これぞ本望!(小さい声だなおい)(でもまぁ仕方がない)(仕方がない仕方がないじゃないのだってもうあんまり声出すような元気もないんだもの)
三橋はさめざめと泣いていた。 踞っているせいで、床にぽつぽつと大粒の雨が降ったみたいに水玉が出来ていく。 「何で泣いてんだよ」 阿部は心配しているくせに不遜な口調で言うものだから、三橋の涙はより一層勢いを増した。 何度も何度も、とどまる様子のない涙を手の甲でこするようにして拭うから、目元がすっかり赤く腫れ上がってしまっている。 しゃっくりあげて、嗚咽をあげて。 そんなのいつものことなのに、いつもと違うのは三橋がいつまで経っても泣くばかりで理由を話そうとしないことだ。 ようやく自分に慣れてきたはずだと自負していただけに、阿部はそれが悔しくて仕方がない。話すつもりがないのなら、自分の前で泣くなと憎々しくすら思った。 (そんなこといっても、どうせ突き放せないんだけど) 依存しているのはどっちだと問われたら、断然阿部の方が依存していると答えるしかない。 三橋が阿部に懐いているのだとして、阿部は三橋に執着している。 目の前で泣きじゃくるだけの三橋に対しても、腹立たしいのと同時に劣情が湧く。 「な、三橋」 その感情を押さえて、阿部はふと優しく呼びかけた。 「泣いてるのに、理由あるだろ?」 簡潔な阿部の言葉に、しんと一瞬沈黙が降りる。それから、ひぃっくと大きなしゃっくりを三橋が上げ、また涙をぼろぼろこぼした。 「怒んないよ。お前なりに真剣で、だから泣いてるんだろ。怒んねぇから、言ってくれよ」 「あ、あべくん・・」 「泣くなとは言わねぇからさ。理由、教えてくれよ」 言った途端、三橋がわんわんと声を上げて泣き始めた。 酷い、と阿部は思った。 酷い様だ。 まるで幼い子供のように、むせかえるまで声を上げて泣くだなんて尋常じゃない。 「何なんだよ、一体」 途方に暮れた声を出す阿部に、三橋はごめんなさいと途切れ途切れに呟きながら泣きじゃくり続けた。 「泣きやめよ。そんで、謝るのもなし。お願いだから、理由教えてくれよ」 懇願する。 どうせ、すっかり冷静さを欠いている三橋の耳には届きはしないのだろうな、と心のどこかで分かっているのに阿部は懇願した。それは、阿部もまた冷静さを欠いていたからなのかもしれない。 阿部は聞いた。 「俺が、なんかしたのか?」 三橋は首を横に振って否定した。 「じゃぁ、泣きやんでくれよ」 「ごめ・・なさい」 安定さを欠いた声で、か細く震えながら三橋は再び謝る。 「なんのごめんなさいだか分かんねぇよ」 「お、れ・・阿部くんの、気持ち、を・・」 「あぁ?」 「阿部くんの、気持ちを、知りたい」 言い切って、三橋は嘔吐してしまうんじゃないかという程に大きく咳き込む。 慌てて阿部はその背中をさすってやろうとしたが、手を伸ばすことは出来なかった。反射的に伸ばそうを思った腕が、思ったように動かなかったのだ。そうしているほんの僅かな間に、三橋の背中をさすってやるという行為は間のずれたものになってしまった。 つい出てしまったため息に、三橋が過敏に反応するのを見越してすぐさま言葉を続ける。 「俺の気持ちって、」 何を言ってるんだ。 呆れたように阿部は片眉を器用に上げて、ため息混じりに返した。 頭痛がする。 眉間に皺を寄せて阿部は、三橋を見上げた。 「誰から告白したと思ってるんだよ」 責め立てるつもりはなかったし、実際阿部にしては抑えた口調であった。それでも三橋は、ひぃひぃと細い悲鳴のような声を上げて泣くことを止めずにいた。 ごめんなさいごめんなさい、と謝罪を繰り返されて阿部は頭痛が強くなるのを感じた。ひょっとしたらそれは苛立ちを何とかこらえようとした結果の頭痛だったのかもしれないが、そんなことを考える余裕すら阿部には無かった。 ただ、目の前の三橋が一体どうしたら泣きやんでくれるのかということに必死だったのだ。 「謝られる理由が、分かんねぇ」 「俺、」 「ゆっくりで良いよ」 「あ、お、れ。俺、阿部くん、が好き、だ」 おう。 不遜な言い方なのは、照れくさかったからだ。 好きだ、よ。と、三橋は繰り返す。 「ふ、不安だけど。好きって言ってくれてても、俺、ふ、不安で、ほんとか分かんない、け、ど」 「馬鹿言ってんじゃねぇよ。好きっつったら好きなんだよ。