叙事詩では,エル=タルグン自身については,故郷で人を殺したということ以外,ほとんど明らかにされてはいない。「ラドロフ版」では,エル=タルグンは冒頭,「キルギスのバトゥル」として登場する。しかし,1925年までロシア・欧米で「カザフ」の意味で使われていた誤称の「キルギス」が用いられているため,「キルギス」という語はラドロフによって補足・加筆されたものと考えられる。他の異文では「キルギス」の部分が削除されている。
なお,彼の出生や成長など他の多くの英雄叙事詩に見られるモチーフを欠いている点は,この作品の際立った特徴である。
『エル=タルグン』とクリム=ハン国
叙事詩『エル=タルグン』の最初の舞台,「クルム国」はクリム=ハン国を指している。なぜなら,叙事詩は「当時クルム(クリム)には4万(40千)のモスクがあり,40人のハンがいた」と詩い,「クルム国」にイスラーム教が広く浸透していたことを表わしているが,クルム,すなわちクリミア半島がイスラーム化されたのはクリム=ハン国の時代だからである。
クリム=ハン国のハン位には創始者ハジ=ギレイの後裔が代々就き,統治していたが,その権力はベイやミルザなどの支配層によって大きく制限されており,ハンは彼らとともに政策を決定せねばならなかった。叙事詩の「40人のハン」はこれらのベイやミルザを指すと考えてよいだろう。英雄叙事詩では「ハン」という言葉は単に支配者という意味で使われることがしばしばあるからである。
ちなみに40という数字はテュルク系諸民族の口承文芸に頻繁に現れる数字である。ハンの一人であるアクシャハンという人物については,実在した人物かどうかは不明である。英雄叙事詩の特徴からみて,おそらく架空の名称であろう。
さて,当時クリムが争っていた「10のオイマウト」と「9のトルガウト」とはどのような民族であったのだろうか。オイマウトについては具体的に何を指すかは不明であるが(16),トルガウトがトルグートであることは疑いないであろう。トルグートとはモンゴル系部族集団のオイラトを構成した部族の一つである。
トルグートは,1625年にはじまるオイラトの内乱によって,1630年頃にジュンガル盆地付近からヤイク(ウラル)河やヴォルガ河の流域に移住し,クリム人やノガイ人(後述)を圧迫した。現在,カスピ海沿岸にあるカルムィク=ハリムグ=タングチ共和国の中心民族であるカルムィク人は,このとき移ってきたトルグート人の子孫である。
カルムィクは,カザフをはじめ中央アジアのテュルク系諸民族のトルグートやジュンガルなどを含むオイラトにたいする呼称,カルマクに由来するといわれている。17世紀の旅行家エヴリヤ=チェレビーはトルグートについて,「カルマクははじめヴォルガ河のモスクワ国との国境付近に住んでいたが,のちにノガイ人を襲撃しながら,ヴォルガ河を渡り,キプチャク草原に広がって襲撃を行い,アゾフやクリムを荒廃させた(17)」と書いている。
実際,トルグートは1630年代以降,クリム=ハン国の保護下にあったノガイを襲撃し,1644年にはクリム=ハン国の勢力が残るヴォルガ河右岸でチェルケス人と戦い,北コーカサスのカバルダでノガイ・カバルダ軍を破るなど,ヴォルガ河を中心にさらに勢力を伸ばした。さらに1658年から1660年にかけても,カルマク(トルグート)はロシアの臣民としてクリムに対して行軍を行っている(18)。
このようにクリム=ハン国とカルマクは頻繁に干戈を交えており,叙事詩のクリム=ハン国に関する叙述は,17世紀前半のクリム=ハン国を背景にしていると考えられる。なおクリム=ハン国の敵である二人のハン,ブラライとオラライは架空の名称に違いない。二人の名は,カザフ語の「ブル(これ)」および「オル(あれ)」に由来するものと思われる。
『エル=タルグン』とノガイ
