<プレゼント、の巻>
毎年、この時期になると母にカレンダーを贈る。喜んでくれているだろうか。
私はどちらかと言うとケチである。 しかし実は人に何かを贈るのは好きだったりする。
先日、馴染みのお店で「これ食べてみて」と、一品サービスして戴いた。
有り難くご馳走になった後、お返しにコンビニでお菓子を買い求め、差し入れた。
お店の方は言う。
「いやァ、これじゃあ意味無いですよ〜」
しかし、(お互い判っている事だが、)意味はちゃんとある。
AからBに物体が動き、またBからAに戻る。 物理的に言うと、運動量はゼロだ。
何もなかった事と等しい。
しかし、その物体がお互いの好意からなるプレゼントの場合、例え金額が等しくて(いや違っても、だ)
損得勘定が±ゼロであったとしても、そこに嬉しい気持ちが生まれる。
物を貰う事が嬉しいのでは無い、あげる事が嬉しいのでは無い。
あげる気持ち、嬉しく戴く気持ち、その間で生まれるお互いの好意こそが本当に嬉しいプレゼントだ。
余談になるが、私はモノを貢いで女性にモテようとした事は無いし、きっとこれからも
そうだろう(ケチ由縁だね)
そんなプレゼントは哀しい。
クリスマスのプレゼントとして友達にささやかな物を贈った。
選んでいる最中、私はとても楽しかった。
幸せ、だね。
(12/20記)
<大和撫子、の巻>
先日、ごった返す駅の改札口で、 「馬鹿野郎、お金払えよーっ!」
等と喚きながら外国人男性をメチャメチャに蹴りつけている女性がいた。
見ると年の頃は25〜6といった所か、それなりにチャンとした身なりの(まあ)美人。
ちょっと面白いのでしばらく見ていたけど、幾ら綺麗であったとしても、そして
どんな理由があったとしても、あんなオンナはご免だね。
ハラキリ・チョンマゲ・サムラーイ等と同じく、ヤマトナデシコなんてモノも、
もう遠い国の人が日本に対して持つ、間違ったイメージでしかないのかもしれない。
(12/7記)
さて、上の様な事が仮に私にあったらどうするか。次の選択肢から選びなさい(鈴木健二調)
a. なるべくそしらぬ顔をして速やかに撤収(逃げるが勝ちさっ)
b. バカなオン、、いや、「とっちらかってしまった女性」を黙らせる為に、酸欠で気絶する程の
熱いキスをぶちかます。
c. と、見せかけて密かに腹にボディブローを打つ、左手は腰を抱くフリをして肝臓(レバー)を
打つ。 当然相手の足をブーツで踏み付けてな。
解答編は無いよ。
(12/8追記)
<セカンド・ベスト、の巻>
映画『ドリブン』の中でこんなセリフが出てくる。
「必ずしもベストである必要は無い」
頑張る事、チャレンジする事はとても大切だ。
しかし「ベスト」が仮に10点だとして、その満点を逃した時、全てを無くして0点になってしまう様な
頑張り方はオススメ出来ない。
「8点」と言うセカンドベストをキープし続ける、と言う事もまた勝利の1つではないか。
これは「狡い」生き方かもしれないが、同時に(自分にとって、また周りの人達にとっても、)
優しい、ゆっくりとした生き方と言える。
貴方は1人で生きている訳では無いのだから。
(11/5記)
<交響曲第九番、の巻> クラシックに興味の無い方も、ちょっと読んでみて下さい。
「第九」と言えば、殆どの人はベートーヴェンを思い浮かべる事だろう。
しかし、今回はブルックナーの、同じくニ短調の9番である。
ベートーヴェンのそれが『喜びの歌』であるのに対して、
ブルックナーは、『滅びの歌』に思えてならない。
何を大袈裟な、と思う人は聴いてみて欲しい、冒頭から3分半あたりまでで、
貴方はまだ笑っていられるだろうか。
個人的に、滅びの歌と思っている曲は他にもチャイコフスキーの「悲愴」、マーラーの5番などが
あるが、いずれも「個人レベルの死」だ。
しかし、このブルックナーは「人類の滅亡」である。(※)
私が知る中で、最も恐ろしい曲だ。
これを聴いて、曲に取り込まれてしまい、おかしくなってしまった人がいたとしても
別段不思議とも思わない。
先の日曜、渋谷でアメリカのアフガン攻撃に抗議する大がかりなデモ行進があった。
こんなにも多くの人が今回の戦争に心を痛め、不安を感じている。
デモを見つめながら、静かに泣いている中年女性がいた。
彼女は子を、父を、母を、そして全人類を想って涙していたのだと思う。
澄んだ秋空の下、デモの人々が歩き行く。
その時、私の頭に響いたのが、ブルックナーの第二楽章だった。
この勇壮なスケルツォは軍靴の響きを想起させ、また絶望的なデモの行進を思わせる。
そして、どちらにしても人々の歩み行く先にある物は同じだ。
第三楽章(終楽章)は、ノー・マンズ・ランドと化した焦土と、時折吹き荒れる嵐の情景だ。
そして、最後の消えゆくホルンの音と共に、世界が終わる。
このアダージョが現実の物とならない様、我々はただ祈るばかりだ。
※ 特にジュリーニ指揮、ウィーン・フィルの演奏に於いては、人類の滅亡どころか、『宇宙の崩壊』と言った有様だ。
(10/22記)
< War is State Terrorism >
戦争が始まった。
いつもと変わらず眠い目を擦りつつ電車に乗り、いつもの店でコーヒーをすする。
しかし、この瞬間にもカブールの街に巡航ミサイルが打ち込まれ、家が焼かれ、人命が失われている。
「テロ組織の施設に限った攻撃」との声明を、しかし誰が信じるものか。
もちろん狙いは軍事施設であろうが、軌道を逸れ民間人達の住む住宅街に飛び込むミサイルに対して、
