【罪と罰】
その日、2月1日。
時計の針がその日を告げる瞬間、祐一と栞は唇を重ねていた。
栞は、最後になるであろう恋人との思い出を作るため。
そして祐一は、思い出作りと、ほんのわずかな可能性、「再会」を願う為。
『さようなら、祐一さん。』
振り向かず、前を向いたまま歩く栞。それが、祐一との約束だからだ。
“一週間後の2月1日、私は祐一さんの前からいなくなります”
その言葉の通り、たった今、栞は祐一の前から姿を消した。
ドサッ…。
栞が姿を消した方向から音がする。なにかが雪の中に落ちたような、そんな音だ。
「…しおりっ! しおりったらぁ!」
突然の叫び声。
「…香里か!?」
祐一は走り出していた。声に聞き覚えがあるからだ。
香里。祐一のクラスメイト。名雪の親友。
そして、栞の姉。
『美坂です。救急車を、噴水公園の東門前に、急いでお願いします!』
携帯電話で電話をする香里。話の内容から、恐らく病院に掛けているのだろう。
「香里!栞は…。」
「相沢君…。」
息を切らせて走ってきた祐一を、香里は寂しげな、何か言いたそうな目で見つめる。
香里の両腕の中には、目を閉じてうずくまっている栞の姿があった。
雪道の中、服が吸った水分で身体が冷えるのも厭わず座って栞を抱きかかえている香里。
祐一には、それをただ見ているだけしかできなかった。
はぁ… はぁ…
凛とした空気の中、栞の息遣いだけが聞こえてくる。
その空気を切り裂くように走ってくる救急車。
「俺も一緒に…。」
そう言いかけた祐一を、香里が制する。
「栞の言葉、忘れたわけじゃないでしょ、相沢君。」
「えっ? あ、あぁ…。」
「この姿を好きな人に見られたくなかったから、栞は相沢君に『いなくなります』って言った
のよ。それを察してあげて、栞の事を思ってくれているのなら。」
「しかし、香里がなぜその事を…。」
「なぜ私がここにいるかを考えれば、判るでしょう?」
何も言えずただ立ちつくす祐一。
バタン…
栞と香里の姿が救急車の中に消え、その救急車も再び空気を切り裂くように走っていく。
「栞…。 俺は…。 でもやっぱり、俺は…。」
翌日。
香里は学校には来なかった。
その翌日も、やはり学校には来なかった。
「香里、しばらく休みだって。栞ちゃんの付き添いで病院に行ったみたいだよ。」
やや心配そうにしながらも、いつも通りの名雪が休み時間にそう言う。
その言葉が、一昨晩のあの光景を呼び起こさせ、祐一の心によりいっそうの不安をもたらした。
祐一は、授業が終わると脱兎のごとく学校を飛び出していた。
行き先は、街の中央病院。
深夜でも患者を受け入れ、治療や手術の為の設備が揃っているのは、この街ではそこしかないか
らである。
「すみません。こちらに、美坂栞さんは入院されてませんか?」
受付で栞の居所をつきとめようとする祐一。
「えぇと… 第二病棟の503号室ですね。昨日入院されてますが…。面会をご希望ですか?」
「はい!」
「…残念ながら、面会謝絶となっております。」
受付の女性がそう祐一に告げる。
「…あ、ありがとうございます。」
事態を予想していたとはいえ、『面会謝絶』という言葉に祐一は打ちのめされた。
2月1日で栞との思い出が途切れてしまう、という絶望が祐一に襲いかかる。
「とにかく、行くだけは…。」
せめて病室の前まで、と祐一は第二病棟へ向かった。
503号室の扉の前に立つ。
そこには、『面会謝絶』と書かれた札が掛けられていた。
「栞…。あれが『さよなら』だなんて、やっぱり悲し過ぎるよ…。」
思わずそんな言葉を漏らす祐一。
ガチャ…。
部屋の扉が開く。
「香里…。」
「…相沢君。良くここが判ったわね。」
部屋から出てきたのは、香里だった。手にはタオルと洗面器を持っている。
タオルにはうっすらと赤黒い染みができていて、洗面器の中の水も紅色に染まっている。
「あぁ…。俺は諦めの悪い男なんでな、捜しに来た。」
「ちょっと待ってて。タオルを洗ってくるから。」
香里はそう言うと、トイレ脇に作られた流し場へと向かった。あのタオルは、恐らく喀血した栞
の血を拭った物だろう。
「血を吐くまで…。なんでそんなになるまで…。」
祐一は壁にもたれかかり、誰とはなしにそんな言葉を口にする。
「…相沢君。栞に、会っていく?」
流し場から戻ってきた香里が祐一に入室を促す。
「良いのか?面会謝絶だろう?」
「今、薬で眠ってるからただ会うだけだけど、それだけでも良いのなら…。」
「あ、あぁ…。」
香里の後について病室に入る祐一。
シューという音だけが妙に響いている病室。ベッドとカーテン、身の回りの物を置く棚。
ただそれだけの殺風景な部屋の中に、栞は横たわっていた。
…鼻の辺りにチューブを付けて。
そのチューブはベッドの脇にある機材に接続され、見えにくい位置に酸素ボンベらしき物が置か
れている。
「栞…。」
思わず祐一は声を掛ける。
「目覚めはしないわ。さっき私も声を掛けたから。」
「…何の為に?」
「私がタオルと洗面器を持っていたのは、何の為?」
病状が落ちついたのを見計らって、『タオルを洗ってくるね』とでも声を掛けたのだろう。
それに気付いて、祐一は黙って栞の方を見続ける。
「…なぁ香里。栞の病気って、いったい何なんだ?」
「…風邪よ。」
「よくこんな状態で、冗談が言えるな!」
思わず声を荒げてしまった祐一。
「冗談でも言わないと、やってられないわよ…。 ううっ…。」
香里の泣き出す姿に、祐一は己の取った言動を恥じた。
祐一にとって栞が大事な恋人である以上に、香里にとって栞は大事な妹なのだ。
「すまなかった…。 でも、本当の事を教えてくれ。」
「心室中隔欠損症…。しかも、過去に例の無い再発性の…。」
心臓内、右心室と左心室を分ける隔壁の部分に穴が開く事である。そこに穴が開くという事は、
本来動脈から全身に送り出されるはずの血液が、肺の毛細血管にも流れるという事を意味する。
全身に流れるはずの高圧の血液が、肺の無数の毛細血管に流れる…。
当然、毛細血管はずたずたになり、肺の機能は失われる。
「一度、手術をしたの。でも既に肺の機能は落ちていた。だから、栞は家の中で大人しくして
いるしかなかったのよ。でも、再発してしまった…。あり得ないと言われていたのに…。」
「じゃあ、栞はこのままだと…。」
「心臓と肺、両方を移植でもして取り替えない限り、二度と起き上がる事はないわ。待ってい
ても肺が壊れていって、て、天国に…ち、近づくだけ…。」
香里がすすり泣く声が聞こえてくる。
「どうにかならないのか…。移植手術ってのは…。」
「今、両親が移植コーディネーターの織笠って人と話をしているわ。ただ、移植を待っている
人は大勢いるし、それに…。」
「それに、なんだよ…。」
「臓器移植法っていうのがあって、くれる本人とその家族、両方が移植に同意していないと移
植手術はできないの。いくら本人がそれを望んでいたとしても、家族が許さない限り、移植
は不可能…。」
「でも、本人が望んでいるんだろう?家族が反対する理由なんて…」
その言葉に、香里が鋭い視線を向ける。
「相沢君。あなた、名雪や秋子さんが事故で死んでしまったとして、2人が同意してたからと
いって遺体から臓器を取り出す事にOKできる? 今言っているのは、そういう事なのよ。」
香里の一言に、愕然とする祐一。
心臓や肺という代替の効かないものだけに、祐一は何かに訴えてでも栞の為に移植の道を探そう
としていた。しかしそれは、相手の家族の気持ちを踏みにじってでも、という醜いエゴでもあった。
栞が助かるのなら、誰がどうなっても構わないと言う醜いエゴ…。
ガチャ…。
無言のまま栞を見つめ続けていた2人がいる病室の扉が開く。
「香里…。見つかったよ…。 こちらは?」
初老の男とその妻らしき女性が病室に入ってくる。
「あぁ、お父さん…。 相沢祐一さん。前に話したと思うけど、栞の恋人よ。」
香里に『恋人』と紹介されて、照れと居心地の悪さで複雑な表情をしながら祐一が挨拶をする。