アクジュニスとともにクリム=ハン国を後にしたタルグンはヴォルガ河流域の「オルマンベトの10ノガイ」に向かう。「ノガイ」とはノガイ=オルダを指し,現在コーカサスに居住するノガイ人はこのノガイ=オルダの住民の子孫である。
ノガイ=オルダの起源は,1270年代に金帳のモンケ=テムル=ハンから封じられた,ヴォルガ河右岸のノガイ(19)の領地であるが,ノガイ=オルダは,実質的には,14世紀末から15世紀前半にかけて金帳の有力者であったエディゲと彼の息子ヌラッディンによって興された(20)。
エディゲはチンギス=ハンの血を引いていなかったため,ハン位には就けなかったが,キプチャク=ハン国の実質的な統治者であった。ハンの即位は彼の合意なしには承認されなかったほどであったという。
「10ノガイ」は「10の部族からなるノガイ=オルダ」の意味だが,ここではいくつかの部族からなる部族連合体であったことを表わしている(21)。事実,ノガイ=オルダはいくつかの部族からなる部族連合体であった。その主な部族は,マングト,コングラト,ナイマン,アルグン,カングル,アルシュン,クプシャク,ケンゲレス,カルルク,アラシュ,タマなどで,そのうち中心部族はマングトであった。
「ノガイ」や「ノガイ人」,「ノガイ=オルダ」といった用語が最初に文書に現われるのは16世紀はじめになってからで,ノガイ人自身は自らを「マングト」と称しており,彼等の周辺民族にもこの名称が知られていた(22) 。
ノガイ=オルダの領域はヴォルガ河とヤイク(ウラル)河周辺で,その中心地はサライシュクであった。タルグンが向かったエディル河とは,テュルク系諸民族によるヴォルガ河の古称で,アディルやイティルとも言った。『エル=タルグン』にもヴォルガ河流域にノガイのくにがあったことが描かれている。
ノガイ人は,東はウラル河左岸,北西はカザンまで,南西はアラル海およびカスピ海の北岸まで移動し,時にはマングスタウやホレズムにまで及ぶことがあった。15世紀中頃にはシル河流域中域まで至り,シル河流域の町と戦うなど隆盛を誇り,たとえば,エディゲの子孫ワカス=ビーは1446年にシル河中流のウズケント(トルキスタン市北西の町)を攻撃している(23)。
このようにノガイ=オルダはしばし興隆したが,カザンとアストラハンがロシアに征服された16世紀後半以降いくつかの集団に分裂し,ノガイの内部では支配権と牧草地のために常に争いが絶えなかった。分裂した集団のうち,大きなものは大ノガイと小ノガイである。大ノガイはイスマイル(Ismail,1563年没)に率いられてヴォルガ河左岸に,小ノガイはカジィ=ミルザ(1577年没)に率いられて,ヴォルガ河右岸,カラバルダ,アゾフ付近に広がっていた(24)。
タルグンとアクジュニスが身を寄せたハンザダ=ハンはシャガン川流域のカルマクと反目していたと詩われている。先述のようにカルマクとはオイラトのことで,ここではトルグートと同一と考えてよかろう。
17世紀前半,カルマクとノガイとの戦いはクリム=ハン国とカルマクとのそれよりも激しく過酷なものであった。カルマクは1630年のヴォルガ河畔への移住に先立ち,1613年にはすでに大ノガイを襲撃している。このため大ノガイはヴォルガ河を越河し,ヴォルガ河とドン河の間に避難せざるを得なかった。ノガイとカルマクはヴォルガ河周辺で対立しており,カルマクはノガイをしばしばヴォルガ河右岸へ追いやったのである(25)。
叙事詩にはハンザダと対立していたカルマクがヴォルガ河支流のシャガン川に滞在していたことが詩われ,カルマクがヴォルガ流域に展開していたという史実を伝えている。シャガン川については,ヴォルガ河の支流という以外には詳らかではない。
しかし「シャガン」がモンゴル語の「ツァガンcagan(白い)」を意味すると思われること(26),「ツァガンヌルcagan nur」や「ツァガン アマンcagan aman」など「ツァガンcagan」を使った地名が現在もカルムィク共和国に残っていることなどから,「シャガン河」がカルマクに縁りの深い川であったことは間違いない。