米軍が頓着するハズもない。
この先は推測だが、
レーダー網の下をかいくぐって飛来するトマホーク・ミサイルを迎撃する手段はアフガンには無い。
つまり米英軍にしてみれば、昼だろうが、夜だろうが、攻撃条件は同じハズだ。
それなのに、何故、「夜間」に攻撃をするのか。
ひょっとして夜空に光って飛ぶミサイルや対空放火を、より効果的に「見せて」はいないか。
カブール市民の惨状を夜の闇に紛らわそうとしていないか。
攻撃に続く米大統領演説も愚の極みだ。
手前の色で染め上げた小学生の手紙を読んで世間の同情をひこうとする彼の厚顔無恥に、
怒りよりも呆れ果ててしまった。
手紙の少女に言おう。
君のパパが正義と信じてアフガンへ行き、そこで殺し合う相手は、やはり
「戦争に行って欲しくは無いけどジハードの為なら仕方ない」と思っている誰かのパパなんだよ。
複雑に見える状況だが、本当は難しい事は何も無い。
何をしようと、貿易センタービルの瓦礫に埋まった犠牲者は還っては来ない。
しかし、米軍士官がミサイル発射ボタンを押すたびに、また新たな犠牲者が増えていくのだ。
● 実際にはミサイル攻撃でタリバンを倒す事は出来ないだろう。
それを判っていてバンバン打ちまくる。
もちろん威嚇の意味も大きいのだろうが、
これはミサイルの不良在庫の一掃の願ってもないチャンスなのだ。
この後、新しいミサイルの発注によって、アメリカ軍需産業が潤うわけだ。
そして、その代金を支払うのは、私達なのである。
● もし私がタリバン側であったとしたら、この絶大なる武力の格差をどう埋めるか?
「世界各地」で無差別テロを行うだろう。
そうする事で、「報復攻撃をアメリカがするからだ」と言う反米感情を起こさせる為だ。
そして、ソレを防ぐ手だては無い。
● 日本国憲法には「戦争の放棄」という素晴らしい物がある。
太平洋戦争での敗戦によってアメリカに押し付けられた憲法、と言う認識も強いが、
経緯はともかく、その理念は間違いなく正しい。
散々、迷惑を掛けたアジア諸国に対する謝罪の気持ちと共に、絶対に守り抜かなくては
ならない事だと私は信ずる。
例えアメリカとの関係がこじれたとしても、それが何だ。
人、(国)としてのプライド、仁義を無くして生きて行けるものか。
自衛隊派遣、及び、戦争支援は明らかに間違っている。
日本はアメリカの属国では無い事を胸を張って言おう。
もし、日本で報復テロが行われたら、それは腰抜けの施政者達のせいである。
(10/9記)
<理想郷(ユートピア)の落とし穴、の巻>
朝、コーヒーを飲みながらバイト募集のフリーペーパーを眺めていた。
「週2〜3日、1日4hからOK!」「出勤は週ごとに自己申告制」「時給¥1050より」等々、
なるほど、フリーターが増える訳である。(別にフリーターを批判する訳では無い。)
そして街を見るとハンバーガーが\60とか、牛丼やカレーが\290で食べられたりする。
かつて、日本の至る所で貧農が朝から晩まで身を粉にして働き、それでも喰う事が出来ず、
「口減らし」の為に、赤ん坊の口に濡れた油紙を置き、
姥捨て山に年寄りを置き去りにし、(映画「楢山節考」参照されたし)
息子を丁稚奉公に出し、娘を遊郭に売ったのだ。
それが今では、たった1時間働いただけで1日3食の御飯が食べられる。
当時の人から見れば、まさに夢の理想郷である。
しかし、年齢の欄を見ると、大抵の所が<20才〜30才位迄>とある。
仮に20から10年を転職を繰り返しながら過ごして、30を過ぎ、どこも働き口が
無くなってしまうかもしれないのだ。
雇い手はまた新しい20代の若者を捕まえて、浪費して行く。
この先、更に30代の失業者が増えて行くのではないだろうか。
ひょっとすると、「喰えない時代」が再来するのかもしれない。
私にもフリーターの友達が何人もいる。彼/彼女達はバイトをしながら、
スクールに通ったり、一生懸命バイトの中でステップアップを図ったり、
就職活動をしたりしている。
その努力が実を結ぶ事を切に願うばかりである。
(10/4記)
<紅生姜の思い出 〜遠い日のコイバナX>
仕事帰り、駅の改札を抜けると、思わぬ事に縁日が賑わいを見せていた。
地元の駅前の神社の小さなお祭りらしい。
夕飯もまだだったので、ちょっと何か買ってみようと、喧噪の中に混じって行った。
浴衣姿の彼女の手を引く幼いカップルや、子供を肩車したお父さん達の中で、
独りトボトボ歩くオッサン(私)のなんと哀しい事か。
高校の時、好きだった女の子に、どうしても「一緒にお祭りに行こうよ」と言えずに、
しかし、それでも未練がましく偶然彼女に出会わないかな、と独りで出かけたのを思い出す。
天の恩恵か、悪魔の仕業か、本当に偶然出くわした彼女の隣にはボーイフレンドが、
その時、傷心で食べたヤキソバの紅生姜は哀しい酸っぱさであった。
そんな事を思い出しながら、久しぶりに食べた紅生姜はやはり、もの哀しい味がした。
(9/24記)
< Fight Fire with Fire >
親愛なるアメリカ君へ
今回のテロ事件、本当に大変な事ですね。私も残念に思っています。
各ニュースの伝える所では、貴方は着々と軍事的報復の準備を進めている
そうですね。
しかし今、私達世界中の人々は、テロ行為もさることながら、
貴方の「いきすぎ報復」の方を畏れています。
ミサイルをバンバン撃って、その映像を国民に見せる事で「強いアメリカ」の威信を
取り戻すのですか?
