SWEET REVENGE
【第一章:THE BEGINNING OF THE END】
静かな緑多い高原。とはいえ、春先ではまだまだ風は冷たい。
そんな風景と調和しているようで、やはりどこか違和感を感じさせる建物。
威圧感は無いが、人の立ち入りを拒絶しているかのような雰囲気…。
その建物の中に、彼女は、いた。
「遠い所をわざわざご足労頂き、ありがとうございます。担当医の中島と申します。」
白衣の男がそう言って挨拶をする。
「椎名耕平です。お手紙を頂きありがとうございます。」
耕平も中島医師に挨拶をする。
「早速ですが、手紙の用件について…。」
「ようやく、回復に向かい始めています。しかし、何がきっかけで再び悪化するか
は判りませんので、面会はできません。あらかじめ御了承ください。」
「はい…。私も、面会できるとは思ってませんでしたし…。」
耕平は、中島医師にそう言って頷いた。
中島医師は立ち上がると、カーテンをゆっくりと引く。
日よけのフィルムで紫色っぽく景色が映るが、そこには、別れた時とほぼ同じ姿の、杉原
真奈美がいた。車椅子に乗ったまま、鳥に手を差し伸べる。しかし、その動きはやはり生気
に欠けていた。微笑んだりもするが、心の底から笑ってはいないようである。
「…。 真奈美…。」
思わず、耕平は立ち上がって窓に近寄る。
「マジックミラーを使っていますので、こちらの姿はあちらからは見えません。
但し声は聞えますので、大声は遠慮して下さい。」
中島医師がそう言う。
耕平は用意された椅子に再び座り、深いため息をついた。
「真奈美さんのご家族の方からあなたの存在を聞き、天河大学病院に問い合わせして
面会希望者のリストから住所を調べました。
突然の事で驚かれたでしょう。」
「あぁ、栄美子さんですか。手紙を頂いて驚きもしましたけど、嬉しくもありまし
た。別れの挨拶も出来ないまま、真奈美は病院から転院してしまいましたし…。
ずっと病院に居たので連絡先も聞きませんでしたから、諦めていたんですよ。」
耕平は、真奈美が転院した時の事を淡々と話し始める。
「…こういうケースは、珍しいんですよ。」
中島医師は、耕平の話を遮るようにそういう。
「珍しい、とは?」
「正直、こちらに杉原さんが来られた時、完治の見込みの無い治療になると覚悟を
していたんです。このまま、良くも悪くもならず、家族の方が家に連れて帰ると
いうパターンですね。
ところが、ある時期からゆっくりと、自然に回復が始まったんですよ。普通、心
の病の回復というのは、何かきっかけがあるものなんです。病む時と同様、回復
も何か必ずきっかけがあるんです。」
「そのきっかけと言うのは、何だったんでしょう?」
思わず身を乗り出す耕平。
「これは憶測でしかないんですが、野鳥にあったようです。」
「…鳥、ですか。でも今でも真奈美の周りには鳥がいますよ?」
「恐らく、野鳥が真奈美さんの病室の窓にぶつかったんでしょう。それらしき痕が
ありました。
もし真奈美さんが、その瞬間を見ていたとしたら…。」
耕平の表情が、やや複雑なものになる。
「鳥にとっては悲しい出来事かもしれないし、真奈美にとっても見たくはない光景
かもしれませんが、それを見たことで、かつての自分を思い出したのかもしれま
せんね…。
とにかく、鳥に人一倍以上愛情と情熱を持った人でしたから。」
それを聞いた中島医師も、やはり複雑な表情になる。
「ある種のショック療法というわけですか…。それにしても、回復の理由としては
余り良い事ではないですね。
今日お呼びしたのは、この件の裏付けが欲しかった事と、今後の真奈美さん心の
ケアに対して何か良い方法があれば、また回復の見込みがあるのであれば、直接
会って頂いて、とも思ったのですが…。
今の話を聞くだけでは、止めておいた方が無難そうですね。」
耕平の表情は、真奈美と顔を合わせる事を望んではいなかった。
ただ、遠くから見ているだけで良い、とでも言いたげである。
