ぐったりと頭をもたげてとても疲れました、と三橋が言った。 小さな体はそれに合わせた細い線を描く。一見の印象は頼りない、だった。 話してみても、その印象は変わらなかった。 しばらくしてからそれを告げると、ふひひと奇妙な笑い声を上げてショックを受けた様子を見せるわけでもなく俺の言葉を素直に享受していたようだった。 よく分からないヤツだなと思った。今でも、思っている。 色素の薄い癖毛が揺れた。 強い日差しの下で野球に明け暮れているせいだろうか、髪は細くところどころが縮れてしまっていて無様だった。 加えて汗と土埃に汚れてしまっている顔と服でいるというのに、不潔というイメージから遠く思えるのはマウンドで試合をしているところを見ているからなのだと思う。 「疲れたんなら、少し寝てたら良いよ。俺、起きてるから」 三橋は首を勢い良く振って、大丈夫ですと言った。けれど、言ったそばから大きなため息を一つ吐いた。 「良いよ。結局夜は寝てないんだし、俺はまだ大丈夫だから」 「す、すいません。でも、俺、」 「良いから。疲れたまま動く方がよっぽど危険だし」 優しさだけではいくら言っても頑固に受け付けないのだろうと判断して、敢えて選んだ言葉は効果的で、三橋は恐々としながらも木の幹に背中を預けて目を閉じた。 途端に沈黙だけが広がり、小さな虫の鳴き声と風で揺れる葉音だけが聞こえる。 どことも知らない森の中は、明かりなどは一切無く不気味というよりも心細い。 とても、静かだ。 しかし、この森の中のどこかにあと三十人近い人間が潜んでいるはずだ。そして、たった一人が残るまで殺し合わなければならない。 少年犯罪が蔓延る世の中で、その根本原因を洗い出す為に様々な部類の未成年を集めて行う価値ある検証なのだと、胡散臭い男が言っていたことを思い出す。 中学生から高校生まで、帰宅部、文化部、運動部、引きこもりから不良、優等生、カテゴリーは多ければ多い方がより確固たる検証結果を残せるのだから、君たちが選ばれたことは特別でも何でもありません、ただ今日がたまたまその日だったというだけです。 男は猫なで声で、笑っていた。 その時点で俺は、未成年ではないことを進言しようと思った。 弟が出る試合を見に行って、応援に来てやったぞと控え室に寄っただけの二十歳の大学生だ。どうしたって、対象から外れている。 質問はありますか、との声に率先して手を挙げかけたところで、そういえば忘れていたと男は俺の方を見た。 間違えて連れてきてしまったけれど、これもそういうご縁なので是非参加してもらいます。けれど、彼らよりも人生経験が多い分ハンデになりますから、出発は最後になってもらいますね良いですね泉くん。 それは質問であって、決定事項だった。両脇を映画でしか見たことのないような大きな銃を持った軍人で固めて言われて、言い訳など出来るわけがなかった。 その時咄嗟に弟を見たのは、縋る相手がその場には他にいなかったからなのか、窮地に立たされて一気に家族愛を無意識を自覚したからなのかは正直分からない。 高校は特に部活に入っていたわけでもなく、大学もごくありふれたレベルの無難な学科に入学して、酒を飲む口実にあるようなサークルに所属している。 ずっと野球一筋のくせに、偏差値の高い高校にまで入った弟の孝介とはあまりにも差が在りすぎる。兄としての威厳、なんてことを考える程のプライドもないけれど親戚が孝介を褒める時に感じる居心地の悪さや、くたくたになりながらも充実している様子の孝介を見ているとどうしても全てを話せる兄弟仲にはなれそうにないと思っていた。 自分だってレポートとバイト、飲み会とそれなりに時間に追われているはずなのに、それは孝介のものと比べてしまうとあまりにも虚しいものばかりだ。そして、そう思ってしまうことが卑屈でとても嫌だった。 友人に顔だけは本当にそっくりだ、とそう比べられることすら嫌で大学に入ってから髪を明るく染めたけれど、それでもやっぱり飲み会などで「野球をしている弟」の話題は出るのだから無理をしてあまり自分では似合わないと思っている気に入らない髪の色にしたことの意味など無かったのかもしれないと、非常に落ち込んだ。 