「初めまして、相沢祐一です。面会謝絶って言われましたが、来てしまいました。」
「栞の…。 御心配頂いて、ありがとうございます。栞の母です。」
「栞の父親です。来てくれてありがとう。 香里。なんとか見つかったぞ。」
祐一と栞・香里の両親が挨拶を交す。両親ともこころなしかやつれた表情をしている。
「見つかったって、どういう事?」
「栞に、心臓と肺を提供してくれる方だ。コーディネーターの方が、今段取りをしてくれてい
る。」
一瞬にして、病室の雰囲気が変わる。
「じゃあ…栞は…。」
「助かる…かも知れん。」
父の言葉にこらえ切れず涙をこぼす香里。悲しみの涙ではなく、嬉しさの涙だ。
「よかった…よかった…。」
涙ながらに嬉しさを口にする香里。
「香里。 しかし、ミスマッチ1だ。」
「…えっ?」
香里の表情が再び変わる。一気に香里の顔から喜びの表情が消えていく。
「そうなんだよ…。今移植可能な人では、ミスマッチ1のその人がベストなんだ…。」
「それじゃ、それじゃ栞は…。」
「判らん、これこそ、神に祈るしかない…。」
父親が、沈痛な面持ちで香里にそう告げる。
香里の顔は再び暗く沈んでいった。
「あの、話がよく判らないんですが…、栞は助かるんですよね…。」
祐一が、おそるおそる尋ねる。香里の浮き沈みがあまりにも激し過ぎて、尋ねる事がためらわれ
たからだ。
「…助かる確率は、半分も無いわ。」
香里がそう言う。声のトーンは低く、重かった。
「どういう事だ?移植はできるんだろう?」
「移植しても、拒絶反応が出たらおしまいなのよ。ミスマッチゼロならほぼ拒絶反応無し、数
字が増える毎に拒絶反応の出る確率は上がるわ。助かる確率は、その分落ちていく…。
今の状態だと、移植しても助かるかわからないのよ!」
香里が思わず絶叫する。
臓器移植をする際に問題になるのは、細胞の持つ拒否反応だ。人間の身体には免疫があり、外部
からの異物、細菌の侵入を防いでいる。これは言い換えれば、自分の臓器は他では代用が効かない
という事を意味している。
しかし、生物学的に異なる2人の血液型・免疫・遺伝子などが一致した場合、その2人の臓器は
交換しても身体はその臓器を『元々自分の物である』と思って再び活動を始めるのである。逆にい
えば、たとえ家族であっても一致しない場合は移植不可能となる。
この『一致するかどうか』を見る際に使われるのが“ミスマッチ”という言葉だ。
ミスマッチゼロならば、お互いがほぼ完全に一致しているという事になる。1、2と数字が増え
る毎に『2人の身体は合わない』という事になる。
医療技術・薬品の進歩で拒絶反応を抑えられるようになったとはいえ、ミスマッチ1ではやはり
拒絶反応をゼロにはしきれない。これこそ、反応が出ない事を神に祈るしかないのだ。
コンコン…。
病室の部屋をノックする音が聞こえる。
母親が外に出ていって、それが誰であるかを確認した。
「あなた…。コーディネーターさんが、話があるそうです。」
扉を開けた隙間から、母親が顔を出して父親にそう言う。
「わかった、今行く。 香里、上手くいく事を祈っていてくれ。」
2人が扉の向こうに消えていった。
病室には、再び栞と、香里と、祐一。
重苦しい雰囲気が再び漂う。
ガチャ…
「香里、相沢さん。ちょっと来ていただけますか?」
扉の隙間から、再び母親が顔を出す。
誘われるままに病室の外に出る香里と祐一。
「先方の親族の方が、あなた達に会いたいって。栞は私が看ているから、行ってきて。」
突然の話に驚く2人。特に祐一は、なぜ自分が呼ばれたかが判らなかった。
「なぜ、俺…いや、僕に会いたいと?」
「それは会って直接話をして頂かないと…。私も、『2人に会って話がしたい』と言われただ
けですし…。お願いできますか?」
「はい…。」
母親に言われるままに、病院の小会議室へ向かう香里と祐一。
コンコン…。
「失礼します。」
部屋に入っていく2人。部屋には大学生位の若い青年と、白衣を着た医師らしき人、スーツ姿の
女性の3人が待っていた。恐らくスーツ姿の女性がコーディネーターという人だろう。
「美坂栞の姉の、香里です。」
「相沢祐一です。栞と…将来を誓った者です。」
祐一は、言いにくそうにしながら、はっきりとそう言った。
「まぁ、お二人ともお座り下さい。」
医師らしき人物に椅子を勧められ、青年と相対するように座る2人。
「私が、移植手術を担当する事になる、井沢です。こちらは栞さんのドナーとなる方のご親族
で…」
「はじめまして。藤堂隆道と言います。」
医師の紹介を受けて、青年が挨拶をする。
「私は、臓器移植に関する諸問題の対応と手配をしている、織笠と申します。」
女性がそう挨拶をした。
「事態が事態ですので、我々も最善を尽くしたい。しかし、今のままでは最悪、どちらの方も
亡くなってしまう。幸い…という言葉は不適切ですが、藤堂さんの家族の方はもう昏睡状態
に入られていて、あと数日という所です。しかも、ご本人の意志でドナー登録をされていて、
隆道さんも親族を代表して、移植にOKを出すと言っておられます。」
井沢医師がそう説明をする。
「ただ、ご存知かとは思いますが、臓器移植には提供される方、ドナーの親族の同意も必要と
なります。親族の方が同意されない場合、移植が出来なくなる事もあります。それゆえ、な
るべく手術前に親族の方同士をお引き合わせするのは避けたいのですが、隆道さんの方が面
談を条件に移植を承諾されるとの事だったので、お呼びする事になりました。」
コーディネーターの織笠が話を続ける。
「ご無理を言って申し訳ありませんが、これが私達、残される者の望みです。
では、えぇと、美坂香里さん。栞さんとのマッチングは…。」
隆道が香里に話を始める。
「ミスマッチ3、です…。」
「同じ高校に通われていますよね?」
「はい…。栞は入学式と、つい最近の1週間しか学校に来ませんでしたが…。」
「その姿を見て、辛くありませんでしたか?」
「正直、辛かったです。でも、相沢君、そして友達がいてくれたおかげで、ある日から辛くな
くなりました。」
香里はそういうと祐一の顔を見る。百花屋で仕掛けられた再会、あの日の事を言っているのに気
付いた祐一は、ふと笑った。
「…私も真剣にお聞きしますので、正直に答えて下さい。
栞さんの事、嫌いになった事はありますか?」
隆道の言葉に、一瞬沈黙する香里。
身体がビクッと反応する。
「…一度は、居なければいいとも思った。こんなに別れが悲しいのなら、いっそ最初から居な
ければ、と。 でも、今は…生きていて欲しい。もう一度起きて、笑って、一緒に学校に行
って欲しい…。
妹の事が、好きです。たった一人の妹として、失いたくはありません…。」
香里の悲痛な告白である。あの夜の事が祐一の脳裏をよぎる。
雪が降る夜、学校の校門で泣きながら真実を語ってくれた、あの夜の事が。
「判りました。ありがとうございます。 今度は、相沢祐一さん。」
今度は祐一の番となった。
「はい。」
「栞さんとのマッチングは?」
「今日まで病名すら知らなかったので、検査は受けていません。」
「でも、栞さんが病気である事は知っていた?」
「知っていました。それを承知で3日前、正確には一昨日の午前零時に倒れるまで、栞と一緒
に時を過ごしていました。」
「なぜ、そんな時間まで?」
「一昨日が、栞の誕生日だったからです。そして、その時間までつきあう事は、栞の望みでも
ありました。」
「栞さんは、自分の病気について、何か言っていませんでしたか?」
「病名が判ってもどうにもならない事だから、とだけ。それまでは、病名を尋ねても『風邪で
す』とはぐらかされました。」
「では…正直に答えて下さい。
もし私が、ミスマッチゼロの身体だったら、私を殺してでも栞さんを生かしたいと思います
か?」
突然の、そして冗談とも本気ともつかない質問に、祐一は驚いた。
しばしの沈黙が、部屋を包む。
「…その質問には、答えられない。」
