亀宝山東光寺の百年

(1)開山 中村誠感上人(1863-1916)の代

(開山上人の実家と出生)

 廃線となった名鉄三河線の三河楠駅の東約100米のところにある農家が中村家で、ここが東光寺を開いた中村誠感上人の生家であり、中村家のル−ツである。上人生誕当時は幡豆郡奥津村字富山44と云い、現在は西尾市富山町於三のこの家の当主は上人の弟の孫である。

(菩提寺と出家得度)

この家は大浜から吉良へ行く昔の街道沿いにある。この街道を東に行くと浄土宗西山深草派の桂岩寺、さらに行くと養寿寺がある。中村家は桂岩寺の檀家であった。上人は文久3年(1863)2月23日ここの農家中村武助の長男として生まれた。兄弟は7人であった。 上人の得度(僧籍に入ること)は明治22年(1889)4月14日、26歳、師匠は碧南市大浜の海徳寺(深草派)の第二十四世牧隆禪師である。海徳寺は養寿寺の末寺であった。

農家の長男の上人がどうして仏門を志されたのか、私は生家の近くにあった桂岩寺と養寿寺を見て、僧侶に憧れたと想像する。なお上人の妹さんも尼僧であった。

(亀崎との因縁、説教所開設)

三河で生まれた上人がどうして亀崎に寺を創ることになったか。当時三河の農家では農閑期には半田の醸造家に働きにくる習慣があり、上人も半田の伏見屋で働いていたといわれている。亀崎の人とつながりができたのはこのためである。  明治32年(1899)9月18日に上人が久田文七氏の家に布教に訪れたのが縁となった。久田氏は天保12年(1841)3月9日生れで亀崎村の村会議員であった。久田氏の家には維新の廃仏毀釈で伊勢の国から出た善導大師と法然上人の大きな厨子入りの木像があり、久田氏はこの木像を在家におくのはもったいないとし、寺を建てたいと思っておられ、そのための土地も買っていた。ここで予てから寺を建てたいと願っておられた上人の意向と一致し、明治33年(1900)3月23日間口6間半、奥行き6間の東光寺の前身の西山派の説教所が開設された。上人37歳であった。 久田氏は説教所のために、境内宅地9畝25歩、田地7畝3歩、を寄付された。なお後に寺号移転費200円も寄付されている。よって久田氏を東光寺の開基と仰ぐのである。本堂左の開山上人の脇に久田氏夫妻の木像がある。久田氏は東光寺開創間もない明治40年(1907)11月27日(旧暦で10月22日)67歳でなくなられている。菩提寺は乙川の正通寺で法名を釈安詳という。刈谷市の京極歯科の久田先生は文七氏の子孫である。

(和歌山県から移った寺号)

そのころ和歌山県海草郡東山東(ヒガシサンドウ)村永山(現在の和歌山市永山)に東光寺という寺があった。この地は東に覚鑁上人が造ったという大池があり、そこから永山川という小川が流れ、川をはさんで南北は丘陵になっている。東光寺は北側の丘の上にあって、山号を井底山といった。この寺は近くの木枕の西應寺の末寺で、昔は山の下にあったが宝暦年間に山の上に移ったという。この寺の過去帳と伏鉦が近くの薬善寺に残っている。その本尊の阿弥陀仏はこの地の角田サヽヱという人の家に代々伝わったもので、先祖が永く供養してきたが、この阿弥陀仏のために寺を建て、この寺を東光寺と称したという。信者もかなりあった。しかしその後大檀那の五郎兵衛が没落してから、寺も衰運に向かい信者は隣の薬善寺に移り、台風にも遭い寺は廃寺寸前であった。  開山上人は寺を建立したいと思っておられたが、当時は新規に寺を興すことは出来ず、移転なら認められた、どこかに移転できるような寺はないかと探しておられたが、南本山円福寺第六十七世の中西慈芳師から永山の東光寺のことを教えられた。中西慈芳師は、和歌山県田辺市中芳養の泉養寺から岡崎の崇福寺に晋まれ、次いで円福寺に入られた方なので、永山のことをご存知であった。

 開山上人は明治34年10月2日東光寺の本寺の西應寺へ行き移転のための交渉を始められたのである。このとき上人は西應寺に6日間も滞在されたという。 寺号本尊の移転が終わったのが明治36年(1903)7月27日で、この日に愛知県知事の許可が出ている。上人40歳の時である。  
永山の東光寺の跡へは一度訪れたいとおもっていたところ、薬善寺さんのご好意で昨年(平成12年10月4日、丁度開山上人が和歌山へ行かれた日から百年目)無縁佛法要に招待され念願が叶えられた。寺の跡は竹林になっており、一部高いところに墓が残っている。

上人が東光寺を開いた所以は亀崎には真宗や曹洞宗のお寺はあるが浄土宗の寺は無いということ、またこの地方の弘法信者のため大師をまつりたいということであった。 その後上人は寒暑を厭わず東奔西走信徒を募り浄財を集め境内を広げ数多の建物を設け、寺の基礎を確立された。先ず十一面観音、三体弘法大師を迎え、次いで明治43年に年弘法六十二体を迎え高野山の大徳を招き開眼供養を修せられた。さらに四国霊場の本尊をまつらんと、自ら四国霊場を巡拝し、その後各地の信者から寄付を集め、四国八十八ヶ所各寺の厨子入りのご本尊の写しを迎え、大正3年3月21日から四日間開眼供養法会を修行された。 上人の教化、募財で目に付くのは地元だけでなく、尾北,東濃方面など遠方に亘っていることである。
 
