夕立過ぎて

【夕立過ぎて】



 『一転俄かに掻き曇り』という言葉がある。
 今日の雷雨もまさに、そんな言葉がピッタリとくるような雲が空に沸き起こった
事から始まった。

  ドォーン・・・

「お、お姉さま。雷が・・・。外が真っ暗になってきました。」
 祐巳は西側に面した窓から外を覗いている。窓の外、塀の向こうには夕立を気に
して家路を急ぐ者の姿も見える。
「祐巳、あなた、傘は持ってきていて?」
「折り畳みの傘はいつも鞄に入れていますが、夕立の時には傘も役に立ちませんし、
今日は不本意ですが仕事を切り上げてしまって・・・」
「ダメよ。」
 一瞬でも自分に都合の良い期待を抱いてしまったのが、祐巳の失敗だった。
 祥子にとって、仕事とは自らの都合で遅らせる事無く計画通りに進めるものだ。
夕立が来るから、というのは理由にならない。今日やると決めた物は今日やる、そ
れが祥子にとっては当然の理屈なのである。
「雨に濡れるのがイヤなのは判るけれど、あなたも生徒会の役目を担う一人である
事を自覚しなさい。準備不足で無様な姿を見せたくは無いでしょう?」
「は、はい。それはそうですが・・・。」
 勿論、祥子の言わんとする事を祐巳は理解している。
 紅薔薇のつぼみである事、それはすなわち一年後に自分が紅薔薇さまとして山百
合会に名を連ね行事を取り仕切る仕事に一番近い事を意味している。蓉子が祥子に
見せた事を、ここでは祥子が祐巳に見せようとしているのだ。紅薔薇のつぼみとい
う名前は、周囲からの憧れの的になると同時に、山百合会の伝統という重荷を背負
うのだという事を。
 だが、祐巳には雨を嫌うもう一つの理由があった。

  お姉さまに嫌われたと思って、白薔薇さまの胸で泣いたあの日を思い出すから

  このまま雨に溶けて消えてしまいたいと思った、あの日を思い出すから

 今となっては、過ぎ去ってしまったセピア色の思い出。
 しかし、思い出になってしまったが故に、祐巳の心にはわだかまりが残っていた。
 だから雨の降らないうちに、祥子と二人で帰りたかったのだ。



  カァァァァァッ、ドーン・・・

  カタカタッ、カタカタッ、ガタッ! カタカタッ・・・

「・・・祐巳。そこに来賓、父兄、OGと分けた招待客のリスト、あるかしら。」
「あります。」
「来賓何人、父兄何人、と読み上げて。」
「はい。来賓58人、父兄92人、OG115人です。」

 窓の外では大粒の雨が降り注ぎ、いつしか風も吹いてきた。窓は閉じてあるが、
ガラスが僅かな隙間で揺れて音を立てている。
 だんだんと、稲光と落雷の音がするタイミングが一緒になってきている。それは
つまり、薔薇の館の方角に雷の中心が近づいている事を意味する。

  ズドーンッ・・・

「合計で何人になるか・・・きゃあっ!」
 祥子が雷の音に思わず悲鳴をあげた。祐巳は窓に背を向ける形で座っていたから
稲光に気付かなかったのが幸いしたが、祥子が座っている位置だと光が目に入って
くる。それに落雷の音も凄まじく大きかった。驚いても何ら不思議ではない。
「あー、ビックリした・・・。」
 窓を閉め切ってしまった為、祐巳の額に汗が滲んでいる。しかしその汗は、落雷
の音に対する冷や汗も含んでいるようだ。
 額に汗が滲んでいるのは祥子も同じだった。しかし、目はややうつろで、傍から
見れば何かに怯えているようにも見える。
「お姉さま、どうかなさいましたか?」
「い、いえ。なんでもないわ、祐巳。続けましょう。招待客は合計で何に・・・」

  カァァァァァァッ、ズドーンッ!

「きゃああっ!」
 再び、激しい光と共に落雷があった。音とタイミングからして、かなり近い。
 その直後、館の天井の電気が消えた。窓から差し込む光だけでは心もとなく、部
屋の中は一気に薄暗くなる。
 その暗さに慣れた頃に、祐巳の目の前から祥子の姿が消えた事に気付いた。
「お、お姉さま?」
「祐巳、だ、大丈夫よ・・・。」
 床に近い位置から、祥子の声が聞こえる。祐巳がテーブルの下を覗き込むように
して見ると、そこには床にへなへなと座り込んでしまった祥子の姿があった。
「だ、大丈夫と言われましても・・・。」
 やはりその姿を見てしまうと、とても『大丈夫』だとは思えない。
 祐巳もうっすらと判っていた。祥子は雷が恐いのだと。
 だがそれを指摘すれば、祥子は懸命に否定するだろう。祐巳が見たいのはそんな
虚勢を張るような祥子ではない。弱い所があると自分でも判っていながらそれを隠
したりせずに『姉』であり続けようとする、そんな祥子の姿だ。
「わ、判ってはいるのだけど、やっぱり、恐いのよ。」
「雷が、ですか?」
「幼い頃避暑で別荘に行った時、窓の外にあった大きな木に雷が落ちて、炎と共に
二つに裂けたの。その時に『恐い』と思ったのを、今でも引きずっているのね。」
 雷を恐がるようになった理由を、なんら隠す事無く語り出した祥子。それを祐巳
は頷きながら聞いている。

  ズドォォォンッ!

