ね、一緒に来て?
三丁目の歩道橋に夕方、学校側の階段を三段上がったところに立っていると女の子の声で、そう聞こえてくる。
はい、と答えると連れていかれてしまう。
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「新しいの、増えてる」 下駄箱近くの、人通りの多い廊下の掲示板。最近、西浦ではそこに七不思議や怪談話を貼り付けることが流行っていた。 誰が始めたのかも分からないそれは、連日まるで競うかのように新しい話は貼り付けられている。良く知ったものから、ちょっと珍しいもの、この話を聞いたら云々のものまで系統は様々。嘘か本当か「実体験」の注釈付きのものまである。 教師たちも、誹謗中傷の類でなければ問題はないとして、むしろその流行に便乗して授業中や休み時間にちょっと、昔あった怖い話を披露さえしているのだ。 実に微笑ましいというべきだろう、そのローカルな流行は西浦野球部の面々も時々話題に出すぐらいには興味があった。 科学の移動教室で廊下を通った時、真新しい紙に書かれたごく簡潔な怪談話に水谷がいち早く反応を示した。 「さっき、休み時間通った時なかったから、これ、新しいよ」 いかにも嬉しそうに言う水谷を、阿部が冷ややかに一瞥してハンと鼻で笑う。 「ってか、連れてかれるってどこにだよ?」 「あの世とか?」 「異次元、とかも良く聞くよな」 水谷に続いて、フォローを入れるかのように花井が割り込む。 ちなみに、この三人は特に幽霊の存在を信じているわけでもなければ、特別怖がる人種でもない。水谷は、敏感にそういった類の話に反応はするが、それもむしろ自分の持ちネタにして聞き手を怖がらせたいという気持ちからである。 そんな三人が集まって怪談話などをしてもどこかその話にある綻びを見つけては、重箱の隅を突くような論議(というほど大それたものではないが)を交わすだけになってしまう。 「あと、夕方ってアバウトすぎ」 「もー、阿部夢がないよ!夕方ったら夕方なんだよ。学校が終わって、夕日が沈むまでっ」 「それじゃ、土曜の夕方ってのは随分と長いんだなぁ、おい」 「揚げ足取りにしては、随分と強引じゃないの?そんなこと、常識で考えれば夕方の定義ぐらい説明しなくても分かるでしょ?」 チッチッ、と指を左右に振りながら偉ぶって言う水谷の後頭部を、阿部が丸めた教科書で勢いよく叩く。 パカンと小気味の良い音がして、周りから忍び笑いが漏れる。 「都合悪いとすぅぐ暴力だ」 唇をとがらせて文句を言う水谷に、阿部がムキになってさらに強くベコンと、今度は左肩を一回。 痛い酷い、阿部は酷いヤツだと喚く水谷と、なにをとムキになって教科書を握り直す阿部。 それを傍から見ていた花井は、呆れた様子で水谷を呼ぶ。 「お前も、いい加減そうやってけしかけるのは止めとけよ。やられるの分かってんだからさ」 「だぁって、おもしろいんだもん」 笑いを含ませた声で言うのに、阿部がまた青筋を立てる勢いで苛立ちを表情に出す。 「このクソレフト。死ね、死んでしまえっ」 憎らしげに吐き出された阿部の言葉に、水谷は大げさに傷ついてみせる。それがわざとらしすぎて、かえって真剣味がなくなってしまっている上に、阿部の苛立ちを増長させていることは水谷自身が自覚してやっていることのようだ。 次の瞬間には、怪談なんかよりも阿部のが怖いねなんて軽口を叩きながらさっさと一人で先を歩き始めている。 「遅刻するよー」 「おっまえ、誰のせいで・・」 今にも掴みかからん勢いの阿部の二の腕を花井が掴みながら、まぁまぁと宥める。 実際、壁に掛かっている時計を見ると始業開始時間までもう五分もない。 渋々諦めた様子を見せた阿部は、それでも腹いせになのか水谷に追いついた際に盛大な舌打ちをしていた。 敢えて神経を逆撫でするような行為をしても、結局水谷にはのらりくらりとかわされてしまう。 それが、さらに腹が立つ結果になるのだ。 どうにも納得がいかないでいる阿部に、花井がその心情を知ってか知らずか気軽な様子で肩を叩いて急ぐぞと言ってくる。 「分かってる」 その受け答えは適切ではないな。 阿部は、自身の答えにそんなことを思いながらも、苛立って地面を蹴り上げた。 向かってくるそよ風に、理科室特有の消毒臭が混じっていて阿部の鼻の奥をつんと刺激した。 |
