<Private Papers> 【※1】
1
春先の柔らかい日差しを受けて、車椅子の老人がバルコニーに佇んでいた。 【※2】
20年も前に全くの記憶喪失状態で収容された彼は、その後も一向に亡くした記憶を回復する事も無く、
入退院を繰り返してきた。入院をしたらしたで、ベッドが足りない為にあちこちをたらい回しされた挙句、
先日この病室に収容されてきたという。
白髪頭や目じりの皺、たるんだ筋肉 【※3】
が彼の高齢を物語っているが、正確な年齢は知る由もない。
なにしろ自分の名前すら思い出せず、全く身寄りも名乗り出ないのだったから。
彼が誰であったのか、それは恐らく永遠の謎となるのだろう。
老人は空を翔ける雲雀を見上げ、穏やかな笑みを浮かべた。
【※1】 タイトルにはいつも苦労する。最初は「Guilty
or not guilty」という名だったが、
最終的には「手記」という題名で落ち着いた。
【※2】 はるか昔の事になる。小学生だった頃の私には車椅子に座ったまま殆ど身じろぎすら
しない老人の姿に、何か得体の知れぬ恐怖を感じた。
父・母・兄・私という最小単位の核家族で親戚付き合いすら皆無だった私たちの生活に
「老人」という生物が身近でなかったせいかもしれない。 この感覚は未だに心の奥底に残っている。
【※3】 ときおり(または、えてして)我々が老人を嫌悪してしまうのは、彼らの内面の輝きを見る事が出来ず、
表面的な部分に捉われているからだろう。
そしていずれは自分自身の肉体も衰えて行く事を承知しているが故に、それを恐れ、嫌悪する。
2
松原敏雄 34歳 会社員 趣味-パソコン
休みの日は昼まで寝てテレビを見て過ごし、たまにパチンコに行く
「はぁ、、、箸にも棒にも掛からないわね。」
敏雄の母、恭子が情けない顔でため息をつく。
いつまでも独りである敏雄を心配してお見合いでも、と思ったのだが、
この息子の余りに平凡すぎるプロフィールを書き出してみてどう売り込めば良いのかと途方に暮れてしまったのだ。
学生時代もグレる事もなく、手のかからない子供ではあった。 【※4】
ごく普通に大学に進み、ごく普通に就職し、大過なく10年を勤めてきた。
毎朝、判で押した様に会社に出かけ、夜は8時には帰宅し、飯を食い、テレビを見、11時頃には「おやすみ」
と声を掛けて2階の 【※5】
自室へ戻る。
どうにも大人しい息子ではあるが、どうも人付き合いが苦手らしく、
学生時代を通して彼の周りに友達の気配を感じる事は稀であった。
ましてや彼女らしき存在なんかはまるで母親に伝わって来ず、恭子が心配するのも当然
と言えば当然のことかもしれない。
「まぁ、よそ様に迷惑をお掛けしないだけマシなんだろうけどねぇ、、、」
【※4】 「手の掛からない子供」というのは概して大成しない。親は大変であろうが、
自らに課せられた枠組みをブチ破って大暴れするくらいの子供の方が
将来、成功するのではないだろうか。
または犯罪者として名を残す可能性も無きにしも非ずだが。
「三つ子の魂、百まで」とはよく言った物である。
【※5】 中学〜高校の頃に家族が棲んでいた木造2階建ての家の2階部分を兄と私で使っていた。
その木の階段は時々ささくれ立って、私の素足を傷つけた。
まだ角質も硬化していない子供の白い足の裏にプツリと赤い血の玉が吹き出る、、、
3
今夜も自室に戻った敏雄はPCの電源を立ち上げる。
キリキリキリと心地よい音を立ててハードディスクが始動する。
真っ黒な液晶画面にOSのスタートアップ画面が映し出される。
長いくだらない一日を終え、ようやく自分の世界に戻ってきたんだ。 【※6】
敏雄にとって昼間の生活は、この「リアル・ライフ」を支える為だけの苦役に過ぎなかった。
オフィスでは誰とも口をきかず、ただ黙々と与えられた仕事をこなした。
