中央アジアに住む主要なテュルク系民族のひとつ。自称・他称ともにカラカルパクで、その意は「黒い帽子」。かれらの大部分は、ウズベキスタン共和国に包まれるカラカルパクスタン共和国に居住するが、ブハラ州、フェルガナ州、ホラズム州、サマルカンド州などのウズベキスタン共和国各州やトゥルクメニスタン共和国ダシュハウズ州、カザフスタン共和国やクルグズスタンにも広がる。またアフガニスタンにも存在するといわれる。現在、世界には40万人以上のカラカルパク人がいる。
カラカルパク人はテュルク系のカラカルパク語を母語としている。カラカルパク語は北部方言と南部方言との二つの方言に分けられ、北部方言がカラカルパク標準語となっている。カラカルパク語はカザフ語やノガイ語などに類似するが、南部方言はウズベク語やトルクメン語に近い特徴を有する。現在、ほとんどのカラカルパク人はカラカルパク語とウズベク語のバイリンガルで、同時にその多くがロシア語を解する。
カラカルパクが、文献史料で最初に言及されたのは1598年のことであるが、この集団は16世紀にはノガイ=オルダを構成していたものと考えられる。カラカルパク人の口頭伝承には、ヴォルガ川右岸・アストラハンとカザンの間の土地がかれらの故郷と伝えるものもあるが、カラカルパク人はシル川下流域を中心に発展してきたと考えるのが妥当であろう。
カラカルパク人は、16世紀末以降シル川下中流域のカザフの遊牧民と関係を深め、カザフのタウケ=ハン(1680-1718)に臣従を誓ったとされる。18世紀前半に激化したジュンガルの中央アジア侵攻によって、カラカルパクの一部はシル川を上ってタシュケント方面に逃週した。その結果、シル川上流域に広がった「上部カラカルパク」とシル川下流域でカザフの小ジュズに従った「下部カラカルパク」とに二分された。カラカルパク人は、18世紀後半にはシル川流域からシル川西岸に注ぐジャンガ川流域に移動したが、ヒヴァ=ハン国の攻撃をしばしば受け、ヒヴァ=ハンのムハンマド=ラヒームによって、1811年にアム川下流域に移住させられた。以後、かれらは現在のカラカルパクスタン共和国の領域にあたるこの地に居住するようになる。
カラカルパク人は馬や羊、らくだなどを遊牧によって飼育するとともに、アム川を利用した灌漑農耕やアラル海での漁労に従事する半遊牧生活を行ってきた。遊牧に際して、かれらはカラ=ウイといわれる組立・移動に簡便な天幕に居住した。現在ではカラカルパク人の多くが、ウズベキスタンの主要産業である農業に従事しており、とりわけ主要農産物の綿花の栽培を行っているが、牧畜に従事するものもいる。
カラカルパク人はイスラーム教スンナ派を信仰している。かれらの日常生活はラマダン(断食)やナマーズ(礼拝)などイスラームに大きく規定されているが、誕生、結婚、葬儀などの儀式にイスラーム受容以前の伝統・習慣を見ることができる。また毎年3月20日ころに行われるナウルズといわれる春祭りは、イラン系の祝祭に由来する重要な年中行事のひとつである。
カラカルパクには他のテュルク系民族と同様にいくつかの下位集団が存在する。カラカルパクに伝承されるシェジレ(系譜)によると、カラカルパクは、クプチャク、クタイ、マングト、ケネゲスなど14の集団からなるアルス(部族連合)とヒヴァ=ハン国の中心的集団であったコングラトからなる。
カラカルパク人は叙事詩や昔話、伝説、うた、ことわざなど様々なジャンルの口承文芸を発達させてきた。なかでも叙事詩は多大な人気を博し、『アルパムス』や『コブラン』、『40人の娘』、『エディゲ』などがカラカルパクの代表的作品としてよく知られている。詩の伝統が豊かなカラカルパク人はジエン=アマンルクウル、クンホジャ=イブライムウルなど著名な詩人を輩出してきた。また伝統的なうたもカラカルパク人の間に深く根付いており、現在でも婚礼には「トイ=バスラウ」や「ヤル=ヤル」、葬儀には「ジョクラウ」といわれるジャンルのうたが 歌われている。これらの口承文芸をはじめ、風習や衣類・装身具など、カラカルパクの民俗はカザフやノガイのそれと酷似している。
カラカルパク人の大部分が居住するカラカルパクスタン共和国は、国民投票によってウズベキスタンからの独立する権利も認められているが、現在のところウズベキスタンからの独立の動きは皆無といってよく、カラカルパク人はウズベキスタン共和国の枠内での発展を目指している。カラカルパク人と隣接する諸民族、すなわちウズベク人やタジク人、カザフ人、ロシア人などとの関係は良好であり、これまでのところカラカルパク人と他の民族との目立った対立や民族問題は生じていない。