サイレント・イヴ
【サイレント・イヴ】
加湿器のシューッという音が、部屋の中に響き渡る。
"もし私になにかあった時には、祐一にこれを渡して"
名雪にそう言われたと、秋子は封筒に入った何かを祐一に手渡した。
その中身は、名雪の日記だった。
「名雪、なぜ俺にこれを…。」
それは、高校2年の2月から始まり、高校3年の卒業式…正確には、卒業式の翌日
までの日記が記されていた。
祐一は、ベッドで寝ている名雪の顔をちらりと見やると、その日記に目を通す。
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Nayuki's DIARY vol.6
2月1日 曇のち雪
これで日記も6冊目。この日記帳を書き切る頃には、私は高校を卒業している。
その頃、私はどんな事を思ってこの日記を書いているのか、少し楽しみでもある。
今と同じような気持ちだと、ちょっとイヤだな。
2月2日 雪のち曇
香里が学校を休んだ。妹の栞ちゃんが病気で倒れたみたい。大丈夫かな?
香里の事だから少しくらい学校を休んでも勉強の方は大丈夫だと思うけど、栞ちゃ
んの方よりも香里の身体の方が気になる。無理して一緒に倒れたりしないといいけど…。
祐一も元気が無い。栞ちゃんの事が気になるみたいだけど、だからって祐一が落ち
込む事はないと思う。こういう時は、祐一が元気付けてあげないといけないよ。
2月3日 曇のち晴
今日、久し振りに陸上部のミーティング。自分が副部長に選ばれてたって事、すっ
かり忘れてた。
後輩のトレーニングのメニューと予選会の目標、それに自分のトレーニングのメニ
ューと、決める事は一杯ある。
とにかく、がんばらなくっちゃ!
夜、祐一ががっくりとうなだれて帰ってきた。栞ちゃんの病気、相当悪いみたい。
食事中もずっと悩んでた。
・・・・・中略・・・・・・
2月21日 晴
ようやく土のグラウンドで走る事ができた。まだ走ると泥だらけになるけど、やっ
ぱり思いっきり走れるのは気持ちが良い。
でも明後日から学年末試験。とってもユーウツ。
栞ちゃん、手術成功したみたい。でもまだ危ないかも、って言ってる。
祐一も栞ちゃんの事が心配で授業中ボーッとしてる。成績悪くて、2人揃ってお母
さんに怒られるのだけは避けたいけど…。
香里は試験の日は来るのかな?ずっと会ってないから心配。
・・・・・中略・・・・・・
3月1日 曇のち晴
試験が終わったー!!
でも、香里は結局試験に来なかった。大丈夫?
3月2日 曇
陸上部のミーティング。その後で先生に呼ばれた。
私にスカウトが来てるんだって!
頑張らなくちゃ!と思う気持ちと、本当に私で良いのかな?って気持ち両方がある。
まぁ、怪我だけはしないように気をつけないといけないね!
・・・・・中略・・・・・・
3月21日 曇時々晴
夏の陸上大会に向けて、本格的な練習が始まる。まだ新入生が居ないからグラウン
ドは広々としている。なんとなく寂しい気分。それに、来年の今頃私はここに居ない。
副部長として新入生の面倒もみなければいけないから、今のうちにやれる事はやっ
ておこうと思う。
あと一時間早く起きられればいろんな事ができるんだけど…。
・・・・・中略・・・・・・
4月12日 晴
香里が学校に来た!すっごく久し振り!!
出席日数がギリギリだけど、「仮進級」って事でクラスは一緒。これから試験とか
あるみたい。頑張れ!って言ったら、「あなたに応援してもらう事になるとは思って
なかった」だって。失礼しちゃう!
祐一が教室で涙流しながらゴメンって香里に謝ってた。何を謝ってるんだろう?
栞ちゃんの病気は、祐一のせいじゃないのに…。
・・・・・中略・・・・・・
5月27日 曇時々雨
栞ちゃんが退院したみたい。良かった!
祐一と香里が迎えに行った。祐一のことだから、病院の前で大泣きしたんじゃない
かな。
私も来週、陸上大会の予選が始まる。頑張らなくっちゃ!
・・・・・中略・・・・・・
6月3日 晴
予選通過。とっても嬉しい!
祐一も、香里と栞ちゃんと一緒に応援に来てくれた。
祐一と栞ちゃん、なんかもう、夫婦みたいで少し妬けちゃう。
本当は、祐一だけで応援に来てくれると嬉しかったんだけど…。
夏はすぐそこ、私にとって高校生活最後の夏が来る。頑張るぞ!
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「そうか…。名雪はこんな気持ちで俺たちを観てたのか…。」
再び視線をベッドの上の名雪に向ける祐一。しかし名雪は目を覚ます気配がない。
窓の外を、再び雪が舞い始めた。心なしか風も出てきたようである。
行き交う人々は皆下を向き、足早に通り過ぎていく。
そんな中、祐一と名雪の居る部屋だけが、時が止まったかのように静かに時を刻ん
でいる。
コンコン…。
「あ、はい、どうぞ。」
扉をノックする音が聞こえる。
ガチャ・・・。
「…水瀬さ〜ん、先生の回診です。」
部屋に入ってきた看護婦がそう言う。その後ろから、医師が入ってきた。
霧島という、女医だ。
祐一は立ち上がって、医師の邪魔にならないように名雪のそばを離れる。
「どうですか、様子は。」
「…まだ、目覚めません。」
「そうですか…。外科的な処置は全て行っていますから、あとは患者さんの気力
と意志だけです。見守ってあげていて下さい。」
そう言うと、医師は名雪の脈、血圧などを測り、触診で身体に異常がないかを確認
していく。
「ほどなくして目覚めるとは思いますが、運ばれてきた状況から、もしかすると、
パニック症状を起こすかもしれません。しっかりと声を掛けて安心させてあげ
て下さい。」
医師の霧島は、そう祐一に言い残すと部屋を出て行った。
「パニック、か…。俺がここにいる事でまたパニックを起こさないかも心配では
あるけど…。」
再び、祐一は名雪のそばに座って、再び日記に目を通し始めた。
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6月17日 晴
明日から、本大会に向けてしばらく学校で合宿をする。
朝練はいいんだけど、副部長が毎日後輩に起こされる、っていうのはまずいかも。
目覚ましの中でも特に音の大きいのを3つ持っていこう。
祐一が陸上部に居てくれたら、と思う。ホントに。
6月30日 雨
合宿はいったん終わり。来週から試験だ。
大学目指して夏期講習に行く人、就職先がある程度決まっていて遊びに行く人、そ
れぞれの夏がある。祐一は受験だって言ってたけど、夏期講習には行かないみたい。
香里は…就職だって言ってた。栞ちゃんの身体を考えて、って言ってるけど、勿体
無いと思う。何かいい方法はないのかな?
私は、まず大会で結果を出す事が大事。来ないかって言ってくれている大学が2つ
位あるみたいだけど、勿論それは、結果が良ければの話。
悪かったら…どうしよう?
7月1日 曇
せっかくの休みなのに、天気が悪い。勉強も、なんとなく身が入らない。
早く晴れてくれるといいな。
・・・・・中略・・・・・・
7月10日 晴のち曇
試験終了! ばんざーい!