会社帰りの飲みのお誘いにもロクに応じない彼を周囲は当初は恐れ、そして嫌い、最後には呆れた。
今では敏雄はかなりの侮蔑の念も込めてオフィスの「置物」として認知されている。
それは必ずしも敏雄自身が望んだ事では無いにしても、彼自身の性向が招いたものである事を認識をしていた。
だからこそ敏雄はそんな自分自身がイヤでイヤで仕方がなかった。
こんな自分から、こんな世界から逃げ出したい。 そう思う俊夫が、違う名前を名乗り、
別の人格を纏うことの出来るサイバースペースに没入していったのは、
ごく自然な成り行きだったのかもしれない。
【※6】 家に帰るとまずテレビ、と言う人はかなり多いだろう。しかし最近のPCの普及により
これが「パソコンの電源」に代わってきた人も間違いなく増えている。
一方的な受動であるテレビと較べて自らアクションを起こす事の出来る、いわゆる「インタラクティヴ」
により、人はより明確な意思を持った現実逃避が可能となった。
しかしこの束の間の楽園も「経済」の介入により、あっという間に「現実」の汚泥へと引きずり落とされた。
もはやネットの上であっても、善きサマリア人を見つける事は(そして自らがそうなる事も)
現実世界と同じ位に困難である。
我々はただ、薄く残された「匿名性」(それもまた幻想なのだが)という安心感をよすがに
クラーケンの待ち受けるwebの海原にログインして行く。
4
インターネット上の無数のカテゴリのコミュニティによって、敏雄は様々な人格を作り上げていった。
例えば60〜70年代のロックを懐かしむ者達のチャットルームや掲示板では、ギターマニアの青年
“エディ”の役を演じたり、ロボットアニメ
【※7】
のグループにあっては10代のコスプレ少女を騙り、
人気者にさえなったりした。
そんなコミュニティにやってくる、ごく平均的なサラリーマン等に対し、敏雄は「退屈なヤロー」
と痛罵して憚らなかった。
そんなある日、いつもの様に敏雄は好色オヤジ“MUD”に成り切って、アダルト・チャットルームで
際どい発言を繰り返していた。
そしてこのコミュニティに始めて来たと言う、いわゆる「お初さん」をからかって馬鹿にしていた時、突然、
「そんな偉そうな事言ってるけど、お前、アニメ・チャンネルで“レイ”なんて名乗ってるネカマ野郎
じゃないか」というログが打ち出された。 【※8】
迂闊だった。 恐らくログイン/ログアウト時のIPを細かくチェックしている「粘着」と呼ばれる偏執狂に
突き止められてしまったのだろう。
Webの世界であっても、いや、尚の事「村八分」の傾向は顕著だ。
一度目をつけられると、とことん喰いつかれ、ヘタをするとプライヴァシーも何も暴露されてしまう。
敏雄は己が築き上げてきた王国が崩れ落ちて行くのを感じた。
【※7】 社会現象と言えるアニメ作品を3つ挙げろ、と言えば恐らく「ヤマト」「ガンダム」「エヴァンゲリオン」
となるのではないだろうか。 決して「ボトムズ」「999」「パトレイバー」にはならないと思われる。
「サザエさん」「ドラえもん」「クレしん」はアニメというよりはマンガとして、より日常生活に溶け込んでいるし、
「鋼の錬金術師」ではまだまだ役不足である。
時代別に、「ヤマト」はまだ単なる英雄譚としての延長でしかなかったが、
「ガンダム」では人類の進化と、それに伴うマイノリティの受ける逆境が描かれた。
クリエイターによる選民意識の様な逆差別も随所に感じられた。
つまりは「屈折」した作品が公に認められてしまったのだ。
これは真の意味でエポック・メイキングな出来事と言える。
そして更に「イデオン」を挟んで「エヴァンゲリオン」では人類の原罪が問われた。
考えてみれば、そのロボットの形態からしても、テーマからしても「イデオン」と「エヴァンゲリオン」は同じだ、
と乱暴な事を言ってもイイ。
そもそも主客たる碇シンジは、人類という総体に普遍する精神活動のサンプルとして