「はい…。僕の事など、もう覚えてはいないでしょうから…。」
「今日は遠い所、わざわざ起こし頂きありがとうございました。
ありがとうございます。」
中島医師がそう言って頭を下げる。
「いえ、こちらこそありがとうございます。」
挨拶を返しながら、真奈美の方を見やる耕平。
「…?」
その瞬間、真奈美の目線が耕平の方に向けられた。
向こうからは見えないはずだが、その目線は確かに耕平に向けられていた。
「いや、まさかな…。
気のせいだ。」
そう言って、部屋を後にする耕平だった。
しかし、突然の絶叫が辺りを包んだ…。
「あああああああああああああああっ!!!!」
屋外から聞えてくる叫び声。女性の声だ。
「…真奈美!」
耕平は瞬間的に走り出していた。その声が真奈美のものであると確信しているかのように。
それまで心に渦巻いていた全ての感情を捨て去り、今はただ、真奈美の傍に駆け寄る事だけ
を考えていた。
「いっちゃ、いやあぁぁぁぁぁっっ!!!!!!」
医師・看護婦が暴れる真奈美を必死になって取り押さえようとする。
しかし、真奈美のどこにこんな力が残っているのか、と思う位に真奈美は必死で暴れていた。
まるでなにか彼女を縛る物が無くなったのように。
「真奈美…。」
真奈美の傍に駆け寄る耕平。しかし、名前を呼ぶ以外に言葉が出てこない。
何を話したら良いのか、それすらも判らなかった。
だが、そんな言葉など無用だった。
「ふえぇぇぇぇぇぇん! いっちゃ、やだよぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
取り押さえようとする医師・看護婦を一気に振り切り、真奈美は耕平に抱きついた。その姿
は、迷子になった子供が母親の姿を見つけた時に似ていた。
必死にしがみつく真奈美に、完全に言葉を失った耕平。
真奈美が泣き疲れて眠るまで、耕平はずっと真奈美の事を抱きしめていた。抱きしめる以外
に、真奈美の心を落ち着かせる方法は、無かった。
「我々も驚きました…。まさか、こんな事になるとは…。
お身体の方は大丈夫ですか?」
真奈美の病室で、眠っている真奈美の顔を見ている中島医師。その脇には、手を握る耕平が
いた。
「えぇ、大丈夫です。でもまさか、真奈美にあんな力があるなんて…。
人間って、つくづく不思議ですね。」
耕平の服は真奈美の涙でびしょびしょに濡れてしまった。しかも力強く抱きしめられたおか
げで、耕平の体には青アザが残っている。
しかし、耕平はそれすらもいとおしいと言わんばかりであった。
【第二章:REAL ME, REAL YOU】
あの真奈美の劇的な変化から1ヵ月後、耕平の元に中島医師から再び手紙が届いた。
”椎名耕平様
杉原真奈美さんの心の回復は非常に順調に進んでいます。
しかし、我々としても気がかりな点があり、耕平様に対する真奈美さんの反応を
見てみないと我々も判断できかねる部分が出てきました。
もう一度、病院の方においで頂きたく、よろしくお願い申し上げます。
できることなら、真奈美さんと天川大学病院で会っていた頃の服を着ておいで頂
けますようお願いいたします。
敬具”
「そうか、真奈美は順調なのか…。」
そう思いながらも、耕平の内心は非常に複雑であった。再び過去の傷に触れ心を閉ざすキッ
カケとなった自分に、どうして真奈美が抱きついて「行くな」と叫んだのか…。
「とにかく、行ってみよう。すべてはそれからだ。」
耕平は、以前に手渡された中島医師の名刺を見ながら電話を掛けた。
高原にもすっかり春が訪れ、風も寒さから心地よさに変化していた。
山の緑は深みを増し、季節の移ろいを実感できるほどになっている。
しかし、その建物だけは相変わらず、来る者を拒絶するかのように建っていた。
「再びお呼び立てしてすみません。」
再び、耕平を出迎える中島医師。しかし、耕平を呼ぶ前にだいぶ逡巡した様子である。
心の迷いが、その表情に見えるからだ。
