【未来へ…。】

 

 春が来た。

 長く続いた白い世界から、やっと色のついた世界へと移り変わった。

 そして、祐一にも春が来た。

 正確には、「奇跡が起きた」というべきだろうか。

 ものみの丘で消え去った、あの沢渡真琴が帰ってきたのである。

 

 ある日、何かを感じ取った祐一と美汐の2人は、雪が溶けたばかりのものみの丘へ駆け急いでい

た。

  「やっぱり、お前も感じたのか?」

  「ええ、祐一さんもですか…。もしかして…。」

 どこかで聞き覚えのある鈴の音が聞こえる方向へ歩いていくと、ぴろがまるで2人を待っている

かのように座りこんでいた。

  「ぴろ…。最近また見なくなったと思ったら、ここにいたのか…。もしかして、お前はここで

真琴を待っているのか?」

 ぴろに言葉が判るはずもないのだが、『うにゃぁ』と喜んだような声をあげると森の中へゆっくり

入っていった。まるで祐一を誘っているかのように何度か振り返りながら…。

  「何か見せたい物でもあるのか?」

 祐一がそう言ってぴろに近づこうとした時、また鈴の音が聞こえた。

 ぴろのいる方向から、まるで祐一を誘うかのように…。

  「まさか…。」

 ぴろが遠ざかって行く。いつしか祐一は走り出していた。

 そして、ぴろが招くように分け入った森の中に、あの時と同じ姿の真琴がいた。

 腕にあの時の鈴を付けたままで…。

  「まことぉぉぉぉ!」

 祐一は大声を上げて泣きながら真琴を抱きしめる。

 しかしそれでも真琴は気付かなかった。

 真琴とぴろを抱きかかえ、水瀬家へと急ぐ祐一。

 その姿を美汐は丘の上から見ていた。奇跡が起こった事を見届けるかのように。

  「奇跡は、起きたのね…。奇跡が起きる事を、誰よりも強く願った人に…。」

 美汐はそうつぶやいた。頬にひとしずくの涙を伝わせながら…。

 

 祐一は家に着くなり大声で叫ぶ。

  「秋子さん!秋子さん!真琴が、真琴が…。」

  「どうしたんですか、そんな大声で…。」

 秋子が台所から出てくる。

 祐一が抱きかかえていた真琴の姿を見た秋子は、

  「あらあら、お布団の用意しますね。お腹空かせているでしょうから、ご飯の用意もしないと。」

 と相変わらず動じない。

 ただ名雪だけが、涙・鼻水をだだもれにしながら喜んでいた。しかし、真琴が帰ってきた事に喜

んでいるのではない。「ぴろが」帰ってきた事に喜んでいるのである。

  「ねこ〜ねこ〜ねこ〜。 ぐしぐし… ねこ〜ねこ〜。」

 猫アレルギーの猫好き。まったくもって、不憫な名雪である。

 結局、真琴が起きたのはそれから2日後だった。

  「あうーっ、おなかすいたよう…。」

 という声と共に…。

 

 