祐一の答えは、隆道を驚かせるほど、意外なものだった。
「なぜですか?」
「…栞は救いたい。でも、救うためにどんな事をしてでも、なんて事は考えてはいけない、そ
う思います。人の死がそこにある以上、誰かが悲しむ事になるだろうけど、自分達『だけ』
が幸せになろうなんて、考えちゃいけないと思う。考えもしない事は、答えられませんよ。」
「でも、目の前に、栞さんを助けられる人が居るんですよ?」
「そんな事をして、栞が元気になったとしても、たぶん栞は喜びませんよ。自分の為に誰かが
犠牲になった、なんて事を知ったら、栞は一生悲しみ続けるでしょう。そういう娘です、栞
は。」
その答えに満足したのか、隆道はふと笑みをこぼした。
「最後に一つ。拒否反応を起こして、やっぱり死ぬ運命にあったとしても、あなたは栞さんを
愛した事に、後悔はしませんか?」
その質問に、一瞬戸惑う祐一。しかし、意を決したかのような顔をして、隆道に答える。
「…俺は、今までも、これからも、後悔はしない、そう栞と約束しました。本当の別れの日が
来るまで、そばに居続けます。」
最後の言葉を、祐一は力強く隆道に、そして香里に投げかけた。
その言葉は、自分に対してでもあったからだ。
「判りました…。 ありがとうございます。私が聞きたかったのは、それだけです。
井沢先生、折笠さん、妹の事を宜しくお願いします。私は戻りますので、これで失礼します。」
そう言って、隆道は席を立つ。
「妹? 藤堂さん、妹って?」
香里が隆道の言葉を疑問に思い、呼びとめる。
「はい。私の妹です。お互い、辛い思いをしてきましたね…。」
優しげな表情を香里に向けると、隆道は部屋を出ていった。
「今回のドナーは、藤堂さんの妹さんになります。年齢も栞さんと同年齢になります。」
コーディネーターの織笠が、香里にそう告げる。
「あ、あぁ…。妹…。」
うつむいて椅子に座る香里。香里も、そして祐一も全てを理解した。
隆道は、本当は移植には反対なのだ。しかし、妹の意志、そして移植を待ち望んでいる人の為に、
全ての感情を呑み込んでしまったのだ。
面談は、相手の移植に賭ける気持ちを図ると同時に、自分を納得させる為でもあったのだ。
香里、祐一、共に声が出なかった。
自分の言葉に嘘偽りはない。しかし、その気持ちが永遠に変わらない、と言えば嘘になる。
香里、そして祐一、共に自分の感情から出た言葉を噛み締めていた。
そして祐一は自問する。“今の言葉に、本当に嘘偽りはなかったのか?”と…。
慌しく移植に向けての準備が進む。まだ隆道の妹が死に至っていない為、栞の病状を睨みながら
の準備が進められている。
「相沢さん、ちょっと宜しいですか?」
学校から病院に駆けつけてきた祐一を、織笠が呼びとめる。
「はい、なんでしょう?」
「実は、栞さんの移植に関してお話が…。お時間宜しいですか?」
「はぁ…。」
織笠に誘われるままに、脳外科の診療準備室へ通される。
そこには、移植担当医の井沢もいた。
「早速ですが、月宮あゆさんという方をご存知ですか?」
突然出てきた名前に衝撃を受ける祐一。
月宮あゆ…。羽根の付いたリュックを背負って、たい焼きを食べながら探し物をしていた少女。
そして…。
祐一が何かを思い出そうとするが、それはすぐにかき消されてしまう。
「はい、知っています。最近姿を見ませんでしたが…。あゆが何か?」
「入院中なのは知っていますよね?」
「えっ?入院中?」
祐一の脳裏に、何かイメージが浮かんでくる。しかしまだそれはハッキリとしない。
「7年前、木から落ちて意識不明となって以来、ずっとこの病院に入院しているんですが、
覚えていますよね?」
その瞬間、祐一の頭の中のイメージが鮮明になる。
丘の上を学校に見立て、一緒に遊んでいた少女。
家に戻る日、別れを告げに行った丘で、登った木から落ちて苦しんでいた少女。
その少女の苦しむ姿を見ながら、どうする事もできない自分に苦しんだあの日。
自分の腕の中で、苦しみながら目を閉じた…。
その少女の名前は、月宮あゆ。
「あ、あぁ…。あゆ…。月宮あゆ…。」
祐一は、全てを思い出した。今まで思い出したくなかった、幼い頃の記憶を。
「そのあゆさん、実は栞さんとミスマッチゼロなんです。」
さらなる衝撃が祐一を襲った。
栞と、あゆがミスマッチゼロ…。
「実は我々、少しでも救える方を増やす為、密かに月宮あゆさんのデータを取っているんです。
ご家族の方は既にお亡くなりになって、唯一コンタクトの取れた親族の方も親権を放棄して
いて、遺産と入院治療費のみを管理されている…。
失礼な言い方ですが、月宮あゆさんは天涯孤独の身なんですよ。」
織笠があゆの事をそう説明した。井沢医師が説明を続ける。
「つまり、このままですと月宮あゆさんが亡くなっても、誰も看取ることが無いんです。勿論、
そのご遺体、臓器も他の方の命を救うことなく荼毘に伏されてしまう…。」
「でも、あゆはつい最近まで街で元気に…。」
「月宮あゆさんの親族の方の調査をする際、当然なぜこうなったかの警察の調書なども見てい
ます。そこに相沢さんの名前があったので、あえてお呼びしました。」
つまり、織笠は7年前の事を知っているという事になる。
あゆとの思い出と、あの場で何が起こったか、なぜ起こったか以外は。
「…それで、織笠さん、井沢先生、僕にどうしろと?」
「実は、あゆさんは今危篤状態にあるんです。明日をも知れない状態です。
あゆさんが亡くなった時、そこには栞さんにミスマッチゼロの心臓と肺が残るわけです。親
族の方が親権を放棄されているのですが、現行の臓器移植法では本人が臓器提供を望まない
と移植できないんです。
しかし…、 医師としての倫理に反しますが、このまま無縁仏同様の葬り方をされる方から
でも臓器を提供してもらって、一人でも多くの患者を救いたいんですよ。あくまでも『お願
い』なんですが、より栞さんが助かる道を選ぶ為に、月宮あゆさんからの心肺移植に同意願
えますか?」
井沢医師の『お願い』は、祐一にとって最大の衝撃であった。
今、栞が、あゆが、隆道の妹が亡くなろうとしている。
隆道の妹さんから臓器移植のOKは出たが、栞との間にミスマッチが残る以上、再び元気になれ
る可能性は低いと言わざるを得ない。
ここに、もう1つ別の選択肢が生まれた。
いや、生まれてしまったと言った方が良いだろう。
ミスマッチゼロというのが事実であれば、あゆから臓器移植を受ければ栞はほぼ確実に元気にな
れる。
しかし、それは現行の臓器移植法を犯す事になる。もし万が一でも世間にバレれば、美坂家は本
人たちがそれを望まなかったとしても、「家族の幸せの為に他人を犠牲にした」と言われ続けるだろ
う。
しかも、祐一にとって多くの思い出と、逃げ出し、忘れたくなる程の「痛み」を伴う記憶を残し
たあゆの身体を利用する…。
一度は覚悟を決めた祐一だったが、その覚悟を揺るがす事実が目の前に提示された事、そしてそ
の鍵を握るのがあゆだという事実に、祐一の心が、揺れた。
「…待って下さい。香里…栞の家族は、どう言っているんですか?」
「まだ知らせていません。なにぶん、事が事ですので。」
井沢医師、織笠、両者からの願いは、それぞれの立場からは言い出し難いものだ。
この件が明るみに出れば、2人の職業上の生命が抹殺されるだけでなく、臓器移植その物に対し
ても大きな損失となる。しかし、彼らはそれを捨ててでも成功させたいと願っているのだ。患者を
救う、という使命と自分たちの仕事に対する誇りの為に。
祐一は逡巡し、一瞬言葉を失う。
「…いえ、やっぱりお断りします。」
2人は、祐一からの予想外の言葉にあ然とした。
「なぜですか?月宮あゆさんから移植を受ければ、栞さんは助かるんですよ?」
「隆道さんに言った言葉を、今覆すわけにはいきません。俺が…いや、私が言った言葉を信じ
て、隆道さんは移植をOKしてくれたんです。それを私だけの意志で無にするわけにはいか
ないです。」
