4 伝統
上述のように、ノガイ大系の語り手には、ムルンの師匠であるヌルムやカシャガン、ムラトなど、マングスタウやアトゥラウなどカザフ西部の出身、あるいはこれらの地域を放浪した人物がきわめて多い。これらの地域、すなわちノガイ大系の舞台にもなっているエディル川、ジャユク川を中心としたキプチャク草原には、独特ともいえる詩・語りの伝統があった。カザフ文学史の書籍を紐解くと、カザフ詩の伝統の礎を築いた詩人として、スプラ=ジュラウやアサン=カイグ、カズトゥガン=ジュラウ、ドスパンベト=ジュラウ、シャルキイズ(シャルゲズ)=ジュラウなど、14-16世紀の詩人が挙げられているが、彼らはみな、キプチャク草原の出身あるいはこの地に暮らした詩人である。ここで、キプチャク草原に根付いていた詩の伝統を創生していた、これらの詩人たちについて簡単に見てみよう。
スプラ=ジュラウは、「キプチャク=ハン国(ジョチ=ウルス)」のハン、トクタミシュ の治世の詩人であったといわれる。マングスタウやジャユク川周辺、サライチュクに居住していたといわれる。エディル川からドン川にいたるクバン地方の広範な草原地域、アラル海・カスピ海沿岸、クリムとカフカースの間に放牧していた人々にたいへんよく知られた詩人である。180歳まで生きたといわれる「伝説的詩人」である。
次に、アサン=カイグ(1360年代にエディル川流域に生まれたと考えられる伝説的詩人である。彼は、いわゆる「キプチャク=ハン国」のウルグ=ムハメド=ハンに仕えるビーのひとりであったと言われる。1450年代に、アブルハイルと戦うジャニベクやケレイの側についたとされる。カザフ草原、ウルタウにて没したと伝えられている。
カズトゥガン=ジュラウは、1420-30年代にエディル川流域に生まれた「カザフ文学創始者の一人」とされる人物で、エディル支流アクトゥバ川やボザン川を放牧していた集団の指導者で勇士であったと伝えられている 。
また、ドスパンベト=ジュラウは、1490年代にアゾフに生まれ、キプチャク草原に精通するとともに、イスタンブルやバフチェサライを旅して回ったといわれる人物で、1523年アストラハンに没した 。
そして、シャルキイズ(シャルゲズ)=ジュラウは、1465年ジャユク川東岸に生まれ、キプチャク草原を放牧していたが、1490年代にノガイ=オルダのビー、テミルに仕え、クリムやカフカス、ドン川流域を訪ねた。ノガイ=オルダの内紛、すなわちユスフとイスマイルとの争いではユスフの側につき、1560年ころに死去したと考えられている 。
これらの詩人については、ノガイ大系が伝わる地域では、偉大な詩人たちとしてよく知られる存在であるが、スプラ=ジュラウはとくに、伝説の詩人として有名である。スプラ自身、「エディゲ」や「エル=タルグン」など様々なノガイ大系の作品中に登場するが、ムルンや同世代の詩人たちが受け継いだ英雄叙事詩の伝統は、このスプラ=ジュラウから広まったと見なされている 。また、アサン=カイグも「クリムの40人の勇士」の「アサンカイグと彼の弟トガン、彼の息子アバト」に謡われたり、数々の伝説(アングズ)によって、その生涯が伝えられたりしているなど、キプチャク草原の偉大な伝説的詩人と考えられている。
彼らは、エディル川やジャユク川を中心とするキプチャク草原を謡い、この地方を活動の場としていたのであるが、このことは、彼らの作品にも反映されている。
エディルとジャユクの
ある場所で夏には夏営するならば、
ある場所で冬には冬営するならば、
ああ、汝は腕を浸すであろう
金と銀に!