ノガイはカルマクの攻撃で辛酸をなめたが,その一方でカルマクに反撃を行っている。たとえば,ヴォルガ河岸の町サマラの軍司令官は1614年3月に「ヴォルガ河右岸で遊牧していたノガイのミルザ,イシュテレクはカルマクの動きを恐れて,左岸に1700人の部隊を送った」とモスクワへ報告している(27)。このような攻撃の結果,大ノガイは1616年に以前の遊牧地に戻ることができた。
カルマクの撃退が成功した理由の一つとして,カルマクの軍勢が本格的な侵攻に先立つ偵察隊であったため,規模が大きくなかったことが考えられる。『エル=タルグン』でのタルグンのカルマクに対する反攻は,こうした状況を描いたものかもしれない。
因みに,20世紀初頭の歴史研究家でトルキスタン自治政府の第一首相でもあったムハンメドジャン=トゥヌシュパエフは,論文「キルギス=カザフ民族歴史史料」にエディゲにはじまるノガイ=オルダの支配者の系譜を掲げているが,その系譜にはエル=タルグンも記載されている。
その系譜の注釈にトゥヌシュパエフは,「オルマンベトの死後,最大のノガイ集団がカザフに加わっていき,エシュテレクがノガイの支配者になった。エシュテレクの息子が叙事詩のバトゥル,タルグンである。彼の遍歴は,ノガイとカザフがすでに分れた時代に関係があり,彼はノガイのバトゥルと考えられるからである」と記している(28)。彼の見解の真偽は今のところ不明である。しかし,この説は『エル=タルグン』に描かれた歴史を考察する上で興味深い。
1630年代になると,カルマクのノガイに対する攻撃は熾烈を極め,ノガイの運命を決定づけた。カルマクの攻撃によって多くの死者を出し,家畜を失った大ノガイはヴォルガ河上流や右岸,カスピ海上の島々に離散せざるをえなかった(29)。ノガイはモスクワのアストラハン司令官の協力を得てカルマクとの和平を試みたが,失敗に終わった。
また,モスクワに援軍を要請して反撃しようとしたが,当時ポーランドと戦っていたロシアにその余裕はなく,実現しなかった(30)。そしてついに大ノガイはヴォルガ河を超え,クリム=ハン国の保護下に入った。ヴォルガ・ドン河間の地域は荒廃し,ノガイにかわってカルマクがこの地に勢力を拡張したのである(31)。
ところで「オルマンベトの10のノガイ」の「オルマンベト」は何を意味するのであろうか。エヴリヤ=チェレビーは,オスマン帝国のアゾフ要塞の防衛にあたっていたノガイの集団のひとつに「ウルマンベト=ノガイ」を記している(32)。「ウルマンベト=ノガイ」とは,1590年代に有力であった大ノガイの諸候であったオルマンベトとその子孫の支配したノガイの集団のことで,ロシア史料には「ウルマメト」として表われる。
ロシアの在大ノガイ大使ゴドゥノフが1604年に記した文書によると,「ウルマメト(オルマンベト)は1590年に死去した大ジュズの長ウルスの跡を継いで長になった(33)」。
先述の大ノガイの長イスマイルのあとを彼の息子ディンアフメド(あるいはティネフマト)が継いだが,オルマンベトはそのディンアフメドの息子である。オルマンベトはノガイを攻撃していたブハラ=ハン国のアブドゥッラー=ハン(1534-1598年)(34)に抗するため,ロシアにウラリスクの町を建造するよう依頼した,との報告が1598年にされている(35)。
オルマンベトの死後,彼の弟ディンムハメド(あるいはティンマメト)が彼のあとを継いだが,ウルスの子供たちがオルマンベト兄弟に反対したため,その任期は1600年までと短かった。オルマンベトとディンムハメドは,当時彼らと対立していた,シャー=ママイ(36)やウルス,ティンバイなどの子孫に殺害された(37)。この時期,大ノガイでは内部の権力抗争が激化したため,短期間で次々と統治者が代わった(38)。