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理科室でグループに分かれての実験をしていると、どうしても落ち着かない雰囲気が漂うものだ。 教師が教壇の上から、何度も繰り返しアルコールランプの使い方や、マッチを捨てる場所を半ば叫ぶようにして言っている。そんなもの、生徒達が真面目に聞いているわけもないのに、それでも言わなければならないのが大人であり教師の役目なのだろう。 薬品をカセロールに入れて加熱している時に、気怠そうに机に肘をついて水谷が「これ、なんで沸騰させてんの?」とまるで実験の趣旨を理解していないことを言う。 「黒板見ろよ」 阿部に言われて、ゆったりと首を回して見えたのは「錬金術」という殴り書き。いまいち理解が出来ずにぼんやりとその文字を見つめているだけの水谷に、花井がだからぁと少しだけ声を荒げて説明してやる。 「科学に親しむ為の実験。だから、教科書とか関係なしにちょっと楽しんでみましょうって先生言ってたの、聞いて・・なかったんだろうけど」 「あーあー。そういうことかぁ」 間延びした口調に、阿部が舌打ちだけをして黙々と手を動かす。 「錬金術かぁ。アニメで流行ってるよね、錬金術師の。ほら、映画にもなってるやつ」 「しらねー。ってか、どんだけマニアだよお前」 「何言ってるの?有る程度流行ってりゃ、興味がなくても情報入ってくるよ。阿部は、テレビ見なすぎ」 「うるせー、死ね。あと、その銅貨こっち渡せよ」 「はいよー。んで、これ金になんの?すげくね?」 ぐぐぅっと体を伸ばして阿部に銅貨を渡しながら、水谷は軽い口調で言って目を見開いてみせる。 花井が、なんないなんないと苦笑して答えた。 「なんのは銀貨。しかも、メッキだけだから」 「なんだぁ」 投げやりにがっかりして、水谷はもう実験には興味がないようでそういえばさと、次の話題に入ろうとしている。 あとでレポート書くんだぞ、過程と結果覚えとけよと花井が忠告はするものの、どうせ水谷は写すつもりに違いないと思っているからそこまで繰り返してしつこくは言わない。そんなことをしているぐらいなら、書けるところだけでも書いてしまった方が後で楽だと、花井は水谷が一人でしゃべり出すのを横目にレポート用紙に視線を落とした。 阿部も、水谷に構うつもりはないらしい。それでも気にしないで、一人で話しを始める水谷は、意気揚々と「ここも、怪談話にあった場所だよね」と言った。 「あぁ?まだ引きずんのかそれ」 なんだかんだで、いつだって水谷の話に反応するのは阿部だ。 眉間に皺を寄せて、ガラの悪い目つきで睨み上げる。 「だって俺、怪談好きだもん。ってか、ほら、あの、なんだっけ?あ、そういえば、自分は霊感あるって言ってたヤツが、いじめられてそんで逆恨みにそいつら殺して、呪いなんだとか言って、とかって話もあったよね」 まるで要領を得ない話し方とその流れに、阿部はピンセットで摘んでいた銅貨を取り出して水の入ったビーカーの中に乱雑に落として「意味分っかんね」と突っ込む。 「理科室の話は?」 花井も、さすがに今の話の流れにはついていけなかったようで、レポート用紙から顔を上げていぶかしげな顔で聞く。 「理科室は良くある話ばっかだもん。そんなの、俺らは怖がらないじゃない?それよりも、生きてる人間が起こした、そういうちょっとオカルト入った話の方が個人的には、ぞっとするっていうかさ」 両腕を組んでさする水谷に、阿部が「でも、実話じゃないだろ」とビーカーの水で硬貨を洗いながら馬鹿にしたような、ちょっと高めの声で言う。 その話もまた、掲示板に貼られていた話の一つで。怪談話というよりは、都市伝説になるのではないかと阿部は思っていた。 霊感があると自負していた少年Tは、周りから嘘つき呼ばわりをされてしまう。その少年が本当に見えていたのかどうなのか、それは分からないけれども、幽霊を見せてみろと言われて見せられるものでもない。