そうしたコンプレックスの固まりが、最近になってから少し改善されたのは、年の割に皮肉屋な孝介が、ふと俺の部屋に入ってきて「例えばの話だけど」と切り出してきたことがあってからだ。 例えばの話だけど別に話し上手じゃない人間と話してもなんか苦じゃなくてみんなでいるのも楽しいけど二人でいられたら多分もっと楽しいって思うことは、それはもう親友の域ってことだよな、と神妙な顔つきで訊ねてきた孝介に、俺はそれはひょっとして好きってことなんじゃねぇのと笑って答えた。 そんなんじゃねぇよだってそれはおかしいよでもあぁうんそっかそうなのか、そう言って否定したのはほんの最初だけですぐに納得して頷くと、良く一度で言い当てたねと普段は何を言っても斜に構えた態度で接してくる孝介が素直に驚いていた。 『っていうか、例え話じゃないよな』 『なんで』 『例えばの話なんて、宝くじ当たったらとか明日死ぬとしたらとか、もっと有り得ないことで使うもんじゃね?』 『一概には言えないと思うけれどね。まぁそうだよ、例えじゃありませんでした』 『お前、好きな奴いるの?』 『だと思うと今気づいた感じ』 まぁ可愛いもんだ、と思った。 結局は高校生で、淡泊かとばかり思っていたけれどちゃっかり好きな子も出来ただなんてと思うと、弟に対して妙な言い方だけれど親近感が湧いた。 それからちょくちょく部屋で話をするようになって、それは相談事というよりもただの雑談が主だっただけど男同士、話せばそれなりに盛り上がった。 その話の中で、良く出てきた名前のうちの一つが三橋だった。 聞いている限りでは、孝介とはまるで気が合わない性格だというのに良く連んでいるようで本当に面倒なヤツなんだとは言いながらもそれが悪口になることは決して無かった。 その三橋が窮地に置いても孝介の隣にいたことで、本当に仲が良いんだなということを実感したと同時に、自分が視線を向けていることにちらりとも気づきもしない弟にがっかりした。 兄ちゃんよりも友達、野球部という特殊な連帯感の生まれそうな場所にばかりいればそれも仕方がないことなのかもしれない。それでも、せっかく良い感じの兄弟になってきていたのだから、ちょっとぐらいこっちを見てくれても良いじゃないかと思ったのだ。 ただそんなこともあって、本当にハンデとして最後に出発する羽目になった俺は、廃校から出てすぐに校舎脇の植え込みに縮こまっていた三橋と出会った。正確には、見つけた。 弟以外には知った人間などいないのに今から殺し合いだなんて状況で、不用心に自ら人間に近づいたりはしない。しかし、校舎を出て聞こえてきたくしゃみがなんとも間抜けで、つい顔を見てやりたくなったのだ。 暗がりでも分かる一際明るい髪色と、昼間にマウンドで投げていたピッチャーの姿を付け合わせてそれが三橋だと分かると、孝介と仲の良い人間だということに安堵を覚えた。 もし三橋が小狡いヤツだったら、そうして馬鹿な獲物がかかるのを待ちかまえていたということもあったかもしれない。そのぐらいに、俺は迂闊だった。 くしゃみをした三橋よりも、それで見くびって近づいた俺の方がうんと馬鹿だった。 それでも結果的に、三橋には人を騙すような甲斐性も度胸もなく、俺も三橋のおどおど下態度を何て気の弱そうなヤツなんだと面食らう以外には何の疑いも抱かず、顔を合わせた瞬間に怯えた三橋の必死の抵抗を受けて一悶着があったが、とにかく、行動を共にするようになったのだ。 それに、弟の友達だ。とても楽しそうに三橋の話をする様子と、さっきの廃校での三橋への気遣いを見ていたから、きっとあいつも三橋のことを心配しているに違いないと思った。そうなれば、会わせてやりたい。 俺も、孝介には会わなくてはならない。というか、会うべき人間がこの場には孝介以外にはいない。 