いってぇいてぇよぉ。 震える声で、かろうじて涙を流すことを堪えながら水谷は叫んだ。 脛を両腕で抱え込むようにして丸まって地面に倒れている水谷は、昨晩降った雨で泥に成り果てている土によって盛大に汚れた。 球児としてそれは珍しいことではない。 毎日、朝早くから夜遅くまで。吐く息が白いことも、指先が寒さと乾燥した空気でガサガサになるのも構わずにひたすら練習に打ち込んでいれば、服どころか頬までもが泥だらけになることも珍しくはない。 汚れることを厭うようでは、練習になどなりはしないのだ。 だから水谷は、泥まみれになってしまったことはまるで気にかけなかった。 最も、仮に水谷が野球部ではなく土埃とは縁遠い生活を送っていたとしても、やはり泥のことなどは気にしていられなかっただろう。 脛からは盛大に血が流れている。 朝練が終わって、片づけをしていた時片手間で抑えていたピッチングマシーンが大きく揺らいでぐるりと一回転したかと思うと、そのまま一気に水谷の方へと倒れてきたのだ。 咄嗟に働いた防衛本能のおかげで、頭への直撃は避けることが出来た。しかし、それに安心したのと同時に脛に強い衝撃と、それから痛みを覚えた。 痛みだけならまだしも、目で見るよりも先に反射的に痛みのある部分を抑えた掌が水気を感じ取り脳へと信号を送ってくる。 嫌だなと思いつつも、見ずにはいられなかった。 水谷はそっと、首だけを起こして足を見た。 「うそぉ」 思わず口走った小さな言葉は、あまりにも緊張感がないものだった。 水谷の脛には、ピッチングマシーンの角が刺さっていたのだ。見た目には刺さっているというよりも、めり込んでいる感じでもある。 ふとマシーンの総重量を頭によぎらせて、水谷はぞっとした。 どうせなら骨折のが良かった。何も刺さらなくたって、刺さることないじゃないの。 現状を把握して内心で文句をたれていると、痛みはどんどん激しいものになってきていた。 そうなると理論的なことなど一つも考えられなくなり、どうしようかな痛い痛いと短絡的な単語ばかりが脳内を巡る。 そうしている間にも痛みは増すし、流血も止まらない。 それでもせっぱ詰まるまでにはならなかったのは、朝練の片づけの真っ最中でだれかがすぐに来てくれるという確信が水谷自身にあったからだ。 痛いけれど、死ぬほどの怪我ではないということも分かっていた。 だからかえって、痛い痛いと呻く余裕があったのかもしれない。きっと、本気で危ない状況にあったら声すら出ないのだろうなと、そんなことすら考えて水谷は部員が見つけてくれるのをぼんやりと待った。 濡れた土の臭いは、鉄分を過分に臭わせていた。実際には、はたしてそれが土のせいなのか流れて地面に染みこんだ血のせいなのか分からなかったけれど、心地良いと思ったのはきっと生理的に厭うような臭いではなかったからに他ならない。 血というものの臭いが、生ゴミみたいじゃなくて良かったなぁと水谷は心底思った。 そもそも流血で貧血になりかけているところへその想像は、十分効果的だったようで水谷の視界がふいに暗くなったりキラキラと不快なダイヤモンドダストのような錯覚を見せるようになった。 目を瞑って耐えると、幾分が楽だった。 真っ暗な闇を認識するのは目を閉じた始めの数秒だけのことで、あとはただ意識がその闇に飲み込まれていくように無心になれる。 傷口から流れ出ていく血と、痛みが鼓動と同じリズムで波打つ事だけを感じていると、痛みに火照った体の体温すらも心地よく感じられてくるから、うっかりマゾとはこういうことの究極なのだろうなとまるでどうでも良いことを水谷考えた。 考えて、ふと目を開けると三橋が驚いたというよりも怯えた表情で立ちつくしているのを見つけた。 「三橋。ちょっと、やってしまいましたよぅ」 茶化した口調だったのは、別に三橋を気遣ったからなどではなかった。足下にピッチングマシーンの刺さっている自分がとても阿呆のように見えているだろうなという、羞恥をごまかす為にやっただけで、相手が三橋ではなく例えば通りがかったあまり知らない教師だとしても同じような口調で切り出していただろう。 