霊感があっても、霊現象を起こせるはずはないのだから。 そして少年はいじめっ子らに殺意を抱いた。それを呪いだと、そう介錯しながら殺して回った少年は狂っていたに違いない。 その証拠のように、残虐な殺し方は体の一部分を切り取るという猟奇的なもので。いじめグループのリーダー格だった少年は、両目がくり抜かれていたという。 犯人が分かっているのにもかかわらず、少年は未だに掴まっていない。 だから、今でもどこかを放浪してはいじめっ子に似ている少年達や、霊感を信じない人間を呪いと称して殺しているという。そんな話。 「ニュースで報道でもされてりゃ、怖いんだけどな」 阿部が言うのに、花井が確かにと頷く。 「曖昧な部分が多いとどうしても、疑っちゃうよなぁ」 「でも、あったら良いなって思っちゃう俺」 怖いもの見たさでね。 はしゃぐ水谷を、阿部が辛辣な口調で邪魔だと罵る。 もはや阿部のそういった水谷への態度は、反射的なもので言われる水谷本人もまるで気にしなくなってきている。それが阿部にとっては気にくわないから、結局それはループのように毎度繰り返されることとなっているのだ。花井が、やれやれとため息を吐く。 「水谷ぐらい適当なやつだったら、その霊感云々のやつも殺人なんてせずに済んだんだろうなぁ」 「むしろ、殺そうとしても返り討ちに遭う」 阿部が花井の言葉を受けて、ケケケと意地悪く笑いながら言う。 「阿部なんかいじめっ子だから、この話通りだったらまず絶対殺されるんだ」 「ハッ、いるもんなら会ってみてぇよ。だいたい何年前の事件で、そいつは今何歳だよ?まだ少年かよ?んなもん、あるわけねーんだよばぁか!」 忌々しげな阿部の言葉に覆い被さるように、わぁ、と教室の後ろがざわめいた。 焦げ臭い匂いに、何かミスをやらかしたということはすぐに察して知ることが出来る。 教師が慌てて駆け寄っていくのを水谷は面白そうに見て、後を追う。 そうなればもう、水谷の頭に阿部の暴言などは残っていない。 缶から炎がチロチロと覗いている。水谷はそれを見て興奮しながらすっげーすっげー、と騒いではしゃぐ。 その騒ぎの中でも、黙々と実験を続ける生徒たちがいて、阿部や花井を含めた彼らは慌て怒る教師と騒ぎ立てる生徒らを尻目に時間通りに片づけを始め、その日はなんだか良く分からないうちに授業が終わってしまった。 「理科室、使用禁止とかにされそう」 黒縁眼鏡を外してケースに仕舞いながら、花井はそう言ってまだ騒ぎ声を上げている一派を横目で見やった。 「かもな」 「なんだよ、素っ気ないなぁ」 「別に、俺実験なんてなくても良いもん。座って聞いてるだけのが、よっぽど楽だし」 「眠くなるじゃん」 「なるけど。他のこと考える」 「って?」 「野球」 簡潔な阿部の答えに、花井はあーと間延びした曖昧な返事だけを返して納得した。 「火、消えた」 花井の言葉と焦げ臭さに流しの方を見ると、教師が顔を真っ赤にして事の発端の生徒らを叱りっている。その横で余韻のように黒い煙がかすかに上がっている。 なんだか随分と久しぶりに煙なんて見たな、と阿部は思った。 もちろん、煙草の煙なんかは別として、最近ではたき火なんてものも見なくなったから、ちょっとしたことで煙を見ることなんて日常の中じゃそうそうなくなっていた。 花井にそれを言うと、そういえばそうだなぁと少し懐かしそうに返してきた。 「昔はさ、ちょっとした時間に焼き芋とかしたりしたよな」 「収穫期終わったころに、畑行ってな。小さい芋何個も取ってきたり」 「したした」 調子よく頷いてから、阿部ってそういうタイプじゃないと思ってたなんて言われる。そういうタイプってどういうタイプだよと聞き返して、「つまり芋をさ、泥棒するってことじゃん?」と声を潜めて言う。 確かに昔は、畑に忍び込んで芋を持って帰るまでに、随分と緊張した記憶があった。もっとも忍ぶもなにも、見晴らしの良い畑に真っ昼間に入ってたのだから、人目につかなかったわけがないに違いない。 「そりゃ、真面目に突き詰めて考えたら私有地なんだし色々犯罪なんだろうけど。本当に悪ければ、近所に住んでしょっちゅう散歩ばっかしてた爺が怒鳴ってくれてた。