上人がつくられた多くの大師像はどこにもある仏像とちがい特徴のあるものばかりである。三体弘法はこのあたりでは最大級の大きさであり、歳弘法のなかでも大師が両手、両足、口に筆を付けた像とか全身金色の像などは珍しいものである。  上人の遷化は大正5年(1916)10月4日 俗寿53歳であった。諱を実空誠感上人恩阿是繁和尚という。父武助さん(1837-1928)も師匠の海徳寺牧隆禪師(  -1918)もこのときまだ存命中であった。 上人には妻子はなく、養子が誠禅(敏夫の父)である。しかし没年の2年前の大正3年5月7日 古川ていさんと結婚している。この時ていさんは54歳、いつ頃からか寺に入って法務を手伝っていた。尼僧であった。
ていさんは、万延元年11月21日(1860)に生まれ、名古屋市の古川英邦、ゑいの弐女で大正10年(1921)11月18日に亡くなられた。諱を操空顕譽貞正法尼という。

(2)第2世 純空誠禅上人(1897-1951)の代

誠禅師は明治30年(1897)3月9日幡豆郡一色村(現在の一色町味浜江向(エモク))の農業久保田栄三郎の四男として生まれた。この味浜には深草派の満国寺があるが久保田家はこの寺の近くにある。明治38年9月15日誠感師について8歳で得度、明治42年10月24日僧籍編入、明治43年2月21日13歳で誠感師の養子となっている。

開山上人の生母よをさんは久保田栄三郎の父善兵衛の妹であった。すなわち栄三郎は開山上人の従兄弟にあたる。この縁で誠感師が幼い子を弟子としたのである。誠禅師は亀崎小学校を卒業し、その後名古屋の真宗専門学校(同朋大学の前身)の聴講生となっている。  

誠感師がなくなられた大正5年誠禅師はまだ19歳であった。当時の宗制で23歳にならないと住職にはなれなかった。住職就任は大正9年4月4日でこの間は、乙川法蔵院第二十九世稻葉亮康師が代務住職をしておられる。

戦前の東光寺は弘法詣りが多く、繁盛していた。当時は今ほど御納経はなかったが、自分の歳の年弘法にお膳を供え、おさがりのお洗米とお菓子をうけるということが、たいへんな人気であった。 お寺の石垣,石段、五重塔、石柱などは第二世の時に出来たものである。この石の五重塔は松山鍬吉氏を始めとする犬山の信者の寄進で大正14年3月に出来ている。  東光寺も昭和のはじめまでは、平穏で余裕もあったが、昭和10年代になると戦争のため弘法詣りは減る一方であった。昭和20年1月の大地震で一時は信者が津波のように押し寄せた年弘法堂も倒壊してしまった。 誠禅上人の遷化は昭和26年12月12日であった。享年54、諱を純空誠禅上人至道和尚という。

(3)第3世敏夫(1924-  )

 敏夫の誕生は大正13年2月14日、誠禅上人の長男である。敏夫が旧制半田中学を卒業したのは昭和16年3月で、この年の12月に太平洋戦争が始まっている。

 誠禅上人遷化のとき敏夫は27歳で会社に勤めていた。誠禅上人は病弱ではあったがなんとか寺務はこなしていた。昭和26年秋に急速に衰弱し亡くなった。急であったので敏夫には寺を継ぐ準備はなにもできていなかった。会社勤めを続けることになった。寺務もなかった、もともと新寺で檀家は少ない寺である、弘法詣りもほとんどなかったといってよい。それから約30年間東光寺は二世遷化当時そのままの姿で推移した。  
本堂の西に堅田峰吉氏の大きな陶像がある。堅田峰吉氏は和歌山県日高郡みなべ町の出身で亀崎鉄工所の創業者であった。(亀崎鉄工所は明治29年の創設で、当時この地方では大きな工場であった。ここに明治44年の大逆事件で処刑された宮下太吉が働いていたことで有名である)

 このみなべは西山浄土宗の寺院が多い。堅田峰吉氏も西山の信者であった。東光寺の檀家として寺の発展に貢献された。昭和12年(1937)3月21日に亡くなられ、法名を堅立院徳空浄本居士という。戦後鉄工所もなくなり、敷地が売りにだされ、なかにあった陶像を東光寺で引き取ってくれということになった。昭和38年のことである。この陶像が後に東光寺復興の縁となったのである。

 堅田峰吉氏には娘さんがひとりあって、静江さんといった。婿を竹次郎氏と云いみなべの人であった。子はなかった。半田市会議員などをやっていたが、まもなく静江さんと共に故郷のみなべ町に帰り、そこで亡くなられ、堅田家は絶えている。東光寺の総代であった故中原義雄氏の父の中原岩吉氏は堅田峰吉氏の異母弟にあたる。

大府市にある木工機械メ−カ−伴鉄工所の社長伴一(ハジメ)さんは若いとき亀崎鉄工所で働いていた。昭和54年東光寺に堅田さんの陶像があることを聞かれ、堅田さんの菩提寺なら力を貸そうということになり、弘法堂再建事業が始まったのである。それから檀家さんをはじめ、弘法大師の信者、多くの方々のご尽力で、昭和55年11月30日実に35年ぶりに年弘法堂が再建された。その後庫裏建替え、本堂屋根葺き替え、三体大師堂建替えと進んだ。その間鐘楼も伴さんの寄進で完成した。弘法詣りも段々増え、東光寺の前途にやや光明が見えてきたのである。

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