| 60年代後半にアメリカ北部アイオワ州エームズで生まれる。2才半で日本に帰国しているので、当時の記憶は全くなし。「マディソン郡の橋」の舞台になった、本当に田舎でのんびりしたところ。冬は豪雪地帯。ただ帰国直後はずっと英語を話していて(といっても単語のみ)祖母は面食らったそうです。しかしそれもわずか数ヶ月で日本語に切り替わったそうです。 |
| 中学から、大学までエスカレーター式の女子校に入学。ところが入学してすぐの夏に父の仕事の都合で1年間、アメリカ南部テキサス州ヒューストンへ。スペースシャトルで有名なNASAのすぐ側に住む。スペースシャトルが移動するときは、全校生徒で庭に出て見物という貴重な体験もできた。向こうでは平日は現地校、土曜だけダウンタウンにある日本人学校へ通う。夏は毎日40℃を超す南部の暑い街。学校に日本人は私一人で、しかも当時、まだ日本製品は今ほど有名でなく、日本というと真珠湾攻撃のイメージしかなかった。いつも中国人だと思われていたが、最後ではわかってくれたようだった。メキシコとの国境のリオグランデ川に行ったとき、初めてサソリを見た。すごく怖かった。よく郊外にドライブに行き、そのときに咲いていたテキサス州の州花BlueBonnetを教室名にしています。 |
| あっという間の1年で帰国後、元の学校へ。無事に広尾にある某女子大に入学し、英文科とさんざん悩んだ挙げ句、心理学を専攻。アナウンス研究会に所属し、何度もやめようかと思いながら、4年間最後まで続けられた。友人にも恵まれ、楽しい大学生活を送ることができた。大学3年の春には、父のアメリカ人の友人のハワイの別荘に1ヶ月ホームスティをし、ワイキキから離れたカハラで過ごした。(カハラヒルトンのすぐ隣りのコンデミニアムで、プライベートビーチ付。歩いてカハラヒルトンのガーデンに毎日散歩。ガーデンでは中まで海とつながっていて、イルカが入ってくる。なでてもおとなしくて感動)向こうで、ハワイ大学の学生と友人になり、いまだに文通を続けている。観光では知ることのできなかった現地の生活を知ることができた。 |
| いよいよ就職活動。私の就職活動ははっきり言って、絶好調とはとても言えなかったが、最後に某石油会社に決まって丸の内のOLになる。その時、フラワーアレンジを習う。そこのお教室はこじんまりとしていたが、丁寧に指導してもらえて、ヨーロピアンスタイルを学ぶ。当時、他の教室にくらべるとレッスン料は高い方だったが、素敵なお花をふんだんに使用。そしてその魅力にとりつかれるが、結婚が決まり、転勤のため仙台に行くことになり教室をやめる。 |
| 結婚後、仙台でもフラワーアレンジを習ったが、そこのお教室は、先生がご多忙であまりいらっしゃらずに、アシスタントの方が主に見ていた。あまりきちんとした説明もなく、見本通りに生けるだけだったので、いつも「これでいいのか」不安だった。 |
| 転勤で東京へ。母や知人に頼まれてドライやアートフラワーを使ったアレンジを作るようになる。もっと技術を高めたいと思い、イギリスの学校へ行こうと決心。 |
そしてこのHPを作るきっかけになったイギリス行きへと至る。
イギリスから戻ってから、やはりお花をもっとやりたい!という思いが強いことを再確認して、英国式のドライフラワーを学んだり、ブライダルのアトリエで登録スタッフとして働く。
とてもいい経験をたくさん積んで、「いつかはお教室を」と思っていたところに、また転勤で大阪へ。 |
| 大阪に来てから、3ヶ月でお教室を開講。隣りの市に住む先生と知り合い、それが私の運命を変えたといっても過言ではないかも・・一緒に芦屋や豊中市のよみうり文化センターで開講。おかげさまで大勢の生徒さんに来ていただいて、日々楽しくレッスン。レッスン以外にもホテルのディスプレイ、百貨店のリース販売などの仕事も経験。。香川県高松市に転居後も芦屋レッスンと高松の自宅レッスンを継続中。高松三越プリザーブド展にもデザイナーとして出典しました・これからももっと仕事の幅を広げるべく日々邁進中! |