(アサン=カイグ)
このようにノガイ大系、とりわけ「40人の勇士」は、スプラやアサン=カイグなどに端を発する伝統に基づいて、何世紀にもわたって受け継がれてきた作品で、様々な時代にこれらの作品を謡う優秀な語り手が、キプチャク草原、カザフ西部で輩出されたのである。現在、ジュラウという言葉が、主にアクトベやクズルオルダ、カザフスタン西部の諸地域で使われていることも、これを裏付けている 。ノガイ大系をはじめとする英雄叙事詩が小ジュズを中心とするカザフスタン西部で多く語り継がれていることやたくさんの語り手がこの地の出身であることは、スプラ以降のキプチャク草原の詩の伝統と無関係なことではないだろう。ことわざに
鞭を与えて、中ジュズを裁きに向かわせよ、
桶を与えて、大ジュズを家畜に向かわせよ、
槍を与えて、小ジュズを敵に向かわせよ。
といわれるように、小ジュズはとくにその勇武さがよく知られており、こうした環境も英雄叙事詩の発展に寄与したのだろう。数多くの英雄叙事詩を発展させながら、ジュラウの伝統は何世紀にもわたって受け継がれていったのである。この伝統は様々な時代にすぐれた語り手を輩出した。ノガイ大系に謡われる時代とこれらの詩人の活躍した時期とが重なることは、この伝統の創出に関係あるものと考えられる。このようにムルンの語りは、偉大な語り手たちが長年にわたって熟成してきた伝統の上に成り立っていたのである。
5 活動
さて、ムルンはこのように多くの語り手から叙事詩を学び、それらを語りながら、故郷マングスタウやアトゥラウなど現在のカザフスタン西部のみならず、隣国であるカラカルパクの地、さらには現在のウズベキスタンやトルクメニスタンの様々な地方を巡った。1899年までに彼は、ヒヴァ、ブハラ、ホジェイリ、コングラト、テジェント、古ウルゲンチ、ノキスなど30以上の町を訪れ、熟練された語りを聞かせ、その名声を轟かせていたのである。さらに彼はこれらの土地で、キプチャク草原に伝えられていた「40人の勇士」を中心とする叙事詩を語り広める一方で、現地に伝わる、近隣民族の英雄叙事詩や物語なども学び、貪欲に吸収していった。英雄叙事詩「コログリ」や「アラブのラムズ皇帝、ウスラウ皇帝についての叙事詩」などは、ウズベクやトゥルクメンの語り手から学びとった作品であると考えられる。
さて、それではムルンの語りは、実際にどのように行われたのであろうか。
ムルンは常に同じような調子で謡うわけではなかったようである。午前あるいは日中にはあまり気乗りせず、やる気のない様子で、かなり省略して語っていた。ところが、夕方に語るときはそうではなかった。その大きな理由は、夕方にはたくさんの聴衆が集まるからであった。彼らは、ただ叙事詩を聞くだけでなく、ときには拍手喝采し、ときには合いの手を入れながら、語りに加わった。すると、ムルンは感情が高まり、悲哀をこめ、美しく芸術的な技法で語った。しかし夕刻であっても、そのような盛り上がった雰囲気でないと気乗りせず、頭痛などを言い訳にし、記憶力の悪さを訴え、ときには語ることを拒否することもあった。
なぜ昼間には「40人の勇士」を夜のようには歌えないのかという質問に、ムルンは、英雄叙事詩はもともと夜にしか謡われなかったからだと答えている。多くの聴衆が集まることができたのは、仕事のない夕方か休日だけだったからである 。
ところで、ムルンは叙事詩を語るにとどまらず、アイトゥス(詩の掛け合いの競技)にも参加していたようである。その詳しい状況は知られていないが、彼の言葉によれば、1895年にヌクスのカラカルパク人のカラという郷でその土地の娘マナルとアイトゥスを行ったことがあるという。彼の能力がうかがえる興味深いエピソードであるので取り上げてみよう。
このアイトゥスでは、まずマナルが語り始めたが、この土地のアクン、コラズがそこに加わってきた。コラズは自分の地方のハンやバイを称賛する詩を謡ったが、ムルンの番になり、彼が語り始めると、それまで自信過剰でいたコラズ=アクンはアイトゥスの途中で逃げ去ってしまったという。このときムルンが故郷や勇士について謡った詩は、やがて人々によく知られるようになった。その詩とは次のようなものである。
みなのものよ、私は語ろう、
アダイの広大な故郷を、
この故郷に生きていた勇士たちを。
バルワニヤズが バルテケが
その他の我らの勇士たちがいるのだ。
このようにムルン=ジュラウは、数多くの英雄叙事詩を美しく謡うだけでなく、アイトゥスにおいても即興で相手を威圧するほどの才能にあふれていたのである。