提示されたテーマなどでは無く、、、、、、、、
【※8】 ぶ、無礼と言うか、無粋と言うか、、、俺が男で何か悪いのか。電話で話すわけでもなく、
ましてや“オフ”で実際に逢ってデートをする訳でもないのに、どうしてそこまで文字のやり取りの
コミュニケーションで性別に拘るんだ。
「じゃ、お前だって同じじゃないか、なんでお前の『男』という本来のキャラクターで喋らないんだ。
拘ってるのはお前じゃないか、キモいんだよ。」
「そ、そんなのこっちの勝手じゃないか!」
5
「さあ、気持ちを楽にしてぇ、息を深く吸ってぇ、はい、周りは広い芝生の公園ですよぉ。
貴方を傷つける人なんか誰もいませんよぉ。 ホラ、陽の光を浴びてポカポカ暖かいですねぇ。」
【※9】
豪華な革張りのリクライニング・チェアに横たわり、目をつぶる敏雄を診察室のマジックミラー越しに見ながら、
恭子は不安で堪らなかった。
ある日、温厚なだけが取り得と言っても過言ではなかった敏雄が些細な事で、まるで別人の様に
怒鳴り声を上げ、暴れだした。
凄まじく怒り狂う敏雄の形相は今まで恭子が見た事の無いモノだった。
嵐の様な数分が過ぎ去って、ゼンマイが切れたかの様に彼は昏倒した。
そしてすっかり敏雄本来の表情で目覚めた彼は、散乱した部屋の様子を見渡してこう言ったのだ。
「母さん、いったい何があったの?」
それからというもの、事あるごとに敏雄は何者かに憑依されたかの様に暴れたり、
また逆に少女のようにさめざめと泣き出したりした。
そして正常な意識を取り戻した時にはその間の記憶がスッポリと抜け落ちているのだった。
【※10】
【※9】
まぶたが重くなってきた。 どうしてこう、文字ってヤツは(書くにしろ、読むにしろ)
眠くなっちまうんだろう。
【※10】 気が付くと机の上に突っ伏していた。 鈍器で殴られたかの様に頭がズキズキと痛んだ。
辺りを見回すと積み上げられた本が床に散乱し、机の端に置いていた飲み差しの
珈琲カップもひっくり返って、原稿のいたる所に茶色いシミを作っていた。
クッションの中身はぶちまけられ、壁には得体の知れない殴り書きがある。
これは酷い。
ふと見ると、手といわず足といわず、身体の随所に無数の裂傷が出来て血がこびり付いていた。
いったい何があったんだ。
6
昔であれば“狐つき”と言ったかもしれないが、思い余った恭子が恐る恐る訪ねた精神科クリニックの担当医は
この症状を“多重人格症”と診断した。
多重人格症は過大なストレスを背負いかねて耐えられなくなった自我が、架空の人格を作り上げて、
そのストレスを肩代わりさせる一種の防衛システムだ。
イヤな記憶を忘れようとして他の人格を作り上げた為、当然元々の本人の意識ではその新しい人格の存在すら
自覚しない場合も多い。
しかし、敏雄の場合は最初は完全に分離していた人格たちが、時には2つ同時に目覚めた状態で進行する
ケースが出てきた。
より強い人格が、もう一方の人格をねじ伏せて表に顕れるが、押さえつけられた人格も休眠する訳ではなく、
発言出来ないストレスを溜め込んで不満を募らせた。
「レイがこうやって先生とお話してるじゃなーい?するとねぇ、大抵あのエロオヤジ“MUD”がやって来て
無理矢理アタシを押入れに閉じ込めるのよねぇー。
あの自分勝手なオヤジ、大っキライ! え?アタシはあの弱虫の敏雄が創り上げた架空の人格ですって?
ええええ??? ナニ言ってんのォ? バッカみたい!」
「俺が創ったんだ。」
「ああ、やっと表に出て来れた。“MUD”は勿論だけど、結構“レイ”も押しが強くてね。 ボクはいつも隅っこで
大人しくギターの練習をしてる他ないんだよ。
ん? 敏雄? ああ、アイツは大人しいというよりも、主体性の無いバカなんだよ。」
「おうよ、いつの間にか寝ちまってたぜ、イヒヒヒヒヒ。 “レイ”は俺の事、なんか言ってたかい?