それ以外に、頭良い言い回しなんか、俺は知らねぇよ。だから、単純に好きって言ってんだよ」 「い、言ってくれるのにね。阿部くん、言ってくれるのに。ごめんなさい」 「また」 「ごめんなさい」 乱雑に涙を拭う三橋。 今度こそ、と阿部は意気込んで腕を伸ばした。 しかし、やはりその腕は意に反して持ち上がりすらしない。 加えてぼんやりと視界に霞が掛かったようになり、三橋の泣き顔が薄くなる。 一瞬、自分もつられて泣き出しそうになっているのかと思って目尻を拭ってみようとして、だから腕が上がらねんだよと自身に毒づく。 感覚がないわけではない。 動かそうとすれば僅かではあるが筋肉の収縮を感じることは出来るし、指先がぴくりと動く感覚もある。 それなのに、どうしようもない気怠さが全身を取り巻いていて、ついには目を開けていることすら億劫で仕方が無くなってきたのだ。 阿部は、意識して普段よりも明瞭な発音で三橋を呼んだ。 「誰に唆された?まぁ、もうどうでも良いけど」 「あ、べく、ん」 「そりゃ分かるよ。いくら濃いコーヒーでも、あんだけ妙な味すれば。いや、目薬ぐらいかって思ってたけど。これなんか、そういうんじゃないだろ」 強弱の揺らいだ声で阿部は、淡々と続けた。 その間も、三橋は絶えず涙を流し続ける。それを見て、相変わらず鬱陶しいなと入学当初の感情を思い出した。 そもそも阿部は、三橋のようなタイプの人間が好きではない。だから、正直なところ面倒なエースになりそうだと思っていたし、それは少し経って三橋の為にどうにかして勝たせてやりたいと思うようになってからもふとした表紙に顔を出す感情だった。 もちろん、その感情はすぐに消えるもので阿部自身が厭うべきものでは既になかった。感情的な問題で言えば、阿部の性格上滅多に口に出して言わないであろう「好き」という直接的な言葉を三橋に与えるほどなのだから、よほどの好意である。 いわゆる両想い。 表だって二人の関係をアピールすることはない(出来ない)が、それはそれで二人の性格上丁度良い塩梅であったし、阿部はそのことに満足していた。 久しぶりに三橋の部屋に入ると、大量の市販薬の空き箱を見つけた。 これはまた大層めんどくさいことをしでかしてくれそうじゃないか、とため息を吐いてお茶を煎れてくると出て行ったドアの方を見た。 すぐさま追いかけていかなかったのは、心のどこかでどうせ飲んだって死ねやしないだろうという甘い推測を立てていたからだ。 それに、助けてやることになるのだろうし、それで助かった三橋はさらに自分に信頼と依存を示すのではないかと想うとそれはとても魅力的なことだった。 道徳的には非道ではあるけれど、阿部はそれを良しとして見逃していた。 「若干、自業自得だし有りだよこれは」 「ごめんなさい。おれ、あ、阿部くん、す、き」 「おう。俺も好きだ。好きだけどさ。さすがに、飲んで溶解度超えてんじゃないかって思ったぐらい粉っぽかった」 最後の方は焦ったように早口になる。 嘔吐感を感じて、阿部は気怠い体を反射的に一寸起こすと大きく嘔吐いた。 水っぽい吐瀉物に、胃液の刺激臭とカフェインの入り交じった不愉快な臭いが広がる。 一度吐いても、阿部の嘔吐感は収まらなかった。それどころか、痙攣まで起こる始末で阿部はいよいよヤバイなと目を閉じて案外冷静に思った。 「好きでやったんなら、許してやるよ。そうじゃなかったら、化けて出てやる。あと、お前要領悪いから」 喉奥が痙攣して、言葉を止める。 阿部くん、と悲鳴めいた三橋の呼びかけにもはや返してやろうという気遣いは出来ないでいた。 「いいか。ようりょう悪いんだからきけ。これは俺が、やったこと、だからな。おまえ、おれに脅されたとかなんかてきとにいえ。したら、おまえの指紋もじょうきょうもそう、ふ、し然じゃないだろ」 「ごめんなさい。お、おれ、本当にごめんなさい」 「だから、好きでやられたんなら本望、だ、て」 好きです。 珍しい、はっきりとした発音で三橋が言う。 本望だ。 阿部は思った。 罪悪感を感じてくれるのも、本望だ、と思った。 目を閉じているのに、眼球が落ち着かない。時々、不意にそれが収まる瞬間があって、とても心地よい。 それがずっと続けば良いと思った。 それから、一生三橋が自分のことを悔いて生きていけば良いと、そう思った。 |