 ようやく春が本番となった、ある日曜日の午後。

 祐一と真琴は秋子さんに頼まれて夕飯用食材の買い物の為、街に出かけた。

 帰り道、真琴はがっくりと肩を落として歩いている。

 しかし荷物が重いからという事では決してない。なぜなら荷物は祐一が全部持っているからだ。 

  「えーっ、もう肉まん売ってないの?」

  「季節が終わったからねぇ。また秋になったらおいで。」

 肉まんを買いに行った真琴が、パン屋の主人にそう言われたからである。

  「あうーっ、肉まん…。」

 とぼとぼと歩く真琴。そんな時、真琴がふと壁に目をやる。

 祐一が通り過ぎようとしても、真琴はずっと壁を見つめている。

  「どうしたんだ、真琴。置いていくぞ。」

  「ねぇ祐一、『とこなつ』ってどういう意味?」

  「読んで字のとおりだ。」

  「あうーっ、それじゃわかんないよ…。」

  「1年365日、ずっと夏って事だ。」

  「じゃ、雪降らないの?」

  「あぁ。」

  「どうなったら、『とこなつ』になるの?」

  「なるんじゃない。年中夏みたいに暑い所があるんだ。そこの事を『常夏の地』とか『常夏の

島』とかいうんだよ。もちろん、そんな所に肉まんはないぞ。」

  「行きたいな…。」

  「歩いてはいけないぞ。それに、そんな金も無いしな。」

  「どうやったら行けるの?」

 真琴の視線を追って、祐一が壁に目をやる。

 『○○市アマチュア音楽祭 ○月○日開催』と書いてある。

  「市民公園でバンドコンテストを開催。自作曲、他人の曲、どちらでも可。優勝者には3泊4

日で常夏の島、ハワイへご招待。2人以上で参加が条件、か。」

  「ねぇ、どうやったら行けるの?」

  「銀行強盗でもしてこい。うまくいったら、ハワイでもどこでも行ける。」

  「あうーっ、それは無理だよ…。」

  「じゃ、諦めろ。どのみち、4ヶ月も待てば夏になる。」

  「…もう、冬はイヤなんだよ…。」

  「…?」

  「一人になりたくないの…。」

 真琴の言葉に、祐一は答えを予想しながら問い掛ける。

  「冬が、怖いのか?」

 真琴はうなずく。

  「今、もう4月でしょ?目が覚めた時には雪もすっかり溶けてたけど、溶け始めた頃何があっ

たか、覚えてないの。」

 祐一が真琴に帰宅を促す。

  「それは、歩きながら話そう。俺は荷物が重くて辛いぞ。」

 二人は歩きながら再び話を始める。

  「祐一と秋子さんと名雪と皆で写真を撮った所は覚えてるんだけど、祐一が言っていた、も

のみの丘での結婚式、ぜんぜん思い出せないの。写真を撮ったのも、ずっと昔のような気が

する。それに、一人でとっても遠い所にいっていたような気がするの。出口の無い静かな部

屋に一人で、寂しくて、声を出しても誰も答えてくれない、そんな所にいたような気がする

の。」

 祐一が真琴の言葉を予想していたかのように答える。

  「まるで、冬が真琴一人をどこかに閉じ込めていた、そんな感じがするという事か?」

 真琴は首を縦に振る。

  「そうか…。」

  「怖いの。祐一も、秋子さんも、名雪も、誰もいない、そんな世界があったような気がする事

が。そして、それを思い出すのは、雪とか、スキーとかの、冬の景色…。」

 祐一は、そんな真琴の言葉を黙って聞いていた。

 