「…わかりました。しかし同じ病院にいる以上、いつでも移植は可能です。もしそれを望まれ
る時は、連絡を下さい。」
井沢医師も、織笠も、それ以上祐一に迫るのを諦めたようだった。
「…あゆは、今どこにいるんですか?」
祐一が井沢医師に尋ねる。
「旧館の方にいます。危篤状態ではありますが、強心剤の投与で辛うじて脈拍は安定していま
す。お会いになりますか?」
「お願いします。私も、あゆがどこにいるか今まで知らなかったので…。」
井沢医師の案内で、祐一はあゆの病室を尋ねた。
渡り廊下で結ばれた、小さな病棟。おそらくこの病院の創設時から建てられていたのであろう、
古びたコンクリートの壁の中。
二階の一番奥、12号室と書かれた部屋の入り口に、『月宮あゆ』と書かれたプレートがあった。
その色は褪せ、プレート自体にもうっすらとヒビが入っている。
扉には『面会謝絶』の文字が書かれた札が掛かっている。これもかなり年季が入った物だ。
「ここに、あゆがいるんですか…。」
「病状が長らく変わりませんでしたし、親族の方も万が一意識を取り戻した時の為に入院費は
抑えておきたいとの事で…。」
ガチャ…。
扉が開いたが、部屋の中は薄暗く、埃臭さが鼻に付いた。
必要最低限の衣類、ピッ、ピッと一定のリズムで音を刻み続ける機材、シューという音を立てて
いる酸素吸入用のチューブ…。壁に貼られた、でも剥がれかけた、何年か前のカレンダー。何年も
使われた形跡が無い花瓶。
目に入ってくる物は、それだけである。
そんな部屋の中、7年もの間眠り続けているあゆ…。
「すいません、ちょっとの間だけ、一人にさせてもらえますか?」
「患者が危篤状態にある以上、完全に一人にはできないので、部屋の外で待たせてもらいます
が…。」
「それで構いません。それほど長くは掛からないと思いますが…。すみません。」
ガチャッ…。
井沢医師が部屋を出ていった。病室にはあゆと祐一の2人。
「あゆ…。お前はこんな所にいたのか…。最近見ないと思ったら…。」
語りかける祐一。当然、あゆの反応は無い。
「ゴメンよ…。あれからもう7年も経つってのに、お前がここにいる事すら知らなくて…。
あゆ…、ゴメンよ…。」
更に語りかける祐一。
「あゆ、許してくれ… 許してくれ… 許してくれ… 許してくれ…
あゆ…。
あぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
祐一の絶叫が、病室に満ちていった。
その後結局、祐一は栞に会いに行かなかった。
病室で香里に会えば、自分の口からあゆの事を言ってしまいそうだからだ。
“あゆが…、あゆが…。 俺はどうするべきなのか…。”
祐一は悩んだ。
『自分たち“だけ”が、幸せになるなんて考えちゃいけない』と隆道に言った言葉、香里の悲痛
な告白、病室での栞の顔、楽しそうに微笑む以前の栞…。
そして、今日生まれてしまったもう1つの選択肢、『考えちゃいけない』禁断の選択肢、あゆとの
思い出、そして病室で眠り続けるあゆ、たい焼きを食べながら微笑むあゆ…。
いろんな事が祐一の頭の中で交錯し、心は重圧で押し殺されそうになる。
“祐一くん…”
祐一の耳に、誰かが呼ぶ声が聞こえる。
「誰だ?」
“ボクだよ…。”
振り返るとそこには、羽の生えたリュックを背負った、あゆがいた。
「あゆ! あゆ…。お前は本当に、あの時のあゆなのか?」
“祐一くんに、本当のお別れを言いに来たんだ…。”
「お別れって、どういう事だ、あゆ! 今日、俺達はまた会えたじゃないか!」
“探し物が、見つかったんだよ。だから、ボクはもう行かなきゃ…”
「どこに行くんだ、あゆ!俺の質問に答えてくれ!」
“ボクにはもう要らない物だから、これは祐一くんにあげるよ。大事に使ってね…”
そう言って、あゆは自分の胸元に手を突っ込む。
やがて、何かをかき混ぜるかのような『グチャッ、グチャッ』という音が辺りに響く。
“うぐっ… ほら、ボクには今まで大事な物だったけど、もう必要無くなっちゃったんだ。
だから… 祐一くんに… これを…”
胸元から腕を引き抜くあゆ。
血まみれになったその手には、肺と心臓らしき物が掴まれていた。
まだピクッ、ピクッと掌の上で動いている。
それを見た祐一の顔色は、一気に青ざめていった。
「バカッ! そんな物、お前から貰って嬉しいと思ってるのか!」
“だって、これがあれば… 祐一くんは幸せになれるんでしょ…。”
「違う!お前から貰ったって、俺は幸せになんかなれない! あゆから貰ったって…、俺は嬉
しくなんかない!」
祐一の叫びにも似た言葉に、あゆは視線をそらしてうつむく。
“祐一くんは、やっぱりボクのことが嫌いなんだ…。 ボクの事なんか、思い出したくないん
だね…。だから、辛い事を思い出させるボクの心臓なんか要らないっていうんだね…。“
「そうじゃない! あゆ、そうじゃないよ!」
“これがあれば、祐一くんは栞さんと幸せになれると思ったのに…。ボクの望みは、祐一くん
が幸せになることだったのに…“
「違う! こんな、こんな事で俺は幸せになんかなりたくない!」
“そろそろ時間みたい…。 ボクはもう行かなきゃ…。”
ダッフルコートの胸元が赤黒く染まり、その染みが大きく広がっていく。
しかし、あゆはそれでもにっこりと笑った。眼からは一筋の涙。
“祐一くん…。 ボクの事、忘れていいから…。 それで幸せになれるのなら、ボクの事は、
もう思い出さなくていいから…。
バイバイ、祐一くん…。“
そう言って、あゆはすぅっと消えるようにいなくなる。
「あゆ!待ってくれあゆ! どこへ行く気だ! いくな!あゆ!」
ドンドンドン…
「祐一!どうしたの祐一!」
その声で、はっと気付く祐一。
ベッドに仰向けになりながら考えているうちに、いつしか寝てしまったようだ。
「…名雪か?」
祐一は起き上がると、部屋の扉を開ける。
「祐一…。心配したよ。叫び声が聞こえるから、どうしたのかと思って…。」
半纏を着た名雪が、部屋の外にいた。いつものパジャマ姿だ。
「爆竹が鳴っても起きないお前が、よく俺の叫び声で起きたな。」
「お風呂から上がって、これから寝ようとした所だよ…。
祐一、夕飯も食べないでずっと寝てるから、心配してたんだよ?」
よく見ると、名雪の髪がしっとりと濡れている。本当に風呂上りのようだ。
「あぁ、変な夢を見てた…。だからだ。」
「夢?」
「あゆが…手掴みで自分の心臓を取り出す夢だ。」
その言葉に、名雪は驚いた表情を見せる。
「あゆちゃんは知ってるけど…なんでそんな事をしたの?」
「さぁ…。夢だから、なんでだかは良く覚えていない。」
「栞ちゃんの事で、ずっと考えすぎて疲れてるからだよ。ご飯食べて、お風呂に入って寝た方
が良いよ?」
「あぁ、そうしよう…。」
うつろな目のまま、祐一は食事をしに台所へと降りていく。
「あらあら、祐一さん。お食事にしますか?」
台所には洗い物をしていた秋子がいた。
「すいません、ちょっと寝てたみたいで…。」
「じゃ、すぐにオカズを温めなおしますね。ちょっと待っていて下さい。」
ラップをかけてあった晩御飯のオカズを電子レンジで温め直す秋子。
その姿を見ていながらも、祐一の目はやはり焦点を結んではいなかった。
トゥルルル…
不意に電話が鳴る。
「はい、水瀬です…。 はい、おります。少々お待ち下さい。
祐一さん。 中央病院の、井沢先生からです。」
秋子から井沢の名前を聞いて、祐一はドキッとする。この時間に祐一を名指しで電話してくると
いうのは、決して良くない内容だからだ。
「はい、相沢です。」
“相沢さん…。月宮あゆさんの呼吸が停止しました。現在、強心剤の投与と心臓マッサージを
していますが、恐らくは…。”
祐一は、愕然とする。
さっきの夢は、あゆの最後の別れだったのかも知れない。
「はい…。そうですか…。」
“今が、我々にとって最後のチャンスです。
お願いです。月宮あゆさんからの移植に、同意して頂く事はできませんか?”