週末からはまた合宿。いよいよ、私にとっての運命の分かれ道がやってくる。
7月11日 曇のち晴
部活も休みなので、久し振りに街に出る。
来年の今頃、私はもしかしたらここに居ないかも、なんて思ったりした。
スポーツ推薦で受かりそうな所が2つ。1つはここから通える所にある大学。もう
1つは、ここから遠いし全寮制だから、家から出ないといけない。でもそっちは学費
免除になるかもしれない。
う〜ん、どっちにしようか…。
今から悩んでも仕方ないんだけど、でも私の将来だから…。
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「そうか、名雪はこんな頃から悩んでたんだ…。」
そんな独り言を言いながら、祐一はページを読み進める。
しかし、名雪の日記は大会の翌日、7月30日から途切れる。
『本当に困った事になった。
祐一に、やっぱりまず先にお母さんに相談すべきなのか…。』
こう記されて、翌日7月31日からはしばらく天気のみが記されていた。
書こうとしているが書けない、というのがページから読み取れる。何度も書き出し
ては字を潰しているからだ。
結局、書き出したのは8月半ば、お盆に入ってからだった。
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8月11日 雨のち曇
■■■■
8月12日 曇のち晴
お母さんとお墓参り。祐一は栞ちゃんの入院に付き添って病院に。
お父さんにまず報告をしてから、お母さんに話をした。
いつもの通りの『了承。』じゃなくって、『あなたはそれでいいの?』だった。
もう決めた事だから、というとお母さんは『じゃ、いってらっしゃい。でも辛い事
や悲しい事があったら、いつでも帰ってきなさい。私は待ってますから。』だって。
休み明けのミーティングで、先生に話をしよう。
8月13日 晴
祐一と一緒に栞ちゃんのお見舞いに行く。
元気そうに見えるんだけど、毎月っていうのはやっぱり大変だと思う。
私になにかあげられる物があると良いんだけどな。
8月14日 晴
久し振りにお母さんと祐一の3人で外に食事に出掛ける。
こういうのもたまには良いと思う。
でも、祐一は栞ちゃんの事が気になるみたい。
こういう時は、少し位忘れても罰は当たらないと思うぞ、祐一。
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「…でもなぁ、俺は栞を忘れるわけにはいかなかったんだよ、名雪。」
そうつぶやきながら名雪の方を見る祐一。
「栞の為、栞に心臓と肺をくれた藤堂さん兄妹の為、そして……あゆの為に、俺は
栞を忘れるわけにはいかなかったんだ。それが俺の償いでもあったから…。」
死に瀕した栞の為の選択肢は3つ。
もはや死への秒読み段階であった藤堂家の娘さんから移植手術を受ける事。しかし
提供者としてベストであっても『ミスマッチ1』という組織の適合状況では、たとえ
手術が成功したとしてもどれだけ生き長らえられるかの保障は無い。
そして、やはり死への秒読み段階にあった月宮あゆから移植手術を受ける事。あゆ
は奇跡的に『ミスマッチゼロ』というこれ以上無い提供者であった。しかし臓器移植
了承の意思表示をしていない(ドナー登録をしていない)以上、いくら他に身寄りが
無く無縁仏として葬られるだけの存在だったとしても『違法』であることには違いが
無い。
そして、そのどちらも選択せずこのまま栞の死を看取る事。
そう、この3つだけだったのだ。
その選択肢を選ぶ事になった祐一は、あゆからではなく藤堂家の娘さんからの移植
を望んだ。あゆから、という法を犯しての移植を許せなかった…のではなく、その存
在を長い事忘れておきながら今好きになった女の子の為にあゆの存在を利用しようと
する事に、祐一の良心が耐え切れなかったからだ。
しかし、あゆからの移植を断るという事は、栞の『死』を何年か先に先送りしただ
けの結果となった。
退院後も以前と変わらない生活……むしろ以前より酷くなったかも知れない。運動
の禁止と月一度の検査入院。これが栞に課せられた運命となったからだ。
しかも心臓や肺の移植手術を待っている人は多い。一度は手術に『成功』しただけに、
ミスマッチゼロの提供者を見つけて再度移植手術、というのはまず叶わないと思って
良いだろう。
栞を選びながらも、あゆの事を忘れきれなかった祐一には、いつも栞の傍にいる事
が唯一の罪滅ぼしであった。
祐一は、もはや栞以外を見てはいけなかったのだ。栞、その姉の香里、そして死ん
でいったあゆの為にも。
ふと窓の外に目をやると、外の雪が激しくなって来た。
もはや道路を行き交う人の姿を判別するのも難しい。何かが動く姿だけが見られる
だけだ。
「そう言えば、あの日も雪だったな…。」
そう言いながら祐一は日記のページを先送りする。
目を止めた日付は、12月24日。クリスマス・イヴの夜の日記だ。
『 12月24日 曇のち雪
1人きりのクリスマスなんて、やっぱり寂しい。
でも、祐一と栞ちゃんが一緒に居る所では楽しくなれないから、仕方が無い。
来年の今頃、私はどこでクリスマスを祝っているんだろうか。
でも、この家ではない事は確かだと思う。
12月25日 曇
昨日の夜、祐一に『好き』って言ってから寝たから、祐一は気付いたみたい。
でも、祐一は何も聞いてこなかった。
だから、私の方から思い切って話をした。
待っても仕方が無いのなら、私は私の道を行くしかないんだもん。』
そこに書かれた文字を、何度も何度も読み返す祐一。
「やっぱり、あの夜はうちにいたんだな、名雪…。」
祐一は再び名雪の顔を見る。しかし名雪の表情は変わらない。目を閉じたままだ。
その日、12月25日は、奇しくも今日の日付であった。
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「もうすぐ一年経つんだなぁ…。」
「そうですね、あっという間です。」
と言いながら商店街を歩く二人。目指す所は、いつもの「百花屋」である。
カランコロン…。
中に入ると、既に名雪と香里が店内に居た。
祐一も含めた3人は既に高校三年生。受験組に配慮し、授業は既に午前中のみとな
っている。名雪はスポーツ推薦で体育大学への入学がほぼ内定しており、香里も担任
の教師の尽力で奨学金の受けられる地元短大の被服科への進学が内定していた。
祐一だけが受験組という事になるが、最近は授業の残る栞を待つ為に図書館に残っ
て受験勉強という、なかなか不真面目な勉強の仕方をしていた。
「あぁ、やっと来たのね。」
香里が声を掛ける。
「すまん。俺が図書館から出るのと栞がクラスから出てくるのが入れ違いになっ
たらしい。」
そう言いながら祐一と栞は席につく。
いつもならニコニコとしながらイチゴサンデーを食べている名雪は、今日は暗く沈
んでいる。香里もなんだか落ちつかない感じだ。
「どうした、名雪。いつになく沈み込んで。」
「実は…。今度のクリスマスパーティー、出られなくなっちゃったんだよ。」
祐一の問い掛けに、名雪はそう答える。
「陸上部のみんなが集まってパーティーをするからって言われて…。最初は断っ
たんだけど、他の3年生がみんな出るから、私が出ない訳にいかなくなって…。」
名雪が更に深く沈む。
「それじゃぁ…。仕方が無いか。名雪は名雪でまた別の付き合いがあるもんな。」
「香里、栞ちゃん、ゴメン…。せっかく用意してくれてたのに。」
名雪はそう言って栞に頭を下げる。
「いいんですよ、名雪さん。一緒に苦労して、励ましあってきた友達との方が大
事ですよ。」
そう栞はフォローした。
注文を取りに来たウエイトレスに、栞はアイスクリームスペシャルを、祐一はコー
ヒーとモンブランを注文する。
「あっ、そろそろ行かなきゃ。今日、寄る所があるんだ。」
名雪はそう言うと、店を出る仕度をする。
「急がなきゃ行けないのか?」
「うん。友達が待ってるから。」
「じゃ、あまり遅くなるなよ。秋子さんが心配するぞ。」
「わかったよ、祐一。じゃね。」
と言って、名雪は自分の分の代金を置くと店を出ていく。
「あら…。珍しい。」
香里が、さっきまで名雪のいた所を見ながらつぶやいた。
「何が珍しいんだ?」
「イチゴサンデー、まだ残ってる。たとえ約束があったって残すどころかもう
1個注文しようか迷う位の名雪が、今日は残して…。」
祐一もさっきまで名雪が食べていたイチゴサンデーの器を見る。確かに1/4ほどだ
が残っている。
「確かに珍しいが…。まぁ、たまにはそういう事もあるだろう。」
「でも、少なくとも私が名雪と一緒に百花屋に来て、こんな事は初めてよ。」