報復は報復を呼びます。
サダム君が「アメリカの犯罪に遂に鉄槌が下った。」とコメントしましたね。
今回の事件に対して報復を行えば、その様な反アメリカ感情は更に根深いモノに
なるでしょう。
そして必ず次のテロが、
映画の見過ぎのバカの戯言ですが、
007、シュワちゃん、セガール、チャック・ノリスみたいな人(要するに特殊部隊)に、
首謀者をとっ捕まえさせて、公の場で釈明。とか出来ないかな?
そうすれば、世界中のみんなが、貴方の事を認めて、「男を上げる」と思うんだけどな。
(9/15記)
<Suicide Burning>
何度も言っている事だが、戦争とは、「人間性」の、そして「個」の抹殺である。
ボタンを押してミサイルを発射する場合は勿論、
生身の人間が銃を撃ちながら突撃して来るのを自らの肉眼で見ても、
その敵兵士が『自分と同じ人間であり、親もいれば子供もいる』と言う想像力すら
損なわれてしまうらしい。
相手を人間として見れないのと同様に、
自分自身の人間の尊厳もまた失ってしまう。
『彼ら』は別にハイジャックした旅客機の乗員一人一人に恨みがあった訳では無い。
もちろん、マンハッタン市民に対してもだ。
仮にあの場所に自分の肉親が居たとしても、パイロットは飛行機をビルに激突させただろう。
『彼』は砕け散るコクピットで炎に包まれる瞬間も自らの『信義』に酔い狂っていた事だろう。
(そうでなくて出来る筈が無い)
断固、戦争に反対の私だが、
それでも愛するモノを守る為になら、この手に銃を取るかもしれない。
しかし、最期の瞬間、(例えば)「日本バンザイ!」等とは言わず、
せめて「お母さん!」と叫んで、一人の『人間』として死にたいと思う。
(9/12記)
私は常々「自分勝手なアメリカ」に対し、不満を言ってきた。
いずれ痛い目に遭うぞ、と思っていたが、今回のテロは最悪だ。
しかし、一般株は下落しているものの、石油・鉄関係の株は急騰している。
これが現実なのだ。
経済が下向きのアメリカが「軍需」でテコ入れをするのは確実だ。
先の見えない暗澹とした気持ちである。
せめて、これが先の湾岸戦争の様に、経済回復の為の『奴等』のゲームで無い事を
祈るばかりだ。 そこまで人間が汚いとは思いたくない。
『羊たちの沈黙』『ハンニバル』の作者、トマス・ハリスの処女作、『ブラック・サンデー』
をお奨めしておきましょう。テロリストの狂気が描かれています。
昨日に引き続き投稿を。 別に手を抜いている訳では無い。
私がつけてるのはディオールのDUNE。POUR HOMME。 男モノ(笑)
昔、付き合ってた人が付けてた香水。
時間が経って変化した匂いが服から漂うたびにその人のことを思い出す。
懐かしくもあり、辛い思い出です。
私の周りの人からは、DUNEは私の匂いと思われてるけど
私には、まだあの人の匂い。
他の香水もいっぱい持ってるけど、やはりそれを選んでしまう。
そろそろ、乗り越えないといけない壁なのかもしれない。
ふとした瞬間、辛い思い出が蘇って苦しくなる。
思い出すものなんて排除してしまえばいいのに、それができない。
前回のKも、今回のK(2)も、女の可愛らしさが迸っています。
ただ、何故かどちらも私に対してはこんな表情を見せないんだよね、、、
(9/6記)
9月1日付の雑記に呼応する様なエッセイを投稿いただいた。(お願いしたのだけれど)
18の時、自分の香りが欲しくなり、数日かけて辿り付いた香水がある。
使い続けている間にこっぴどくふられたことがあった。
世界一のいじけ虫になった。
いつか彼が街中で私の香りに気付いて欲しい一心で更にそれを使い続けた。
数年前、その香水は廃盤が決定し、以後はその時々で気に入るものはあっても
『私の』と言える香りには出会っていない。
先日、使い切る事が出来ずに残しているその香りをつけてみた。
長年私の中で巣食っていたいじけ虫はもう死んだようだ。
男も女もそれぞれの想いを抱いて日々を過ごしている。
送ってくれた友人Kに幸あれ。
(9/5記)
<日常の奇跡、の巻>
私はアクセサリーの類を一切身につけない。
一時期、挑戦してみた事はあるが、やはり煩わしくて辞めてしまった。
指輪、ネックレス、ピアスは勿論、腕時計すら付けない。
着る物も無地のシャツ等を好む私にとって、唯一のオシャレと言えるのはパフュームだ。
先日、2年程使っていた香水が切れ、やはり愛着はあったのだが、
今回思い切って新しい物に変えてみた。
「rush」と言うこの香水は、とても深みのある甘さが心地よい。
決してだらしない甘さでは無く、ヴァニラ・ベースの後味にサラリとスパイスが残り、
輪郭を引き締めている。
「クール系」の香水(eternity,chanel等)と違い、かなり「親密度」の高い香りに思える。
ひらたく言い換えると、ちょっとエッチだ。
とても気に入ったのだけど、はたしてモロに女性向けのrushを私の様な
オッサンが付けて良い物か。
さて、前回の「香りの記憶」云々の雑記について、女友達とネットで話していた。
彼女と最後に逢ったのは、もう1年半も前の事だが、その時彼女が付けていた香水が、
このrushだと言う。
単なる偶然かもしれない(でも、この世に一体何種類のフレグランスがあると?)