「いいえ、こちらこそ…。早速ですが、真奈美の様子はどうなんですか?」
挨拶もそこそこに真奈美の様子を尋ねる耕平。“気がかりな点”というのが耕平にも気がかり
であった。
「まずは、真奈美さんに会って頂く事が先決かと思います。
ただ…、一つだけお願いがあります。 本人、真奈美さんの言う事を否定するよ
うな話を、今はしないで欲しいのです。」
「ちょ、ちょっと待ってください。意味がよく判らないのですが…。」
中島医師の言葉を理解できない耕平。
「つまり、真奈美さんが記憶違いをしていても、今の段階ではそれに口裏を合わせ
て欲しいのです。どうやら、真奈美さんの記憶に混乱…はっきりと言えば、自分
の都合の良いように記憶をすりかえてしまっているのです。」
「という事は…。」
「はい。あなたを、亡くなってしまったと言うかつての恋人だと、心の中で記憶を
すりかえてしまっているようなのです。それが、“気がかりな点”なのです。」
大きなショックを受ける耕平。つまり、今の真奈美の中には自分の姿をした“昔の恋人”と
の思い出が存在する、という事になる。
「じゃあ、僕と大学病院で会ってからの記憶というのは…。」
「そこはまだあやふやみたいですが、病で倒れて天川大学病院に転院、そこへあなた
がカメラと鳥の写真を持って見舞いに来てくれて、病気の治療は終わったが空気の
良い所に移る必要があるのでここに来た、と記憶を捏造しているようですね。」
「つまり、写真のことは覚えているけど、それ以外のことは…。」
「触れたくない記憶として、心の底に封じ込めてしまっているようです。」
耕平は悩んだ。こんな状態の真奈美に会って良いのか、と。
確かに、真奈美は回復してきている。しかし、真奈美の目に映っているのは“かつての恋人”
であると思い込んでいる自分であり、天川大学病院で出会い、モデルになる事を依頼し、かつ
ての恋人のふりをする事を断って真奈美に心の傷を作ってしまった自分ではない。
ここで、耕平は先に中島医師に言われた言葉を思い出した。
“真奈美の言う事を否定するような話を、今はするな”と…。
コンコン…。
不意に、部屋のドアがノックされる。
「どなたですか?」
「杉原です。」
「どうぞ、お入り下さい。」
どこかで聞き覚えのある声に、耕平は振り向く。
「失礼します…。」
扉を開けて入ってきたのは、真奈美の叔母である杉原栄美子だった。
【第三章:MAKE ME SMILE】
「栄美子さん…。」
「…。 久し振りですね。その後お変わりはありませんか?」
栄美子は耕平の姿を見つけやや驚いた様子だったが、にっこりと笑うと軽く会釈をした。
「早速ですが、今日の真奈美さんの様子はどうでしょうか。」
中島医師が、真奈美の様子を栄美子に尋ねる。
「とりたてて変化はありません。“あの人に手紙をかかなきゃ”ってテーブルに向か
っています。元気にはなってきています…。」
「これから、椎名耕平さんを真奈美さんに会わせようと思うのですが、了承頂けます
でしょうか?」
「私は…会うなとは言えません。過去の経緯がどうであれ、今日の真奈美がいるのは
耕平さんのおかげですし…。ただ、真奈美と会う事でお互いが苦しむような事が無
いか、それだけが心配です。」
栄美子はそう言って目を伏せる。
「そうですか…。では椎名さん、真奈美さんにお引き合わせします。」
中島医師が席を立つ。しかし耕平は席を立とうとはしなかった。
「気持ちが固まるまで、もう少し待ってください…。」
耕平は考えていた。
果たして、自分を見ていながら別の人間の事を見ている真奈美の姿を見る事が耐えられるの
だろうか?と。
このまま会わなければ、真奈美は返事の来ることの無い手紙を書き続ける事になるだろう。
しかし、その方が真奈美にとっては幸せなのかもしれない。会ってしまえば、いつかは真実
を語らねばならない。あの日のように、再び心を閉ざす真奈美の姿を見ることになるだろう。