カザフの詩人シャカリム(1858-1931)は,彼自身の著作『テュルク,カザフ,キルギズ,ハンの系譜』には,オルマンベト=ハンが亡くなってからノガイ人は弱体化した,と記している(39)。
叙事詩は「オルマンベトの10のノガイには10人のハンがいた」と歌うが,これは内訌を繰り返していた「ウルマンベト=ノガイ」の状態を表わしているとは考えられないだろうか。ほぼこの時期に行われた,カルマクのノガイ侵攻も,叙事詩にはカルマクの「ウルマンベト=ノガイ」への侵攻として描かれている。「オルマンベトの10ノガイ」がこの「ウルマンベト=ノガイ」を指していることはほとんど疑いないであろう。
なお種々の叙事詩にしばしば表われる「オルマンベト」はカザン=ハン国の初代ハンであるウルグ=ムハンマド(1438-46)に比定されることがあるが(40),『エル=タルグン』の「オルマンベト」をカザン=ハンに当てることはあまりに唐突で,無理があるように思われる。
『エル=タルグン』に表われるノガイは,16世紀末に生じた「オルマンベト=ノガイ」に深い関係があると考えた方が自然である。
さらに『エル=タルグン』にはノガイとクリム=ハン国との関係も暗黙裏に示されている。ノガイはクリム=ハン国の庇護を受けるようになると,バフチェサライからノガイ支配のため送られたクリム=ハン国の代表の権威を認めるよう要求されが,クリム=ハン国に絶対的な忠誠を誓うことはなかった。ノガイ人は自分の生活様式がクリム=ハン国の定住生活よりも優れていると考えていたためである(41)。
タルグンがクリム=ハンに追われ,逃げ込んだ先がノガイであったことやノガイのハンザダに怒ったタルグンがクリミアに去ったあと,ハンザダがクリム=ハン国で態勢を整えたタルグンの復讐を恐れることなどからも,ノガイとクリム=ハン国との関係が必ずしも友好的ではなかったこと,またタルグンがそのような両者の関係を利用して,逃亡先に選んだことが窺える。実際ノガイ=オルダは,クリム=ハン国とモスクワ国に対して共闘したり,カルマクの攻撃によってクリム=ハン国の庇護下に入ったりする一方で,クリム=ハン国のハンや特使を殺害したり,反乱を起こしたりすることもあった(42)。
英雄叙事詩に種々の民族やハン国の関係が描かれている例は『エル=タルグン』の他にも見られ,たとえば,ヴォルガ=タタールやクリミア=タタールに伝わる英雄叙事詩『チョラ=バトゥル』には,主人公チョラがクリミア=ハンの不興を被ったため,カザン=ハン国に移っていく場面が描かれており,ここからクリミアとカザンの競合関係を読み取れることも指摘されている(43)。
『エル=タルグン』のカザフへの伝播
さて,ノガイを中心に描いたこの叙事詩が,カザフの間に広がったのはなぜであろうか。
その理由は,まず,カザフとノガイは歴史・習俗・口承文芸において共有する点が多かったことに求められるであろう。キプチャク=ハン国の伝統を引くカザフとノガイはともに遊牧生活を送っており,生活様式が類似していただけでなく,言語においてもテュルク諸語の「キプチャク語群」に属する言葉を使用するなど,大変近い関係にあった。
さらにこのような状況を背景に,16世紀後半以降ノガイ=オルダが統一を欠いて分裂し,カルマクの侵攻を受ける過程において,ノガイの一部はカザフの小ジュズに同化した。バシキール人の碩学トガンによれば,トルガイやウラルに広がるカザフの諸部族は,以前ノガイ=オルダを構成していた部族から成っていた(44)。
『エル=タルグン』に描かれたようなノガイの記憶は,共通の文化的・歴史的基盤をもち,ノガイと同様,カルマクに辛酸をなめさせられていたカザフに同化してからも強く残り,やがてカザフにも「歴史的な記憶」として共有されることになったと考えられる。
