オヤジが奏でる「音楽の部屋」

 


      オヤジは高校時代、初めてオーケストラでの演奏を経験した。
      その頃はこんな粋な名前ではなく、ただの「オーケストラ部」だった。
      オヤジは、何故かオーケストラは大学で本格的にやると決めておったので、
      部員ではなく、エキストラとして参加した。
      ちなみに、当時の所属は「オペラ部」。今はもう廃部になってしまったらしい。

入学直後、迷わず入団。ズバリ!オヤジの青春時代はここにある。
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回生の時はコンサートマスターを務めさせてもらい、2回の定演だけでなく、
慶應義塾創立125周年記念式典における故芥川也寸志先生指揮での「祝典曲」の演奏、
同じく創立125周年を記念した第9演奏会では皇太子ご夫妻(今の天皇・皇后両陛下)の御前で
故山田一雄先生の指揮で演奏する貴重な機会も得させてもらった。
そして音楽だけでなく、酒もここ無しには考えられない。まさに原点。

大学卒業後、楽器を置いて最初の勤務地へ赴任したが、1ヶ月で禁断症状、
それでも地元にはオケが無く、様子も判らないままに2年目にホントに偶然の縁合って存在を知り入団した。
弦楽合奏が主体だったが、室内楽も大いに楽しみ、コンサートマスター、
あげくはコンチェルトのソリストまでやらせていただいた。
団長は地元で商売をする傍ら、主に子供達のヴァイオリンの指導をし、
そしてこの合奏団を立上げて練習場まで自宅内に作ってしまった。
今から思えば物凄く恵まれた環境だった。音楽が育つためには本当にパトロンが必要なんだ。
惜しくも2年前に他界され合奏団も解散したが、今やかつてのメンバーを核にこの地にも立派なオケが誕生し、
ここで知り合ったメンバーがその後のエコーにも繋がり、なんだかんだ未だに腐れ縁の付き合いが続く仲間がいる。
ここはオヤジの社会人としての音楽活動の原点だった。

勤務地の状況もあり、大学卒業後、オケからしばらく遠ざかっていた。
したがって、社会人になって初めて所属したオケだった。
まさか、転勤の妙、出戻って2度目の入団をするとは思わなかったし、
通算するとオヤジにとって最長在団団体だったが、転勤で2度目の退団。
二度あることは三度ある???

ずっと東京勤務だったら、絶対に結成時から参画していたに違いない。
東京への転勤が決まった時、当たり前のように混ぜていただいた。
実は、今でも休団扱いにしていただいていて、いずれの出戻りを狙っている。
したがって、団員名簿にはしっかり掲載されている(はず)。

ここでは、学生時代以来のコンサートマスターをやらせていただいた。
当時は、ザ・シンフォニカ出張所のような弦のメンバーだった。
今はもうご無沙汰だが、聴くところでは芦響東京出張所の様相を呈しているとか・・・
いずれにしても因縁浅からぬものがある団体。
オヤジがコンマスの当時はメンバー集めと練習の出席率には泣かされたっけ。

かつて彦根に住んでいた時に室内楽をやっていた「縁」。
その「縁」が、こういった形になるとは思ってもいなかった。
若手プロの演奏家からの刺激は、毎回オヤジにとって貴重な体験だったが、
本業の責任・役割の増大からくる時間の制約と、そもそもの演奏技量の低下により、
演奏への貢献よりも阻害要因が多くなった己に限界を感じ、2003年をもって任意引退。
勿論、エコー自体はまだまだ発展、地域文化の担い手として続くし、
オヤジのアマチュアとしての音楽活動も続く。

2005年秋の北海道転勤から2008年秋の仙台転勤までお世話になった。
オヤジの札幌ライフは、ここのおかげで楽しくまた充実したものになった。
おやじとして初めて全く知人がいない楽団に飛び込んで、新しい仲間がたくさんできた。
良い音楽と美味い酒、そして素晴らしい思い出が。
ありがとう、札フィル。

2008年秋の仙台転勤で入団することになった。
またまた新しい仲間と良い音楽をするチャンスを得た。
新しい出会いと新しい感動に期待して、12月から本格的な活動を再開する。

 


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