しかし、何種類か試した私が、意識されない記憶の底にあったこの香りを選んだのだとしても
不思議ではない。
どちらにしても、これは小さな、そして嬉しい奇跡だ。
(9/3記)
< Living in the Past 〜遠い日のコイバナW>
五感の中で最も深く『記憶』と結び付き、ノスタルジィを醸し出すのは「嗅覚」ではないか。
昔、とても好きだった女性がいた。
彼女は仕事上の理由もあり、少し化粧や香水の匂いが強かった。
(当時はそれが少し気になったりもしたモノだ。)
まあ人並みに色々な事があり、やがてその人とは疎遠になり、もう7〜8年にもなる。
もう日常生活に於いて、思い出す事も殆ど無いし、顔すらおぼろげになりつつある。
仕事を終え、疲れた体で混んだ電車に乗る。
そんな時、ごく稀に彼女と「同じ匂い」に出逢い、衝撃を受ける事がある。
その瞬間、胸の奥で心臓がクルミ程の大きさに収縮し、全ての時間が止まってしまう。
あの時の自分に教えてやりたい事がある。
しかし、その言葉をそっと、今の自分に囁こう。
電車のドアが開き、モノクロで静止した時間が動き始める。
そして私もまた歩き出す。
(9/1記)
< Love for SALE >
「有償の愛」、愛を売り物にする人達と言えば、売春婦とホストが筆頭。
女はセックスを売り、男は(見せかけの)心を売る。
男と女では、違うモノが欲しいのか。
「代用品」である、と言う意味では同じではあるけれど。
(8/24記)
<無償の愛、の巻>
『もしロボットが人間を真に愛するのなら、
受取り手である人間にも責任が生まれるのでは?』 (映画「A.I.」より)
何の見返りも求めない愛情、と言う物は確かにある。
母親が我が子に注ぐのが、その端的な例だろう。
(子供が愛情を返してくれるに越した事はない。)
そして男女間に於いても「無償の愛」は存在する。
しかし、私は余りその様な形態の人間関係は好きではない。
良く考えてみよう。 この「無償の」と言う物は、実は受け取る側(仮にB)の視点による物だ。
行為者Aは、「ただ愛して」いるだけだ。
Bは(少なくともA→B程には、)Aを愛してはいない。
一緒にいるのは、都合が良いからだ。
映画「A.I.」は語る。
「人間は、ただ純粋に誰かを愛する事は出来ない。」 ※
私も想うのだ、
「その『成し得ない』純粋な愛に憧れつつ、雑多な事物やエゴと折り合いを付けて、
少しでもお互いが幸せになれれば、それで良い。」
お互いが「無私」でいられる、それは奇跡だ。
しかし、そうと判っていても人はその奇跡を求め続ければ良い。
一枚のクッキーを半分に割って分かち合う、
そうやって生きていきたいものだ。
※ 悲観的に取る必要はありません、「人の愛」とはそう言うモノでは無い、と言う事です。
(8/21記)
<終戦記念日とは言うものの、の巻>
太平洋戦争で『何故』日本とアメリカが戦ったのか。
この問いに答えられる人は少ない。
中には「日本が真珠湾を攻撃したから、、、」等と答えてしまう人もいる。
そして恐らくはアメリカ人の中に於いてはこの、「真珠湾」を戦争の理由とする意識がより強いハズだ。
これこそは当時の大統領ルーズベルトが狙った事に他ならない。 (8/15記)
< War Pigs >
「俺には訳が判らん、アンタもそうさ、多分神様だってご存じじゃ無いだろう。
そいつは政府のやる事に他ならんさ。」 (リチャード・バックマン『最後の抵抗』冒頭より)
昭和16年当時アメリカは、イギリスを始め諸国からヨーロッパ戦線への参戦を要求されていた。
しかし国内では、侵略を受けた訳では無いのに他国への武力介入をする事に反対の声が高かった。
時の大統領ルーズベルトは、この国民の声を抑えて「戦争」と言うゲームに参加をしなくてはならなかった。
その後のアメリカ勢力地図を有利に保つ為にも、彼はどうしてもこのゲームを降りる訳にいかなかったのだ。
従って米国民を「怒らせる」為にルーズベルトは腐心する。
つまり日本に最初の攻撃を加えさせるのだ。
そうすれば、「降りかかった火の粉をはらう」と言う立派な大義名分が出来る。
この為に民間の船を軍艦に見える様に偽装して、日本の駆逐艦の近くで挑発行為までしたのである。
そして真珠湾。
宣戦布告が攻撃よりも遅れた事が後々まで非難される事となるが、実際には日本からの暗号電文は
日本大使館が処理するよりも先にアメリカ側に傍受され解読されていた。彼らは知っていたのだ。
更に、真珠湾の攻撃より1時間前に米駆逐艦が日本の潜水艦に対して爆雷攻撃を加えている。
この事実も歴史上、殆ど無視されている。
厳密に言うと、先制攻撃を仕掛けたのはアメリカ軍なのである。
しかし、別に私はそれで日本軍の攻撃を正当化しよう、と言う訳では無い。
最初の問いに戻ろう、 「戦争の理由は?」
乱暴ではあるが一言で言おう、『日本とアメリカがアジアを取り合って喧嘩した』のだ。
「大東亜共栄圏」と言う思想がある。
これは、また暴論かもしれないが、今で言う「EC→ユーロ」と発想を同じくする物だ。
アジアはずっとヨーロッパ諸国の植民地政策によって侵略され続けて来た。
先程、返還された香港を考えてみよう、何故こんな所に「イギリスの領土」があったのか。
その様な侵略を退け、アジアはアジアの人間で結束しよう、と言う考えが大東亜思想だ。
当時の学校教育では世界地図を見せ、「日本はこの様に中国大陸をアメリカから守る為の『弓』の
形をしているのです」と教えたと言う。
ここに日本の傲慢がある。 中国や朝鮮にしてみれば、「大きなお世話」どころか、
「親切顔の押し入り強盗」みたいなモノだっただろう。
大東亜思想の根幹は決して間違った物では無いと思うが『共栄』で無く、
日本が勝手に自ら『亜細亜の盟主』足り得ると思い上がってしまった。
そして自国で賄えない資源を目当てに勝手を始めてしまうのである。