民間説話の代表的研究者トンプソンが「伝播の道筋ついていうならば,説話はもっとも激しい文化的交流が行われている道を辿る。説話は異文化を持つ隣接地域に入り込むよりは,遥かに容易に文化的接触をもった地域に,たとえそれが大海によってへだてられていようとも,流れていくのである」と指摘するように(45),口頭伝承は緊密な文化的交流が行われている地域に伝播していくのである。
また同時に『エル=タルグン』の伝承者がカザフ社会に移り,同化したことも伝播の一要因であったに違いない(46)。
『コブランドゥ』や『エディゲ』,『チョラ=バトゥル』などノガイやカザン=ハン国などを舞台とした,いわゆる「ノガイ大系」の英雄叙事詩がカザフの代表的作品として広がっていることも同じ理由からだと考えられるのである。
現在でも『エル=タルグン』はカザフの人々に多大な人気を博している。
『エル=タルグン』は,カザフの「民族意識」を覚醒・形成する要因の一つであるカルマクとの戦いを主題とし,敵の攻撃に立ち向かうことを強く訴えると同時に,タルグンや妻アクジュニス,カルト=コジャクなどの心理描写や美しい脚韻を踏む韻文であることなど文学的にも優れた作品である。そのような作品が人心をつかんだであろうことは想像に難くない。
おわりに
以上本論で述べた点,すなわち,『エル=タルグン』がクリム=ハン国およびヴォルガ河流域のノガイ=オルダを舞台にしていること,これらの国々がカルマクの侵攻に苦しんでいたこと,またトルグートとクリム=ハン国・ノガイ=オルダとの戦いが17世紀前半に行われたことが文献史料によって判明していること,ノガイはカルマクによって17世紀中頃までにヴォルガ河から駆逐されていることなどから,『エル=タルグン』は17世紀前半のカルマクとクリム=ハン国・ノガイとの戦いを背景とした作品であると考えられる。
またトルグートやオルマンベト=ノガイといった固有名詞と史実の一致もこれを補完する。少なくとも『エル=タルグン』に描かれる歴史背景は,マルグランの「13-14世紀」説やガブドゥッリンとスドゥコフの「15世紀」説,ウスマイロフの「14-16世紀」説などよりも新しい時代であることは疑いない。
先行研究の中では,具体的な根拠は挙げられていないものの,カザフ=ソビエト百科事典が妥当な見解を取っていたことが明らかになった。英雄叙事詩は,歴史上の人物や出来事を主題とした歴史叙事詩と比べると,具体的な歴史の叙述に欠けてはいるものの,明らかに歴史を映し出しているのである。
たしかに英雄叙事詩『エル=タルグン』は,他の英雄叙事詩と同様に,あらすじやモチーフにおいて,古い英雄物語の影響を受け,叙事詩の伝統を色濃く反映している。それらは,英雄の勝利や名馬の活躍,ハンの娘とのロマンス,ノガイ大系にしばしば登場する伝説の詩人スプラ=ジュラウの助言(47)などであり,登場人物の固有名詞が架空であることなど英雄叙事詩の典型的な特徴も顕著である。
しかし『アルパミシュ』や『コブランドゥ』など他の英雄叙事詩と比べると,『エル=タルグン』には,タルグンの出生や幼少期が全く描かれず,また空想的・超自然的モチーフが少ないことなど,際立った特徴が見られる。このように一般に「英雄叙事詩」というジャンルに分類される叙事詩作品でもその内容は多様であり,「英雄叙事詩」にどれほど歴史が描かれているかについて論ずる際には,個々の作品の検証が必要となるであろう。
最後に本稿では論じられなかった,『エル=タルグン』の研究における,いくつかの問題点を挙げておこう。まず,作品に登場するジャナルスタンやブルグル山といった地名は具体的にどこかある場所を指しているのか,タルグンの子孫であるアルダビー,アジゲレイ,アイコジャは実在した人物であるのか否かという点を今回は言及することができなかった。