同じ事を2度繰り返す愚を冒す事になる。それは真奈美にとっても、そして栄美子さんや真奈
美の両親にとっても辛い事だ。
しかも、これから真奈美が語るであろう言葉は、天川大学に在籍している自分にではなく、
かつて真奈美と同じ時を過ごし、これだけ真奈美が思いを募らせる事になった“昔の恋人”に
対して向けられた言葉となるであろう。それを聞くことに自分は耐えられるのだろうか…。
「…もし辛いのなら、このまま会わなくても良いんですよ。」
突然、栄美子がそうつぶやいた。
「栄美子さん…。」
「私たちにとっても辛かった事ですけど、真奈美に好意を持った事につけ込むような
形で“昔の恋人”の代わりをして欲しいと願った我々にも非があります。真奈美が
ああなった事の責任を全て背負い込む必要は、ありませんから…。」
その言葉で、耕平の心の奥底にあった何かが、弾けた。
「…中島先生。行きましょう。」
「椎名さん、いいんですか?」
栄美子は心配そうな顔で耕平にそう言う。
「たとえ真奈美が僕の事をどう見ていたとしても、僕が真奈美の事を好きなのは変わり
ありませんから。たとえ真奈美が昔の恋人宛に手紙を書いたとしても、それは僕の
住んでいる所に届く事になります。それで良いですよ。」
その心配を振り払うように、耕平は栄美子に微笑みながらそう言った。
「・・・耕平さん!」
「久し振りだね。それは僕宛の手紙かな?」
「…もう書く必要がなくなっちゃった。だって、この手紙を届ける人が来ちゃったん
だもの。来てくれると思ってなかった。嬉しい…。」
「どんな事を思いながら、その手紙を書いてたの?聞かせてよ。」
「そんな、恥ずかしい…。」
突然の来訪に、照れくさそうに下を向きながらも嬉しさを押さえきれない表情の真奈美。
その表情を見ながら、つとめて明るく振舞おうとする耕平。
心のどこかに、“真奈美は、自分の本当の姿を見ていない”という寂しさを押し込めながら…。
【第四章:THE DEAREST FOOL】
その後、耕平は真奈美から頻繁に手紙を貰う事になった。
日常のたわいも無いことから四季の移り変わりに至るまで、自分の気持ちをそこに乗せなが
ら思いを綴っている。耕平は、いくらかの罪悪感を感じながらもその手紙から真奈美の思いを、
そして“真奈美の心の中にいる前の恋人”の事を読み取っていた。
真奈美と初めて会ったのが中学3年生の時であった事、その時巣から落ちた小鳥を必死にな
って看病したこと、そして病弱だった自分に甘えて学校に行かなかった自分が久し振りに登校
した日に別の町へ旅立ってしまった事、そして高校3年生の時思い切って手紙を出しに行き、
そこからまた2人の時が動き始めた事を…。
いつの日か、耕平がその手紙を読むのは、自分を“真奈美が見ている昔の恋人”に重ね合わ
せるための儀式と化していた。いつの頃からか、罪悪感も寂しさも感じなくなった。
手紙を読み、時折会いに行って真奈美の笑顔を見るたび、その気持ちは薄らいでいった。
時は移ろいでいく。
すっかり気力を取り戻した真奈美は、病院を退院し故郷である高松へと帰っていった。
耕平も、その真奈美に会う為たびたび高松を訪れるようになっていた。
そう、かつて“真奈美の昔の恋人”がそれをしたように。
異なる点は2つ。耕平が大学生で比較的時間の自由が取れるという事、そして真奈美は学校
に通っていないという事だ。つまり、耕平の都合さえ付けばいつでも会えるという事である。
幾度となく高松の杉原邸を訪れる事で真奈美の両親とも面識ができた耕平。
一度、真奈美の父親が耕平に尋ねたことがある。
「真奈美に以前、恋人がいたことは君も知っているだろう。また、その恋人が今はもう
この世にいない事、そして今の真奈美は君をではなくその昔の恋人を見ているのだと
いう事を。それでも君は、真奈美を愛してくれるのか?」
と。それに対し、耕平ははっきりと答えた。
「もう、いいんです。経緯がどうであれ、僕は真奈美を愛しているし、真奈美も僕の