 夕食後、真琴が風呂に入っている間に祐一は秋子に相談をもちかける。名雪は居間でテレビを見

ていた。

  「秋子さん、来月、音楽祭があるの、知ってました?」

  「はい、確か公園でコンサートがあるんですよね?」

  「一緒にアマチュアのバンドコンテストもあるらしいんですが…。」

  「祐一さん、出るんですか?」

 秋子は普段何事にも動じない性格だが、こういう時のカンは鋭い。

  「それですけど、俺、秋子さん、名雪、真琴の4人で出てみたいなと思いまして…。」

  「う〜ん…。」

 いつもなら一秒で『了承。』とかいう秋子が珍しく悩んでいる。

  「やっぱり無理ですか?」

  「私は良いんですけど…。その場合、名雪が唄うんですか?」

  「いや、真琴に唄わせようかと思っているんですけど。」

  「困ったわね…。」

  「名雪が唄わないのが、何か困るんですか?」

  「あの子、楽器がまるっきりダメで…。小さい頃にピアノとかヴァイオリンとか習わせたりも

したんですけど、結局ダメだったんです。その点だけは、どっちにも似なくて…。」

  「どっちにも似ないって、秋子さん、楽器できるんですか?」

  「学生時代にピアノを弾いて唄ってました。あの人もギターを弾いてて、2人で音楽室を使っ

て友達を集めてミニコンサートをやってたんですよ。」

 祐一にとっては意外だったが、まさに「棚からボタモチ」な話だった。

 しかし、確かに学校では美術と音楽の選択で、名雪は美術を選んでいたが、楽器がダメというの

は記憶に無かった。 

  「でも、打楽器ぐらいだったらなんとかなるんじゃないでしょうか?」

「たぶんその楽器の音量より『イチ、ニ』という掛け声の方が大きくなると思います。

それもあって、名雪は部活を選ぶ時、運動部にしたみたいですよ。」

祐一はそういわれて、演奏する名雪の姿を想像してみた。

 『イチ、ニ、サン、シ… あっ、ずれちゃった!』

 そういいながら打楽器を叩く名雪の姿が浮かび、祐一は深くため息をついた。

  「はぁ…。」

  「唄うのは、大丈夫みたいなんですけどね…。」

 祐一は名雪を参加させる事を諦めた。この様子じゃ、本人に直接言っても無理だろう。

  「ところで、急に出てみようと思ったのはどうしてですか?」

  「今日、真琴がポスターに釘付けになってたんですよ。『優勝したバンドには常夏の島、ハワ

イにご招待』って所に。冬が来るとまた別れが来るんじゃないかと心配しているみたいな

んですよね。だから、雪のない所に行きたいって。」

  「そう、それで…。」

  「ずっと住むわけにはいきませんけど、それで冬になったら連れて行こうと思いましてね。

夏に常夏の島に行っても仕方ありませんから。」

  「了承。」

 秋子のいつもの一言に、祐一もホッとしたようだ。

「祐一さんは何か楽器はできるんですか?」

  「友達がギターを持っているんで、それを借りようかと思ってます。1ヶ月しかないから、

たいした事はできませんけど、練習した事はありますから。」

  「…じゃあ、久しぶりに出してみましょうか。」

 というと、秋子は立ち上がる。

  「祐一さん、ちょっと手伝って頂けますか?」

 そう言われた祐一は秋子と共に2階に向かう。

2人が向かったのは2階奥、真琴のいる部屋の更に奥にある納戸である。いつもは鍵を掛けてい

て、開けた所は祐一も見た事が無い。

 「ここがなにか…。」

  「もう開ける事はないと思っていたんですけどね…。」

 秋子が鍵を開ける。

 中には、黒いケースが2つ、それと納戸一杯に積まれたダンボール箱があった。

  「祐一さん、これを使ってください。」

 といって、秋子は2つあるケースのうちの片方を手渡した。その形は明らかにギターのケースで

あった。持った瞬間、それが秋子にとって、そして名雪にとっても大事な物である事が直感でわか

った。

  「秋子さん、いいんですか?これを使わせてもらって…。」

「物というのは使われて価値が出る物です。ずっと使われずに朽ち果ててしまうより、誰かに

使ってもらった方があの人も喜ぶと思うし…。」