アメリカはそんな日本が邪魔で仕方が無かった。勿論、アメリカもフィリピンを始めとする
アジア地域の資源が欲しかった。
そして日本に対して経済封鎖をする。元々絹産業くらいしか自足出来ない日本はたちまち窮する。
そのままでは飢えて死ぬ、と言うまさに 旧ソ
窮鼠ネコを噛むと言う形で開戦に踏み切るのである。
結果、中国、朝鮮、マレー、フィリピン、、、アジア諸国に対して多大な迷惑を掛けてしまった。
しかし、ことアメリカに対して何も負うモノは無い。
彼らもまた、同じモクロミで戦争を引き起こし、勝ち、そしてアジアでの発言権を強大なモノにしたのだから。
どんな戦争でもそれは結局「政治家の陣取り合戦」である。
そして「戦争は最強の外交手段」とされる。
日本だけで220万、アメリカ、アジア全体で数千万の人が死んだ。
その「手段」として殺されて行った全ての人々に対して誰が何を出来ると言うのか。
そんな悲惨な戦争を経験しても未だ人類は戦争を無くせずにいる。
「利益を得る者がその代価を支払わなければ、往々にして、充分な理由も無しに
利益を得ぬ者が代わりに支払ってくれるものだ。
政治家に、いつの世にも戦争と言う機械を動かすのに充分な若者がいるという確信を与えるのも
この原理なのだろう。」 (スティーヴン・キング『デッド・ゾーン』より)
(8/17記)
※ 今回の雑記は一般の方には暗号の様なシロモノです。 今日の更新は無かったと思って下さって結構です。
<匠の技、の巻>
特に楽器に於いて、新製品のファースト・ロット生産分、と言う物は凄く出来が良い。
つい先日、発売となったミュージックマン社の「ジョン・ペトルーシmodel」と言うギター。 これがスゴイ。
まず、見て、「おおうっ!」
手に取って、「す・凄い・・・」
そして弾いて、「・・・・・(絶句)」
見ただけで、その美しさに息を呑み、 手にして、圧倒的な造りの良さを実感。
弾いて、音の良さと弾き心地に酔いしれる。
普段、この様なオカルト的な事は言わないのだが、
『モノ』に作り手の魂がこもっている様な感じがした。
ネックを握った瞬間、カリフォルニアかどっかの(輸入楽器なのです)オッサンの愛情が伝わって来る様な
気さえした。
感動は思わぬ所に潜んでいる。

(8/12記)
<民主主義の限界、の巻>
先日「Planet of the Apes」について書いたが、
映画にしても音楽にしても、多くの人間を束ねて作るモノは、そのリーダーが独善的であればある程面白い。
想像だが、ティム・バートン監督は絶対に彼なりの独自のビジョンを持っていた筈だ。
しかし、莫大なお金を掛けたプロジェクトは絶対に『ハズレ』る事が許されない。
そこでプロデューサーやら何やら、「映画を作る」為の人ではなく、「採算をとる」為の仕事をしている人々の
意見も採り入れて、映画が作られる。 これはつまらない。
クラシックでも同じだ。
指揮者は「帝王」でなくてはいけない。バーンスタイン、カラヤン、チェリビダッケ、etc、
みんな自分の言う事が絶対であり、他人の言葉になんか耳を傾けなかった。
だからこそ、彼らの残した音楽は素晴らしい輝きを今尚失わない。
「楽団員の意見を採り入れて、自発的な演奏を〜」なんてフヌケの様な事を言ってる奴の演奏は、
安全運転でミスは少ないものの、実に退屈。
「芸術」とは狂った人間の所業であり、その愉しみは、まさに「どれだけ偏って(狂って)いるか」
に尽きる。
正常な実社会ではナチの様な独善は許されるべきでは無いが、
こと芸術の世界に於いては独裁者がいないとお話にならないのである。
誰もが楽しめる、と言う事はすなわち、それだけ「個性」が削がれた半端モノなのだ。
(8/11記)
このページは『雑記帖』だが、言うまでもなくこのHP全体が『雑記』である。
例えばcinema paradisoは「映画紹介・解説」では無く、「その映画を見ての雑記」だ。
私は多くの本を読み、映画を見、音楽を聴くが、その行為自体が大事なのでは無い。
(私にとっては、)映画/本/音楽に触れて、『何かを感じる事』が大切なのだ。
(8/3記)
<思いやりを忘れた動物、の巻>
5〜6年も前の話だ。
2月の身を切るような寒さの中、仕事を終えて帰って来たマンションの階段で、そいつは
小さく、「な〜、、、」と鳴いた。
思わず手を伸ばし軽く撫でてやると、そいつは気持ちよさそうに目を細めた。
ずっとそうしている訳にもいかないので、部屋に帰ろうと廊下を歩いて行くと、そいつもチョコチョコと
私の後ろに付いてきた。
思い切って部屋に入れてやり、ミルクを与えた。
ゴロゴロと喉を鳴らし、暖かい部屋の中、ヤツは「のび」をし、くつろいでいる様だった。
朝、私が仕事に行く時に外に出し、帰宅するとヤツはドアの前で待っている。
そんな日々が続いた。
時折2〜3日から1週間も姿を見せない時もあり、心配もしたが、忘れた頃にまたヤツは玄関の前で
「な〜」と鳴いた。
やがてヤツのお腹が大きくなり(いや、そんな想像するな)、用意したダンボール箱の中で
仔猫を産んだ。
その一匹がボンゴレである。
エビ、と名付けたその母ネコはしかし、出産で体調を崩したのか、エサも余り食べなくなり、
足も引きずって歩くようになってしまった。
そしてある日、外に出かけたっきり、エビは帰って来なかった。
産んだばかりの仔猫を親が捨てるとも思えない。
病気で倒れてしまったのか、悪くなった足で車を避ける事が出来なかったのか、
前にも少し書いたが、先日知り合いが自殺した。
彼の書き置きには、多くの人に向けて「有り難う」や「ごめんなさい」が書かれていた。
残された私達は、彼とのバカ話を思い出しては、「あの笑顔は何だったの?」と、
少し凹んだ顔を思い出しては、「あの時、もっと話を聞いてあげていれば、」と
思い悩み、苦しみ続けている。
その上「ありがとう」? 「ごめんなさい」?
