八郎潟の干拓


八郎潟干陸式記念(1964.9.15発行) 船越局特印押FDC

八郎潟の干拓計画は安政年間の「八郎潟疎水(案)」に始まり,戦後の昭和23年には国営構想として動き出しましたが,財政等の事情により実現しませんでした。もともと八郎潟の湖岸地域は,潟から溢れる洪水のために稲作に被害がもたらされていたため,八郎潟湖を干拓して新農村地帯を作るという,当時としては夢のような計画が打ち出されました。当時の秋田県知事は小畑勇二郎でした。戦後,わが国における食糧危機が背景にありましたが,その後,紆余曲折を経ながら,当時,干拓先進国であったオランダのヤンセン教授とフォルカー技師による諸調査と技術援助により,総事業費543億円を投じ,干拓事業に着手(昭和33年)し,ついに昭和39年に干陸をみるに至りました。

大潟村の誕生
 昭和39年10月に大潟村が誕生しました。この村は,昭和38年11月に完成した中央干拓地を囲む 52 kmの堤防により,かつての八郎湖の水面より 4 m 低い土地にあります。
干拓面積 17,203 ha(うち農地 11,909 ha),当初入植者数 589 名(北海道〜九州),現在の人口 3,316 名(H12.11.1)

(文,原図:上神谷雄二)







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