 名雪も『お父さんの使ってた物ってあんまり見た事ないんだよ。普段使う事はないし、それを本

当にお父さんが使ってたかどうか、覚えてもいないし。』と言っていた。これもたぶんその一つだろ

う。

  「じゃ、祐一さん。この大きいのを出すので手伝ってください。」

  「あっ、はい。」

 2人はその大きなケースを外に出す。とりあえず、身近な真琴の部屋に置く事にした。

  「壊れてなければいいけど…」

 といって秋子は留め金を外してケースを開ける。

 中には電子ピアノが収納されていた。あちこちに傷がついていて、何かのシールを貼った跡も残

っている。

 とりあえず電気のケーブルを繋いでスイッチを入れる。

 鍵盤を押さえると、ちゃんと音が出た。

  「まだ使えるようですね。じゃ、ここで組み立ててしまいましょう。部屋が狭くなるから真琴

ちゃんには悪いけど…。」

  「大丈夫ですよ。それよりも、これを真琴が壊したりしないかだけが心配で。」

 ケースの中から足になる部分を取り出し、組み立てる。全部組み上がった所で立ててみて、バラ

ンスを確認してから上に電子ピアノを載せる。

  「ひとまずはこれで大丈夫ね。」

秋子は空のケースを納戸にしまい直す為部屋を出る。

 祐一は自分の部屋に戻ってギターケースを開けてみた。弦は錆びてボロボロだったが、ギターに

は大きな傷はなかった。むしろ、細かい傷が多く、使い込まれた物である事を伺わせた。

 その後2人は再び1階に戻り、ダイニングルームでお茶を飲みながら計画を立てる。

  「祐一さん、ところで、何の曲をやるか決めてあるんですか?」

「人数が人数なんで、ありがちですけどKiroroの『未来へ』を考えてます。」

「それって、本屋さんに楽譜とか売ってそうですか?」

「だいぶ流行った曲ですから、あると思いますよ。曲はたぶん名雪がCD持っていると思いま

す。」

「じゃ、明日私が探してきましょう。」

「俺が行ってきますよ。ギターの弦を買わないといけませんから。」

「お願いします。」

「いえ、こちらこそ急に無理なお願いして…。」

 TVを観終わった名雪が居間からやってくる。

  「何の話してるの?」

  「お前の昔話。」

 TVが終わって半分寝たような顔をしていた名雪だが、今の祐一の言葉で目が覚めたようである。

  「えっ?な、何の話?」

  「お前が小さい頃、ピアノとヴァイオリンを習ってたけど、結局ダメだったって話だ。」

  「あ、あの…。両手を別々に動かすのがダメなんだよ。走る時に手を振るのは大丈夫なんだけ

ど…。」

 名雪は顔を真っ赤にして、恥ずかしそうに答えた。

  「だから、諦める事にした。明日、買い物に行くから付き合え。」

  「祐一、話が判らないよ〜。」

  「明日教えてやるから、買い物に付き合え。」

  「…わかった。」

 名雪は判ったような判らないような顔をしながら、寝る為に部屋に戻っていった。

 祐一も部屋に戻る事にした。しかし、2階に上がった所で風呂上りの真琴に部屋へ引きずり込ま

れる。部屋には名雪もいた。

  「…なによ、これ。」

  「企業秘密だ。」

 名雪が懐かしそうにあちこちを見ながら言う。

  「うわぁ、懐かしい〜。ほら祐一見て、これ。ここにシール貼って2人で怒られたんだよ〜。」

  「えっ?何の話だ?」

  「ほら、ここのシールの跡。チョコのオマケに付いてたシールを祐一と2人で貼って、お母さ

んに怒られたんだよ。」

  「全然記憶にないぞ。」

  「そりゃそうだよ。祐一が初めてうちに遊びに来たときの話だもん。」

 真琴がそこに割って入る。

  「だから、なによ、これ。」

  「さっきも言ったろう?企業秘密だ。言っておくが、秋子さんの大事な物だから、壊すなよ。」

  「何かくらいは教えなさいよ。」

  「常夏の島に行く為の秘密兵器だ。」

  「えっ…?」

 真琴が驚く。名雪も驚いた表情をしている。

  「これでどこかに行くの?これ、ピアノでしょ?」

  「だから、企業秘密だ。」

 名雪も真琴も頭の回りにハテナマークが一杯浮かんでいるようだった。

 祐一はそんな2人を放っておいて自分の部屋に戻る。

 

 