殺すつもりはなくても、知らない人間がいればこの状況では警戒しかされないだろうから、無駄死にを避ける意味でも泉孝介の兄で怪しい者じゃありませんよということを知らしめる為にも会わなくてはならない。 手に持っている武器は、カッターナイフ。それが良い方なのかどうかは分からなかったけれど、最初にそれを支給された鞄の中から見つけた時にまるで使えない物でもない、と思ったことに少しだけ落ち込んだ。 三橋が支給されていたものは「腕時計」だった。もはや武器ではないが、二人とも自前の鞄からは時計代わりにしていた携帯が取られていたので、これもまたまるで使えないというわけでもなかった。 その時計で時間を確認した時、アナログの針が一時を指していたので、それから延々三時間は暗がりを手探りで歩き続けた。 人には会わなかったが、自然と俺たちは会話を控えた。三橋はもともとあまり喋るタイプの人間ではないみたいで、時々する会話でも短い単語での受け答えばかりだった。 正直、孝介とどの辺りで気が合うのかは分からなかったけれど、家での孝介の話を嬉しそうに聞いてくれたこともあって、次第にそんなことも気にならなくなった。 暗闇は徐々に白んできて、視界が明瞭になってくることにかえって違和感を覚え始めたころ、ようやく疲れを覚えた俺は三橋に少し休もうと声をかけた。 頷いた三橋。 その表情を確認するよりも先に、視界が遮られた。 自分と三橋の数歩分の間隔に、影が一つ滑り込んできたのだ。 「三橋!」 影は怒鳴り声で三橋を呼んだ。 「はるな、さん」 当然だが、三橋がハルナと呼んだ男のことを俺は知らなかった。百七十とちょっとの俺の身長よりもぐんと高い体躯と荒々しい口調は、それだけで威圧感を感じさせる。 チームメイトだろうか、さん付けってことは先輩なんだろうか。だとして西浦には一年しかいないはずだし、着ているユニフォームも違うから他校ってことになるな、と考えながらぼんやり(殺し合いをしましょうとか言われているくせに、有り得ないほど気を抜いてしまっていた)(そう、本当に有り得ない程にぼんやりと!)考えていると、不意にハルナがこちらを振り返ってきた。 きつく上がった目尻と真っ黒の瞳に、さらに威圧感に襲われる。 これは怖い。三橋でなくたって怯えるし、きょどる。 実際に俺は咄嗟に警戒することも出来ず、及び腰になって男を見上げることしか出来なかった。 「お前、何でこんなヤツと一緒にいるんだよ」 ハルナは険のある口調で言うと、俺をぞんざいに指差した。 「い、泉くんのお兄さんで、」 「泉?泉って誰?」 「うちの、野球部、」 「はぁ?泉は野球部だとして、なんでこの『オニイチャン』がここでお前と一緒なわけ?良く分かんないんだけど?」 不躾に凝視される。見目は整っているが、好印象を相手に与える顔立ちではない。そしてそれは、顔だけではなく態度も口調も全てにおいて言えることだった。 ハルナは一度、俺を上から下まで値踏みするように見て、腹の立つ小馬鹿にしたような笑みを浮かべると「まぁいいや」と急に態度を翻してケロリと言った。 「ほら、行くぞ」 「ぅ、あ、ど、どこに?」 腕を掴んで引っ張られた三橋がよろけながら聞く。 ハルナは別に決めちゃいない、と朗らかに言って、踏みとどまっている三橋を急かすようにさらに腕を引く。 「あの、泉くんの、お、お兄さん、は」 「は?まさか三橋、こいつも一緒にって言うわけ?」 「ご、ごめんなさっ・・」 「馬鹿言うなよ。知らないヤツとなんて一緒に行動出来るかよ」 「でも、い、いい人で、俺が怖がってたのみ、見つけて、今まで一緒に、」 「うんだからそういう馬鹿言うなって」 「・・・っ、はるな、さん、」 弱々しい声は相変わらずだったが、そこに生気すら感じされないような本当に細い声でハルナの名前を呼ぶと、三橋が膝を曲げてガクンと倒れ込んだ。 土が剥き出しになった地面が、黒く染まる。そして、太股を押さえる三橋の手の間からは赤黒い液体がどぷどぷと擬音を脳裏に浮かばせるほどの勢いで流れ出ていた。 