随 筆 川 柳   


    第一話 (4)棲家

 父が死んで後、私の扶養は小学四年の夏から、兄と姉、更に親戚のほとんど全てに降り掛かっていきました。末っ子の自分と長姉との年齢差は15歳余はあったはずで、私には10歳にして既に外姪(?)一人・内姪一人が居ました。まして、借金の後始末に追われていた家族親族の苦労の真っ只中に居る私は『味噌っかす』でした。私と長兄の間に次男の兄と次女の姉がいます。私が中学生になる前年、社会に出て行きました

   少年に与える部屋が消えている  三竿
 
 中学一年生のいつの頃か、長兄夫婦と姪二人、それに小姑の私五人家族は或る工場で夫婦住込みの賄いの口があって、生家から押し出されるようにその工場の事務所脇の部屋に移り住むことになりました。ある日、私の遊びで危うく火事を起こしかけた事があって、そこには半年も居られませんでした。最早、家族五人の引越しは姪二人とささやかな家財道具を乗せたリヤカーの前を義姉が曳き、後を自分が押して二・三往復の移動で済む程の小さなものになってしまいました。
 兄はこの引越しで何もしませんでした。義姉が終戦当時の女性を彷彿させる強さを見せていった一方で、長兄は現実から逃げて行くようになりました。



《昭和34年(1959)頃、向かって左側に不動尊のお堂がある公民館》

 新しい棲家はこれまでの市街地から離れた片田舎の公民館です。月に幾度か近在の人達が寄り合いを開いた時、義姉が後先の仕度や片付けをし、兄がどこかに出て働き、私は学区外から中学に登校を続けました。ここに移ってから一番の不便は何か。勝手に布団を敷いて寝ることが出来ないのです。

 当時、公共の建物は古いものが多く畳敷きの和室が中心でした。地域の人達が会合で使用する部屋が私の寝る部屋でした。皆が帰り、片付けが済むまで、私は起きていなければならなかったのです。時には酒宴となって待ちくたびれた自分が隣室の兄家族の部屋で転寝(うたたね)してしまう事もありました。

 兄夫婦の仲が次第に険悪になりました。私が中学3年生の時には、最早私が同居していられない状況になってしまいました。自分の身にも重大な不幸が発生します。そして『鬼ッ子』の業が、兄夫婦の不幸に拍車を懸けていったのです。


 長兄の不幸は、逆境を克服する術(すべ)を培って育てられなかった事だと思います。父の存命中の食卓でこんな光景が記憶にあります。竈炊きのご飯にお焦げが出来ます。あるいは、残り物の冷や飯があります。これらが長兄を除く下の兄弟妹の割り当てとなります。暖かいご飯にありつくのに関門があったのです。

 生卵がおかずに出ます。長兄には1個、私たちは二人に1個です。小椀に分けながらこっちの黄味が少ないとか、白味がまとまって相手の椀にズルッと入ったとかギャーギャー大騒ぎしてる前で悠然と自分の食事を進めていました。“おんば日傘”に育てられた長兄は、既に社会人となっていたとはいえ、子供心に羨ましい存在でした。

                            第一話 (了)

随筆川柳『鬼ッ子のつぶやき』は何時の日か著者が単行本等に改めて
     著すことを目的とした、文芸著作物です
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