事を愛してくれています。それで、良いんです。」
耕平が天川大学を卒業する時、真奈美は両親と共に卒業式に出席した。
「私も、同じ大学に行けばよかったかな…。」
「高校を出席日数ギリギリで卒業したのはどこの誰だろう?」
「あっ、ひどい…。 でも、卒業おめでとう。」
「あぁ、これからは一緒にいてあげる事ができるよ。」
「嬉しい…。」
そう言って、耕平に抱きつく真奈美。傍から見れば、どう見てもアツアツのカップルである。
「…卒業おめでとう。耕平さん。」
後ろから耕平を呼ぶ声がする。耕平がその声の方に振り返ると、そこには栄美子がいた。
「あっ、栄美子おばさん。おばさんも来てたんですか?」
「ちょっと、耕平さんに用があってね、式には出てないんだけど…。
真奈美ちゃん、耕平さんと大事な話があるから、兄さん…いえ、お父さんの所へ
行っていてくれる?」
「はい…。 耕平さん、レストランの予約は12時半だから、忘れないでね!」
そう言って、真奈美は両親の方に向かって歩いていく。
「さて…。まずは、おめでとう。」
改めて挨拶をする栄美子。耕平は自分の卒業を祝福してくれる人が増えた事に少々照れくさ
さを感じていた。自分の両親ですら、「ようやく自分の食い扶持を自分で稼げるようになったか。
今度は俺達をちゃんと食わせろよ」などと言う始末だ。自分の家族以外の人間が学校の卒業を
祝福してくれる事に、照れを感じない者はいないだろう。
「ありがとうございます。これで一生、真奈美のそばにいてあげる事ができます。」
「話は聞いてたけど、やっぱり行くのね。」
「えぇ、真奈美のお父さんの紹介で新聞社へ就職することができましたので…。
6月には、結婚式をあげる予定です。」
「そう…。
耕平さん、念を押すようだけど、本当に、これでいいの?」
「えぇ。この2年間で、僕らは色んな思い出を作れました。これは、僕と真奈美と
2人の思い出です。誰の物でもない、僕達だけの思い出です。」
「そうね…。前の彼よりも、あなたと過ごした時間の方が長くなったんだものね…。
もうあれから2年、時の過ぎるのって早いわね。」
「もう、真奈美にはこの2年で作った思い出の方が心に強く残っているはずです。
僕らの本当の事を知っている者が見ていたら、僕はまるでピエロのようだったで
しょうけどね。」
「それなら、もう、私も思い残すことはないわ。
2人で、幸せになりなさい。私ももう、気にするのは止めるから…。」
「ありがとうございます。結婚式には来て頂けるんですか?」
「ごめんなさいね。私も子供のことで色々と忙しいのよ。電報だけは打たせてもらう
わ。」
「本当に、今までありがとうございました。幸せに、なります。」
耕平は、そう言うと栄美子に頭を下げた。
「さぁ、真奈美ちゃんの所に行ってあげなさい。奥さんを待たせちゃいけませんよ、
旦那様。」
栄美子はそう言って、笑った。
【第五章:I (SHE) REMEMBER NOW…】
耕平が高松に移り住んでおよそ2ヶ月。結婚式までもう2週間と迫っていた。
「なぁ耕平。お前、よく杉原さんちの一人娘をゲットできたなぁ。」
同じ部署の同期生が声をかけてくる。
「俺、付き合い始めた頃は杉原さんちがあんな凄い家だと知らなかったんだよ。
なんせ、知り合ったのが東京の病院だったからなぁ。」
「なるほど、地元民じゃないから気後れもなにもない、か…。
これでお前があの娘を不幸にしたら、少なくとも四国内には居られないから、
覚悟しとけよ。」
「あぁ。覚悟なんて、とっくの昔にできてるさ…。」
そう言って笑う耕平。覚悟など、2年前にできていたのだ。それ以前の事をすべて飲み込み、
それでもなお、真奈美の事を愛す、と…。
「…おい耕平!杉原さんから電話だ!!緊急事態らしい!!!」
編集長が大声で耕平を呼んだ。電話の内容からすると、相当火急の用件のようである。
「はい…。 えっ!真奈美が!! で、真奈美はどこに!!!