また,トゥヌシュパエフがノガイ=オルダの系譜にタルグンの名を挙げる根拠は何か,ロシア等の史料からタルグンの名を見いだすことができるか,という問題についても明らかにはできなかった。
さらに,現在利用することができるテクストは限られているため,今後もし新たなテクストが公刊されれば,それらを加味して論考しなおさなくてはいけない。
本稿は英雄叙事詩に歴史がどのように反映されているかを検討した試論である。本稿では叙事詩と歴史との関係を文献史料と一致する点に限って論じてきたが,現在「系譜」などの口頭伝承を歴史研究に利用する試みも進んでおり(48),英雄叙事詩も歴史研究に新しい視点を提供し,少なからず貢献すると考えられる。
今後,叙事詩と歴史との関わりについての研究方法を一層吟味しながら,さらに中央アジアの叙事詩研究を進展させていきたい。
註
(1)H.B.Paksoy,ALPAMYSH Central Asian Identity under Russian Rule, p.2.
(2)H.B.Paksoy,"Chora Batyr: A Tatar Admonition to Future Generation", p.233.
(3)Musaev, S. Epos "Manas", str.94-95.
(4)拙稿「英雄叙事詩が伝える「ケネサルの反乱」」『イスラム世界』44号,1994年,19?36頁を参照。
(5)叙事詩は,登場人物が歴史上実在した人物である「歴史叙事詩」と架空の人物の「英雄叙事詩」に分類されることがある。「歴史叙事詩」の代表的作品としては,『アブライ=ハン』,『ケネサル』,『イサタイとマハンベト』などが,「英雄叙事詩」の代表的作品としては,本稿で取り上げた『エル=タルグン』をはじめ,『アルパミシュ』や『コブランドゥ』,『チョラ=バトゥル』などが挙げられる。しかし,どちらのジャンルも「民族英雄」を主人公としていることから,広義の「英雄叙事詩」ということができるであろう。
(6)タブン族は,カザフの小ジュズを構成する部族集団ジェティルの下位集団である。カザフを構成する集団についての研究はまだ十分ではく,部族や氏族といった用語の妥当性についても議論の必要がある。
(7)ここに挙げたテクストは叙述者が明示されていない場合が多い。
(8)ラドロフは,イリミンスキーの採集した叙述は文章語の明らかな影響があるとして,この叙述がムッラーの文章あるいはその叙述によるものと述べている。
(9)この他, バシキールには『タルグンとコジャク』という『エル=タルグン』の異文と思われる作品があるようだが,筆者未見である。
(10)Qazaq xalqynyng batyrlyq jyry, 261b.
(11)Qazaq Eposy, 30b.
(12)Qazaq xalqynyng batyrlyq jyry 263b.
(13)Sonda.
(14)Qazaq Eposy,27b.
(15)Qazaq sovet Enciklopediqsy 4,168b.
(16)「オイマウト」も「トルガウト」と同様にモンゴル系であると考えられる。
(17)EvlIya Chelebi, Kniga putewestviq 2, str.167.
(18)Oherki istorii Kalmyckoj ASSR, str.104.
(19)ノガイはジュチ=ハンの子孫で金帳の武人でもあった人物である。
(20)Qazaq SSR tarixy 2-tom, 188b.
(21) 叙事詩において,ノガイ=オルダは「10ノガイ」と表わされることが多いが,「1万8千のノガイ(『ショラ=バトゥル』)」「ノガイの3つのくに(『エル=サユン』)」「90バウルのノガイ(『エル=コクシェ』)」などと表わされることもある。
(22)Qazaq SSR tarixy 2-tom, 188b.