そう言われると、祐一も確かに記憶が無い事に気付く。
「そう言われれば、俺もないな…。」
「しかし、お姉ちゃんも祐一さんも結構ひどい言い方しますね…。」
アイスクリームを食べていた栞が口を挟む。
「栞が差し出されたアイスクリームを『要らない』と断っているようなものだか
らな。そりゃ驚きもするさ。」
祐一がからかい半分でそう言う。
「…そんな事いう祐一さん、嫌いですっ!」
栞はぷっとふくれてそう言った。
そして、12月24日、クリスマス・イブ。
「祐一も今出るの?」
玄関で靴を履いていた祐一に、名雪が後ろからそう問い掛ける。
「祐一も、って事は、名雪も今出るのか。」
「じゃ、途中まで一緒に行こうよ。」
といって名雪も靴を履く。
『いってきまーす』
「じゃ、いってらっしゃい。」
玄関で2人が声を掛けると、台所の方から秋子の声が返ってきた。
外はやはり白い世界。降ってこそいないが、そのうち降ってきそうな曇天である。
「ねぇ祐一。勉強のほうはどう?」
「突然だな。まぁなんとかなるだろう。一浪は覚悟の上だし。」
名雪が思っていたより、祐一は楽観視しているようだった。
「実はね…。私をスカウトに来てた大学、もう一つあったの。」
突然、名雪がそう切り出す。
「ほう、そりゃ初耳だな。どこなんだ?」
「大阪の方なんだけどね。特待生で学費免除って言ってくれたんだけど、遠いし、
全寮制だって言うから、断っちゃった。」
「そりゃ勿体無いな。寮費と生活費だけで良いなら、それほど苦労もないだろう
に。」
「困るよ〜。目覚まし鳴っても起きなくて、授業に出られなかったら困るもん。」
「まぁ、あれだけの目覚まし、寮には持っていけないだろうしな。それに寮の食
堂にけろぴーが座ってたら、皆驚くだろうし。」
「祐一〜。それはひどいよ…。」
「かなり事実に基づいて話をしているだけだと思うけど?」
そう言われては、名雪は黙るしかなかった。
「…で、祐一としては、私がそっちの大学に行ってたら、どう思った?」
また名雪が祐一に尋ねる。
「そりゃ驚いただろうし、本当にいなくなれば寂しいけど…。」
その言葉に名雪はうんうんと頷く。
「でも、それが名雪の選んだ道ならそれも良いと思うよ。お前の為、そして秋子
さんの為にも、やりたい事をやれるうちにやった方が良いと思う。」
「その結果、会えるのが年に2〜3日になったとしても?」
「それが永遠に、ってわけじゃない。せいぜい3年か4年の話だ。会えなくなっ
たからって、他人になるわけじゃないんだから、大丈夫だよ。」
「それは、そうなんだけど…。」
名雪はそういって口ごもる。まるで、期待していた結果が出なかったかのようだ。
「じゃ、私こっちだから。」
名雪が十字路で祐一と別れる。
「じゃ、あまり遅くなるなよ。」
祐一は手を振ると、美坂家の方角に歩いていく。
「遅くなるなよ、か…。」
名雪はそうつぶやきながら、歩いていく。その先は、いつもの商店街であった。
「…ただいま。」
「あら、おかえりなさい。祐一さんと一緒に、香里さんの家に行ってたんじゃ
ないの?」
「今日は別。陸上部の友達の方だったから。」
玄関で雪を払い、靴を脱ぐ名雪。秋子は一人で食事を済ませ、居間でくつろいでい
たようであった。
「じゃ、お夕飯は?もしまだだったら作るけど。」
「ううん、要らない。パーティーで、食べてきたから。」
名雪は脇に置いていた紙袋を持つと、自分の部屋に戻ろうと階段を昇った。
「表、また雪が降ってきたの?」
「うん、また積もるかもしれないね。」
秋子が階段の名雪に声を掛けたが、名雪は振り向かずにそう答えた。
「あの子、泣いたような目をしてたけど…。」
秋子は名雪の表情が気になっていた。
名雪は一旦部屋に戻って荷物を置くと、再び階段を降りて台所に行った。
そして、グラスとフォーク、ケーキ用のナイフと小皿を手に取ってまた階段を上が
る。
「へへっ。」
持っていた物をテーブルの上に置くと、紙袋の中身を取り出す。
そこにはシャンパンと小さいクリスマスケーキが入っていた。
「外はまた雪…。祐一、たぶん真っ白になって帰ってくるね。」
そう言いながら、名雪は窓を開け、ベランダに積もった雪を一掬いする。
「一応、念の為…。」
と言って、その雪を小皿に載せる。
そして、紙袋から更に取り出した物、それはクリスマス用のローソクだった。
専用の台座にローソクを固定し、マッチで火を点ける。燃えさしはさっき雪を掬っ
た小皿に入れた。
「さて、明かりを消さないと…。」
名雪は部屋の照明を消す。部屋にはローソクの明かりだけが灯っている。
「今日は、一人きりのクリスマスイブだよ。けろぴー、付き合ってね。」
そう言うと、名雪はぬいぐるみのけろぴーをそばに寄せる。
シャンパンの栓を抜き、グラスに注ぐ。そしてケーキをナイフで4つに切り、その
一つを手元に置いた紙皿に乗せる。
「じゃ、メリークリスマス。」
名雪は空に向かってグラスを傾けた。誰かと乾杯のグラスを鳴らすかのように。
そんな名雪の頬には、一筋、二筋と涙がこぼれていた。
「ただいま〜。」
夜も更けた頃、祐一が帰ってくる。
「おかえりなさい、祐一さん。だいぶ降ってきたんじゃないですか?」
「えぇ、もう真っ白ですね。 …あれ?名雪はもう帰ってきたんですか?」
祐一は名雪の靴を見付けてそう言う。
「7時頃には帰ってきましたよ。」
「またえらく早かったんだなぁ。女の子同士のパーティーだからかも知れないけ
ど。」
「…祐一さん。二階に上がったら、名雪に声を掛けてもらえますか?」
「それは良いですけど、なぜ?」
秋子の願いに、祐一は不思議そうな顔をしながら答える。
「なにかその…、声を掛けづらい感じだったものですから。」
「わかりました。名雪の部屋に寄ってみます。」
「じゃ、お願いします。」
秋子はなんとなく不安な表情だった。
コンコン…。
「名雪、まだ起きてるか?」
祐一は名雪の部屋をノックする。この時間だと、名雪は寝ている可能性があるから
だ。
「…祐一?おかえり。」
「部屋、入っていいか?」
「…ゴメン。もう寝るところだから。」
「そうか、判った。」
「パーティー、行けなくてゴメン。楽しかった?」
「気にするな。栞や香里も『気にしないで』って言ってたぞ。」
「…ありがとう。」
「じゃ、おやすみ。」
そう言って祐一は自分の部屋に戻ろうとする。
「…祐一。」
名雪の声に、祐一はふと振り返る。
「なんだ?」
「…好きだよ、祐一。」
「なんだ、いきなり。どうした?」
「ただ、言ってみたかっただけだよ。おやすみ。」
祐一も、秋子が言っていた通り、なにか声を掛けづらい妙な雰囲気を感じていた。
「…あ、ああ。おやすみ。」
今はそう言うのが、祐一には精一杯だった。
”まさか、名雪のやつ…。 明日、誰かに電話して聞いてみよう。香里なら、
誰か他の陸上部員を知ってるだろうから…。”
そう思いながら、祐一は部屋に戻った。
「うっ…。うううっ…。ひっく、ううっ…。」
名雪は一人、ベッドの中で嗚咽を漏らしていた。
”わかっていたはずなのに、どうしてまた涙が出ちゃうんだろう…。”
”もう祐一は、栞さんの事が好きだって、わかってたはずなのに、今更
どうして「好きだよ」なんて言っちゃったんだろう…”
”もう、昔の祐一には戻らないってわかってるのに、どうして…。”
”もう、決めた事なんだから、明日、はっきり言おう。
私は、もう待たない。私は私の道を行く”
”でも、でも、でもやっぱり、今夜、もう一度だけ泣こう…。 ”
名雪は、深く布団を被って、一人で泣いていた。
祐一に鳴き声を聞かれないように…。
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「…ん。ページが折ってある。」
日記を読んでいた祐一は、2ページが真ん中から観音開きになるように折ってある
のを見つけた。
その前のページには、卒業式の翌日、3月9日の日記が記されていた。
『3月9日 晴
明日、この家を出る事になる。新しい私の始まり。
だから、今までの私はここに置いていく。この日記も、これでおしまい。
一言、この後に書きたい言葉があるけど、今は書かないでおこう。
その言葉は、祐一を苦しめる事になるから。
祐一と栞ちゃん、どうか幸せになれますように。』
「俺を苦しめるって…。」
しばらく考え込む祐一。昔の記憶を必死になって思い出そうとしている。
「あぁ、あの時秋子さんが言ったのはそういう事か。名雪、お前って奴は…。」
その時、ベッドで眠り続けていた名雪の身体が少しだけ、動いた。
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その年が明けてから、祐一は大学入学のための試験が、そして名雪は後輩への引き