それがなかったから、あー悪いことだけどやって良いことなんだ、みたいな考えがあったかな」 阿部はちょっと顎を上げて、昔を思い返すような仕草を見せる。そのついでに、ちらりと花井のレポート用紙を覗き見て自分のと見比べた。 「いたね。そういう人。しかも、微妙に話し戻るけど、そういう人ってやたらと怖い話とか知ってたりして」 「知ってる怖い話って、結構小さい時そういう風に人から聞いたものばっかりだよな」 花井も厭うことなく、阿部にレポートを見せて見比べる。 良し、と独り言を言うと花井は阿部のレポートを何も言わずに自分のものとまとめてトンと一回机の上で叩いて端をそろえる。 「あ、ちょっと待て」 教卓にレポートを持っていこうとする花井を止めて、阿部は水谷の白紙のままのレポート用紙に手早く書き込む。 「優しいじゃん。珍しい」 「気まぐれだけどさ」 照れた様子もなく、さらりと流して言うと阿部は花井にそのレポートを手渡した。 記入されていたのは実験結果の箇所のみで、『銅が銀になった』とだけミミズののたうち回ったような汚い字で書かれていた。 「水谷の字に似てるだろ」 似てない、とは言えなかった。嫌がらせかよ、とも言えなかった。 触らぬ神に何とやら。花井は、曖昧に笑ってそそくさとレポート用紙をまとめて提出した。 水谷が満足した表情で戻ってきた時に、阿部は胡散臭いぐらいに爽やかに笑って「レポート書いて出しといたから。花井が」と言う。 「おー、さんきゅー!」 嬉しがる水谷に、違うんだ、とは花井は言えなかった。 |
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理科室での一件は、マッチを捨てる空き缶にエタノールを入れて悪戯したことが原因らしい。 水谷が未だ興奮して話すのを、阿部と花井はどうでも良さそうに聞き流していたが、しかし「なんか先生、理科室もう使わせないって怒ってた」という言葉にだけ、やっぱりかと顔を見合わせて反応する。 「あいつらって馬鹿ばっかやって楽しいから、俺大好き」 水谷が不意に言いだしたあいつらとは、当然今回の事件の発端を担ったグループのことだ。 普段から水谷は、彼らとも交流があってなかなか楽しそうに付き合っている。もしも、同じ野球部同士じゃなかったら、こうして一緒に移動するなんてことはもちろんまともな会話だってしなかっただろうと阿部は思っている。 けれども、実際には彼らの前では軽くて適当なことを一緒にやっていても、朝練と放課後にしっかりと真面目に練習をして、口には出さないけれども甲子園だって真面目に目指している(に違いない)。 根本的に性質が違う。 見かけほど軽くもなければ、不真面目でもない。 そんなことを思うんだから、実は自分は結構水谷のことが嫌いじゃないのかなと思えてくる。 横目で水谷を見やるとぱちりと目が合う。 へらりとゆるく笑われて、それが特に意味のない笑みだとは分かっていても、阿部は自分がつい今まで考えていたことを思い返して恥ずかしいやら苛立つやらでたまらなくなってきた。 「調子に乗るなよ」 八つ当たりでぶつけた言葉に、水谷が思いきり不可解な表情を浮かべて首を傾げた。 当然自分に向けられたものだろうと思っていた阿部は、しかし隣の花井も同様に怪訝な顔つきで、阿部を飛び越えて窓の外を見ているのに気が付く。 振り向いて見ると、人気のない陰鬱な雰囲気すらある焼却炉が置かれている一角に座り込んでいる男の姿があった。 「なにあれ。すっごい、あやしー」 胡散臭げに言う水谷に、花井がちょっと危ない感じだよなと同意を示す。 遠目に見ても、その男は時々不安定に身を捩ってみたり腰を浮かせてみたりと落ち着きがない。そして、明らかに辺りを窺っている様子は、良く聞く万引き犯などにある特徴だ。 阿部がそう言うと、水谷が意を得たと言わんばかりに指を鳴らして喜ぶ。 「それだそれ!ん?ってことは、やっぱりあれって不審人物?」 「しかも、危険人物の可能性大」 「そこまで決めつけちゃうってのも、ちょと失礼じゃね?」 「花井だって、危ないって言ってたくせに」 何を今更良い子ちゃんやってるんだよ。