ギャアギャアうるさいから今は閉じ込めてるんだけどな。
“エディ”も敏雄もありゃあダメだな。 男としてのなんかこう、ガツンと来る勢いがねぇんだよな。
イヒヒヒヒヒヒ。
なぁ、先生よ、こんな所で男同士で辛気臭え話なんかしてねぇで、歌舞伎町にでも繰り出さねぇか?」
「、、、、、ええ、はい。 学生時代も就職してからも、特に友達と呼べる人はいません。
でも正直なところ、みんな友達、友達って言うけれど、何故友達づきあいなんかしなきゃいけないんですか?
みんな利用できる所だけ私の事を利用して、実際にはバカにして後ろで舌を出してる様な人たちばかり
じゃないですか。
あ、私の多重人格症についてですか。 はぁ、そうですね、やはり仕事中だろうと何時であろうと、
お構いナシに勝手に他の人格が出てきた挙句に気絶状態になってしまうのはやはり困ります。
ええ、はい。 “レイ”“MUD”“エディ”達の記憶を全部繋ぎ合わせる事で私が100%の【敏雄】に戻れるんですよね。
でも先生、 私が本当の 」
7
「ところで奥さん、」
敏雄の診察を終えた医師が額の汗を拭きながら、申し訳なさそうに恭子に切り出した。
「お話にくい事だとは思いますが、、、ご主人である和彦さんを事故で亡くされてますね。
これは敏雄さんが幾つの頃なんでしょうか。」
医師を前にして恭子は胸を突かれる思いだった。
やはりあの事件を避けて通る事は出来ないのか、、、、、
夏休みを利用して山の上のコテージへ家族旅行に向かうドライブの途中、車の前輪がパンクした。
岸側ガードレールの外側の狭いスペースに車を止め、雨の中を夫・和彦と敏雄がタイヤを交換している
最中に和彦が足を滑らせて谷底へ転落した。
待ちくたびれて車中でウトウトしてしまっていた恭子が悲鳴を聞いて飛び出した時には、
もう全ては終わってしまっていた。
はるか足元には前日からの大雨で増水した濁流が渦巻き、和彦の影はどこにも見当たらなかった。
沛然と降りしきる雨に打たれ、中学に上がったばかりの敏雄が呆然と立ちすくんでいた。
激しい雷光が能面の様に表情を失った敏雄の白い顔を尚更青白く浮かび上がらせていた。
8
多重人格症の治療にはひたすら、架空の各人格も含めて現実の家族との会話が鍵となる。
幼い頃からの敏雄の人生を掘り起こし、各キャラクターに対して、「自分が作られた架空の人格」である事を
認めさせなくてはならない。
そして主体である敏雄も、各人格の経験した記憶が自らの体験である事を認めた時に、
その人格と過去の記憶が敏雄の一部分として取り込まれる。
其々の人格がバラバラに主張している記憶を時間軸に沿って、1つの人格による1本道の体験として、
パズルのピースをはめ込む様にして再構築する。
そうすると、架空の人格がその存在理由を失って主体に吸収されてしまう。
これを【統合】と言う。
医師が“MUD”に、「君は敏雄が作り出した『隠れ蓑』の様な、架空の人格なのだ。」と、
説き伏せようとしていた時の事だ。
自らのアイデンティティを根底から否定された“MUD”はこれを認めようとしなかった。
「ああっ!? 俺が敏雄みてぇなガキに作られた寄生虫だってのか? ふざけるなっ!」
「俺が創ったんだ。」
医師はそれでも追及する。
「では、貴方が生まれてからの今までの人生についてお話して下さい。」
「お?、、、あ?、ああ、、、まずだな、産まれも育ちも葛飾柴又、帝釈天で産湯を使い、、、」
「それは敏雄君が『男はつらいよ』を元に無意識で創り上げたカバーストーリーですよ。」
「なんだとっ! 今度は俺を『寅さん』扱いかっ!ナメんじゃねぇぞ、コラ!