今から向かいます!!!」
真っ青な顔で電話を切る耕平。
「どうした?」
「真奈美が…いえ、私の彼女が、今交通事故にあって入院したと…。」
「すぐ行ってやれ!俺が許す!」
編集長も驚いた顔で耕平にそう言った。
取る物もとりあえず、一気に階段を駆け下りる耕平。
「どうして…。真奈美が、どうして…。」
大慌てで病院の受付に駆け込む耕平。
「耕平さん!」
後ろから呼ぶ声がする。
振り返ると、そこには真奈美の母親が立っていた。
「お母さん!真奈美は、どこに!?」
「今手術中よ。ウエディングドレスの仕上がりを確認しに来たんだけど、その帰り、
たぶんあなたと誰かを見間違えたんだと思うけど、追いかけようとして赤信号を
無理に渡ろうとして…。 ああっ!!」
「とにかく、落ち着きましょう。
手術中なら、今は終わるのを待つしかないです。」
結局、手術中のランプが消えたのはそれから3時間後の事だった。
「全力は尽くしました。しかし、失血が著しい為輸血をしていますが、果たして
どうなるかは、本人の体力と気力次第という状況です。今日一日がカギになり
ます。最悪の事態になる事だけは、覚悟していて下さい。」
手術を担当した医師が、沈痛な面持ちでそう告げる。
「くそっ…。なんで、こんな事に…。」
耕平はやりきれない思いを壁に叩きつけた。実際、耕平にはそれ以外に何もすることがで
きなかった。
「…あ。」
丸一日の昏睡の後、真奈美が目を覚ました。
「真奈美!しっかりして真奈美!!」
脇で手を握っていた母親が、大声で真奈美の名を叫ぶ。
ビー…。
「看護婦さん!真奈美が目を覚ましました!!」
『判りました。いまからそちらに向かいます』
ナースコールで看護婦を呼ぶと、耕平は真奈美のそばに駆け寄った。
「真奈美!大丈夫か真奈美!!」
「…。」
「真奈美!俺の事が判るか?」
「…。 お母さん。それに、椎名さんが、どうしてここに?」
真奈美は母親の方を向くと、何事が起こっているのか判らないという顔でそう尋ねた。
「何言ってるの、真奈美!あなたはもうすぐ、この人と結婚式を挙げるんでしょ!」
「…何を言ってるの、お母さん。椎名さんとは、まだ会ったばかりなのに…。」
真奈美は耕平の方を向く。しかし、その目・表情はまるで見ず知らずの人間を見る時の物だ
った。
「真奈美…。お前…。」
その時、耕平の頭に不吉な予感がよぎった。
“まさか、事故のショックで真奈美の記憶が元に…。”
「はうっ…。」
真奈美が苦悶の表情を浮かべる。
ちょうどその時、看護婦が医師を連れて病室に入ってきた。
「杉原さん、大丈夫ですか!?」
「ううっ…。」
「酸素マスクだ!強心剤も準備しとけ!」
医師が真奈美の表情を見て、看護婦に指示を飛ばす。
「待って…。今…彼の声が…聞こえたから…。」
真奈美が息も絶え絶えにそう言う。
「とにかく今は眠りなさい、真奈美!」
「お母さん…ちょっとどいて…。彼が…今…部屋に入ってくるから…。」
「どこ?どこに居るのよ?」
「ほら…彼が…走ってきた…。」
震える指先が、部屋の入り口を指差す。
母親が、看護婦が、医師が、そして耕平が、その指差した方を一瞬振り返った。
パタッ…。
真奈美の震える腕が、ベッドに倒れ落ちた。