 翌日、祐一は名雪と共に楽器店に向かった。

  「…そういう事だったの。だったら応援するよ。」

  「応援だけじゃなくて、一緒にやって欲しいんだけどな。真琴の為にも。」

  「真琴ちゃんの為にも、応援だけにしておくよ。」

  「…わかった。」

 2人が楽器店に入ると、そこには北川がいた。

  「よお相沢。お前とここで会うとは思わなかったぞ。」

  「一字一句違わず、同じ言葉をお前に返そう。」

  「そうそう。ギター、貸せなくなった。悪いな。」

  「いや、他にあてができたんで、その件は忘れてくれ。」

  「わかった。じゃあな。」

 北川は手に持っていた楽譜をカウンターに持っていき、会計を済ますと店を出て行く。

店では楽譜集は簡単に見つかった。ギターの弦と一緒に買って店を出る。

 「北川がこんな所にいるとは…。イヤな予感がする。」

 「別にいいじゃない。北川くんだって趣味の一つくらいあるだろうし。」

そういわれてとりあえず納得する祐一であった。

 

家に帰ると、2階からピアノの音がする。秋子が弾いているようである。

 「ちょっと待てよ…。この曲は…。」

 「わぁ、お母さんが弾いてるのかなぁ。」

流れてきたのはCarpentersの「Top of the world」だった。ちょっと途切れる所もあったが、

ほぼ全編通して弾いていた。

2人で2階に上がると、そこにはピアノを弾く秋子と、それを見ている真琴がいた。

 「あら、2人ともおかえりなさい。」

 「今帰りました。楽譜、見つかりましたよ。」

 「じゃ、ちょっと見せてもらえますか?昔のカンを思い出しながら弾いていたんですけど、

ちょっと練習が必要ですね。」

 名雪が嬉しそうに言う。

  「お母さん、今の曲もう一度弾いてみて。」

  「じゃ、ちょっとだけ。」

 と言って、秋子は譜面を脇に置くと再び弾き出した。歌も一緒に唄っている。

  「わぁ、すごい…。お母さんがこういう事をする所って見た事なかった…。」

 秋子は1番の歌詞を歌い終わった所で止める。

  「お母さん、祐一、頑張ってね。私応援するから。」

 名雪はすっかり興奮している。しかしそれとは対照的に、真琴はただボーっとしている。

  「じゃ、ちょっとCD取って来るね。」

 と名雪が自分の部屋に戻る。秋子は楽譜に目を通している。

  「テンポはどれくらいなんですか?」

 秋子が譜面を見ながら祐一に尋ねる。

  「曲を聴いた方が早いですけど、ゆっくり目です。」

  「じゃあ、こんな感じかしら。」

 と秋子はピアノの前にある譜面台に楽譜を置き、譜面を頼りに弾き始める。

  「あ、そうそう。そんな感じです。それよりもう少し遅いくらい。」

  「じゃ、何とかなりそうですね。BEATLESの『LET IT BE』がこれ位だから。」

 ボーっと見ていた真琴が口を開く。

  「…おなかすいた。」

 秋子は微笑む。正反対に祐一は呆れた顔をする。

  「お前はそれしか言う事がないのか?」

  「あうーっ、だって本当なんだもん…。」

 名雪がCDラジカセを持ってくる。既にCDは中に入れてあるようだ。

  「お母さん、これだよ。聴いてみて。」

 名雪がケーブルをコンセントに繋いで、CDのPLAYボタンを押した。

  ♪ほら、足元を見てごらん、あれがあなたの歩む道…♪

 秋子が置いてあった譜面を追いかけながら曲を聴く。

  「これなら、それほど時間も掛からずに済みそうですね。」

  「そう言ってもらうと助かります。ギターの方がちょっと心配だから。」

 真琴が祐一に尋ねる。

  「何かするの?」

  「この曲を3人で一緒に演奏して、唄うんだ。」

  「ふーん、頑張ってね。」

  「何言ってるんだ。真琴、お前が唄うんだよ。」

  「…えっ?」

 真琴は起き上がって祐一の方を向く。

  「だから、聞こえなかったか?お前が唄うんだ。」

  「ちょ、ちょ、ちょっとまってよー…!」

 