さて、このように叙事詩語りとして、各地にその名声が轟いたムルンであったが、40歳以降は専門的なアクンであることを止めて、各地を巡ることもなくなり、1899年には滞在していたホジェイリから故郷マングスタウへ引っ越し、以後、父のように職人として本来の仕事に専念した。これは、彼の子供が亡くなったという悲しみが影響している。この悲しみは彼にとって非常につらいものであったため、叙事詩を語り、人々の間を巡って回ることに意欲がなくなったのであった。彼は振り返る。「この子供たちが死んでから、落ち着きがなくなり、叙事詩を謡うことが楽しくなくなった。それにこのころは忘れっぽくなり、叙事詩を以前のように語れなくなった。このころから、叙事詩は特別に招かれたり、集いがあったりする場合にだけ語るようにしていた。人々の前に出るときは、店を広げて、宝石職の仕事をおこなったものだった。この仕事を42年もやっているんでね。」
そしてこれ以後、数十年ものあいだ、彼が叙事詩を語ることはほとんどなかったのである。
6 採録
叙事詩を語ることを止めてしまったムルンであったが、1942年に当時のカザフ共和国の首都アルマアタへ招聘されることとなった。彼から「クリムの40人の勇士」を書き取り、記録することが決定されたためである。
そのころ、中央アジアの英雄叙事詩はたいへんもてはやされていた。当時は「様々なヴァリアントが採集され、歴史的・社会的観点から分析された。ダスタンには過去の人々の労働や崇高な思想、生活や歴史、目標や美的感覚のモチーフがあると強調されていた 」のである。たとえば、ウズベクやカザフなどに伝わる英雄叙事詩「アルパミシュ=バトゥル」は1930年代から40年代にかけて非常に賞賛され、「世界でもっとも完全な叙事詩のひとつ」で「外国の侵略者にたいする中央アジア諸国の自由の詩」「労働大衆のイデオロギーをうたう確固とした民衆の運動」とされた 。また、クルグズに伝わる英雄叙事詩「マナス」も高く評価され、「叙事詩「マナス」は世界の叙事詩の中でもっとも長い作品であるが、内容の豊かさにおいても、卓越した作詞法によって「イーリアス」や「オデュセイア」などの叙事詩作品と同様の水準の価値がある。 」と賞賛されたのである。
それでは、なぜこのように高く評価され、また称賛されたのであろうか。その背景には、ソ連とドイツとの激しい戦争がある。ドイツとの激戦の中にあった当時、英雄叙事詩の主なテーマ「異民族の侵略からの「祖国」の防衛」が戦意高揚や愛国教育に大きく役立つものと考えられた。ドイツはアルパミシュの敵カルマクやマナスの敵キタイに準えられたのであった。
こうした風潮の中、「アルパミシュ」や「マナス」などと同様の文脈で、「クリムの40人の勇士」をムルン=ジュラウから書き取る作業が行われたのである。
このようにきわめて政治的色彩の濃い事情によって、「クリムの40人の勇士」の採録作業は行われたのであるが、この作業によってムルンの語る作品の多くが採録され、現在でさえもそれらが公刊され、人々に馴染んでいることを考えると、この時の作業の重要性と意義深さは特筆すべきものがあろう。
さて、この作業を行う上で、ムルン=ジュラウに白羽の矢が立ったのは、前年の1941年に派遣されたマングスタウ調査隊によって、彼の卓越した才能が見出されていたからであった。この調査で、メンバーであったアサユン=ハンゲルディンが、ムルンから「クリムの40人の勇士」の一部を書き取ったのが、彼の語りを記録した最初の例である。このときハンゲルディンが「40人の勇士」の一部を記したのは、この作品を語る人物の存在を報告する際の「証拠」にするためだったとされている 。このとき採録された彼の作品が秀逸であることと彼が高齢であることから、彼をアルマアタに呼び、記録に残すことが決められたのであった。
この貴重な、そして困難な作業はどのように行われたのだろうか。一連の作業は、科学アカデミー歴史・文学・言語研究所のサウランバエフ所長とウスマイロフ主任によって指揮され、アクン、マリヤム=ハキムジャノヴァと採集者ボズタイ=ジャクプバエフ、ムルンの息子ダウィトバイ(ダウィト)=ムルノフ、速記者マリヤム=イサエヴァが作業に加わった。叙事詩を書き取ったマリヤム=イサエヴァは、その時の状況について、このように回顧している。
「1942年の秋でした。私は、研究所のサウランバエフ所長に呼ばれ、ムルン=ジュラウから「クリムの40人の勇士」を書き取るよう言われました。本来ならレコードに録音しなくてはいけなかったのですが、時間がとてもかかりそうだったので、速記で記録しようと決めたのです。作業は容易ではありませんでした。私たちがいた建物は寒かった上に、きちんとした紙もなかったのです。そんな厳しい状況でも作業しなくてはなりませんでした。そして一日中、書き取りの作業をしました。夕方になると、日中に書き取った速記を、灯油ランプのもとで夜通し、アラビア文字に書き写したのでした。そこにはタイプライターもなかったのです。でも、価値ある遺産を書き取るという大切な義務であると、私は理解したのでした。 」
ムルンの語りの採録は録音されることなく、すべて速記によって書き取られたもので、決して恵まれたとはいえない環境で作業は続けられたのであった。しかしながら、その時の努力は、数々の書籍 という形で実り、彼の残した作品は現在でも広く愛されているのである。