「…真奈美!真奈美ったら!!!」
その瞬間、母親の絶叫が病室に響き渡った。
医師と看護婦がさまざまな手段を講じて真奈美の意識を取り戻そうとする。
「そうか、迎えに来たのか…。」
そうつぶやくと、耕平は人々に背を向け、病室の外に歩いていった。
もう、真奈美が助からないとでも言うかのように。
『残念ですが、16時54分、ご臨終です。』
医師の残念そうな声が、病室から聞こえてきた。
その声は、母親の声にならない絶叫で、すぐにかき消された…。
【最終章:SWEET REVENGE】
「ここか…。」
花嫁衣裳を死装束に、真奈美は空へと旅立っていった。
最後まで泣き続けていた真奈美の両親と対照的に、耕平は殆ど涙を流す事が無かった。涙な
ど既に枯れ果てた、とでも言わんばかりに。
しかし、本当はそうではなかった。
耕平は、怒りに震えていたのだ。
結局、真奈美の心の中に自分の姿を残せなかったという事、そして最後に自分の手から真奈
美を奪っていった“昔の恋人”への怒りが、耕平の心に渦巻いていた。
「一応礼儀だから、くれてやるよ…。」
寺務所で買ってきた花束と線香を墓に供える耕平。
既に季節は夏、朝まだ早い時間だが、辺りの木でセミが鳴く声が聞こえる。強い日差しのせ
いもあってか、周囲には人影も無い。
「話を聞いたら、今日が命日らしいじゃないか。よりにもよって…。
まぁ、俺にはちょうど良かったかもしれないがね。
結局、俺はあんたに勝てなかった。真奈美の心から、あんたを消すことができなかっ
たんだ。どうやったら、真奈美にあれだけの強い思いを抱かせる事ができるんだか、
生きてたら教えて欲しかったよ。
もっとも、もう間もなくそれを聞く事ができるかもしれないな。」
そう言って、耕平はポケットから何か包みを取り出した。
そして、それを手に持っていた缶入りの緑茶で口から流し込む。
「ぐっ…。 真奈美、俺も今から行く。待っててくれ…。」
バタッ…。
「で、第一発見者は?」
「あぁ、あたし。名前は松岡千恵。こっちの保坂美由紀と一緒に、ここの墓参りに来た
んだけど、そうしたらこいつが倒れてたんだ。」
「この人間に心当たりは?」
「あぁ、3月まで天川大学の学生だったはずだよ。あたしらがバイトしてた弁当屋の近
くに住んでて、何度となく買いに来た事があるから、覚えてるよ。」
「じゃあ、すまないけど、署まで一緒に来てもらえるか?」
「仕方ないね。ただ、なるべく早く帰してくれよ。こっちも色々用事があるんだ。」
松岡千恵と保坂美由紀が、墓の前で倒れている耕平を見つけたのは、昼に近くなった頃だっ
た。見つけた時には既に息は無く、外傷が無いこと、血を吐いた痕があることから何か毒物を
飲んでの自殺であるという見解が出た。
自殺である事の裏づけをしたのは、持っていた遺書だ。
両親に宛てて書いたもののようだが、しかし最後の2行は家族には意味不明なものだった。
“これは、私にとっての復讐です。
傷つく者は既におらず、もはや私以外誰も傷つかない、甘い復讐です。“
結局、その意味を理解できたのは、杉原栄美子と、杉原真奈美の父親の2人だけだった。
しかし2人とも、それが何を意味する物か、黙して語らなかった。
【END】