今でも、ひょっとしたらエビは生きているかもしれない、と思う時がある。
道で茶色のネコを見る度に、思わず目を凝らし、
家に帰る度に、「な〜」と言う声を知らず知らず探している。
エビはそんな儚い希望を残して去ってくれたのだ。
(7/30記)
<生命の神秘、の巻>
ウチには鳩がいる。
当然「鳩のエサ」を食べさせているのだが、これはトウモロコシや麦、麻の実、等の雑穀だ。
で、これは乾燥エサなのだが、洗面所の排水口から何やら
ニョロッと、、、
うそっ!
(灰皿提供、Aんざい様♪)
発芽してやがる!
凄いな、トウモロコシ、、、、逞しいぞ、トウモロコシ、、、、明日喰うぞトゥモロウコシ
(7/27記)
<小ネタでGO、の巻>
・『Bーガー・キング』が日本を撤退したらしい。
「不味い」その上「デカい」と嫌がらせの様なハンバーガーだった。
(フィッシュ・バーガーになると、更に「臭い」と言う悲惨な3拍子が揃う。)
・そう言えば、「Dンキン・ドーナツ」も撤退したなぁ。
その後、「Mスター・ドーナツ」が、バーバ・パパのキャラクターを使っていたのには笑ったが。
・電車の改札、新型の背の低いヤツは、定期でも切符でも、「裏向け」に入れると、
「オモテ」にひっくり返って出てくる。 凄い技術だ。
でも何の役に立つのか。 それに「2枚重ねて入れられます」ってのも意味不明だ。
・今年も「暑い・・・」ってのは、(私の中で)禁句。 どこまでこの意地っ張りで行けるだろう。
・ドクター・ペッパーやジンジャーエールばっかり飲んでいるので、ハラが出てきた。
みっともないなあ。 ある意味ビール腹みたいなモノか。
・パスタを食べる時にフォークをクルクル廻すが、「反時計回り」の人を目撃。 ショックだった。
・寂れた喫茶店に入り、カレーを頼んだら、目の前で「○×ホテル」の缶詰カレーをキコキコ開けてくれた。
美味しかった。
・目の前で子供がアイスを道に落っことした。ジッと見つめられた。 何故逃げなくちゃイケナイんだ。
・やる気やネタが無い訳ではなく、書く事は幾らでもあるのだけど、まとめる時間が無いんです。
暑中お見舞い申し上げます。 お体にはお気をつけて愉しい夏をお過ごし下さい。
(7/24記)
<コンビニ弁当、の巻>
「Eブリィ・リトル・シング」(←伏せ字の意味ナシ)と言う歌謡曲のグループ、と言うかユニットの
コンサートを見た。
タダで見ておいて何だが、何だかもう一つって感じだった。
演奏はシッカリしていた。 だがそれは当たり前の事で、Gt.Ba.Dr.Key×2のバックバンドが完全に
曲を演奏している上に、歌とギターソロを被せているからだ。
そう、要するに『カラオケ』と同じ感覚。
生(ライブ)で音楽を作る、と言うよりは、「伴奏を再生」してる様な感じだった。
とても整理されて安定してはいるのだけれど、音楽が生まれてくる瞬間のドキドキのカケラも無い
寒いコンサートだった。
しかし、何千人かの大観衆は、適当に盛り上がっている様だった。 不思議だ。
最近のハヤリの音楽の中では、このグループはまだ全然マシな方だとは知っているし、
実際、ギターの伊藤氏は上手いなぁ、とも思ったのだけれども、
大量消費型の音楽の「薄さ」を改めて実感したのでした。
(7/16記)
<儚き永遠、の巻>
自殺、と言う行為をどうしても容認出来ない。
全ての人に生きる権利があるように、死ぬ権利だって当然あるとは思うのだが。
やはり、決して一人の力で生きてきた訳では無いので、その(死ぬ)権利の行使には最大限の
慎重さが必要だと思う。
例えば不治の病に冒され、精神的/肉体的苦痛にどうしても耐えきれず、
また家族への負担等を熟考した末に安楽死/尊厳死を望む人を前にして、
私は何一つ言うべき言葉を持たない。
しかしその一方で、「会社の金を横領したのがバレて」、「女(男)にフラれて」、「野猿の解散を嘆いて」、
自殺してしまう人がいるのも事実。
死ぬ気になりゃ、何だって出来るだろうに。
(生まれてこの方、一度も自ら死ぬ事を考えた事が無い人、なんてのも嫌いだが。)
そして、特殊なケースに『心中』がある。
かつて、身分制度が厳しく、今より遙かに「ムラ」に縛られて生きてきた人が、
「許されぬ愛」を成就させる為に死を選ぶ。
愛する者同士が、手を取り合って一緒にこの世を後にする。
それは、その最後の瞬間のお互いの温もりを、永遠に焼き付ける為だ。
やはりエゴイズムと盲目の成せる業ではあるけれど、その「狂いざま」に憧れの様なモノをも
感じてしまうのは私だけでは無いだろう。
こうして、「お話」としては美しい側面も持つ『心中』だが、
実際には実にしばしば、その前に『無理』の2文字が付き、
それはもう、救いようの無いおぞましい猟奇事件へと変わり果ててしまうのだ。
自ら死を選ぶ、その事が美しくあり得るのは、やはり映画や小説の中だけではないだろうか。
(7/12記)