継ぎと自分が進む大学への入学の手続き等があり、おたがいすれ違いの生活を続けて
いた。
同じ家にいながら生活のサイクルが違う為に殆ど顔をあわせる事は無く、そんな生
活が3月の卒業式間際まで続いた。
祐一は、いよいよ大学の寮へ入る為の荷造りを始めた名雪に、”本当に、行くんだ
な…”と独り言を言うように尋ねた。
名雪はそれに対して一言”これが私のやりたい事なんだよ”と答えるのみ。
黙々と荷造りを進める名雪の背中を、祐一はただ黙って見続けるしかなかった。
「祐一さん。」
そんな祐一の背後から、秋子の声が聞こえた。
「祐一さんの方は良いんですか?」
「俺は元々荷物は多くないですし、所詮町内ですからね。大丈夫です。」
そう言う祐一に秋子が目配せをする。階下のリビングに行こうという意味だ。
階段を下りてリビングに向かう秋子と祐一。
「祐一さんまでこの家を出るつもりだったとは、思ってませんでした…。」
「すみません。でも、栞と一緒に居る時間を少しでも長く取りたいんです。」
「私は、栞さんさえ良ければこの家に来て頂いても構わないんですが…」
秋子のそんな言葉を遮る祐一。
「あちらの家のご両親の気持ちも考えた結果です。お互いが近くに居る所で一緒
に住もう、というのが俺と栞の出した結論です。わかって頂けませんか…。」
「えぇ…。」
秋子の気持ちも判らんではない。
名雪が大学の寮に入る為に家を出る。そして祐一も近くに住むとはいえ水瀬家から
外へ出る。それはすなわち、秋子がこの家に暫く一人で住む事になる、という意味だ。
合宿や修学旅行で数日居なくなる事はあったが、数ヶ月〜数年という期間で名雪が
家を出るというのは始めての事である。だから秋子は、判っていた事とはいえ動揺し
ていたのだ。
「…祐一さん。今まで名雪と過ごしてきて、気になる事はありませんでしたか?」
突然に話題を振ってくる秋子。その話題があまりにも突然で、かつ抽象的なものだ
ったので祐一も思わず驚いてしまう。
「気になる事、ですか?」
「今まで黙っていましたが、名雪の不自然な姿に祐一さんは気付きませんか?」
「名雪に、ですか? いえ、別に…。」
何度となく過去を回想してみる祐一。しかし、思い当たるものは無かった。
「なぜ、名雪は長い髪のままなんでしょうね…。」
目線を伏せながら、秋子は独り言を言うようにそうつぶやく。
「なぜ、って…。 別に、女の子なんですから髪が長くてもおかしくは…。」
「…そう思いますか。 仕方がない事かも知れませんね…。
変な事を聞いてごめんなさい。」
そう言って秋子はリビングを出て台所に向かう。
「仕方ない、って…。」
釈然としない気持ちのまま、リビングに一人残る祐一であった。
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「だとすると、ここにはたぶん…。」
祐一は、内側に折られて読めなくなっているページの部分を開く。
そこに何が書かれているか、祐一には判っていた。
今、判ったと言った方が正しいだろう。
「やっぱり、そうだったか…。」
そこに書かれた言葉を読み、祐一の予想が確信に変わった。
”祐一へ
やっぱり、気付いてくれなかったみたいだね。
思い出して貰えるように、ずっと変えなかった髪形、私の願掛けでもあったん
だけど、願いは叶わなかったみたい。
だから、叶わない願いは、ここに置いていく事にするよ。
そして私は、私のやりたかった事をやることにします。
自分がどこまで一人で走っていけるか、試してみる事にします。
でも、これだけは変わらない。
栞ちゃんがいるから、祐一には言えない。
だから、ここに書いて、ここに置いていく事にします。
たぶん二度と言う事は無いと思う。もし言ったとしても、祐一には届かないと
思うから。
だから、言わない。書くだけ。
言えないけど、書けば、その言葉は永遠に残るから。
だから、書きます。
好きだよ。
祐一の事が、好き。
名雪から、祐一へ たくさんの愛を込めて”
ポタッ…。 ポタッ…。
その日記のページの上に、滴が落ちる。
滴ではない。祐一の涙だった。
「バカだ…。俺は、バカだ…。」
涙を流しながら、何度もそう繰り返す祐一。
「…うっ。 い、いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
突然、部屋の中に絶叫が満ち溢れた。
「名雪! 落ち着け! 落ち着けったら!」
「あぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
なおも名雪の絶叫は止まらない。
「名雪! 俺の声が聞こえるか! 名雪!」
ありったけの大声で名雪に声を掛ける祐一。
その声に、涙で顔をぐしょぐしょにした名雪が振り向く。
「ゆ・・・・う・・・・い・・・・・ち・・・・?」
「あぁ、俺だ、祐一だ! 名雪、俺の事が判るか?!」
「ゆ・・う・・い・・ち・・ゆういち・・ゆういち・・祐一・・祐一・・。
ゆういちぃぃぃぃぃぃ!」
凄まじい勢いで祐一の身体に抱きつく名雪。
そして再び泣き始める名雪であった。
「うう・・・えぐ・・・ひっく・・・ふぇぇぇ・・・あぁぁぁ・・・・」
「もう大丈夫だ、名雪。 俺がいる。何があっても、俺はここにいる。」
抱き締め、名雪を安心させる為にそんな言葉を何度も繰り返し言う祐一。
”こんな言葉が言える俺じゃない…。だけど、今この言葉が名雪に言えるのは俺
だけだ…。 俺が言ってやらなきゃ…。”
複雑な気持ちを心に秘めながら、名雪を懸命に抱き締める祐一であった。
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祐一にとって、栞との生活は満ち足りたものだった。
目覚めと共におはようのキスをし、栞が高校に行くのを見送ってから大学へ行く。
買い物をして帰ってくる頃には栞も学校から帰っていて、夕飯の支度をしたりして
いる。
そしてお互い、今日あった事を話しながら夕食をとり、寝るまでの満ち足りた一時
を過ごす。時には栞の宿題を祐一が手伝う、という事もしながら。
そして、おやすみのキスをしてから2人は眠りにつく。
まるでおままごとの延長のような生活だったが、2人にとっては満足なものだった。
そして、祐一の大学卒業が確実になった時、祐一は栞の両親と香里に結婚の意志を
告げる。
短いようで長い日々だったが、ついに祐一は、栞と結ばれる事になったのだ。
6月のある日曜日。
白い純白のドレスを着た栞が、教会で微笑んでいた。
その脇には、祐一が、やはり白のタキシードで微笑んでいる。
「長かったわね…。でも、良かった。本当に、良かった…。」
後ろの席から、涙で目を潤ませながらその姿を見つめる香里。
”何年生き延びる事ができるか、それは我々ですら判らない”と医師団に告げられ
ていた香里だからこそ、今日のこの日が特別嬉しく思えているのだ。
あゆと祐一の事をずっと心に秘めたまま…。
「…祐一さん。」
一方、複雑な気持ちでその2人の姿を見ている秋子であった。
勿論名雪にも式への招待状が送られていたが、実業団の陸上大会の為不参加と返事
が返ってきたからだ。不参加を当然と思ったか、不参加と返した事に驚いているのか、
秋子の表情は暗く曇ったままである。
それぞれがそれぞれに思いを秘めながら、結婚式は進んでいく。
だがしかし、運命は2人を残酷なまでにもて遊んでいた。
その幸せそうな姿は、これから待ち受ける絶望の闇に差し込む、ほんの一瞬の光の
ようなものだった。
「…臓器不全が、複数で同時に進行しています。我々も全力を尽くしますが、覚
悟はしておいて下さい。」
医師は祐一に対し、はっきりと、しかし沈痛な面持ちでそう告げた。
「そんな…。だって、あれからもう5年経つんですよ? 普通、臓器移植は5年
を超えたら成功だって、本に書いてあったのに…。」
「えぇ。一般的にはそう言われます。しかし、そこから先は我々も『ご本人の人
生』としか申し上げる事ができないのです。どのような方にも、等しく寿命とい
うものがある以上…。」
「…その先は、いうなぁぁぁぁぁ!」
医師の言葉を遮って部屋を飛び出していく祐一。
病院との行き来の繰り返しの中、ささやかながら幸せを紡いでいた2人。
その2人の幸せが、こんなにも早く崩れ去ろうとしていた事が、祐一には信じられ
なかったのだ。
ゆっくりと、しかし確実に、栞の身体は… 死の淵へと… 向かっていった…。
”汝、相沢祐一、あなたは病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も、
共に生き、愛すと誓いますか?”