(23)Sonda, 189b.
(24)Muxamedjan Tynywpaev, Velikie bedstviq (Aqtaban- shbyryndy), str.66.
(25)Novosel'skIy, A. A.,Bor'ba moskovskogo gosudarstva s tatarami v 17 veke, str.224-226.
(26)モンゴル文語では「白い」は「tsagaan」であり,カザフ語では「ch」の音は「sh」として発音されることから,「シャガン川,shagan」はモンゴル語の「白」に由来すると考えられる。
(27)Zlatkin, I. Q., Istoriq djungarskogo xanstvva, str. 85.
(28)M. Tynywpaev, Velikie bedstviq,78-79. M. Tynywpaev, Istoriq kazaxskogo naroda, str.152-153.
(29)Novosel'skij, A. str.224-228.
(30)Tam je.
(31)Tam je.
(32) EvlIya Chelebi, Kniga putewestviq 2, str.29.
(33)Novosel;skij, A. str.38.
(34)アブドゥッラー=ハンはシャイバニー朝のハン。ブハラに都を置き,シャイバニー朝を発展させると同時に,タシケント・サイラム・フェルガナなどを支配下に置いた。
(35)Muxamed'an Tynywpaev, str.66.
(36)シャー=ママイは16世紀前半のノガイの支配者である。
(37)Tynywpaev, str.67.
(38) Novosel;skij, A. A. str.38.
(39)ShakrIm QudayberdIuly, Turik, qyrghyz-qazaq ham xandar shejiresi, 60b.
(40)Ybraev, Sh., Epos alemi, 161b. なおウブラエフはシャカリムが記した「オルマンベト=ハン」をカザン=ハンと見なしているが,その根拠は明らかにされていない。
(41)Alan W. Fisher, The Crimean Tatars, p. 24.
(42)ibid.
(43)H. B. Paksoy,"Chora Batyr:A Tatar Admonition to Future Generation", Studies in Comparative Communism, vol.14./3-4, 1986, pp.260. 山内昌之『ラディカル・ヒストリー』,97ページ。
(44)Togan, Ahmed Zeki Velidi. Bugunki Turkili (Turukistan) ve Yakin Tarihi, Cilt 1, Bati ve Kuzey Turkistan,2.Baski.38-39s.
(45)民間説話 理論と展開(下),261ページ。
(46)民間説話の代表的研究者であるスウェーデンの学者フォン=シドウは,説話は政治的・文化的境界に関わりなく口から口へ波動的に伝播するとする,フィンランド学派の歴史地理的方法論(この方法論はフォークロア研究の中心的方法論とされている)に対して,話の伝播には文化的・政治的境界が影響し,積極的伝承者(トラディター)が大きな役割を果たしたと指摘する。『エル=タルグン』の場合,シドウの理論は適合するが,すべての話に完全に適合するとは考えられず,話の伝播の特徴については,地域や話の種類について個別な検証が必要であろう。 なお,シドウは,国(民族)全体の伝承は,いろいろな地域の伝承が結合したものであり,ある話は昔からすべての地域にあったものではなく,限られた地域に現われた,と論じている。『エル=タルグン』の場合,カザフスタン西部(小ジュズ)から広まっていったことは疑いない。
(47)スプラ=ジュラウは,13-14世紀にいたと信じられる伝説的なジュラウ(詩人)であるが,その作品は現存していない。彼は,キプチャク草原での様々な出来事に精通し,ハンやバトゥルなどに助言したとされる。タルグンに助言するスプラ=ジュラウの姿は,アブライ=ハンに助言するブカル=ジュラウのように,冷静で有能な助言者として描かれている。
(48)豊川浩一「ロシア国家による地方の併合の過程ーバシキーリア併合の問題をめぐってー」『スラブ研究』39号,1990年,181頁。