<A.I. 狂騒曲>
小学校の頃の話だが、ある時、学校給食の何かの記念として
県下の全ての学校でカレーライスを出そう、と言う行事(?)があった。
それに対して私の通っていた学校は反発した。
その時の教師の言葉は今でも私の心の奥底に突き刺さっている。
「みんながみんな、翌日の朝に同じウンコをするなんて気持ちが悪いですね。」
子供だった私は、やはり素直にカレーが食べたかったのだが、その教師の言う事も
何となく判る様な気がした。
しかし、結局ウチの学校は、その「カレー指定日」に全校を上げて「遠足」に行く、と言う
解決法を取った。(当然、弁当になるので給食の問題を逃れられた訳だ)
その時も私は素直に遠足を喜ぶ気持ちと同時に、何となく「大人のズルさ」をも感じたのだった。
何も判らないまま過ごした子供時代だったが、今にして思うと、かなり良質な教育を受けて
いたのかもしれない。 幸運な事だ。
さて、各メディアでも話題騒然の映画「A.I.」だが、その宣伝は余りにもウルサ過ぎる。
2時間半に及ぶ、この映画が静かに終わって、驚いた事に「ウエ〜ン!」と声を上げて嗚咽した
女性がいた。
ハッキリ言ってかなり不気味で恐い光景でもあった。
彼女が「涙の感動超大作!」なんてバカげた宣伝文句を聞かずに、「タマタマ」通りすがり
でこの映画を見て、同じ様な反応をしたとは思えない。
そう、彼女は「さあ、これは『泣く』映画ですよ」とテレビや雑誌に教えられて、
最初から「泣くつもりで」映画館に来たのだ。
私の友達がこの映画を見て、
「泣けると思って行ったのに、泣けなくて残念だった」
と言うのがある。正直な意見だ。
また、ある人がこの「A.I.」を試写会で見た感想の中で、
「あれ・・・?この頬を伝うモノは何?・・・・私、泣いているの・・・(!?)」
と言ったニュアンスの文があった。
とても清潔だ。 この人は実に的確にこの映画の感動を捉えていると思う。
この様な「静」的な(沈潜する)感動を、まるで泣きのドサ芝居の様に宣伝して売りつける
やり方は作品に対する冒涜と言える。
そして、人間の大切な「感情」までも簡単に他人に操作されてしまう人が多い事に
私は危険を感じるのだ。
与えられたモノをただ貪り喰うだけではブタと変わらないのである。
(7/9記)
< Artifical Intelligence >
人がその長い(短い)人生の中で体験する「完全な幸福」「至福の中の恍惚」の時間を全て集めると、
大体、1日分になると言う。
この説の真偽や、「どうやって測るんだ?」、等のレベルの話は後日とするが
この「1日」と言う時間は短いだろうか?
そして、仮にその時間が「半日」だった人よりも「2日」だった人の方が幸せなのだろうか?
私はそうは思わない。
その「至福の時」の真っ只中にあって、人は「永遠」を手にする、と思うからだ。
そして、人はその「永遠の刹那」の為だけに、人生と言う「限りある永遠」を生きている。
(7/6記)
< ...and Justice for all >
先日、仕事中に私の携帯(PHS)が鳴った。 しかも非通知で。
余りに珍しい事なので、思わず通話ボタンを押してしまった。
某氏 「あの、、、『せき』って言うハンドルネームの方ですか?」
(このセリフから判る様に、この人は私の事を何も知らないのである。そして電話番号は他の『ある人』から聞いたと言っていた、
つまり私の電話番号が2次配布、3次配布された訳である。)
えっ? そうだけど、、、アナタは誰ですか?
某 「それは言えません」
何だって!?
某 「○△君って知ってますよね? 実はその○△がある女の子に、〜(略)〜 な酷い事をしたらしいんです。」
はぁ、確かに○△君とは昔、良く話したなぁ。
某 「で、凄くハラが立つので、一体○△ってどんな奴なのか知りたいんです。」
う〜ん、キミは直接に○△君や、その女の子を知ってるの?
某 「いえ、知りません。」
じゃ、なんでまた・・・?
某 「同じ男として許せないんですよね、だって酷い話だと思いませんか?」
恐らくこの人は私から○△君の情報を聞き出し、あわよくば悪口、悪評をも期待していたのだろう。
しかし、この電話の某氏のやり方は卑怯にもホドがある。
一人の人間をマトに掛け、悪口を第三者に吹き込み、その上でその「悪人」の評判を聞こう、情報を取ろう、
と言うのだ。
しかも自分は全くの安全地帯に居て。
こんなやり方だったら、どんな無実の人間であってもハメる事が出来る。
そんな凄く危険な事をしているのに、この人は気付いて無い。
私は○△君が本当に何か酷い事をしたのかどうかは知らない。
が、仮にその話が本当だったとしても、その裏付けを取ったこの某氏は○△君と直接対決でもして、
謝罪させるなり、何か解決させるだろうか。
コソコソと非通知電話で、名乗りもせずに全く面識の無い私にサグリを入れてくる様な男が?
