第一話 (2)父
一色の墓に眠るは父と母
(小学校卒業(1957年)記念文集より著者の作品)
父も昭和29年8月15日、母の後を追って黄泉の国に旅立ちました。母の死後3年半余りでした。その二人が同じ墓で永久の眠りについています。叔母の話では、夫婦仲はあまり良くなかった様です。
家で味噌・醤油・酢そして樽酒など商ってしました。酢は家の中で製造します。作り方は少なくとも当時は実に簡単でした。水・酢酸・カラメル・それに塩を(多分)混ぜただけ。父はそれらの商品を自転車に積んで宅配もしていました。自転車に乗せられて一緒に付いていった時のこんな記憶があります。
橋に近付くと、道は次第に登り勾配になりました。父はサドルから尻を上げ私の頭に圧し掛かる様にして、ペダルをこぎ始めます。そして、自転車は、左右に揺れ、段々ゆっくりとなりやがて止まってしまいます。父が荒い息をしながら「自転車から降りな」。私は、しぶしぶと降りたのか素直に飛び降りたのか、どうだったでしょうか。末っ子を乗せての商いは、父にはかなり疲れるものであったと今、思うのです。
父は後妻を家に迎えました。私は、この義母の記憶が全くありません。おそらく「どこかの“おばさん”が家に居る」、くらいの認識だったのでしょう。義母が私を小憎らしく思い、辛くあたったと叔母に聞かされております。その人も殆ど1年もしていなくなったと思います。
たった一つ、竹の物差しで背中を叩かれ、義母に追いかけられている自分の姿が記憶の片隅にあります。人に聞かされてから描いた贋の記憶なのでしょう、追い駆けてくる人の姿には、顔の部分が記憶の画面からすぱっと掻き消えているのです。
父が私を連れて仕事に出る事は、義母に幼児を預けておけない状況になっていたからだと思います。私は父に懺悔(ざんげ)したい気持ちでいっぱいになります。舗装の無い田舎道を、夏は暑く、冬は寒く体に無理をしていき、父はある日はっきりと自分の病を知ったものと思います。『肺結核』。昭和20年代、その病もやはり死の病でした。床に臥した父が家の中に居て、日ごと重くなっていく姿を見てきました。
五十路坂あとどれほどの登り坂 三竿
父の逝った年齢は53歳。10年前、私が父の生きてきた歳月を越えた頃に詠みました。蝋燭が最後の輝きで燃焼して消えていくように、死の数日前近所を歩く父を見かけたと言う人がいました。町に夏祭りの盛り上がりが溢れ、家々の軒先に“花ぼろ”が飾られているのを聞かされた父は、最後の生命力を使って起き上がり、この世を見届けておきたかったのでしょう。
父は筆が達ちました。町一番の『焼津神社』の祭りの幟(のぼり)を書いた事もありました。それらをまぶたの裏に刻み着けて数日後、彼岸に旅立ちました。
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