映画なんかであるみたいに、ザクリとかグサリとかの何かが切れる音などは一切しなかった。 聞こえるのは三橋の呻く声と自分の荒い息と鼓動だけだ。 「お前、何してるんだよ!」 「お前が、何してるんだよ」 ハルナは低い声で冷たく言い放つ。 その手には小ぶりの鎌が握られていて、弧を描いた刃にはわずかに血痕が散っていた。 何の前触れもなく、この男は顔見知りのはずの三橋を刺したのかとそれを見てやっと認識が出来たが、その途端襲ってくる恐怖に俺は呻く三橋を助けるよりも自身の保身を何より優先的に考えていた。 膝が笑う。 おぼつかない足取りでハルナから距離を取ると、また見下すように嗤われた。 「情けない男のくせに、三橋といるとか有り得ねぇよ」 「と、友達なんだろ。なに、刺しちゃってんだよ三橋のこと!」 「うるっせぇなぁ。俺だって必死になって探してた相手、何の理由もなく刺すかよ。こいつがお前なんかのこと、褒めたりして一緒にいたいとか言うから、むかついたんだよ。あんたのせいだよ、この状況は」 「どう考えたって、お前が引き起こしたことだろ。三橋、血ぃ出てるじゃんか。死んじゃったらお前、どうすんだよ!?」 「死んで三橋が誰とも話さなくなる方が、ずっとマシだ」 素っ気ない口調でハルナは俺に言って、それとは相対した労るような声で三橋に痛そうだなと、自分が傷つけたことを忘れたかのような態度で接する。 「な、こいつといるとこんな目に合っちゃうんだからさ。俺と一緒に行こう」 「榛名さ、ん、」 「うん」 「い、一緒に行ったら、お兄さん、は、刺されたりしないんですか?」 「刺さない刺さない」 笑顔で手を顔の前で振りながら言う様子は、まさに友人同士の会話だ。それは三橋が足から多量出血をしていなくてハルナが鎌を握ってさえいなければ、当たり前の光景のはずだった。しかし、今の状況下では明らかに不自然だ。 「絶対に、刺しはしないよ」 その言葉に嘘の響きはなかった。 けれどハルナは鎌を持つ指の力を緩めない。俺は緊張したまま、ハルナを凝視する。 多分、隙あらばいつでも俺のことを殺してやろうとハルナは思っている。三橋への殺意は愛情の行き過ぎた行動のように見受けられるが、俺に対しての殺意に他意はない。 自分の保身と、三橋の保身。そのどちらもが叶えられるとすれば、それは三橋がハルナと行動を共にするより他に無いだろう。 きっと、俺といるよりも三橋は安全なはずだ。あの、躊躇いもなく人を傷つけられる度量は、その行動故に決して褒められたものではないが、この状況下においては何よりも頼りがいのある存在だ。 「三橋。こいつと一緒に行きなよ」 お兄さん、と三橋はか細く呟いた。 「俺、でも、お兄さん、が一人になっちゃう、し、それで、」 辿々しい口調は最初に話したときと変わりなくも聞こえるが、明らかに覇気が無いことが気に掛かった。一刻も早く手当を要する状況なのだろうけれど、きっと三橋と俺が一緒にいる限りハルナはここから動くことは許してはくれないのだろう。 傷口付近だけではなく、そこに触れている袖口もじっとりと赤く湿っている。それを見ても、三橋を心配する素振りすら見せはしないハルナの異常さが怖かった。 百歩譲られて一緒に三人で行動することにでもなったら、俺は正直一時だって気が休まることはないだろう。そんなことになるぐらいなら一人の方がずっと良い。 そう考えることは、結局自身の保身以外の何者でもないことが少し情けなく思えた。 「ほら、三橋」 ハルナが三橋を急かした。 三橋が、俺を見る。 たったそれだけの三橋の動作に、ハルナが舌打ちをした。 鎌が振り上がる。 特に動体視力が良いわけではないのに、その瞬間的な動きをどうして捉えることが出来たのか自分でも分からないけれど、とにかくハルナが鎌を振り上げて三橋に刃先を向けたその瞬間を両目がしっかりと捉えていた。 咄嗟に三橋を庇う形で体を滑り込ませる。 そこまでしてやる義理なんて無いはずなのに、考えるよりも先にしたその行動の何と男らしく格好良いことか、と思う余裕があったのはもうどうにでも慣れというやけくそな気持ちも入り交じっていたからかも知れない。 