 

 夕飯を取る4人。しかし、真琴だけが1人暗く沈んでいた。 

  「ねぇ祐一。やっぱり、唄わないとダメ?」

  「『とこなつ』に行きたければ、唄え。ダメなら、諦めろ。」

  「あうーっ、名雪が唄えばいいじゃない。」

  「行きたいのはお前だろ?秋子さんと俺で演奏するから、お前は唄え。」

  「そんなの無理だよ…。今まで歌なんか唄った事ないのに…。」

  「じゃ真琴、お前何か楽器を演奏できるか?」

  「そんなのもっと無理だよ…。」

  「じゃ、唄え。今一番手っ取り早く、常夏の国に行けるのは、それしかない。」

 祐一の言葉に、真琴はがっくりとうなだれる。

  「大丈夫だよ。CDを何度も聴いて覚えれば。その間、猫は私が観てるから。」

 名雪が真琴にそういう。

  「…ちょっと待て。お前は猫アレルギーだろうが!」

  「でも、誰かが観てないと…。」

  「却下。」

  「う…。ねこ〜、ねこ〜。 ねこ〜ねこ〜ねこ〜。」

 名雪は諦めきれないようである。

 

 日にちが進むにつれ、祐一のギターも何とか形になってきた。秋子も仕事の合間に練習をして、

譜面無しでほぼ弾きこなせるようになってきている。

 しかし、ここで大きな問題が浮上してきた。かなり重大な問題である。

 真琴が致命的な音痴だったという事が判明したのだ。

 さすがの秋子も困っているようである。

  「…これは困りましたね。」

 真琴も肩を落としてがっくりとうなだれている。

  「真琴、もう一度唄ってみろ。」

  「あうーっ…。」

 CDに合わせて唄ってみる。しかし、どうしても音が外れる。

  「名雪、ちょっと唄ってみろ。」

  「えっ、私が?」

  「CDじゃなくて、誰かが唄うのを聴いた方が覚えるかも知れん。」

 という祐一に言われ、名雪が歌い出す。ほぼ完璧だ。

  「…名雪、すまないが、真琴について教えてやってくれ。やっぱり、唄える奴が教えないとダ

メみたいだ。」

 突然の事に名雪は驚く。

  「えっ?困るよ…。来週は陸上の予選会があるんだよ。」

  「時間がある時でいい。演奏の方はこっちでまとめておくから。」

  「そうは言っても…。」

 その日の祐一の練習には熱がこもった。真琴に唄わせるためには、演奏を十分な物にしなければ

ならなくなったからである。

 

 その甲斐あってか、祐一と秋子の演奏はなんとか人に聴かせられる程度にはなっていた。

 しかし、あと1週間という所で、練習は中に浮いてしまった。

 陸上の予選会の為、名雪が風邪をひいてノドをやられたのだ。

 予選会の数日前から曇りがちの天気だったが、当日一気に気温が下がり最悪のコンディションと

なった。各選手とも自分の体調を崩さぬように苦労していたが、名雪は真琴の練習に付き合ったり

して遅くまで起きていた。それと気温変化が追いうちをかけてしまい、予選会は走りきったものの、

家に帰ってきた頃には顔を真っ赤にしていた。

 幸いにして肺炎云々という事はなかったが、すっかり体調を崩し声が出なくなってしまったのだ。

  「う〜む…。」

 さすがに祐一も頭を抱えてしまった。

  「こうなった以上仕方ないですね…。」

 秋子が祐一に言う。

  「とにかく、予定通り3人で出ましょう。」

 秋子の言葉に祐一は驚いた。てっきり、出場を止めようと言ってくると思ったからだ。

  「しかし、名雪があの状態では…。」

  「真琴ちゃんが何とかしてくれますよ。たぶん。」

  「しかし…。」

  「何事も、本番になってみないとわかりませんわ。それに、ずっと唄は聴いていたんですもの。

なんとかなりますよ。」

  「そんなもんでしょうか…。」

  「どうにかならなくったって、死ぬわけじゃないんですもの。大丈夫ですよ。それに、唄とい

うのは上手い下手だけじゃなくて、人に聴いて欲しいという気持ちが大事なんですよ。」

 秋子の一言は祐一の目を覚まさせた。

  『誰かに聴いて欲しいという気持ち…』

 祐一の目に何かが光った。

 