俺はこうやって肉体を持って実際に生きてるじゃねぇか!仮に俺の存在が架空だとしたら、
何をやっても誰も罪に問われないって事になるんだろう!? どうだっ!こうしてやる!!」
突然“MUD”は診察室の花瓶を振り上げ、医師に殴りかかった。本棚を蹴倒し、
ソファーを窓ガラスに叩き付け暴れ回った。
一部分では確かに“MUD”の言う事も正しかった。 逮捕された敏雄は刑事責任を取る能力が無い事を、
皮肉にも被害者である医師自身が証明する形となり、裁判を免れたのだった。
もちろん一般生活を送る事は許されず、隔離病棟に拘束されたのだが。
9
の月日が流れた。 【※11】
この間に彼女を悩ませ続けた苦難が恭子の顔に深いシワを刻み、髪に雪の筋を散らせた。
泣き喚く“レイ”、ふてくされる“エディ”、そして怒り狂う“MUD”を長い時間を掛けて宥めすかし、
説き伏せた。
彼らの不完全な記憶の分断と矛盾を指摘し、彼ら自身の存在が敏雄という主体の『逃げ道』として作られた
実体を持たないペルソナであると理解させた。
遂には彼らもその事実を受け入れ【統合】されて消えていったのだ。
「はい、私は敏雄です。もう昔の記憶も殆ど抜ける事なく自分の物として認識できます。
ええ、“レイ”も“エディ”も“MUD”も、もう表に出てくることは無いと思います。」
「ああ、でも確かに彼らはここに、」
敏雄は自分の頭を指した。
「いますよ。彼らは私の一部分なんです。彼らの残した傷跡は消える事なく私の心と身体に刻み込まれています。」
医師は恭子の方に向き直って言った。
「お母さん、経過は良好です。 敏雄さんは“MUD”などの人格を『自分とは無関係の別の物』とせずに、
『自分の中に一時的に生まれた領域』、として認識が出来ているようです。
もうこれで【彼ら】も主体である敏雄さんを乗っ取って暴れる事も無いでしょう。
一応、2週間ほど様子を見て、それで退院としましょう。」
その言葉を聞いて恭子は泣き崩れた。
「ありがとうございます、、、本当に、、、ありがとうございます、、、、」
【※11】 年の月日が流れた。 この間に俺は精神を病み、病院に強請収監されたらしい。
投薬、果てしない医師とのセッション、繰り返される灰色の壁の中での日々。
これらが現実なのか幻なのか、、、
記憶の断片も所々で抜け落ちているし、この原稿さえも散逸して一部は欠落したままである。
10
激しい雨が降り続いていた。 軽い憂鬱を覚えながらも恭子は食事の準備に忙しく、
敏雄はそんな母親を尻目に居間のソファーで本を読んでいた。
あれほどのめり込んでいたパソコンだったが、今では仕事上で必要になった時くらいしか触らない。
相変わらず人付き合いは苦手な様だが、すっかり温厚な性格を取り戻した敏雄を見て幾度と無く
恭子は安堵の溜息をつくのだった。
その穏やかな静寂を破るように玄関のブザーが鳴った。
「誰だろう?」 滅多に来客など無いこの家に軽い緊張が走る。
「あら、敏雄、出てくれる?」 恭子が台所から声を掛けた。
敏雄が鍵を外しドアを開けると、そこには雨に濡れそぼった老人が立っていた。
「ど、どちら様でしょう?」
すると意外にもその老人は彼の名前を呼んでニヤリと笑った。
「ふふふ、敏雄、、、やっと見つけたよ。」
「え、、、?どこかでお会いしましたか?」
「そうか、判らないか。 まぁいい、ちょっと上がらせて貰うよ。」
「ち、ちょっと、困りますよ、、、」
2人の押し問答を恭子の声が遮った。
「和彦さん、なの!?」
「さすがに判った様だな。 ふふふ、久しぶりだな。」
「い、生きていたの、、、でも何故?」
「ふん、残念だったな。 いい厄介ばらいが出来たとでも思っていたんだろう?