水谷に茶化して言われて、そんなつもりじゃねぇよとムキになる花井を阿部は馬鹿だなと内心で笑った。 相手にしなけりゃ良いのに、と思っているのと普段の阿部の水谷に対する態度には矛盾があるのだがそのことには本人が気が付いていない。 その矛盾も、阿部が口に出して言ったことではないので誰も指摘してはこない。 ふふん、ともう一度今度は鼻で笑った。 それに目ざとく花井が気づいて、何だよと多少不機嫌に言ってくる。 「別に」 「あっ。あっやしい、やばいよ!」 水谷が怒鳴るようにして言うのに、阿部は心底カチンと来てやっぱり俺はこいつのことが嫌いだ大嫌いだムカツク、と奥歯を噛みしめながら苛立った。 しかし水谷は、勘良く違うってばと慌てたように言って窓の外を指した。 「放火だっ」 何のことを言っているのか、阿部にはすぐに理解が出来なかった。 まずは、話の前後関係を組み立て直してそれでようやく「不審人物」のことを指しているのだと気づいた。その時にはもう、水谷が上履きのままなのも気にせず窓から外に飛び出していた。 「水谷ぃっ!」 花井が叫んだ。 窓の外、男を阿部は凝視した。 右手に持っているのはライターだとすぐに分かった。 スタンダートな形状のそれは、阿部に喫煙の趣向が無く馴染みがないものでも見慣れてはいるから遠目にも判断が付いた。 あとの片手に持たれている、小さな四角い缶。 缶ジュースのものとは明らかに形状が違うということは、分かる。ただ、それが何なのかということを把握するよりも先に、雰囲気がライターとその組み合わせが不穏なものだということを教えてくれる。 「あれ、マジで放火するつもりだよ」 「マジかよ」 愚鈍な受け答えだと、阿部は思った、 花井はそんなことはまるで気に掛けずに、「だってあれ、オイルだ」と呆然と呟くように言う。 その言葉に、コンビニの棚の隅に並んでいるジッポ用の詰め替えオイルの缶が脳裏に思い浮かぶ。 そうかあれか。 納得しても、別にそれがどうというわけではない。むしろ、状況が明らかに悪いということだけが分かっただけだ。 「んだよ、なんであいつそんなヤツに突進してってんだよっ!」 苛立つ阿部に、花井が珍しくも辛辣に「知らねぇよ!」と言い放つ。 おそらくは無意識の花井の態度を、阿部もまた気が付かずにいる。 二人の様子に周りも気が付き始めて、野次馬が集まり始めていた。興味半分にのぞき込んでくる生徒たちが窓から身を乗り出そうとするのを阿部が押しのけるようにして、一気に窓の外に飛び出した。 不穏な空気に生徒達がざわめく。 一人、取り残されたようになってしまった花井は、呆気にとられたような表情で外にいる水谷と阿部を交互に見た。 だからカッターナイフを片手に水谷に襲いかかる男の姿を、花井はその目でしっかりと確認することとなった。 きゃぁと、女子生徒が悲鳴を上げた。恐怖のあまり泣きだす子さえいた。 花井は恐怖というよりは、緊張していた。その緊張故にツンと目の奥が痛み始めて涙が出てくる。 水谷、と叫んだその声に乗っかるようにして、阿部の怒鳴り声が響いた。 「水谷っ。手は出すな!野球出来なくなるからな!」 「分かってるけど。・・・っ、こいつ、ぜってーおかしいよ!」 焦点の定まっていない目つきで、ブツブツと陰険な声で呟きながら水谷にカッターナイフを振り下ろそうとする。 見るからに痩せっぽっちな男と水谷では、どう見ても水谷の方が体力的に勝っているはずだ。これが、素手同士であったらとっくに決着はついていただろう。 しかし、刃物を持った異常な男に、本人でも気づかない深層的な部分で恐怖を感じているのかもしれない。水谷は、なかなか上手く体を動かすことが出来ずに、何とか突っぱねた腕で男の攻撃から逃れているといった感じだ。 「あっ!」 よろけた水谷が、地面に尻餅を付いてまるきり無防備になってしまった。 多分男は、その状況が自分に有利だとかそういったことは一切理解せずに、ただがむしゃらにナイフを振り回していたのだろう。 水谷が表情を歪ませて痛いと、やけにはっきりとした口調で叫んだ。 白いワイシャツは、脇の辺りがさぁと血の色に染まっていく。 悲鳴が幾重に重なり、泣き声との騒然とした不協和音を生み出す。