祐一は、ゆっくりと深呼吸をした。自分にとっても、重要な決断だからだ。
「お断りします。やっぱり、僕は法に背いてまで栞を救いたいとは思いません。」
“…そうですか。 (…あぁ、判った。死亡診断書の用意を。今行く。)
たった今、死亡が確認されたそうです。遺体の方はこのまま処理をして霊安室に送ります。
私としては、残念です…。“
ガチャ…。
ゆっくりと、受話器を置く祐一。
「どうされたんですか?」
「あゆが…。7年前に、木から落ちてずっと意識不明だったあゆが、たった今亡くなったそう
です。」
秋子の顔色が一気に変わる。
「そうですか、あの子が…。それで、お通夜と告別式はいつ、どちらで行われるんですか?」
「天涯孤独の身になっているので、病院の方で荼毘に伏すそうです。」
「そうですか…。それから祐一さん、先ほど栞さんの事を言われていたようですけど…。」
「それとはまた別の話です。気にしないで下さい。」
「はぁ…。」
そう祐一に言われたものの、秋子は不安を拭えなかった。
「これで良いよな、栞。」
食事を取り、風呂に入った後、ベッドで再び仰向けになりながら、祐一はそうつぶやいた。
「世間に後ろ指指されるような事は、できないよな…。」
まるで自分に言い聞かせるように、祐一はそうつぶやく。
正しい事をしたという確認、それによる自己弁護の為に。
“でも、今日、祐一さんは一瞬だけ、私よりあゆさんを選んだんですね…。”
再び、祐一の耳元に声が聞こえてくる。
「その声は、栞! …いや、これも夢だな。」
そう思いながらも、気になって振り向く祐一。
そこには、病院で寝ているパジャマ姿の栞がいた。
“祐一さんは、私の命よりも、あゆさんとの思い出を大事にしたかったんですね…。”
「そうじゃない。生き延びる為に人の命を犠牲にした、って言われたくなかったからだ。そう
だろう?」
“あゆさんが、せっかくくれると言った物を、祐一さんは捨ててしまった…。”
「貰えないだろう!貰ったら、俺達は一生犯罪者だ!」
“あゆさんは、くれると言っていたのに…”
「あゆが許しても、俺が許さない! 世間も許してはくれないんだ! 栞、解ってくれ!」
“祐一さんは、あゆさんの事を忘れられなかった。私よりもずっと前に好きだった、あゆさん
の事を…。“
「違う! 違うんだ、栞! そうじゃない!」
“うっ…”
栞がうずくまる。その足元に、ポタリ、ポタリとなにかがこぼれ落ちた。
それは、栞の口からこぼれた血だった。
「栞! 大丈夫か栞!」
祐一は慌てて栞に駆け寄るが、栞の身体は既に冷たくなっていた。
“私…死にたくなかったです…。もっと、祐一さんと一緒に居たかったのに…。
私から『さようなら』と言いました。祐一さんが、今の私より、思い出の中にいるあゆさん
を選んだ今…。 私は… 私は… もう…。“
最後まで言い終わることなく、うなだれる栞の首。
「栞! しっかりしろ、栞!」
栞の体を抱き起こすが、その目が開くことはもう無かった。
“今度こそ、本当に『さようなら』です、祐一さん…。”
そんな言葉と共に、抱きかかえる祐一の腕をすり抜けるように、栞の身体が消えていく。
「栞!死ぬな、栞! 行かないでくれ!」
暗闇の中、意識の戻った祐一。見慣れた天井が、暗闇に慣れた目に飛び込んでくる。
「…やっぱり夢か。くそっ!」
再び訪れた悪夢に、どうにもならない怒りをおぼえる祐一だった。
時計に目をやると、時刻は5時を指している。
トゥルルル…
突然、電話が鳴る音が聞こえる。こんな時間に電話を鳴らすのは、自分の考え得る限りでは2人
しかいない。井沢医師か、香里かだ。
ドタタタ…
一気に階段を駆け下りると、祐一は受話器を取る。
「はい、相沢です!」
「…あたしよ。早起きなのね。」
電話の主は、香里だった。
「最近、老化が進んでな。朝に強くなった。」
「…じゃ、病院まで来て。移植手術が始まったわ。私も今から行く所なの。」
「わかった。」
ガチャ…。
移植手術が始まったと言う事は、道隆の妹が脳死状態に確実に移行した事を意味する。
現行の臓器移植法では、ドナーが確実に脳死状態にある事を確認した上で移植手術が開始される。
それはつまり、その人間がもう2度と目覚める事は無い、という意味でもある。
話の最中、道隆がふと見せた笑顔を思い出しながら、祐一は病院に向かう準備をした。
「電話を貰うまで、夢を見てた。」
手術室の前にある長椅子に座り、『手術中』のランプが消えるのを待つ祐一と香里。
「…夢?」
「あぁ、一言で言えば、悪夢だ。」
「悪い話なら、聞きたくないわ。」
香里が、祐一に向けていた目を再び床に向ける。
「栞とのミスマッチゼロという女の子…いや、女性が現れたんだ。
その人は、俺の幸せが自分の望みだからといって、自分の胸に手を突っ込んで、自分の心臓
と肺を取り出したんだ。 悪夢だろ?」
祐一は、自嘲気味に笑う。
「でも、今の私にとっては、神様に等しい人だわ。ミスマッチゼロだなんて。」
「そうだな…。でも、栞の為に俺達が誰かを犠牲にしたり、法を犯したりなんて事は、しちゃ
いけないよ。」
自分が自分に言い聞かせた事を、再び口にする祐一。
「でも、仮に法を犯す事になったとしても、栞が助かるのなら、私は構わない。」
香里はそう祐一に言う。祐一にとっては予想外の言葉だ。
「香里、お前はそれで良いのか? 他人を犠牲にしてでも、栞を助けたいというのか?」
「栞が助かるのなら、それでもいいわ。生きていれば、いつかまた会えるんだし。私が死なな
い限り、栞が生きてさえいてくれれば、いつかは会えるのよ。」
「じゃあ…。 じゃあ、あの時藤堂さんに言った事は間違いだって言うのか!」
突然の祐一の言葉に、香里は戸惑う。何が原因で怒り出したのか、判らないからだ。
「相沢君、どうしたの? 何があったの?」
「俺にはできなかった! あゆの心臓と肺を栞に… それはできなかった!
