およそ語られうることは明晰に語られうる。
そして、論じえないことについては、人は沈黙せねばならない。
(2004.03.16)Rev.B
解説
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昨年、「全加算器物理モデル」という作品を作りました。 これは、コンピュータの内部では、「0」と「1」だけで計算をしているということを表したものでした。 しかし、コンピュータが現在扱う仕事は、数字の計算だけではありません。 コンピュータに「プログラム」という命令を与えることによって、絵を描いたり、通信をしたり、文章を書いたりすることができるようになります。 つまり、「プログラム」としてコンピュータに与えられる命令の範囲が、現在のコンピュータにできることの限界とも言えるでしょう。 「プログラム」は、「プログラム言語」という言葉で書いてあります。 繰り返しますが、「プログラム言語」で表せる命令の範囲がコンピュータにできる仕事の範囲と言えます。 ある人をコンピュータと見立てます。その人(コンピュータ)に命令をして、仕事をさせるために、電話しかなかったとします。そのときに、言葉にできない命令は相手に伝えることができませんので、仕事をさせることができません。これが、「言葉の限界が相手に行わせることのできることの限界」であると言うことになります。 それでは、コンピュータに伝えることのできる言葉の世界とは、どんな世界でしょうか。 コンピュータは「0」と「1」で全ての事柄を扱います(注1)。それ以外の状態は表現できません。したがって、コンピュータが扱う言葉の世界も、最終的には「0」か「1」のどちらかで表現できることが必要になります。 例えば、 ランプが点いている状態→1 ランプが点いていない状態→0 と表します。ここでは、その状態を表現できれば良いので、「ランプというものは、主にガラスでできていて、電気を通すと光を発するもの」ということまでは必要ありません。しかし、他のものとは明確に区別される必要はあります。 ランプを「p」と置き換えて、 pの取る状態が「1」 pの取る状態が「0」 と表現してみます。言葉の上での「ランプ」は、実際の「ランプ」を言葉で表すために名を与えた「記号」でしかありません。また、今置き換えた「p」も、「記号」ですから、言葉の上では同じしくみをもっていると言えるでしょう。同様にして、「1」あるいは「0」という「記号」に対しては、その都度「点いている」「点いていない」といった意味を与えるものとします。 すると、あるものの取り得る「状態」を、2つの状態しか取りえないところまで分解することで、事実のすべてを pの取る状態が「1」 pの取る状態が「0」 の形式で表現できるようになるのです。 これが、「論理空間」と呼ばれるコンピュータが扱える世界であり、また、コンピュータに関わり無くとも、数学的に厳密であいまいさを排除した理想的な言語と言えます。 ここで、注意すべき点があります。 あるものに与えられた名は他のものとは明確に区別される必要があるということです。 ウィトゲンシュタインは、「論理哲学論考」の中で「あるものが、他のどのものにもない性質を持っている場合、そのときには記述によってただちにそれを他のものから区別し、指示することができる。そうでないとすれば、すべての性質を共有する複数のものがあることになるが、その場合にはそれらから一つのものを取り出して指し示すことはまったく不可能である。」と書いていますが、一つのものを指し示すことができないならば、そのものが取りうる状態も判断できず、そこに表された文は意味を持つことができません。 さて、ようやく写真に目を移してみます。 「郵便受ではありません」 これが犬に貼ってあったなら、どんなに良かったことでしょう。しかし残念なことに事実としての「郵便受」に貼ってあるのを、ある日僕は見つけてしまったのです。 「郵便受ではない郵便受とは何か?」 これを先ほどのように、他の記号で置き換えてみます。 「qではないq」(注2) ウィトゲンシュタインの言葉「あるものが他のどのものにも無い性質を持っている場合、そのときにはただちにそれを他のものから区別し指示することができる。」これによって、「郵便受」というものは、その性質を持つものに対して与えられた名であり、他のものから区別されています。 しかし、「qではないq」という構造によって、「郵便受の性質を持っている郵便受ではないもの」というものは何か?ということを考えなければならなくなってしまったのです。 結論から言えば、「これは論理空間では表現できないものであり、文そのものに意味が無い」ということになります。しかし、何故文章になっているかといえば、「自然言語」という、人間が普段使っている「曖昧な世界の言葉」の表現だからです。 コンピュータが扱うことができるのは、「厳密であいまいさを排除した世界」だけです。そこではこのような矛盾は存在しません。 意味のある事実は必ず論理空間で記述することができます。しかし、意味の無いことは記述できないことによってのみ、意味が無いということが表現されるのです。ウィトゲンシュタインは1〜7章で構成される「論理哲学論考」の第7章に、ただ一つ、こう書きました。 「およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じ得ないことについては、人は沈黙せねばならない。」と。 あとがき。 今回の話は、もちろんもっと広がりを持っているのですが、あえてここで止めておきます。全てを記述しようとするのは、「論理哲学論考」を、一冊書き写すことに他ならないからです。 今回の写真は、散歩中にたまたま見つけたものです。 実は、写真を撮る以前から、長い間ずっと気になっていたものです。 どうしてこんなに気になるのか、自分でも解らなかったのですが、あるとき、上に書いたようなことに気が付きました。そこで初めて心に引っかかる「気持ち悪さ」がスッキリしました。 ナゾが一つ解けたので、あらためて写真を撮りに行き、展示まですることにしました。 このところ、「コンピュータって何だろう?」ということを調べています。そして、一つ一つ内容を分解してゆくと、こんな貼り紙一つでも考えるきっかけになるもののようです。 コンピュータのハードウェアから離れたところにあるコンピュータの世界、底知れぬ魅力と「危険」に満ちています。 注1:コンピュータが、音・映像・文字などを扱えるのは、クロード・シャノンの「情報理論」によりますが、今回とはまた別のテーマになります。 注2:記号をさらに関数に置き換えた表現とすると、 『“w(x)”は“w(x)ではない”』→『“w(x)”=“NOT.w(x)”』 と表現することもできます。これを「関数のパラドックス」といいます。 参考書籍・参考Web連載記事 痛快!コンピュータ学 坂村健 著 論理哲学論考 ウィトゲンシュタイン 著 日経ITプロフェッショナル「ウィトゲンシュタインに学ぶプログラム言語の本質 」早川てつろう 著 |