でもどのみち俺の生命保険はガッチリ戴いたんだろう? 実際に戸籍上も俺は死んだ事になってるん
だろうしな。」
「この人、お父さんなの、、、?」
敏雄の中で何かがグルグル回り始めた。
顔が紅潮し、内圧が高まっていくのが傍目にもはっきりと判る。
「ああ、、、、、この前の人格分裂の時と同じだわ、、、」
恭子は恐怖した。 また敏雄の人格が崩壊してしまうのか。
11
その日も父親は酒に酔って帰ってきた。 そんな和彦を母親はなじり、毎度の喧嘩が始まった。
怯える敏雄をよそに、夫婦の諍いはエスカレートし、遂に和彦は恭子に手を上げた。
泣き伏す母親をかばった敏雄の背中をも踏みつけ、和彦は更に暴力を振るった。
一旦境を越してしまった和彦は事有るごとに暴れるようになり、敏雄と恭子は生傷が絶える事のない
毎日を送るようになってしまった。
敏雄が中学2年の夏、珍しく上機嫌の父親が、家族旅行へ行こうと突然言い出した。
ハッキリ言って敏雄も恭子もイヤだったが、断ったら断ったでまた和彦が暴れだすのは火を見るよりも
明らかだった。
無理矢理楽しそうなふりをして、長野県の山奥のコテージに出かけると言う和彦の思いつきに同意したのだ。
しかしその計画は出だしから台風の接近というトラブルに見舞われた。
もっと天気の良い日に仕切り直そう、と恭子も敏雄も提案したが、頑固な和彦はなおさら依怙地になって
雨の山道を車で飛ばした。
「チキショー!なんだってこんな日に雨が降るんだバカヤロー!」とすこぶる機嫌の悪い和彦であったが、
次第にその憤りを妻や息子へと向けだした。 とばっちりもいい所である。
そして慣れない山道のドライブでタイヤに負担を掛け過ぎたのであろう、後輪がパンクして交換を余儀なく
された時、和彦の怒りは頂点に達した。
運転の出来ない恭子を役立たずと罵り、タイヤ交換に手間取る敏雄の背中を蹴りつけた。
「この野郎!何でこんな事くらいチャッチャと出来ねぇんだ!」
その時、雷鳴が轟き、稲妻の光が敏雄の顔を打った。
再三蹴りつけてくる和彦の足を突然敏雄の手がつかんだ。
仰天した和彦はバランスを失い、もんどりうって後ろに倒れた。
ガードレールを越えた崖っぷちのぬかるみで、和彦の体がズルズルと滑り落ちようとしている。
「うおう!助けてくれぇ!何やってんだ敏雄!!手を貸せ、このチクショー!」
しかし、敏雄はガチガチと歯を鳴らしたまま何も答える事も出来ず、そしてその足は一歩たりとも和彦の方へ
踏み出されること無く、棒っきれのように立ち竦むばかりだった。
異変に気付いた恭子が車から飛び出して来た時には、もう既に和彦の姿は遥か下方の濁流に飲まれ、
どこにも見当たらなかった。
「こ、殺したんだ、、、お父さんを、ボクが、殺した、、、」
気を失って倒れる寸前、敏雄が呟いた言葉を恭子は耳に捉えていただろうか。
その日以来、元々は活発な少年であった敏雄は、まるで人が変わってしまったかの様に
閉じこもり気味になってしまった。
12
ニタニタと笑う和彦を敏雄が饐えた目つきで睨み付けている。
その表情を見て和彦が言った。
「ああ、その目だ。あの日もその目で俺を見下ろしていやがったな。」
恭子がその言葉につられ敏雄の顔を見て愕然とした。 それは普段の温和な敏雄の顔でも、
かつての“MUD”の顔でも無く、全く初めて恭子の目にするものだった。
憎悪と狂気に満ちたその顔はいったい、、、
「母さん、ああするしかなかったんだよ。 まだ子供だった僕はこの親父を憎んで憎んで、
そしてあの雨の山道で谷底へ蹴落としてしまったんだ。
でも、そんな自分の行為が恐ろしくて、ずっと大人しい性格の仮面を付けて、その裏に隠れてきたんだ。
この20年、僕は本当の僕を隠して生きてきたんだ。」
恭子は絶句した。長年、自分が一緒に暮らしてきた温厚な息子の性格が、
そして一度は壊れてしまい、やっとの思いで取り戻した敏雄の正気が、まがい物だったと言うのか。
「なんだか良く判らねぇが、敏雄が俺を突き落としたって事は事実だぜ。