誰かを…あゆを犠牲にして… それはできない!できないよ! あんな姿を観て…俺には、
やっぱりできなかったんだ!」
「ちょ、ちょっと、相沢君、どうしたのよ?」
「あゆも、栞も、俺の事を…。 香里までが…。 うおおおおおお!」
祐一は突如として走り出した。扉を開け、病院の玄関から外へ飛び出す。
まだ辺りは夜が明け切らず、祐一以外に人影も無い。
「相沢君…。 何があったの…?」
慌てて病院の玄関まで追いかけた香里だったが、既に祐一の姿は無かった。
祐一は、まだ雪の残る公園に走っていた。栞と最後の別れをした、あの公園に。
別れのキスをした、あの場所に一番近い芝生に倒れ込む。
「なぜだ…。 なぜ皆判ってくれないんだ…。 俺はただ、誰も傷つけたくないだけなのに…。
栞…。俺の言った事、した事は、やっぱり間違いだったのか…?」
朝日がようやく辺りを照らす頃、祐一は、公園で一人、泣いた。
結果として、栞の手術は、成功した。
正確に言えば、移植手術が、成功した。
しかし、栞の身体には拒絶反応がわずかながら残っており、予断を許さない状態である。
家族すらも面会を許されない状態で、集中治療室での長い昏睡状態が続いた。
祐一は病院に栞の状態を聞きに来るものの、香里とは極力顔を合わせるのを避けていた。
避けてどうなるものでもないが、祐一は、香里から逃げたかった。
自分の取った判断を、香里に知られる事が怖かったからだ。
既に季節は春になり、祐一、香里、名雪達は揃って3年生に進級した。
香里だけは、過去の成績と家庭の事情を考慮しての仮進級ではあったが。
「祐一、次の授業、理科室だよ。」
「あ、あぁ。」
名雪の言葉に生返事を返す祐一。生活は元に戻ってはいたが、心ここにあらずといった雰囲気で
あった。
「…相沢君。」
そんな時、突如呼ばれる祐一。
声のした方向に振り向くと、そこには久しぶりに見る制服姿の香里がいた。
「あ、あぁ、香里か…。」
「昨日、栞がようやく昏睡から覚めたわ。」
「そうか…。」
祐一はただ返事をする以外、言葉がなかった。
それ以上は、祐一の口からは出なかった。本当は、逃げ出したい位だったからだ。
「明後日、短い時間だけど面会させてくれるって。会ってくれるわよね…。」
「わかった…。」
それだけ言うと、顔を伏せる祐一。
「相沢君…。何があったのかは知らないけど、あなたには感謝してるわ。」
祐一は、香里の突然の言葉に顔を再び上げた。
「なぜだ…。」
「起きた栞が先生に言ったらしいのよ。『祐一さん、ありがとう。』って伝えてくださいって…。」
「なぜ、栞がそんな事を…。俺に『さようなら』と言った栞が…。」
香里は一瞬戸惑いながらも、意を決して祐一に言う。
「相沢君。どんな悪夢を見たのか判らないし、私が言った言葉がどう相沢君を傷つけたのか判
らないけど、私からも言わせて。『ありがとう』って…。」
「香里…。」
ポタッ、ポタッ…。
祐一の目から、一粒、二粒と涙がこぼれ落ちる。
「すまない…。香里、すまない…。」
「相沢君…。もういいから…。」
その時、香里は、あの日病院から逃げるように出て行った事を謝っているのだと思っていた。
しかし、祐一はその事に対して謝っているわけではなかった。
栞とわずかな時間の面会をした祐一、そして香里達。
まだ栞は喋れるほどではなかったが、祐一達の問い掛けに顔を振って反応した。
それだけでも、祐一達には嬉しかった。
「…皆さんには、少々酷なお話をしなければなりません。」
しかし、別室に通された祐一達には、医師からの厳しい宣告が待っていた。
「拒絶反応は、基本的には薬で抑えられています。しかし、危険は一生栞さんにについて回る
と言って良いでしょう。」
「というと?」
「肉体の拒絶反応を薬の投与で抑えるのには限界がある、という事です。」
「そんな…。手術は成功したんでしょう?」
栞の父親が医師に詰め寄る。
「手術は成功しました。しかし、やはりミスマッチのある臓器移植では、これが限度です。
これ以上は望めません。」
一気に香里達の顔色が変わる。
「でも、薬を使い続ける限りは大丈夫なんでしょう?」
祐一だけがなおも医師に食い下がる。
「しかしその薬は副作用を伴います。臓器そのものに問題がある以上、健常者と同程度の生
活は望めません。移植手術は成功しましたが、果たして栞さんがあとどれだけ生きられる
か、我々には判りません。これこそ、神のみぞ知る領域です。」
「くっ…。」
「拒絶反応が残る以上、それが栞さんにとって大きな障害になります。我々も最善を尽くし
ますが、あとは運だけです。」
医師の言葉に、何かを言おうとする祐一。
「相沢君、もう止めて…。 もういいから…。もう何も言わなくて良いから…。」
悲痛な顔をした香里の懇願に、祐一も沈黙した。
祐一とて、最初から覚悟はしていたつもりだった。ミスマッチ1のドナーからの移植。
それがベターであってベストではない事を…。
しかし、どこかで信じていたかったのだ。手術の事、栞の事を。
そして何より、自分が下した決断の正しさを。
今、その信じていたかったものが、現実の前に少しだけ、揺らいでいた。
初夏も過ぎ、梅雨に入ろうかという頃、ようやく栞は退院する事ができた。
「祐一さん…。私、帰ってきました…。」
「あぁ。お帰り、栞。」
「私…涙が出そうなんですけど、こういう時は笑った方がいいですよね?」
「泣いても、いいぞ。というか、泣いてくれないと俺が困る。」
「どうしてですか?」
「男として、先に泣くわけにはいかないだろう…。」
「じゃあ… わ、私… わ、笑っちゃいますよ…。」
そう言いながら、栞は大粒の涙をこぼしていた。
そんな栞を抱き締め、やはり大粒の涙をこぼす祐一。
「私、私、生きてるんですよね…。」
「あぁ、生きてるぞ…。もう2度と『さようなら』なんて言わせないぞ…。」
しかし、そんな2人には再び辛い日々が待ち受けていた。
運動の絶対の禁止と、月に1度、2〜3日の検査入院。
それが、栞が命を永らえる為の条件だった。
その日々は、かつて2人が過ごした日々と大差ないものである。
死というものが、何年かだけ先送りされただけ…。
そんな条件の中でも、栞は嬉しそうに笑った。毎朝香里と祐一と共に学校に行く。姉と同じ制服
を着て同じ道を通う。それが栞の望みだったからだ。
香里もそれで満足だった。
少なくとも、条件さえクリアしていれば生きていられるからだ。人並みとは言わなくとも、栞が
成人し、祐一と幸せな生活ができる位までは、少なくとも生きていられる。そう思っただけで、香
里は満足だった。
しかし、祐一はどこか寂しげだった。栞が満面の笑みを浮かべても、心の底から笑えていないよ
うだった。
「栞、香里。休みの最初の日曜、つきあってくれないか。行きたい所があるんだ。」
衣替えも終わり、間もなく夏休みというある日、学校の中庭で祐一が2人にそう言う。
「遠出はできないわよ。栞の身体だって…。」
香里が心配そうに栞を見ながらそう言う。
「場所は判っている。電車で15分程度の距離だ。」
「どこへ行くんですか?」
栞が祐一に尋ねる。
「墓参りだ。栞に心臓と肺をくれた、藤堂さんの家の墓に。」
「あぁ、そういう事…。いいわよ。」
「どんな人だったんでしょうか…。」
「俺達もその人には会ってない。あったのはその人のお兄さんだけだ。
とっても…とっても良い人だ。優しい人だった。」
祐一が空を見上げながらそう言う。
「で、その後は?ウチに寄っていく?日曜日なら父も母もいるし。」
「…すまん。予定が入ってるんだ。また別の日に寄らせてもらうよ。」
照れくさそうにしながらも、申し訳無いと謝る祐一。
一度は挨拶しているとはいえ、やはり両親に会うのは恥ずかしくて気が引けるようだ。
「そんな事いう祐一さん、嫌いです…。」
栞がぷいっとそっぽを向く。
「ちょっと理由があるんだ。勘弁してくれ。」