おわりに
ムルン=ジュラウはアルマアタから戻ると、宝石職にはさほど専念しないようになった。その一方で、集いや宴の席などで「40人の勇士」の一節を吟じるなど、再び叙事詩を語るようになった。そして、この叙事詩の優れた語り手は一月ほど病で床に臥した後、生まれ育ったマングスタウ半島のフォルト=シェフチェンコで95歳の生涯を閉じた。1954年のことであった。彼の遺体は、マングスタウの著名な人物が多く埋葬されているセイセム=アタの聖廟 に埋葬された。
ムルンの死後も、彼が語り継いだ叙事詩の伝統が途絶えることはなかった。シャディマンやジャン=ジギット、アルクワトとウザクバイ、クマル、ナザルベク、サドゥ、スラウバイなどのアクンやジュラウが彼を模範とし、その伝統を引き継いだ語り手として知られるようになった。そして、この伝統はカブラシュやブルキトバイといった語り手によって現在まで伝えているのである 。
カザフには「ノガイ大系」の多くの作品が伝えられている。しかしその多くが、マングスタウやアトゥラウなど、現在のカザフスタン西部の語り手によって伝え広められてきたものである。ムルン=ジュラウがこの地の様々な語り手からノガイ大系を学ぶことができたのは、伝説的詩人スプラ=ジュラウやアサン=カイグなどに遡れる伝統がここに根付き、発展していたからであろう。
またムルンのように、カラカルパクやホラズム、トゥルクメンなどの多くの語り手と密接な関係を持ち、これらの地域で活躍する者も少なくなかった。このことは、カザフの叙事詩が周辺地域との強いつながりの上に成り立っていたこと、正確には、小ジュズの広がるカザフスタン西部とホラズム地方に共有される「詩の伝統」が存在していたことを示しているのである。カザフの叙事詩の特徴を考える際には、この地域のこのような独自性を考慮する必要があることが、語り手の「伝統」や「系譜」といった側面からも指摘されるのである。
参考資料
??アンシュバイとその子孫たち
(1)アンシュバイ=バトゥル
(2)その息子パルパリヤ
(3)その息子クットゥクヤ
(4)その息子エディゲ
(5)その息子ヌラドゥン
(7)その息子オラクとママイ
(8)オラクの息子カラサイとカズ
??カラドンとその子孫たち
(9)カラドン=バトゥル
(10)その息子ジュバヌシュ
(11)その息子スイニシュ
(12)その息子エル=ベギス
(13)その息子テギスとコギス
(14)その息子タマ=バトゥル
(15)その息子タナ=バトゥル
(16)その息子ナリク=ハン
(17)その息子ショラ=バトゥル
? (18)コブランドゥ=バトゥル
(19)アサンカイグと彼の弟トガン、彼の息子アバト
(20)カルガボイルとカズトガン
(21)コクシェ=バトゥル
(22)その息子エル=コサイ
(23)アクジョナスの息子ケネス
(24)その息子ジャンバイ=バトゥル
(25)マナシュの息子トゥヤクバイ
(26)ジャンブルシュの息子テラグス
(27)アイサ=バトゥルとその息子アフメト
(28)アラウ=バトゥル
(29)アメト=バトゥル
(30)シュンタスの息子トゥレハン
(31)スルタンケリム
(32)その息子シュルマン=バトゥル
(33)カルト=コジャク
(34)クルンシャク
(35)テミルハン=バトゥル
(36)アディル=バトゥル
(Jirmunskij V. M. Tyurkskij geroiheskiy epos. Leningrad, 1974. Manghystau Enciklopediq. Almaty, 1997. Batyrlar jyry 5. Almaty, 1989. Batyrlar jyry 6. Almaty, 1990.などを参考に作成。)
1854 ロシア、ヴェルヌィ要塞(現アルマトゥ)を築く
1859 ティレゲン(後のムルン)マングスタウ、ボザシュに生まれる。
1865 ロシア、タシュケントを占領
1870-73頃 家族らとヒヴァ周辺、カラカルパク、ウズベク、トゥルクメン人らの住む地域に移る
1873 ロシア、ヒヴァを占領
1875頃 叙事詩を覚え始める
1880 故郷ボザシュに戻る
1880-85頃 著名な語り手カシャガンに師事する
1897-99 ホジェンドに暮らす
1885-1899頃 ヒヴァ、ブハラ、コングラト、ノキスなどを訪ねる
1900 相次いで子供たちを亡くし、フォルト=シェフチェンコに住む。
以後、宝石業に専念
1908 妻ダメトケンを亡くす
1916 中央アジアで大反乱、起こる
1917 ロシア十月革命
1924 中央アジアの民族的境界が画定される
1930頃 強制定住化政策により、カザフで大飢饉
1940 娘トゥルランらと同居。孫ダウィトバイを養子に迎える
1941 独ソ戦開戦
1942 アルマトゥへ。叙事詩の書き取る作業に携わる
1954 死去。マングスタウのセイセム=アタ廟に葬られる
幼少時代は家業の宝石加工業に従事する