体当たりをする。 ハルナが仰向けに倒れていくことにほんの一瞬油断した、その隙を読まれたのか腕を掴まれて地面に叩き付けられた。 右肩から勢い良く地面にぶつかり、衝撃で胸部が鈍痛を覚えて呻く。そのすぐ横でハルナが素早く動くと、俺の顔を目掛けて躊躇無く鎌を振り下ろしてくる。刃先はほんの数センチ顔の横の地面に深々を突き刺さり、ハルナがそれに対して舌打ちをするのが聞こえた。 俺は刺さった鎌の柄を掴んで、ハルナからそれを奪い取ろうと足を上げて腹に思い切りけりを入れたが、呻くだけで鎌を持つ手は離れなかった。 殺してやる、と呪いを吐くように低く言いながら、ハルナが鎌を地面から抜く。次にまた振り下ろされたら今度こそやられてしまうと思った。咄嗟に顔の横から離れていく鎌を掴むと、そこは刃の部分だったようで鋭い痛みが指の付け根全体に走った。 鼓動が早まる。 出血の多さに心臓が必死で血液を作り出しているからだろうか、その鼓動の早さに息苦しさを感じながらも体制を立て直しかけているハルナの足にしがみつき、動作を止めようとがむしゃらに腕に力を込めた。 三橋の悲鳴が聞こえた。お兄さん、と二度繰り返して叫んでいた。 「何だよ。何で俺じゃないんだよ!」 ハルナが怒鳴る。上から踏みつぶすように蹴られて、こめかみから顎の辺りに走った予想だにしていなかった痛みにそういえばこいつらは野球児でスパイクを履いていたんだとようやく気付いた。 こいつらみんな俺以外は最初から武器持ってるってことじゃないか不公平過ぎる、と内心で毒づきながらハルナが持つ鎌に手を伸ばす。 「も、ぜってーお前のこと殺すよ。マジすんげぇムカツク!ぜってー殺す!」 ハルナが再び鎌を振り上げた。恐怖と絶望と防衛本能が一気に押し寄せてきて、俺は目をきつくつぶったまましがみついていたハルナの足をさらにきつく締め上げて、そのまま持ち上げるようにして無理矢理立ち上がった。ハルナのユニフォームの生地が傷口に擦れて有り得ない痛みに気絶しそうになったけれど、気絶か死ぬかの二択であれば当然前者に決まっている。 傷口が引きつられ広がるその感覚に涙が滲む。 「痛ぇんだよ馬鹿野郎!ちくしょうマジ痛ぇよ!」 百八十はあろうかという上背にしっかりと鍛えられた体は、俺の鈍りきった体とは違って持ち上げるのも容易なはずはなかった。例えばここが舗装された道だったりしたら、俺はいくら力を込めてもハルナを転がすことは出来ずに疲れ切ったところをザクリと切られて死んでしまったに違いない。 だから、ここが足場の悪い森の中であったことは、運が良かったのだ。そして、丁度ハルナの足下に木の根が土から半分出た状態で放射線状に走っていることも、運が良かった。 身をよじるようにして俺の腕を足から振り解こうと体を動かしていたハルナは、半歩もつれたように後ろへ下がった拍子にかかとを木の根に引っかからせて大きく仰け反り、野太い悲鳴を上げながら倒れていった。 波打った根の、一際高く盛り上がった部分が無防備なハルナの後頭部を打ち付ける。つい今まで憎悪に満ちた表情を浮かべていたハルナは、ぴたりと無表情になるとぐるりと白目を剥くと脱力し動かなくなる。 気絶か死か、そんなことはどちらで良いことのように感じられた。今何よりもしなくてはいけないことは、この場から一刻も早く立ち去ることだ。 ハルナがいつ目覚めて襲いかかってくるかも分からない、俺はこんなところでこんなムカツク年下の野郎なんかに殺されるのはまっぴら御免だった。 息を落ち着かせることもなく、ハルナを跨いで三橋を引っ張り起こす。腕を引いて走り出すと三橋がやけに鈍くさく走るので「早く!」と怒鳴った。 「足が、無理なんです、」 申し訳なさそうに言われて、足に深い傷を負っていたことを思い出して速度を弛める。 「ごめん」 「いえ、あの、俺の方こそ。俺のせい、で」 三橋はぜいぜいと荒く呼吸をしながら、恥じ入るように俯き言った。