「百花屋のアイスクリームセット…。」
「まぁ、アイスクリームで機嫌が直るなんて、栞もまだお子様ね…。」
香里がそう言って笑う。
「もう、お姉ちゃんも、嫌いだよ…。」
栞の可愛らしさに、ついつい微笑んでしまう祐一だった。
その日は朝からやや薄曇りだった。栞が出かけたりするには都合の良い天気である。
栞が線香を、香里がお供え用の花を持ち、墓地の中を歩いていく。
祐一は墓地の外れにある流し場から、水を入れた柄杓と桶を持ってきた。
「はぁ…、はぁ…。」
「栞、大丈夫か?」
祐一が心配そうに栞を見る。
「大丈夫です…。階段で、少し…。」
寺の入り口の階段。段数は少ない方だが、やはり栞には厳しかったようだ。しかも、薄曇とはい
え夏の外気である。
「無理しないで、辛かったら言いなさいよ。愛しの“カレシ”が背負ってくれるから。」
「お姉ちゃん…。そういう言い方、嫌いだよ…。」
栞に祐一という彼氏がいる事は、クラスの間で話題になっているようだった。もっとも、頻繁に
栞のクラスを訪れていてはバレないわけは無いが。
香里はそれを知っていて、クラスの友達達が使っている『カレシ(発音は”カ↑レ↑シ↑”とい
う今風の言い方だ)』という言葉を使って茶化したのだった。
たわいも無い姉妹喧嘩だが、そういう事ができるようになったという事に、祐一はふと微笑む。
「藤堂家…これね。」
香里が墓石の場所を確認する。立派な墓石の脇には、つい最近彫られたと判る『藤堂加奈 享年
16歳』の名前が読めた。
「じゃ、先に掃除をさせてもらおう。」
祐一が柄杓で水を汲み、墓石にゆっくりと掛けていく。
墓はつい最近納骨が行われた事もあって綺麗だったが、やはり落ち葉や小枝がついていたりする。
それらを落とし、たわしと雑巾で丁寧に汚れを落としていく。
花を献げ、線香を供えると、3人は手を合わせた。
「ありがとうございます…。あなたの命を頂いたおかげで、もう少し好きな人と一緒にいる事
ができました…。」
栞のそんなつぶやきが聞こえる。
それを聞いた香里は、思わず涙をこぼした。
「で、本当に、どこに行くの?」
電車の中、祐一に行き先を尋ねる香里。
祐一が向かおうとしている目的地は、来た方向と反対方向の駅にあるらしい。
栞は電車の椅子に座っている。薄曇ながら日差しは強く、エアコンが効いた車内は心地よいので、
うとうととしていて眠ってしまいそうな雰囲気だ。
「ちょっと、墓参りだ。」
「それはさっきしたじゃない。藤堂さんの所に。」
「実はもう一箇所あるんだ。俺と栞の縁の深い所だが、俺一人でいい。」
「そう…。」
そう言いながら、香里は栞の方を見る。
栞はやはり、眠っていた。
「ここか…。」
寺の境内に入った祐一。入り口の寺務所で線香と花を買うと、ポケットからメモを取り出し、墓
地の方に進んで行く。途中、流し場で手桶に水を入れると、線香と花を右手に、手桶を左手に持っ
て、同じような墓石が並ぶ中を歩いていった。
その後ろを気付かれないように歩く誰かを連れて…。
空は本格的に曇り出した。風が少し出てくる。
「あゆ…。待たせたな…。」
墓前に立った祐一はそうつぶやきながら、手に持っていた手桶を置いた。
墓石には、『月宮家代々乃墓』と刻まれている。
横にはやはり、真新しく彫られた『月宮あゆ 享年17歳』の文字があった。
「……。」
無言で墓石の汚れを丁寧に落としていく祐一。納骨の為にそれなりに手入れはされたようだが、
やはり参る者がいない墓は荒れている。
パシャッ…。
「おっと、いけねぇ。」
一人しかいない墓参り、掃除の間だけと足元に置いていた線香に柄杓の水が掛かって火が消え
てしまった。
一通り掃除を終え、花を供えた祐一は、線香を再び買う為に寺務所へと走った。
ドッ…。
「…きゃっ。」
曲がり角で祐一が誰かにぶつかったらしく、相手が小さな悲鳴を上げる。
「あぁ、すみません。 …香里か?」
「相沢君…。」
そこにいたのは、香里だった。
「お前がなぜここに…。 それに、栞は?」
「駅からタクシーで帰るように言っておいたわ。栞も、あなたの事が気になってたから。」
「そうか…。 もう一度線香を買ってくるから、悪いがここで待っててくれ。」
そう言って寺務所へと向かう祐一。
「…この月宮さんと、あなた、栞にはどんな関係があるの?」
線香を供え、手を合わせた2人。その後、香里が祐一に尋ねる。
「栞の命の恩人だ。栞が自殺しようとしたのは知ってるよな?」
「えぇ…。栞の手首に、ためらい傷ができてしまった…。」
「それを止めるキッカケになったのが、俺と、この墓に眠る、月宮あゆだ。」
「そうだったの…。」
香里が墓石の側面を見て、月宮あゆの名前を確認する。
「で、なぜその人が、急に亡くなったりしたの?」
「本人かどうかは判らない。でも、俺の知っている…いや、知っていた月宮あゆは、7年前に
俺の目の前で木の上から落ちて、意識不明になった。木から落ちる所、そして意識を失う所
まで、俺は全てを見ていた。そして、それをずっと忘れて…いや、忘れたふりをしていたん
だ。」
「そんな事があったの…。でも、どういう事なの? 何年も意識不明だったのに、栞の自殺を
止めるなんてできるわけが…。」
「さぁ…。どういう事なんだろうな。同性同名の他人じゃなかったみたいだし。でも、7年も
意識を失ったままで、栞の手術が始まる直前に、亡くなった。家族はもう誰もいなくて、親
族にも連絡が取れない、天涯孤独の身だったそうだ。」
祐一が寂しそうにそう言う。
「それに…。 あゆの身体は、栞とミスマッチゼロだった。」
あっさりと言う祐一の言葉に、香里の身体がビクッと跳ねる。
「…じゃあ、織笠さんが言っていた、『ミスマッチゼロだけど移植ができない人』って、この
人だったの?」
「香里。いつその話を聞いた?」
「藤堂さんと会う前の事よ。本人が同意してないから、残念だけど移植不可能だって言われた
わ。」
「そうか…。」
それを聞くと、祐一は、空を見上げた。
「移植の前の日、井沢先生と、折笠さんに言われた。『あゆの心臓と肺を、栞に移植しないか』
って。このままだと捨てられるだけの臓器だから、違法を覚悟で移植をしないか、って。」
「相沢君…。」
香里は何と言って良いか判らず、ただ祐一を見つめるだけだった。
「でも、俺は同意しなかった。法を犯す事も怖かったし、隆道さんの信頼を裏切る事になるか
らだ。俺の言葉を信じて、妹さんからの移植に同意してくれた、隆道さんの気持ちを踏みに
じる事は、できなかった。
でも一番大きかったのは、あゆが7年も意識不明になっていながら放っておいて、思い出し
もせずに逃げ続けていて、今更栞との幸せの為にあゆを利用しようとする事が…どうしても
俺にはできなかった。
情けない男だな、俺って。大事な一瞬、栞よりもあゆの事を選んでしまった。」
そう言って、祐一は、目から溢れる涙を拭う。
「あの子、手術中に、夢を見たらしいわ。」
「夢?」
祐一が、香里の言葉に頭を上げる。
「自分の身体から心臓と肺を取り出して、『これをあなたにあげる』といって追いかけてくる
人の夢を見たらしいわ…。必死で逃げるんだけど、どこまでも追ってくる。その時、その人
を必死で止めてくれたのが、相沢君、あなたらしいのよ。」
「そんな事があったのか…。」
「だから、目が覚めて集中治療室の天井が見えた時、思わず『祐一さん、ありがとう』って言
ったらしいわ…。」
「栞が、そんな事を…。」
その言葉を聞いて、祐一は再び涙を流す。
「相沢君。」
香里は姿勢を正すと、祐一に言う。
「もう一度言わせてもらうわ。ありがとう。
やっぱり、相沢君は栞にとって大事な人になっているみたいね。そんな夢を見たのに、助け
に来たのが私や父、母じゃなくて、相沢君だったなんて…。」
香里の眼から涙が一筋こぼれる。
「でも私、月宮あゆさんの事を黙っていた事だけは許せない。栞が確実に助かる手を、あなた
