゥ=バトゥル」「トレハン=バトゥル」「コクシェ=バトゥル」とその息子「コサイ=バトゥル」や「コログル」など14のノガイ大系の作品を学び、それらを改良しつつ、人々の前で何日もかけて表現力豊かに語ったという。
また、ムルンがさらに尊敬し、慕った「師匠」にヌルム=ジュラウ(1831-1908)がいた。ヌルムは、カザフの著名な即興詩人で、カザフの詩人の主要流派の中心的存在であった。本名はヌルム=シュルシュグルウル。父シュルシュグルとともに、一家はマングスタウのカウンドゥ、コルガンバイ、オゼン、タラクなどに居住した。彼はさらに、中央アジア各地、アトゥラウ、アクトベなどを回って、語りの技術を磨いた。彼の作品は、アトゥラウ地方に広がっていたスプラ、アサンカイグ、ドスパンベト、シャルゲズなど14-16世紀のジュラウたち(後述)の作品やその時代を謡った英雄叙事詩であった。ヌルムはアブルやカルニヤズに教わり、彼らの語りを真似ながら腕を磨いた 。
ヌルム=ジュラウは、当時もっとも秀でた語り手の一人であったため、ムルンは彼に付いて、彼のレパートリーの作品や語りの技術を学ぼうと考えていた。そしてムルンは、20歳ころにヌルムに師事し、彼に付いて遍歴しながら、多くの叙事詩を学んでいる。のちに彼は、ヌルムと出会ったときのことを回想し、そのときの様子を語っている。それによると、ムルンは馬に乗って、数日かけてサグズ川流域にあるトプラクシャシュティという場所に赴き、ヌルムと出会った。そのとき彼はヌルムに、
あなたが我が名を尋ねるならば、
センギルベクウル=ムルンである。
と自己紹介している。
そして、ヌルムはムルンにたいし、「おまえは叙事詩をたいそう気に入っておるようだな」といった。ムルンはヌルムをずっと探しており、これ以前にもたくさんのアクンたちに会ったが、彼らの誰もが自分の心を満たしてはくれなかったと、ヌルムをこう歌って慕った。
私を越えるものは誰もいないため、
あなたのもとへ行こうと考えた
クルムの豊かな土地から、
言葉を尋ねてものにしようと
ムルンの懇願にたいして、ヌルムは「おまえは、私から詩を学ぼうと望んでいるのだな。ならば私の弟子になるがよい。おまえに詩の意味を教えてやろう」と答え、弟子入りを認めた。
ヌルムからは、カシャガン同様、ノガイ大系の作品を主に教わった。彼からは「アンシュバイの子孫」に関する一連の作品や「オグズ」「クルンシャク=バトゥル」などの叙事詩を学んだ。ムルンは、叙事詩がいかに長かろうとも、1・2度口に出すだけで、それを習得しまうほど才能ある人物で、気に入った叙事詩を節をつけて繰り返し謡ったといわれるが 、彼はヌルムとともに祝宴や集いなどに参加し、人々と交わり、さらに叙事詩語りの技術を磨いたのであった。
ところで、ムルンが師と仰いだカシャガンもヌルムもカザフの語り手の主要流派のひとつに属する語り手であった。この一派は、アブル=アクンを中心としたグループで、マングスタウやカラカルパク、ホラズムなどの地域を活動の中心とし、伝説的語り手スプラ=ジュラウの流れを引き継いでいるといわれる 。この流派をはじめたアブル=アクンは、本名をアブル=ティレウウル(1777-1864)といい、マングスタウのボザシュに生まれ、そこで死去した。貧しい農民の生まれで、彼の父ティレウも祖父オテムベトも貧農であった。彼は、その名がカラカルパクやトゥルクメン、さらにはイランやアフガニスタンに住むカザフ人たちにも知られるようになるほど、よく知られた語り手であった。アブルはアトゥラウやカラカルパク、トゥルクメンなどを巡り、優れた語り手たちと知り合った。たとえば、マングスタウに住んでいたトゥルクメン詩人のハタムやカザフのエセト、マハンベト、シェルニヤズ、エセンバクなどの著名なアクンたちとも知りあい、友人となっている。