いいや、絶対にそんな事はあり得ない。
この某は「正義を行っている」フリをして、このスキャンダルを面白がっているのだ。
私もタイガイ偽善的だが、この男の行動はまさに『最低』である。
百億歩ほど譲って、某氏が○△君に謝罪させたとしよう。
それで一体、誰が救済されると言うのだ。
多数の関係無い人にまで、自分の秘密にしていたい哀しみをふれて廻られて、
この被害者の女の子が癒されるだろうか。
単にこの某氏の安っぽい正義感が満たされるダケだ。
ワイドショー等で事故で家族を失った遺族にTVレポーターはマイクを突きつける。
「今のお気持ちは?」 (楽しいです♪と答えるとでも?)
そしてカメラは遺族達の「より悲しい表情」を捉え、お茶の間に提供する事を「正義」としている。
貴方は大切な人を亡くして哀しみに暮れている時にカメラに撮られたいですか?
吐き気がする。
余談だが、この電話の時私は某氏に、君のやっている事はマズ「大きなお世話」だし、
「魔女裁判」にもなりかねないし、「正義ごっこ」に他ならない、そして何より「常識に欠ける」
と諭した。
しかし、彼はその後また他の人に同じ電話を掛け、あろう事か「俺が悪いのかよ」と私をクサしたらしい。
こんな人間とも解り合える、と言うのだろうか。
(7/1記)
<...and Justice for all U>
先程の大阪池田の小学生無差別殺害事件について、自らのHPではともかく、公の掲示板や
チャットルーム等で、様々な人が意見を述べているのを見た。
その中には非常に安易に、「許せない、死刑決定〜!」なんて発言もあった。
そんな簡単に「死ね、殺せ」なんて言葉を口にする人が、子供を奪われた親の痛みを我が事の様に
感じ、義憤に駆られるとは思えない。
では、彼(彼女)は何故、そんな事を言うのか。
それは、犯人が社会一般から完全に『悪』と認められ、ソレに対してどんな悪口を言った所で、
「正義」と言う大義名分の下、容認されてしまうからだ。
つまり、普段誰かに対して「死んじまえ!」等と迂闊に言えない鬱憤を晴らして楽しんでいるのである。
これは、やり返して来れない弱者を殴る弱い者イジメや、トイレの「○○(←実名)死ね!」なんて
言うラクガキと、その精神構造に於いて全く変わらない。
誰かを批判したり悪口を言うのは愉しい。 それは私も同じだ。 (いや、アナタ笑いすぎです)
しかし、私はこのクソ説教臭いHPのテキストを書く時、その愉しさに溺れない様にしているつもりだ。
悪口や批判の『先』に何かを持っていないのであれば、それはどんなに正論の様に見えても、
『正義』とは言えないのだ。
(7/3記)
<Dancer in the Darkに思う、の巻>
劇場で映画を見ていて、不思議に思う事がある。
それは、大半の人が映画本編が終わった瞬間に席を立って帰ってしまう事だ。
私にとっては誰が出ていたか、キャストを読んだり、劇中で使われていた音楽の曲名も知りたいし、等
エンドロールを見る事も映画の楽しみの一つなのだ。
そして何より、エンドロール時に流れる音楽もゆっくりと映画の余韻に浸りながら聴きたいのだ。
それなのに、ガサガサと音をたて、喋りながら出ていく彼らは不愉快、かつ大迷惑。
でもまあイイ。 彼らは私と同じくらいに映画を愛している訳では無いし、諦めている。
しかし、今週ビデオ/DVDが発売&レンタル開始となった「ダンサー・イン・ザ・ダーク」に於いては
さすがに呆れてしまった。
あの衝撃的なラストシーンで私は暫く息を吸う事も出来なかった。
ましてや「立つ」事なんて到底不可能。
そして続くエンドロール時には、この苛烈な映画全体を優しく包み込むセルマの歌声が流れている
と言うのに、彼らは平気でドヤドヤと出ていく。
きっとその後、平気で焼肉なんかバリバリ食べて、翌日は会社や学校で
「ダンサー〜、超良かったよ〜悲しい映画でさ〜」なんて言った事だろう。
彼らはおそらく、『何』を見に行ったのかも理解はしていない。
私は「苛烈な映画」と書いた。しかしこれは決して「悲しい映画」では無い。
(6/24記)
<Dancer in the Darkに思う、の巻U>
珍しくネタバレになっています。 一応別添えにしておきましょう。(気にしすぎかもしれないけれど)
<Dreams Come True>
「信じれば夢は叶う」 そして、何かを信じている人と言うのは実に強い。
それは、夢を信じて弛まぬ努力をし続けた人に「叶う」のであって、
「オレはこんな普通のサラリーマンをやっているけど、こんなのは仮の姿で、本当のオレは
こんな周りのボンクラ共なんかとは違うんだ。」
等と、傲慢な態度で世の中を上手く渡って行ける。 成功は(宝くじの様に)いつか転がり込んで来る。
と思っている君は、いつまでたっても今のそのままだ。
毎日の雑多なあれこれに追われて、つい努力する事を忘れ、怠けてしまう自分がいる。
「努力を忘れる」と言う事は、すなわち「夢」を忘れてしまう事だ。
映画「ザ・ダイバー」を見て少し反省した私です。
(6/19記)
<藪をつついて、レッドスネーク、カモン!の巻> タイトルなげー
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何も言わなければ気付かないのに。 あ、美味いすよ、コレ
(6/16記)