口元を手で隠すという女々しい仕草で、三橋は涙目になりながら水谷を見下ろしていた。 「あの、誰か、呼んできてくんない?」 自発的に行動はしてくれないだろうなと判断した水谷は、痛みのせいか普段よりも短気になっている自分に気づいた。 (いやでも、短気にならなかったら俺の血全部抜けきっちゃう) 三橋は水谷の言葉を受けてもなお、相変わらず怯えて手を差し伸べすらしてはこない。 ううん、どうしたものかなと考え込んでいるうちに、ますます苛立ちが募ってきてしまう。さすがにここで三橋に怒鳴りつけるような真似だけはしたくないなと思った。確かに三橋の今の行動は、友人が怪我をしているのを見た場合としては的確ではないし愚鈍だ。 けれども、そもそもの発端は単なる自業自得であるのだ。 それに、三橋を怒鳴って泣かせたとして、怪我人だということも考慮されずに阿部に散々な目に遭わされるに決まっている。 「お願い。誰か、呼んできて」 平常心を心がけて、笑顔すら浮かべるという気の使いよう。 その笑みが、ふと真顔になる。 ようやく動いたと思った三橋は、人を呼びに来た道を戻るのではなくて水谷の足下へと跪いた。 そして、おもむろに口を傷口へと近づけると舌を這わせたのだ。ぬらりと濡れて光る舌は見た目に反して、ざらりとした感触を傷口から伝えてきた。 ピリピリとした痛みは、擦り傷を作ってしまった時に風呂で感じるあの痛みに似ていると、水谷は眉をしかめながら思った。 傷口をいたわっているのか、三橋は舌を這わせたわりに動かしはしなかった。 その代わり、ずっと血を啜る音がする。 「お前、なにしてんの」 声が震えた。 弱々しいその声に、しかし三橋はピクリと体を跳ねさせて顔を上げると、唇を戦慄かせてごめんなさいと小さく謝罪してきた。 (あ、俺の血が) まるで食べ滓のように付着していた。 いくら食欲旺盛だからってこれはないだろ、俺食べられちゃうのかよと混乱しながらも表面上はただ呆然と口を開けて三橋を見上げていただけだった。 「水谷!」 殺伐としたにらめっこが数秒。 不意に、慌てた栄口の叫び声に我に返ると三橋は、また口元を抑えるとそのまま逃げるように(逃げたのだけれど)グラウンドとは反対の方へ駆けだしていってしまった。 栄口の声に部員が集まってくる。水谷がそこで三橋にやってみせたように、茶化した態度を取ったので慌てたり驚きながらも、何やってんだよお前はという呆れた声も聞こえたぐらいで、深刻な空気にはならなかった。 ただそれでも、皆の口調は普段水谷に向けられるものよりもずっと柔らかいものであったし、例えば阿部や泉のような辛辣な口調で話しかけてくる人間も、さすがにこの時ばかりは語調を荒くしながらも心配を隠し切れてはいなかった。 結局それからすぐにシガポの車で病院へと運ばれて、六針縫われたことで熱まで出てしまった水谷は学校を三日間休んだ。 四日目の放課後。 部活に行く前の三橋を捕まえて、水谷は人気のない特別教室へと連れ込んだ。 その際に無理矢理に掴んだ腕を、三橋は必死でふりほどこうとしていた。 ちょっと話したいことがあるだけだから、と言って宥めるも三橋の抵抗は収まらなかった。思わず人目があるのも構わずに、「俺の血舐めたくせに!」と言った。ただ水谷も、馬鹿ではなかったからあくまでも普通の調子で、何だよそれと他の人間に聞きとがめられても冗談で交わせるような保険はかけておく。 しかし、三橋にはそれで十分だったようで途端に大人しく従順になった。 特別教室は、普段から使われているわけではないだけあって特にひんやりとした空気が漂っているように感じられた。 水谷は、まだ完治していない足を庇うようにして椅子に腰掛けるとぶるりと冷気に肩を震わせた。 寒い寒いと、独り言を言いながらそのままの調子で「三橋は、人の血を舐めることが好きなの?」となんの前置きもなく尋ねた。 俯いて黙り込む三橋に、水谷が大きくため息を吐く。白い息を目視することで、体感温度がさらに下がる錯覚を覚える。 「責めてるんじゃなくて、知りたいだけだからさ。ほらいるでしょ、そういう嗜好持ってる人って」 「し、しこう?」 