の気持ちだけで握りつぶしてしまった事は、やっぱり許せないわ。栞じゃなくてあゆさんを
選んだ後ろめたさがあったから、今日、ここに来て一人償いをしようと…いえ、償った気持
ちになろうとしたのね…。 最低だわ、あなたって人は…。」
その香里の声は、怒りに満ちていた。香里には珍しい、怒りの感情だ。
「香里…。誰も許してくれるとは思ってなかったけど、でも俺がした事は間違いじゃなかった
はずだ…。」
「だから、栞にじゃなくて私に誓って。
これから何があっても、栞と、そして私達と一緒にいてくれるって。
それが、あなたが私達に対してする償いよ。それで今日の事は忘れてあげる。栞にも一生黙
ってるわ。」
「香里…。」
祐一は、香里の真剣な目に、一瞬言葉を失った。
「このあゆさんの墓前で、私に誓って。あの時隆道さんに言った自分の言葉に後悔は無いと。
そして、どんな事があっても栞のそばにずっといるって。」
辺りに一瞬の静寂が訪れる。
「…判った。 俺は誓う。自分の言葉に後悔はないと。そして、どんな時も、どんな事があっ
ても栞のそばにいる。」
「ありがとう、相沢君…。」
香里はそう言うと、あゆの墓前に手を合わせた。
「あゆさん。相沢君を、うちに頂きます。あなたが栞にしてくれた事、感謝しています。だけ
どこれだけは許して下さい。栞にとって、相沢君は大事な人なのです…。」
香里のその言葉を聞いて、再び涙する祐一。
「あゆ…。お前の事は、ずっと忘れない。栞の為、香里の為、俺はずっとお前の事を忘れない。
それで…それで、許してくれ…。」
祐一も、あゆの墓前に手を合わせた。
“本当に、後悔しないでね…。”
突然、祐一の耳に誰かの言葉が聞こえた。祐一の後ろに誰かいるようだ。
「誰だ?」
後ろを振り向く祐一。
ほんの一瞬、墓石の隙間に、白い羽のようなものが見えた。あゆが身に付けていたバッグに付い
ていたような羽根のようなものが…。
ビュウッ…。
突如、風が吹き込んできた。
「相沢君。一雨来そうだわ。そろそろ行きましょ。」
香里が空を見ながらそう言う。
「あ、あぁ。それじゃ、そろそろ行こうか。」
ピィーピピピピィーピィピピィー…
そんな時に突然、香里の持つ携帯電話が鳴り出した。
『はい、香里で… あぁ、栞なら… えっ!そんな!今から向かうから、病院に先に行ってて!』
プッ…。
電話を切った香里の顔が、一気に暗く沈み込む。
「どうした、香里…。」
「栞が…あの子、さっき倒れたらしいのよ! タクシーで、噴水公園に寄ってから歩いて家に
帰ったらしくて… それで…家に着いてしばらくしたら…ああっ!」
祐一の胸元に倒れ込み、泣き出す香里。
「くっ…。くうっ…。」
祐一も、泣き出すのをグッとこらえるのが精一杯だった。
寺の前の国道でタクシーを拾い、病院へと向かう祐一と香里。
二人とも、タクシー内で一言も言葉を発することなく、ただ目的地に着く事だけを考えていた。
正確には、目的地にいるであろう栞の病状の事だけを。
キキッ…。
タクシーが病院前に止まる。
「香里!」
「母さん!」
病院の玄関で待っていたのは母親の方だった。
「栞はどうなの?」
「症状は軽いって言われたけど、祐一さんが来るまで鎮静剤を打たないでって、あの子が…。
あぁ…。」
「病室は?」
「前と同じ503号室よ。2人共、急いで!」
タクシー代を払う為少し遅れて車から降りた祐一は、香里の後を追いかけるように病室へと向か
った。
はぁ…、はぁ…。
栞の息遣いを感じながら階段を駆け上がる祐一。
「栞! 大丈夫か!!」
ノックもせず病室に駆け込むと、そこには医師と看護婦、そして栞の父親がいた。
「…さぁ、鎮静剤を。 これ以上は待てない。」
医師はそう言うと、看護婦に鎮静剤の注射を用意させる。
「栞! なんでお前、公園なんかに…。まっすぐ帰れば…。」
「はぁ…、祐一…さん…。手を…握って…もらえますか…。」
栞が荒い息を吐きながら祐一にそう言う。
「あ、あぁ…。」
祐一はベッドの脇に駆け寄り、栞の手をギュッと握る。
「温かい…。祐一さん…、私…ちょっと眠りますね。」
「あぁ、落ちつくまで寝てた方がいい…。」
「必ず…目覚めます…から…。眠るまで…手を握っていて…下さい…。
必ず…、もう一度…目覚めますから…。」
祐一が握る手の反対側の腕に、看護婦が注射の針を立てる。
「うっ…。 祐一さん…。ちょっと早いけど、おやすみなさい…。」
「あ、あぁ、おやすみ…。」
「ずっと…てを…にぎって…て…。」
栞のまぶたが閉じられるのと同じタイミングで、手を握る力が少しずつ弱くなる。
「当分は、絶対安静です。あまり無理はさせないように。」
処置を終えた医師は、そう言うと病室を後にした。
以前と同じように、病室に酸素吸入のシューという音が響く。
「相沢君。もう、手を握っていてもいなくても、栞には判らないわ。」
香里が祐一に手を離すよう促す。
「もう少しこのままでいさせてくれ…。」
「わかったわ…。両親と着替えとかを持ってくる話をしてくるから、暫く栞を見ててくれる?」
「判った…。」
香里は父親と一旦病室の外に出て、母親と荷物等を運ぶ相談を始める。
病室には、栞と祐一の2人だけとなった。
静かな病室の中、窓が風で揺れる音が聞こえてきた。
「さっきの風が…。降ってくるかな…。栞…。ずっとそばにいるって言ったのに…ごめん…。」
祐一は、栞の手を再び強く握った。その手が冷たくなる事は無かったが、どれだけ強く握っても、
栞が握り返してくる事はない。
それが判っていても、祐一はなおも栞の手を握りしめていた。
“本当に、後悔しないでね…。”
再び、祐一の耳にそんな言葉が聞こえてくる。
「誰だ?」
辺りを見回すが、2人だけの病室には、他に誰もいるわけがなかった。
ヒュッ…。
「…ん?」
一瞬、窓の外に人影が見えたような気がした。
「まさかな…。5階の窓の外に人がいるわけないよな…。」
そう思いながらも、祐一はその方向に振り向く。
「…ああっ!」
そこには一瞬、あゆがいるように見えた。
胸元に置いた手を血に染め、天使のような羽を背中に付けたあゆが。
「あゆ!」
思わず立ち上がる祐一。
「はうっ…。」
その時、栞が小さなうめき声を上げた。
「…おい、大丈夫か、 栞!しっかりしろ!」
そのうめき声に、祐一は再び栞の手を握りしめ、大声で呼びかける。
しかし、たまたまその時だけだったのか、その後の栞の表情は落ちついていった。
「くっ…。 うぁぁぁっ…。 あぅぅぅぅっ…。」
その表情を見て、栞の手を握りしめながら、顔を伏せ嗚咽を漏らす祐一。
外にいる香里に聞こえないように、しかし、祐一はそれをこらえる事ができなかった。
再び、病室を静寂が包んでいた。祐一の嗚咽が、その中で響く…。
ビュウッ…。
強い風が窓の外を吹き抜けていく。
その刹那、何かが空に舞い上がった。
しかし、それは祐一達には見えなかった。
舞い上がったそれは、強い風に飛ばされ、すぐに見えなくなる…。
その日、祐一にとって、何かが終わり、そして、何かが始まった。
それは、あゆとの様々な思い出との決別。
少年だった日々の終わり。
そして、あゆよりも栞を選んだ事に対するあゆへの、そして、栞の事を想いながらもあゆの事を
忘れられなかったという事に対する栞と香里への、贖罪の日々の始まり…。
長い長い、祐一の贖罪の日々が、今、始まる。
“本当に、後悔しないでね…。”
【END】
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校正前のものを周囲に限定公開した時、『死神あゆぐぅかいな』『よく
こういうのが書けるな』と賛否両論でした。でもこれが、あゆの『奇跡』
に頼らず、確実かつ合法的に栞が生き延びる道です。
この作品の更にアナザーストーリー的なものを「Silent Eve」として
書いています。主人公は…名雪です。