「…誓います。」
”汝、美坂栞、あなたは病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も、
共に生き、愛すと誓いますか?”
「…はい。誓います。」
”2人に、神の祝福があらん事を…。”
そしてその日、美坂栞は、相沢栞となった。
相沢栞として、相沢祐一の妻として、その人生の幕を閉じる為に…。
「…祐一さん。」
「なんだ、栞。どうした?」
木枯らしの吹き始めた11月、栞は病院のベッドに横たわっていた。
もはや、栞には立ち上がる気力さえも残されてはおらず、日々衰弱していくのが目
に見えて判るほどであった。
しかし今日は日が差し込み、そのせいか栞の顔の血色が良く見える。
栞自身もどことなく元気そうだ。上半身を起こし、窓の外の景色を眺めたりしてい
る。
「アイスクリームが食べたいの。買ってきてくれる?」
「しかし、医者は食べちゃダメだって…。」
「一口だけ。 あとは祐一さんが食べていいから…。」
頬のこけた顔で、それでも必死に微笑む栞。
一口だけといわず、本当は全部食べてしまいたい位だろう。
「あ、あぁ…。ちょっと待っててくれ。買ってくる。」
「うん。 待ってるから…。」
病院の売店は栞の入っている病室からは少々遠い。
しかし、祐一は階段を一気に駆け下りると廊下をすれ違う人を最小限の動きでよけ
ながら売店へと向かう。
そして、栞のお気に入りである銘柄のアイスクリームを買うと、再びすれ違う人を
よけ、階段を一気に駆け上がった。
ガチャッ…。
「栞、買ってきたぞ。」
暖かい日差しの中、居眠りをするように栞は頭を垂れていた。
「栞〜、ほら、冷たいアイスクリームだぞ〜。」
おどけるようにそう言いながら、栞の頬にアイスクリームを押し当てる祐一。
アイスクリームの冷たさにびっくりして、栞が飛び起きるだろうと、祐一は予想し
ていた。
しかし、栞は頭を垂れたままだった。
「栞? どうしたんだ栞?」
栞の身体をゆすって目を覚まさせようとする。しかし、何度ゆすっても栞の目は開
かれる事は無かった。
「し、し、しおりぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」
ナースコールを押し、すぐさま医師達を呼ぶ。
しかし、懸命の蘇生措置もむなしく、栞は21歳と9ヶ月の短い生涯を終える事に
なった。
結婚式からわずか5ヶ月、2人の短い夫婦生活は幕を下ろす事になったのである。
通夜、告別式と、めまぐるしいほどの速さで日々が過ぎていった。
祐一は、それでも立派に喪主を務めていた。わずか5ヶ月しか一緒になれなかった
妻の為に、一生懸命に様々な式次をこなしていった。
まるで、それが全て終わったら、ぜんまいが切れた人形のように止まってしまうの
ではないかと思う位に…。
「なにかあったら、すぐに声を掛けて下さいね。」
玄関先で、秋子が心配そうに祐一に声を掛ける。
一人になったアパート。部屋の奥には栞の遺影が、そして栞の遺骨が置かれている。
残された祐一の事を心配し、火葬場から帰ってきた後も香里と秋子が最後まで残っ
ていたのだ。
「…今日は大丈夫です。秋子さんも、帰り道にはお気をつけて。」
「では…。」
秋子は心配そうに、帰り道の途中何度となくアパートの方を振り返っていた。
「じゃ、あたしもそろそろ帰るわ。変な気起こしちゃダメよ。」
「…あぁ。お前も、気をつけて帰れよ。」
香里も腰を上げて帰り支度を始める。既に外は冬の装いを始めていた。
「…祐一。こんな時にこんな事を言うのもなんだけど、栞に義理立てして、この
後一生独身でいる必要なんて無いからね。」
突然、つぶやくように香里は祐一に話を切り出す。
「…な、何を言い出すんだよ、いきなり。」
「この6年近く、栞は幸せだったと思う。いろんな事があったけど、幸せだった
ってあたしは思う。だから、この後他の人を幸せにしたいと思ったとしても、栞
は許してくれると思う。そう・・・藤堂さんちの加奈ちゃんも、月宮あゆさんも。」
久し振りに聴いた名前。
藤堂加奈、そして月宮あゆの名前。
その言葉に一瞬、驚きの表情を見せる祐一。
「あたしも、許してあげる。栞を、最後まで、こんなに愛してくれたんだから。」
「止めてくれよ! それじゃまるで、栞を忘れろって言ってるようなものじゃな
いか!」
「…忘れられるわけ無いでしょ。私にとって、たった一人の妹の事なんだから。」
香里は顔を伏せる。表情は見せないが、涙をこらえているのが判る。
「だったら、なぜそんな事を言うんだ…。」
「あの時栞に対して悪い事をしたと思ったのなら、今日でその罪の償いは終わっ
たわ。栞はこの6年近くで、他の人の一生分、あなたに愛されたと思うから。
でも、誰か他に祐一の愛を必要としている人がいたら、その人を愛してあげて。
それが、あの時の事を知っている私の、最後のお願い。
それはきっと、栞や加奈ちゃん、あゆさんを幸せにする事でもあると思うから。
あなたが幸せでいる事、それは栞の望みでもあるはずよ。」
「…今は、その言葉には、何も答えられない。今はただ、栞を想っていたい。」
「そう…。 今日はゆっくり休んでね。それじゃ。」
香里も家へと戻り、アパートには祐一と、栞の遺骨・遺品だけが残された。
「栞…。 お前がいない部屋は、やっぱり寂しいよ…。 くぅぅぅぅっ!」
祐一の嗚咽は、夜が白んでくる頃まで続いていた。
そして、12月の24日。
世間がクリスマス気分で浮かれている時、祐一は寺にいた。
栞の四十九日法要、及び納骨の為である。
相沢家の墓は東京にあった。しかし美坂家の両親の希望、そして祐一本人の希望も
あって、栞と出会ったこの街の寺に墓を建て、そこに納骨する事にしたのだ。
朝からあいにくの雪だったが、法要が終わって納骨の為に墓地へと向かう頃には雪
は止んでいた。まるで、残された者の為に栞がそうしたかのように。
「名雪も来るって言ってましたが、どうやら間に合わなくなってしまったようで…。」
「仕方が無いですよ。名雪は今、自分自身の事で精一杯なんですから。
名雪も大学から実業団、俺達の事なんて気にするヒマも無いはずです。」
頭を下げる秋子に、そう言葉を返す祐一。
「でも…。長い休みも殆ど帰ってこなかったのに、今回は自分から帰るって言い
出したんです。途中で何かあったりしたんじゃないかと心配で…。」
「そうですね…。でもここの場所も名雪は知っているはずだし、帰ってきてくれ
るという気持ちだけで十分ですよ。」
秋子は祐一に対し、まだ何かを言いたげな表情をしていた。
しかし、納骨が終わって家路に着くまでも、結局その口が開く事は無かった。
「なんだか、あっという間に過ぎてしまったな…。」
納骨が終わり、部屋で一人ボーっとしている祐一。今朝までそこにあった遺骨も無
く、遺影だけが寂しく部屋に残されていた。
ピンポーン…。
突然、呼び鈴が鳴る。夜もふけようとしている時間に尋ね人など、祐一には想像も
つかない。
”誰だ?こんな夜に…”
祐一は覗き窓から注意深く外を窺う。葬式の前後というのは新興宗教や墓石・墓地
の勧誘が多いと聞いていたし、実際多かったからだ。
”…! 栞か?”