もはやユニフォームのズボンは真っ赤に染まってしまっていて、その足が痙攣を起こして時々揺れるのがとても恐ろしく感じられた。 「ごめん。マジでごめん。休もう」 「でも、逃げないと」 「そりゃ出来るだけ遠くには行っておきたいけど。でも、追ってくる様子はないし。目立たない場所にいれば大丈夫だよ」 それは希望観測だった。 しかし、ここでネガティブなことを言ったとして、三橋が前向きな発言をしてくれるとも思えなかったので敢えて楽観的な発言をしたのだ。そうでもしなければ、くじけてしまいそうだった。 渋る三橋を木の陰にまで連れてきて、そこに無理矢理座らせた。 散々渋っていたわりに、座り込むと傷のせいもあるのか深くため息を吐いて動こうとはしなくなった。 ぐったりと頭をもたげていた三橋が、不意にとても疲れました、と言った。 小さな体はそれに合わせた細い線を描く。一見の印象は頼りない、だった。 話してみても、その印象は変わらなかった。 沈黙が何となく気まずくてそれを告げると、ふひひと奇妙な笑い声を上げてショックを受けた様子を見せるわけでもなく俺の言葉を素直に享受していたようだった。 よく分からないヤツだなと思った。 色素の薄い癖毛が揺れた。 強い日差しの下で野球に明け暮れているせいだろうか、髪は細くところどころが縮れてしまっていて無様だった。 加えて汗と土埃に汚れてしまっている顔と服でいるというのに、不潔というイメージから遠く思えるのはマウンドで試合をしているところを見ているからなのだと思う。 「疲れたんなら、少し寝てたら良いよ。俺、起きてるから」 三橋は首を勢い良く振って、大丈夫ですと言った。けれど、言ったそばから大きなため息を一つ吐いた。 「良いよ。結局夜は寝てないんだし、俺はまだ大丈夫だから」 「す、すいません。でも、俺、」 「良いから。疲れたまま動く方がよっぽど危険だし」 優しさだけではいくら言っても頑固に受け付けないのだろうと判断して、敢えて選んだ言葉は効果的で、三橋は恐々としながらも木の幹に背中を預けて目を閉じた。 途端に沈黙だけが広がり、小さな虫の鳴き声と風で揺れる葉音だけが聞こえる。 どことも知らない森の中は、明かりなどは一切無く不気味というよりも心細い。 とても、静かだ。 鼓膜が緩い痺れを覚え、耳鳴りを訴えてくる。かすかな痛みに顔を顰めながら、膝をガクリと崩すようにして三橋の隣に座り込む。 自分の吐息は三橋を起こしてしまうのではないかという程に荒かったが、三橋の寝息もまたどこか苦しそうに途切れたものだったので気を遣って離れようと浮かした腰を再びその場に落ち着けた。 虫の声、葉音、三橋の息と俺の息と、聞こえてくるのはそのぐらいのもので、ハルナが追ってくる様子はない。 目を閉じた。 何とも迂闊なことだが、俺は本当に気を抜ききってしまっていてうとうととしてそれを抑えずに目を閉じる事に何の抵抗も、不安感も感じなかったのだ。 どのぐらい時間が経ったのかは分からない。ただ大分心地良く眠りについていたようで、目を覚ましてぼんやりと霞む視界に人影が映っていることを認識しながらも数秒はなんの行動も起こさずに愚鈍に見上げていた。 「どれだけ迂闊なんだよ」 平淡に冷たく言い放たれた言葉にもしばらくは何の反応も示さなかったのは、寝起きであるという状況とは別に、その声にとても馴染みがあったからだ。 「孝介」 「この馬鹿兄貴め」 罵る声は決して大きなものではなく、あくまでも平然としている。だからそれにつられるように、自分もまた平然と慌てることなくいられたのかもしれない。 それはあたかも、そこが自宅の一室だと錯覚を起こしてしまうような、そんな弟の態度だった。 「三橋と一緒にいたんだ、兄貴」 「お前の友達だろこいつ。いつも良く、話してた。だから、俺お前に会わせてやんなくちゃなぁって思ってさ」 「ふぅん。それは、なんていうか、とっても優しいことだね」 「感激した?」 「涙が出そうだ」 孝介はため息を吐いて、もう一度涙が出る、と繰り返した。 