「きゃあっ!」
 腹に響くような低音と共に激しい雷の音が辺りを包む。
「お姉さまっ!」
 祐巳は咄嗟にテーブルの下に潜った。屈む時に後頭部をテーブルの角にぶつけた
が、そんな事は気にも留めずに祥子の傍に駆け寄った。
「ゆ、祐巳・・・。」
「私も雷は嫌いです。でも、こうして二人で居れば、恐くは無いです。」
「そ、そうね・・・。」
「雷も、それほど長くは続きません。帰りが遅くなりますけど、暫くこうしていた
いです。」
 姉である祥子の傍に寄り添い、小さく震えるその腕を抱き締める祐巳。

  カァァァァッ、ズドーンッ!

 再び閃光と共に雷の落ちる音が辺りに響く。
 しかし、祥子にはその音も既に意識の外であった。自分を慕う妹が脇で腕を抱き
『暫くこうしていたい』と言い出したのだ。今や祥子の意識、五感の全ては祐巳へ
と注がれていた。祐巳の息遣いが、腕から伝わる温もりが、自分を見つめる眼差し
が、全てが祥子にとって意識すべき事柄である。そして、それを意識した事で自分
がこの祐巳の姉である事を改めて実感した。
 姉ならば、姉らしい振舞い方を妹に見せなくてはならないのだ、と。

  ゴォォォォォォ・・・

 時折閃光が辺りを包むが、落雷の音は徐々に遠くなり、その勢いも衰えていく。

 いつしか風雨も弱まり、窓の外に明るさが戻ってきた。

「・・・行った、かしら。」
「そうですね、たぶんもう遠くに行ったと思います。」

 祥子はゆっくりと立ち上がった。それにつられて祐巳も立ち上がる。
 窓に近寄っていくと、吹き込んだ雨でセーラー服を濡らさないようにしながら注
意深く窓を開ける。
 外ではまだ雨が降り続いていたが、窓の遥か遠くでは雲が切れ、その隙間から陽
の光が差し込んでいた。
「もうすぐ、止むわね。」
「は、はい。そうですね。」
 ゆっくりと窓を閉めると、祥子は振り返って微笑んだ。
 振り返ったその視線の先にいるのは、愛しい妹、祐巳。


「・・・やっぱり学園内も外も停電みたいですね。」
「さすがにこの薄暗さでは、仕事はできても目に良くなさそうね。諦めて今日は帰
る事にしましょう。」
 電気が点いていれば仕事再開という所なのだが、これから日が暮れてますます暗
くなる時間なのだから停電というのは致命傷である。さすがの祥子も諦めるしかな
かった。
「・・・はっくしょん!」
『えっ?』
 突然、くしゃみが聞こえてくる。勿論祐巳でも祥子でもない。
 どうやら扉の向こうに誰か居るようだ。
「だ、誰?」
「えーと、ゴメン。」

  ギイッ・・・

 ビスケット扉を開けて中に入ってきたのは、令だった。
 その後ろには由乃。どうやら二人でずっと階段の所に居たらしい。

「い、居るなら居ると言ってくれれば!」
「いやぁ、二人があまりにもいい雰囲気だったんで、それを壊すのもどうかなと、
私達なりに気を使ったつもりなんだけどね。」
 顔を真っ赤にして怒る祥子に申し訳ないと思いながら、令は苦笑していた。
「・・・い、いつ頃からお二人は?」
「停電して暫く経ってから。部活ができなくなったから、せめてお茶でも呑んでか
ら帰ろうと思ったんだけど、令ちゃんが『二人の邪魔しちゃ悪いから』って。」
「あ、あははは・・・。」
 ニヤニヤと薄笑いを浮かべながら、自分達が被害者である事を語る由乃の本音を
悟って、祐巳はただ苦笑するしかなかった。勿論由乃と令の事だから吹聴して回る
事はしないが、これが山百合会以外の人間であったら間違いなく翌日の教室内の噂
を独占する事になるだろう。
「さぁ、今日は帰りましょう。続きはまた明日。」
 祥子が全員に帰宅を促した。さっきの姿を令だけでなく由乃に見られたのが相当
恥ずかしかったようである。


 翌日、空はどんよりと曇っていた。
 しかし祐巳は折り畳み傘を鞄に入れたのみで登校した。周囲の生徒が皆傘を持っ
ているので一人だけ浮いて見える。
「祐巳さん、ごきげんよう。傘、忘れてきたの?」
「蔦子さん、ごきげんよう。そういうわけじゃないの。」
 おや?という顔をモロに表す蔦子。祐巳の言動からすると、故意に傘を忘れてき
たという解釈になる。
「・・・さては、お姉さまの傘に入れて貰って帰ろうって事?」
「ううん。折り畳み傘だけでも大丈夫だろうと思ったのと、それと・・・。」
「それと?」
「雨は、嫌いじゃないから。」

 祐巳は、そう言ってニッコリと笑った。

「あ、今の笑顔良いな。一枚撮りたい所だけど、傘が邪魔だ。」
「へへっ。残念でした。」

 昨日みたいな事があるのなら、雨も悪いものじゃない、とあらためて思った祐巳
だった。


 そう。梅雨時の雨ならばブルーにもなるが、夏の夕立が過ぎた後には、必ず青空
が顔を見せるのだ。
 どうやら祐巳の心の中にも、夕立が通り過ぎていったようである。



−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−



一つ前に戻る