  「あうーっ、やっぱり無理だよ…。」

 真琴が震えている。会場に向かう直前、真琴は逃げ出そうとしたが、それを察知した祐一に見事

に阻止された。

 しかし、阻止成功の決め手は秋子の一言だった。

  「終わったら、大通りの中華料理屋さんで特大肉まんを食べましょうね。」

 出番は刻一刻と近づいている。祐一は真琴を励ます。

  「なら、常夏の国は諦めるのか?」

  「あうーっ、でも、でも、やっぱり無理だよ…。」

  「…真琴。じゃ、俺の為に唄ってくれ。それならできるだろう?」

  「祐一の為に?」

  「そうだ、俺の為に、だ。」

  「でも、祐一は後ろで演奏しているし…。」

  「そうだ。お前の目の前に俺はいない。でも後ろにちゃんといる。演奏しながら、お前の唄を

ちゃんと聴いている。だから、俺の為に唄ってくれ。」

  「でも、私ヘタだし…。」

  「俺が良い、と言えれば、それでいいよ。俺の為に唄うんだから、俺が満足すれば、それでい

いよ。それなら唄えるだろ?」

 前のバンドの演奏が終わる。秋子が寄ってくる。

  「さぁ、行きましょうか。」

 祐一が真琴の背中を叩く。

  「よし、決まった!!行くぞ!」

 真琴は繰り返しつぶやく。

  「祐一の為に、か…。」

 真琴は唄った。なによりも、祐一の為に。

 

 とはいえ、練習の時よりいい結果となったものの、やっぱり最後まで上手くは唄えなかった。

 結局、準優勝も逃し、参加賞のみに留まった。

  「あっ!!あれは…。」

 優勝の目録を貰うバンドのメンバーの中に、北川の顔があった。

  「ちっ、やっぱり疫病神はあいつだったか…。」

 祐一の拳が震えていた。

 