「血を見ると興奮する人のこと。多分、そんなんだったと思うけど」 学校を休んでいる間、三日目には熱も大分下がって水谷は姉のパソコンを借りて血液嗜好症について調べていた。調べるといっても、専門的なことなどは読んでも少しも分からなくて、ようするに概要だけ分かればそれで十分だった。 リンクを辿るうちに犯罪者へと行き当たって大層背筋の寒い思いをしたが、三橋と犯罪者を重ね合わせるまでには至らずむしろ水谷が気になったのは「血を見ることで性的興奮を感じる」という部分であった。 「三橋は、俺の血舐めた時、どんな気分だったの?」 「ご、ごめんなさ、」 「謝ってくれないで良いよ。そういうこと、して欲しいんじゃなくて、三橋のことを教えて欲しいだけだから」 「お、おれ・・水谷くんになってみた、い」 「は?」 「俺はトロいし、口下手だし、冗談なんか言えない、し。でも、水谷くんはそういうの全部で、でき、出来て・・・良いなって思ってて」 「それで、なんで血になるの。そんな、血を飲んだらその人間の能力を授かれるとか、思ってたんじゃないよね?」 「し、信じてたわけじゃ、ない、けど」 けど、つまり図星ということだ。 「あのさ三橋、俺かなりビビったんだからね」 「ごめん、なさい」 「お前、他の人間にもこういうことすんの?っていうか、したことあるの?」 ほら、お前が良く話す三星の叶とか。 曖昧にしか記憶にないつり目の少年は、確か三橋の幼なじみだったはずだ。 それこそ三橋本人が言うように口下手な三橋が、それでも叶の話をする時には一生懸命、彼の良いところを話そうとしているくらいなのだから憧れといえば、叶にこそ三橋は憧れているに違いない。 しかし、三橋は首を横に振った。 「み、水谷くん、だ、け」 「俺だけ?」 「怪我した時、も、みずたにくん、笑って、冗談みたいに言って。そういうの、俺、絶対出来ないから、」 だから、なりたい、です。 頬を染める三橋に、それはつまり俺のことが好きなんじゃないの?と聞くと分からないと返された。 「だって俺だけの血、舐めたいと思ったんでしょ?それ、相当変だし、特別なことじゃないの」 「へ、変だとは思うけど、でも、」 「分かんないんだったら、もう一回血飲んでみたら分かる?」 口走ってしまってから、水谷は自身の言ったことに引いた。 そのくせ止めようとはせずに、嫌がる素振りすら見せている三橋の腕を掴むとちょっと待ってろよと言って口の中を思い切り歯で噛みちぎった。 自傷趣味はなかったので、皮膚を切り裂く度胸がなかっただけで、口の中であればたまに間違って噛んでしまうこともあったので大して難しさを感じなかっただけのことだ。 「ほら、血」 「や、やだ」 「嫌じゃないだろ」 思わず出た言葉が親父くさい台詞になってしまったことにショックを受けて、水谷は一度口を噤んだ。 しかし、思ったよりも深く噛みちぎってしまったことと、場所が唇に近かったことで、血が唾液によって増幅されて流れ出てきてしまっていた。 「水谷くんだけ、だ」 カラリと乾燥した声だった。 三橋の顔が近づいてくる。 水谷は口から出る血を抑えずに、誘い込むように口を半開きにした。 ぬるりと入り込んでくる舌はなま暖かくて、四日前に傷口を舐められた時のようなざらつきは感じることがなかった。 所謂キスになってしまっていることに三橋は気づいていないのだろうな、と水谷は思った。ディープキスであれば舌を絡めるわけで、三橋は無心に血のわき出るところを舐めとっているだけなのだ。 (やっぱこいつ病気だ) うっとりと目を閉じている三橋を見て思いながら、それでも嫌がらないでむしろ興奮すら覚えている自分はさらに病気なのだろうなと自嘲した。 (血啜られて興奮しちゃう俺って、どんだけマゾなのかしら) いやんなっちゃうわ。 三橋が好ましいとしている、「どんな時でも冗談を忘れない」行動を内心でだが実行して水谷は試しに三橋の舌をすくい取ってみた。 抵抗はない。 両想いだと思っても、これは自惚れじゃないんじゃないのかなとさらに興奮してもう一度舌を絡めた。 |