その姿を見て祐一は愕然とする。
まるで、栞がそこに立っていたかのようだったからだ。
ガチャッ…。
大慌てで部屋の扉を開ける祐一。まるで、栞がそこにいると確信しているかのよう
に。
「わっ、わわっ、びっくりしたよ〜。」
「…えっ?」
なんとなく聞き覚えのある声。喋り方。
「こんばんは。祐一。」
「…そ、その声は、名雪か?」
「えへへっ、久し振りだね。ちょっと遅れちゃったみたい。」
そこに立っていたのは、名雪だった。
しかし、祐一が栞と見間違えるのも無理はない。
名雪の特徴であった腰まである髪は、肩に掛からない程度までばっさりと切られて
いたからだ。
…そう、今の祐一なら、栞と見間違えるくらいに。
「せめてお線香だけでも、と思ったんだけど、いいかな?」
「あ、あぁ。 中に入れよ。」
その姿は、決して栞のものではなかった。改めて名雪を見ると、その姿は全く違う。
”なぜ見間違えたりしたんだろう?”と自問する祐一。しかし答えは出なかった。
「…髪、切ったんだな。」
焼香が終わり、名雪にお茶を淹れて出した祐一だったが、久し振りの対面で言葉が
無い。というか、話題が無い。
そんな時にふと祐一の口からついて出たのは、今ある最大の疑問だった。
「えっ? だいぶ前だよ、髪切ったの。」
「だって俺は、お前とはだいぶ会ってないからな。」
「あぁそうか、もう5年になるから、祐一は長い髪の頃しか覚えてないんだね。
走るのに邪魔だから、切ったんだよ。」
そう言って、肩に手をやる名雪。
その仕草が栞に似ていた為、祐一は思わず反応してしまう。
「どうしたの?」
「い、いや、なんでもない。でも、高校の時だって陸上はやってたじゃないか。
長い髪のままでさ。」
「さすがに大学や社会人になると、ワガママも言ってられなくなるんだよ。髪を
伸ばしたままだったのは、私のワガママだったから。だから、思い切って切った
んだ。伸ばしている理由も無くなっちゃったしね。」
「で、家には帰ったのか?」
「…ん、まだだよ。一旦家に帰ると遠いから、ここ。留守電にメッセージ残して
あるから大丈夫だよ。」
「秋子さんに心配かけるなよ。殆ど帰ってこなかった、って愚痴漏らしてたぞ。」
「うん…。なんとなく、ただなんとなく、帰りたくなかったんだ。でも、今回は
別。祐一の言葉が聞きたかったんだ。」
そう言って、お茶を一口すすると、目を閉じる名雪。
「俺の?」
「そう。実は、陸上、止めるんだよ。もう走れなくなっちゃったから。」
名雪の言葉に驚きを隠せない祐一。
「なにがあったんだ?」
「足が、もう走れなくなっちゃったんだよ。歩けるけど、走るのはもう無理…。」
「そうか…。残念だな…。 でも、後悔はしてないだろ?」
「うん。笑って、泣いて、苦しんで、でも走って…。やって良かったと思ってる。
祐一のおかげだよ。」
「俺の? 俺、何もしてないぞ。」
「覚えてないかもしれないけど、『やりたい事をやれるうちにやった方が良い』
って言ったんだよ、祐一は。その一言があったから、今日までこれたんだと思う。」
「…すまん。言った覚えが無い。」
頭を掻きながら頭を下げる祐一の姿に、つい微笑んでしまう名雪。
「…いいよ。それで、これからどうしようか、正直迷ってる。大学で教員免許を
取ろうか、それともこっちに帰ってきて働こうか、迷ってるんだよ。」
「秋子さんには、相談したのか?」
「…まだ。走れなくなると判ったのが、昨日だから。実は、帰ってくるのが遅れ
たのは、お医者さんの所に行ってたからなんだよ。私の足を見てくれてた先生の
所に。」
「…それじゃ、俺が口出しする事は、何も無い。秋子さんと相談して決めなよ。」
名雪の表情が変わる。まるで、予想しなかった言葉が返ってきたかのように、その
表情が変わった。
「祐一は、どう思う?」
「俺に聞いてどうする、俺に。自分の人生は自分で決めるもんだ。お前がやりた
い事をやれば良いんだよ。まぁ、秋子さんとしては早く帰ってきてほしい所だろ
うけど、名雪のOL姿ってのも想像できないから、先生になってこっちに戻って
きても良いだろうな。
とにかく、お前がどうしたいかだ。それで決まる。」
「そう…。 そう、なんだけどね…。」
何か言いたげな名雪。しかし、その先は言葉を濁す。
まるで、その先は言ってはいけないと自分に歯止めをかけているかのように。
「じゃ、そろそろ帰るね。」
「あ、あぁ。 送っていこうか? 夜は危ないからな。」
「大丈夫。 それに、家に着くまで一人でゆっくりと考えたいんだよ。」
そう言って微笑む名雪。しかしどこかその表情は寂しげだ。
「だったら、気をつけて帰れよ。」
「うん、ありがとう。 祐一…。」
「なんだ?」
名雪は、何かを言いかけて、祐一に背を向けた。
「…好きだよ。 祐一。 ありがとう。」
「何を言ってるんだか。本当に、気をつけて帰るんだぞ。」
祐一の言葉に、名雪は振り向かず手を振って答えるのみであった。
そして、ゆっくりと歩き出す。祐一の方を、振り返りもせずに。
プルルルル…。
暫くして、祐一の部屋の電話が鳴る。
「はい、相沢です。」
『祐一さんですか? 私です。』
「あぁ、秋子さん。どうしました?」
『名雪は…そちらにいませんか?』
「さっき帰ったところですよ。そのうち戻ると思うんですけど。」
『部屋には荷物があったから帰ってきていたのは判ったんですけど、どこに行く
とも書いていなかったので、もしやと思いまして…。』
「…あれ? こっちに直接来たって言ってましたよ。留守電にメッセージ残して
あるから判るはずだって本人も言ってましたし…。」
『・・・今朝、家を出る時に留守電をセットし忘れて、メッセージは残っていません。
栞ちゃんの納骨から帰って来た時に気付いたんですから、間違いないです。』
「じゃ、名雪の言っていた事は…。
いずれにせよ、もう間もなく戻るはずですから、なんでそんな事を言ったのか、
問い質してやって下さい。秋子さんに心配かけるなって言っておいたんで。」
『・・・わかりました。夜遅くにご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。』
「あぁ、いえいえ。今日はありがとうございました。 それでは、また。」
『はい。おやすみなさいませ。』
ガチャッ…。
名雪の言動に釈然としない物を感じながら受話器を置く祐一。
”なんでまた名雪のやつ、あんな嘘をついたんだ?”