このアブル=アクンのもとで、ヌルムやカシャガン、カルニヤズ、カラサイ、ベギムなど数多くの弟子が育ち、名の知れた語り手となったのである。たとえば、ヌルムは彼に5年間付いて学び、才能を開花させた。ヌルムはアブルから学んだ「40人の勇士」などの英雄叙事詩を謡い、カシャガンやアクタン、ムルンなどのジュラウたちに伝えたのであった。また、カシャガンもアブルやヌルム、マラバイ、ムラトなどの有名な語り手から学んだ「クリムの40人の勇士」をムルンやシャディマン、ジャンジギト、ムサなどの語り手たちに引き継いだ。
このように、叙事詩は師匠から弟子へ、そしてまたその弟子へと語り継がれていった。多くの場合、その系譜はそれぞれの流派を形作り、発展・衰退を繰り返してきたのである。ムルンの場合、アブルに連なるヌルムやカシャガンなどの一派から主にノガイ大系の作品を学んだ。ノガイ大系についていえば、ムルンはアブルの派の強い影響を受けていると言えるのである。
しかしながら、ムルンに叙事詩を教えたジュラウやアクンは、アブルの流れを汲むヌルムやカシャガンだけではなかった。著名な語り手のムラト=モンケウル(1843-1906)もムルンの師匠であった。ムラト=アクンは、ショルタンバイやドゥラトなどとともにカザフ文学史上「ザル=ザマン(悲しみの時代)」といわれるグループをなす、19世紀後半のもっとも著名な語り手の一人であった。
ムラトをムルンは何ヶ月もかけて探して、サグズ川岸のアシュコルという場所で出会った。ムルンは彼を「私は叙事詩「エディゲ」をムラトから何度も聞いた。ムラトは私が知っているアクンの中でもっとも力あるアクンであった。」と回想している。ムラトと数ヶ月ともに過ごしたムルンは、彼から「タマ=バトゥル」「タナ=バトゥル」「ナリク=バトゥル」「ショラ=バトゥル」「クルンシャク=バトゥル」「ジャンブルシュ=バトゥル」など、カラドン=バトゥルとその子孫の叙事詩を中心とする14のノガイ大系の作品を学んだのである 。
さらにムルンは、アリム=ウキ の一派であるジャスキレンとジェム川にあるカズベク、カンドゥアラルという場所で出会い、ともに過ごしたことがある。彼だけでなく、ヌルムやカルニヤズ、アクタンなどの彼の師匠もウキの後継者たちとは緊密な関係を保ち、親交を深めた。ムルンは、「クリムの40人の勇士」のうちいくつかの作品を、ウキの一派からも学んでいたのである 。
また、ウラル地方のジエムベト=ジュラウの子孫のスギルやクバラの一派、アラシャのカイルル、ジュムルバイなどの一派、さらにタブン族のマラバイにはじまるコシェレク、ジベクなどの一派も、アブルの派やウキの派と同様に、彼の模範となり影響を及ぼした。
ムルンはヌルムやカシャガンなど、アブルの流派に属するとされる語り手に師事し、多くの叙事詩を学んだのであるが、同時に他の様々な流派とも親交を深め、彼らからも多くを学んだ。このように、語り手が様々な師に付いて、他の多くの流派の語り手たちと交友を保ちながら、自身を鍛錬したことは、ムルンに限らず、珍しいことではなく、むしろしばしば行われていたことであった。とくに、ムルンたちが活躍したマングスタウやアトゥラウといった地方には、古くから特徴的な詩の伝統が根付いていた。ムルンの時代のどの流派も、その伝統を受け継いでいたと考えられるのである。