 コンテストが終わり、中華料理屋へ向かう3人。

 真琴はやっぱりどこか元気がない。

  「がっかりするな、真琴。よくやったじゃないか。」

 真琴が口を開く。

  「でも、『常夏の島』が…。」

  「そうだな…。でも、間違いなくお前が一人じゃないっていう証が残ったんだ。俺達だけじゃ

なく、観に来てくれた人全員にな。」

 真琴の肩がびくっと震える。祐一が言葉を続ける。

  「冬が来ても、常夏の国なら自分は消えないと思ったんだろう?」

  「あうーっ…。」

 真琴は目にうっすらと涙を浮かべる。

  「もう大丈夫だよ。お前が唄った所は来ていた人皆が見ているんだし、美汐に頼んで俺達の唄

と演奏をテープに、香里にも頼んで写真を撮ってもらっている。

   北川達が優勝したから、学校で作っている新聞にも写真と記事が載るだろう。」

  「じゃ…。」

  「お前はもうこの街の住人だよ。一人じゃない。冬が来たって、もうどこにも行く事はないさ。

俺達以外の人がお前のいることを知ったんだ。大丈夫だよ。」

 祐一の言葉に、真琴は微笑む。

  「お前はもう、水瀬家に住んでいる、『殺村凶子』っていう名前の女の子だよ。」

 一瞬微笑んだ真琴の顔が一瞬にして凍りつく。

  「…ちょっと待ちなさいよ!あたしは『沢渡真琴』!『殺村凶子』って誰よ!」

 真琴が怒って祐一に殴りかかる。

  「そうやって殴りかかってきたんだったな…。あの時。」

 そういう祐一の言葉に、真琴が手を止める。

  「…覚えてたの?」

  「当たり前だよ。お前と初めて会った時の事を忘れるわけは無いよ。」

 祐一は、そういって真琴を抱き締める。真琴の目にはうっすらと涙が浮かんでいる。

  「ほらほら、早く行きましょう。お腹空いたでしょ?」

 秋子が兆度良いタイミングで助け舟を出す。その言葉に真琴は振り向いて秋子の方へと向かった。

 祐一は走り行く真琴に向かってこう言う。

  「なぁ真琴、夏になったら、みんなで海に行こうな。いっぱい泳いで、一杯日焼けして、夜に

なったら花火をやるんだ。」

  「(一秒)了承。」

 相変わらずな秋子の一言であった。

 

   ♪ほら、足元を見てごらん… あれがあなたの歩む道♪

   ♪ほら、前を見てごらん…  あれがあなたの未来…♪

   ♪未来に向かって、一緒に歩いて行こう…♪

 

 

 

 <蛇足という名の後日談>

 

 名雪「…それにしても、残念だったね。観に行けなくてゴメン。」

 祐一「しかしそれにしても、北川のやつ、出るなら出るって一言言えってのに…。」

 名雪「えっ?北川君、出ること、言ってたよ?香里も聞いてたし。」

 祐一「なに??」

 名雪「だって、出るから観に来てくれ、って言ってたもの。祐一たちも出るって知ってたはずだ

よ。私と香里でそう言ったもん。」

  

そこに香里登場。

 

 香里「…相沢君。あれ、狙ってたみたいよ。」

 祐一「何の事だ?」

 香里「北川君の事。あの時の他のメンバー、コンテスト荒らしで有名な連中だったんだって。今

さっき友達から聞いてきたの。」

 祐一「じゃ、あいつ…。」

 香里「そういうこと。最初から、優勝を狙う気でコンテストに出たのよ。他の連中は一人くらい

素人がいても全然問題無い位演奏が上手いらしいわ。」

 名雪「じゃ、祐一たちが出ることも全て知ってて…。」

 香里「そう。相沢君が出る事も、どういう理由でコンテストに出るかも知っていて、その上で出

て優勝したのよ。たぶん、分け前をやるから北川君の名前で応募しろ、って事みたい。

他の連中は名前が知れているからそのままじゃ出場できないし。」

 祐一「……殺ス!」

 香里「私も許せないわ。相沢君達が優勝できないのが判ってたのに、黙ってたって事が。」

 祐一「香里、手伝え。」

 香里「じゃ、後の詳しい話は昼休みに屋上入口の踊り場で。」

 祐一「なんでそんな所に?」

 香里「…手は多いに越した事はないでしょう。」

 

 

 それから1週間ほどたったある日、サンドバッグ状の袋に押し込められ、体育館の天井からぶら

下げられて気を失っている北川の姿が発見された。

 かなり長時間振り子のように揺らされていたらしく、袋の中には胃の中の物を吐いた跡があった。

何か果物系のジャムを食べたようだったが、それが何であるか、誰にも判らなかった。何せ、家庭

科の教諭が特定できなかったくらいである。

 なぜそのような状態になったのかすら思い出せないほどの心身喪失状態であった為、北川はしば

らく入院することとなった。

 

 北川が復帰してきた時、廊下では相沢祐一、美坂香里、川澄舞、倉田佐祐理の四人が話をしてい

た。前を通り過ぎようとした北川に対し、香里が他の人には聞こえない位の声で言った。

  「…秋子さん特製のジャム、美味しかった?」

 北川はハッとして振りかえる。

 

 彼の背後で、4人が不気味に笑っていた。

 …ニヤソ。

 

 【END】

 

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