しかし、祐一にはその答えが判るはずも無かった。
「…まぁいいか。 さて、洗い物でもするか。」
そんな独り言をつぶやきながら、台所に向かう祐一。そこには暫く放っておいた食
器類が積まれている。栞と2人で選んで買った、思い出の食器だ。
(祐一さん…。 祐一さん…。)
「ん?」
ふと聞こえてきた声に振り返る祐一。勿論、そこに誰もいるはずは無い。
(祐一さん…。 行ってあげて…)
再び、声が聞こえる。
「あの声は…。 でも、そんなわけが無い…。」
そう言いながらも声が気になって、流しの蛇口を閉じ、洗い物の手を止める。
(祐一さん…。 名雪さんの所に行ってあげて…。)
声がはっきりと聞こえた。
その声は、まぎれもなく、栞の声だった。しかし、どこから聞こえてくるのかは判
らない。
「栞…。 栞なのか?」
思わずどこにいるのか呼びかける祐一。しかし返事は無い。
(名雪さんが、助けを求めています…。 行ってあげて…。)
ビシッ!
突然、音と共に窓ガラスにヒビが入った。
「なにっ?」
祐一は、何が窓ガラスを割ったのか、確かめようと窓を開ける。
ガラッ・・・。
「…えっ? し、栞…。 それに、その姿は、あゆ…。」
目の前の姿に、ただ呆然とする祐一。
そこには、栞と、月宮あゆの姿があった。
2人とも、背中から羽根を生やしている。
まるで、天使のような純白の羽根を…。
(名雪さんが、助けを求めています・・・。 祐一、行ってあげて…。)
その声と共に、2人はある方向を指差した。
駅のガードをくぐって水瀬家に向かう途中の辺りだ。
「待て、栞! お前は…。」
窓から身を乗り出し、栞をその手に引き寄せようと手を伸ばす。
(私の事は、もういいから…。 名雪さんを、助けてあげて…。)
(ボクの事は、もういいから…。 名雪さんを、助けてあげて…。)
2人の声が重なる。
(今度は、 祐一(さん)が、 名雪さんを、幸せにしてあげて…。)
その刹那、2人は今まで指を差していた方へ、すぅっと消えていった。
まるで、その羽根で飛んでいくかのように…。
「待ってくれ栞! あゆ! なんで2人がここに…。」
窓を超えて外に落ちそうになる位身を乗り出しながら、遠ざかる2人に向かって叫
ぶ祐一。
(お願いだよ、祐一。名雪さんは、ボク達の所に来るには、まだ早いから。)
2人が見えなくなる直前、祐一にはそう言うあゆの声が聞こえた。
「どういう事だ? まだ早いって、どういう事だ?!」
祐一は慌てて靴を履き、コートを羽織ると外へ飛び出していった。
栞とあゆが消えていった所に向かって、雪が凍結しかけている道をひたすら走る。
時折、滑って転びそうになった。
でも、祐一は走った。一分一秒でも早く、その場に近づく為…。
「やめてぇっ!」
ゴスッ…。
誰かの叫び声と共に、人を殴ったような音が聞こえてくる。
祐一はその声に気付いた。
「名雪か?!」
その時、何年も昔に閉店したパン屋の物陰で、何かが動いた。
「ん?!」
直前で足を止める祐一。その祐一に向かって、何か黒い物体が飛んでくる。
「ぶっ!」
祐一はその物体の直撃を食らって後ろに吹っ飛ぶ。
その物体は、黒尽くめの服を着た男の身体だった。
男は更に祐一に向かっていこうとする。
パアッ…。
一瞬、辺りを眩しいばかりの光が照らした。
街灯などでは到底ここまで明るくはならない、という程の光だ。
突然の出来事に、男は何事が起こったのかと辺りを見回す。
「おらあぁぁぁっ!」
その隙を突いて、祐一は男に一撃を食らわした。
だが、祐一が最初に食らったダメージは大きく、呼吸をするのも苦しい位だった。
しかし、男の顔は光によってはっきりと見える。
「ちいっ!」
いきなり人が現れた事、突然、眩しいばかりの光が辺りを照らした事で、パニック
状態に陥った男はその場から逃走する。
「ま、まて…。」
追いかけようとする祐一だったが、男には到底追いつけない。むしろ歩くのもやっ
とという程であった。
「な、名雪は…。」
その場からとって返してパン屋の物陰の方に向かう祐一。
そこには、殴られて気を失っている、名雪の姿があった。
持っていたバッグは中身が散乱し、下着が膝の辺りまで下げられている。
「名雪!! しっかりしろ名雪!!」
祐一は名雪の肩をゆすって気を取り戻させようとするが、よほど強く殴られたのか
呼吸はしているものの、目は閉じたままだった。
(祐一さん、私はもう、行きますね。)
(祐一、ボクももう、行くよ。)
辺りを再び灯りが照らす。さっきよりも弱く、祐一と名雪の2人を包み込むような
優しい光だ。
「その声は…やっぱり、栞…それにあゆ…。」
灯りの中心を見ようと顔を上げると、そこには羽根を生やしたあゆと栞の姿があっ
た。2人とも、祐一と名雪の姿を見て、微笑んでいる。
(祐一さん、あなたの愛を、これからは私ではなく、名雪さんに注いで下さい…。)
(祐一、キミの愛を、これからは栞やボクではなく、名雪さんに注いで…。)
「待てよ2人とも! なぜ俺に、そんな事を言う!」
(それは… それができるのは、祐一(さん)だけだから…。
もう、時間が来ちゃった…。 バイバイ、祐一(さん)…。)
2人の微笑む顔に、頬を一筋の涙が伝う。
その滴が一滴、名雪の顔に掛かった…ように見えた。
「うっ…。」
名雪が小さなうめき声をあげる。どうやら意識はあるようだ。
「…名雪! 名雪! 大丈夫か?」
祐一が何度も名雪の名前を叫ぶ中、2人を照らしていた灯りは、ゆっくりと消えて
いった。
======================================
ひとしきり泣いたら落ち着いたのか、ゆっくりと祐一の身体から身を離す名雪。
「やっと落ち着いたか、名雪。」
「怖かった、怖かったよぉ…。」
「そうか、やっぱり俺が送っていってやれば良かったな。すまなかった。」
「怖かった、とっても怖かった…。でも、祐一が来てくれる気がしてた…。」
「あぁ、お前の声が聞こえたからな…。」
そう言って、自分から名雪の身体を抱き締める祐一。
空へと昇っていった2人の気持ち、そして、名雪の本当の気持ちを知った今、とに
かく祐一は名雪の身体を抱き締めてやるしかなかった。
それが、栞やあゆの願いでもあったから。
名雪を抱き締めてやる事、それが、今はもういない2人の願い…。
ナースコールを押し、看護婦達に名雪が目覚めた事を告げる祐一。
程なくして、霧島医師と看護婦が数人、部屋に入ってくる。
「水瀬さん、気分はどう?」
「特に何ともありません。」
「身体の痛みは無い?」
「こらえられない程の痛みは、ありません。」>
問診が続く間、祐一はトイレに行くからと部屋を出た。
名雪に見られないよう、日記を隠しながら。
ピッ…。
祐一は持っていた携帯電話の短縮番号から、水瀬家の番号を呼び出す。
『はい、水瀬です。』
「祐一です。名雪が、目を覚ましました。」
『…はい。今から病院に向かいます。 ありがとうございました。』
「来る時、何か適当な袋を用意してもらえますか?」
『どうしてですか?』
「名雪の日記は、読まなかった事にした方が良さそうです。名雪に見られないよ