「俺が最初から一緒にいれれば、と思うと本当に涙が出る程悔しいよ。どうして兄貴だったんだろう。そのせいで、こんな怪我までして死にかけて」 「それは、俺じゃないよ。怪我させたのは、俺じゃない」 「だけど、手当もせずに」 「だって、手当するにも何もないから」 「それで放っておくのかよ。服破って縛るとか、なんだって出来たんじゃないのかよ。死んじゃうだろ三橋。兄貴のせいで、死んじゃうだろ」 何も出来なかったことは事実だ。消毒液も包帯もない、素人が容易に触れるのはかえって危険なんじゃないかと思っていたから、俺は敢えて何もしなかったのだ。 ひょっとしたら、三橋はもう孝介には会わずに死んでしまうかもしれないなと思いながらも、手当はしなかったのだ。 「良いだろ別に。三橋の怪我は俺のせいじゃないし、三橋は死んでないし、お前は三橋に会えたんだし」 「なんだよそれ。もー、ちょっと、ホントむかつく」 若干、高めの声で心底苛立たしげに言う。 空を叩くように振った腕には、小ぶりの鎌。 「またかよ」 「は?」 「鎌。お前のって、それだったの?」 さっき同じの持ってるヤツがいた、と一呼吸置いて言うよりも先に俺のじゃないよと返された。 「ちょっとさ、すごいへろへろのよろよろになってる奴がいてさ。まぁ、ちょっと顔ぐらいは知ってる奴だったんだけど。あんまりそいつがうるさいからさぁ」 「から、なんだよ。止めるなよそこで」 「あいつうるさいんだ、三橋三橋って。気に入ってるなら全うな愛情表現すれば良いのに、ねじ曲がってるし。それに、これで三橋を切ったとか言うから、」 「やっちゃったのか?」 「やっちゃったよ。ムカツクし」 「そっかぁ。まぁこんな状況だし、あいつなんか怖かったし、それは、しょうがないよな。仕方がないよ。うん、別に、正当防衛っていうか、しょうがないよ」 孝介が平然としているのは、強がりだと俺は思った。弟が人を殺したという事実に、感じた眠気にもに似た感覚はおそらく気絶する寸前だったのではないだろうか。けれど、それに素知らぬふりをして強がっていた自分がいたから、きっと孝介だって必死で強がって平然を装っているのだと、そう思ったのだ。 「しょうがなかろうがなんだろうが、三橋を害する人間が嫌なだけだよ俺は」 「うん、だって仲良いんだもんなお前ら。そりゃ怒るよ。分かるよ」 「分かってないじゃん。俺は、兄貴に対しても同じ気持ちなんだよ」 「は?」 「三橋と一緒にいながら怪我をさせて、そのくせ手当もせずに自分は居眠りして。ホントに馬鹿兄貴だよ。その罪万死に値シマス」 なんだよその大袈裟な台詞漫画か何かのパクリかよお前らしくもねぇ、と言って笑って孝介も笑って驚いたかよ馬鹿兄貴なんて言ってこれから協力し合っていこうな大丈夫きっと抜け出す方法があるはずだからとちょっと俺は兄貴風を吹かすのだ。 そんなことを考えた。 けれど、あるのは頭上に振りかざされた鎌だった。 三橋が身じろぐ。 うっすらと開けられた目蓋が、一回、二回、瞬いた。 泉くん!泉くん泉くん! 今まさに殺されそうになってる俺のことなんてまるで目に入っちゃいない。 (だから孝介に会うよりも先に死んでしまえば良かったのに!きっと三橋はこうやって、孝介と会えば俺のことなんてどうでも良くなって見向きもしなくなるだろうって、そんなことぐらいは考えていたさ。だけどまさかここまで思った通りだなんて、あんまりだ)(そしてこんな俺に嫉妬をしたハルナのなんと哀れなことか。だけど、お前の為になんか泣いてやらないよ)(泣けてくるのは、自分の不憫さに対してだ) 「三橋」 「黙っててよ、オニイチャン」 余所余所しい孝介の言葉が返ってくるだけで、三橋はこちらを見もしなかった。 (うつろな目と真っ白な顔色は、ひょっとしたらもう先が長くないことを表しているのかもしれない。聴覚もおかしくなってしまっているのかもしれない。)(だったら仕方がないのだけれど)(そもそも、どうして俺は今の際に三橋の名前を呼んでみたりしたのだろうか)
ザ ク リ |