たまさか俺は死なずには済んだが、蹴り落とした罪は消えねぇよなぁ。
俺ァ、頭もトチ狂っちまって、ついこないだまで自分が誰かも判らねぇていたらくだったんだぜ。
しかしだ、とりあえずは俺の生命保険のおかげでこんな結構な暮らしが出来てるんだから、
俺もここに住む権利くれぇあるよな。
何しろ、無一文の上に戸籍すら無いからな。
俺は『存在しない男』なんだ。 ひゃっひゃっひゃっひゃっ!」
和彦は前歯の欠けた賤しい顔で、下卑た不気味な笑い声を上げた。
死人が墓から蘇って、私達のささやかな平穏な暮らしを脅かす。
こいつは、 ゾンビだ。
恭子は思った。
「うわーーーーーっ!」
突然、喚き声をあげて息子が和彦に襲い掛かった。
「殺してやる! 今度こそ殺してやる!」
そう叫んで和彦に組み付いた敏雄の体がピンと硬直して止まった。
ズルズルと崩れ落ち、水浸しの玄関に膝をついたのは敏雄だった。
「そう毎回殺られてたまるか」
和彦の手には血まみれのナイフが握られていた。
その刃先から滴り落ちる鮮烈な赤が恭子が見た最後の色となった。
13
翌朝の新聞に、精神病院から抜け出した男が民家に押し入って母子2人を殺害、
と言うニュースがデカデカと載った。
男は推定60歳前後と見られるも、記憶障害の為に年齢はおろか姓名も特定できず、
この殺された母子との関係や殺害理由も不明、
立件不能として精神病院に再収容される見通しだという。
「ま、ここもブタ箱とたいして変わりがある訳じゃねぇんだがな。」
俺は空を翔ける雲雀を見上げ、ニタリと笑った。
おしまい 【※12】
【※12】 「おしまい」と書き終えて何度か読み直してみると、整合性の取れない部分が何点かある事
に気付く。
元々、メタ小説の形式を目指して何度も書き直しを重ねたこの「Private
Papers」だったが、
私としては無い脳ミソを絞ってプロットを重複させた実験小説的なミステリーである。
【注釈】が次第に人格を主張しはじめ、物語に吸収されて行くプロセスの中で、
敏雄の作り出した多重人格群の1つとなるのか、それともあくまで敏雄を含む全てを支配する
「作者」であり続けるのか、等の「揺らぎ」もテーマの一つである。 従って整合性という意味では
所々に破れ目がある事は意図したものなんである。
虚構と現実の差はどこにあるのか。
例えばTVのニュースで、ある犯罪が報道される。 しかしそれは私にとってはニュースキャスター達
によって脚色された「事実を元に作られた物語」の一つにしかすぎない。
「あなたはゴタクが多いのよ。そんな事より、もっと文章のリズムを整えて磨きをかけた方が良いわよ。」
ケイティが微笑む。
いや、君の出番はまだだから。
さて、「後書き」もここらで終わりにして、しばしの休憩としよう。
とにかく読み辛かったと思うのだが、お付き合い戴き感謝しております。
↓
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緑の木立を抜ける風がテーブルの上の原稿を乱していった。
飛ばされない様に左手で軽く紙を押さえながらも私は初夏の風を楽しんでいた。
空翔ける雲雀や足元でエサをついばむスズメのさえずりを愛でながら、
暖かな日差しの元、いつしか私はウトウトとまどろんでいた。
起きているでもなく眠っているでもなく、 現実と虚構が渾然となったこの瞬間は
全ての拘束を逃れた永遠を錯覚させる。
と、手元の携帯がけたたましい音で着信を知らせる。 ぶ、無粋な、、、
「よォ! 相変わらずトロトロしてやがんのか? 俺だよ、円だよマ・ド・カ!
元気にしてんのかよ?
ところでさ、今度例の映画チャットのメンツが集まって飲み会なんだよ。ジジイも来ねぇか?
そうそう、江戸崎の兄ちゃんも、玲子も来るってよ!
やっぱ歌舞伎町だぜ、イヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ!」
お疲れ様