うに、袋に隠して持って帰って下さい。」
『…祐一さんは、それで良いんですか?』
「えぇ。気が付くのが遅くなりましたけど、これ以上遅くなるよりはマシでした。
読まなかった方が良かったのかも知れないですけど、読んでしまいましたからね。」
『…了承。では、もうしばらく、名雪のそばに居てあげて下さい。』
「はい。」
ピッ…。
事件の後、祐一は警察に通報、第一発見者として警察の事情聴取に応じた。
その足でこの病院に向かい、徹夜で名雪の事を見守っていた秋子と合流したのであ
る。そして、一度家に帰って何時間でも良いから寝るようにと、秋子を説得した。
名雪が起きた後が大事だから、ひとまず休んでほしい、と。
秋子は一度家に戻り、名雪の身の回りの物と、日記を持って病院に来た。それを祐
一に預けると、再び家に戻っていった。
だから、名雪が目覚めた今、秋子の手が必要だった。
一度は名雪の手を放した自分の手ではなく、名雪の全てを包み込む事のできる母、
秋子の手が。
「祐一さん…。」
祐一が予想していたよりも早く、秋子が病院にやってきた。
「早かったですね。今、看護婦さんが傷に当てたガーゼを換えています。もう少
しで終わると思いますよ。」
「ありがとうございます…。祐一さんこそ身体の方は、大丈夫ですか?」
「俺の方は大丈夫です。ところで、袋、持って来て頂けました?」
「はい、ここに…。」
秋子が差し出したのは、巾着のような厚手の布で作った袋だった。これなら中が透
けて見える事は無い。
「じゃ、名雪に気付かれないように、あった所に戻しておいて下さい。」
そう言って、祐一は手にしていた日記と、それが入っていた封筒を差し出す。
「祐一さん…。」
「さすがに、俺もくたびれました。明日仕事があるんで、今日はこのまま帰って
寝させて貰います。明日、病院に連絡を入れますよ。」
「本当に、ありがとうございました。」
秋子は祐一に深々と頭を下げる。
「…秋子さん、本当に辛いのは、これからだと思います。起こった事実は、もう
消す事はできませんから。」
「そうですね…。」
その時、病室から看護婦達が出てきた。
「水瀬さん、手当て終わりましたから、入っても良いですよ。」
「じゃ、後はお願いします。」
祐一はそう秋子に言い残すと、出口に向かって歩いていった。
「…あぁ、待った。相沢君、だったか。ちょっと待って。」
看護婦の後ろから、霧島医師が祐一を呼び止めた。
「はぁ。俺に何か?」
「ちょっと、来てくれますか?」
呼ばれるままに、祐一は霧島医師の詰めている医局へと向かった。
「…単刀直入に聞きます。水瀬名雪さんとあなたは、どういう関係か?」
自分が飲みたいからと用意したコーヒーを祐一に勧めながら、霧島医師が話を切り
出す。
「イトコで、高校時代の同級生です。」
「それ以上の関係というのは、ない?」
「名雪…いえ、彼女の気持ちは判りませんが、俺には彼女が居ましたから。」
「彼女が、居た?」
「えぇ、先月、亡くなりましたので。」
祐一の言葉に、霧島医師は一瞬しまった、という顔をした。
「…申し訳ない。 私が気になっているのは、君が彼女を救ったタイミングだ。
私もこの街に住んで長いが、襲われた場所はハッキリ言って、人がそれほど頻繁
に通る場所じゃない。よほどこの街を良く知っているか、前もってそこに行く必
要があるかのどちらかしか、考えられない。
後者であれば、今のうちに自首を勧めるが、どうだ?」
霧島医師は、祐一に疑いの目を持っていた。
もしかしたら、この強盗・強姦の事件は、実は祐一の自作自演なのではないかと。
しかし、祐一はふっと笑みを漏らして語りだした。
「警察にもそれは聞かれました。でも、容疑者は捕まったそうです。
実は…誰も信じてはくれないと思いますが、俺に助けに行け、という人の声が聞
こえたんですよ。名雪を助けてやれ、って声が。」
そう語る祐一の顔は、微笑んでいた。霧島医師はその表情に驚きを隠せない。
「助けを? 誰が?」
「今はもうこの世にいない、俺の妻と、俺の…昔、彼女だった子です。」
あゆをどう説明しようか考えあぐねた祐一だったが、思い切ってそう説明した。
昔、彼女だった子、と。
「…。 一度精神科にかかる事を勧めるが、あなたを信じる事にしましょう。
私が聞きたかったのは、それだけです。 引き止めて申し訳ない。」
「先生は、奇跡って言葉を信じますか?」
「…我々医師は、奇跡を信じてはいるが、それに頼ってはいけない。だから、頼
らないように全力を尽くす。それだけですよ。」
「俺も同じです。信じてはいるけど、頼ってはいけない、そう思います。では。」
そういう祐一の顔は、晴れ晴れとしていた。
まるで、何かから解き放たれたかのように。
雪が降っていた。
灰色に曇った低い空から、白い雪が踊りながら落ちてくる。
「…雪、積もってるよ。」
この雪の中、駅前のベンチで座っている祐一に、誰かがそう呼びかけた。
「あぁ。もうかれこれ2時間近く待ってるからな。」
「あれ?いま、何時?」
呼びかけた女性は、近くに時計が無いかきょろきょろと見回している。
「安心しろ。俺が単に早く来すぎただけだ。
お前に待たせた分、今度は俺が待っててやった。ただそれだけの事だ。」
「えっ?それって、ど、どういう事?」
「これで、差し引きゼロって事にしてくれ。また、もう一度やり直しだ。」
そう言って、祐一はベンチから立ち上がる。
「今すぐに、って訳にはいかないけど、いつかはお前の気持ちに応える事ができ
そうなんだ。だから、安心して行ってこい。」
「えっ?それって…。」
「教職、取るんだろ?行ってこいよ。2年かそこら位で気持ちが切り替えられる
ほど簡単には行かないと思うけど、でも俺は、ここで待ってるから。
気持ちの整理ができたら、また水瀬家に厄介になるよ。
でも、今度は一人で起きるんだぞ。職場が違うんだから、一緒に行ってやれな
いからな。」
「ありがとう、祐一…。 嬉しいよ…。」
嬉しそうに微笑む、名雪。
その瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。
「今、俺にできるのは、これだけだ。これで勘弁してくれ…。」
祐一は、雪の積もったコートのまま、名雪を抱き締める。
「本当に、良いの?」
「もし名雪が、俺の事を必要だと思っているのなら、俺はそれに応えよう。
香里も・・・栞も、許してくれた。 後は、俺が俺を許すだけだ。
でも、まだ当分は掛かりそうだから、待っていてくれると嬉しい。」
「一度は諦めたんだもん。待つ位、どうって事ないよ。待っていれば良いんだ
から。」
再び、名雪を強く抱き締める祐一。
その瞬間、空が、一瞬だけ明るくなったように見えた。
”これで良いよな、あゆ、栞…。 これで良いんだよな…。”
祐一は、そう心の中であゆと栞に問い掛けた。
いつの間にか雪は止み、わずかな雲の隙間から幾筋か、日の光が差し込んだ。
その一筋は、まるで祐一と名雪を照らすかのように、辺りを明るく照らした。
【END】
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