男子生徒ですら、水谷が切りかかられたことを目の当たりにして泣き出しそうだ。 呆然ともはや構えることすらもしないで男を見上げる水谷の前に、庇うようにして阿部という乱入者が入ってきたことにも気づかない様子で振り回されるナイフ。 阿部の腕を刃先が掠る。その瞬間、眉を顰めてあぁと嘆くように息を吐き出した。 「三橋に泣かれたら、お前のせいだからな」 全く最悪だ。 不機嫌に呟く阿部は、無事だった方の腕で思い切り水谷の腕を引っ張った。 さすがに体全体が持ち上がる、というようなことにはならなかったが、振りかざされる刃先からは逃れることが出来た。 「に、逃げても追っかけてくるよね?」 「馬鹿。そんでも逃げるんだよ。俺は自分が死ぬつもりもないし、お前に死なれても困る」 「それ、」 中途半端に言葉が途切れる。 二人の間に、刃先が振り下ろされたのだ。 慌てて立ち上がり二手に走り出す。 騒ぎを聞きつけた教師が三人、ようやく駆け込んで来ると一気に男に突進するようにして地面に押しつけるように転ばせた。 大丈夫か、と教師の一人が阿部と水谷に声を掛ける。 「あ、大丈夫っす」 ワイシャツを血に染めて、そんなはずもないのに反射的に答えて阿部はのっそりと立ち上がった。 「こ、怖かった・・」 水谷は、緊張感のない口調で呟くと、駆け寄ってくる花井を見つけて至極安心したような表情を浮かべる。 そんな水谷に、花井は眉をつり上げて「馬鹿!」と怒鳴った。 |
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保健室に、ほぼ強制的に連れてこられた阿部と水谷は、さすがに冷静になって見た自分の傷を「大したことない」と突っぱねることは出来ずに大人しく手当を受けていた。 花井が二人の横で、しかめ面をしてやれ水谷は後先を考えないだの、阿部は相手を煽りすぎだのと小言を言っている。 うるさいなぁと阿部が言うのと、水谷がごめんと謝るタイミングが重なる。 花井は、一瞬呆気にとられたような顔をしてから、もう一息置いてあーぁとため息を漏らした。 「でも、ごめん」 明瞭に言う花井の言葉に、二人は顔を見合わせて、えぇ?と水谷が甲高い声で疑問を表した。 保健室のドアの外に、担任の教師が顔を覗かせて養護教員を呼ぶ。ちょっと待っていなさいと、三人に静かに言いつけて行ってしまうのを見計らって花井が、本当は、と若干低くした声で続けた。 「俺、怖くて何も出来なかったからさ。偉そうに小言言える立場じゃないの、分かってるんだ」 「そんなの、当たり前だよ」 水谷が場に似合わない明るい声で言う。 「俺だって怖かったんだから。ただ、花井が言うみたいに、俺本当に後先考えないからさ。だからちょっと後悔してた。そしたら、阿部が助けに来てくれてびっくりしたよ。俺、阿部には嫌われてるんじゃないかって思ってたから」 あっはっは、と笑い飛ばして言うけれども、本当はその時の水谷の腕が小さく小刻みに震えていることに花井は気が付いていた。阿部も、それに気づいて、敢えて気づかないふりをして、「てめぇこのやろう」と凄んでみせた。 「お前の為のわけねぇだろ。お前が野球出来なくなっちゃったら、試合出来なくなるだろうちの部」 「あぁ、さっきも言ってたものね。あの状況で、この野郎とか思ったけど」 「三橋が泣くからな」 ふて腐れた表情で阿部が言う。 「でも、俺だってお前のこと嫌いだと思ってた」 「思ってた?過去形?過去形じゃない?」 はしゃいで言う水谷を、花井が大人しくしてろと諫める。 しかし、花井もそう言いながら笑いを堪えた表情を浮かべている。 「お前ら・・・」 「だって、阿部は水谷のことそんなに好きじゃねぇかなって、俺も思ってたから」 声が震えているのは、笑いたいのを必死で堪えているせいだ。これが感動の涙を堪えているのだとしたら、ちょっとしたいい話になったろうに、そうならないのが七組のトリオらしいところなのかもしれない。 養護教員が戻ってきて「楽しそうねぇ」と、阿部に片手で首を絞められている水谷を見ながら笑った。 「今日はもう授業はなくなったから。あなた達はみんな、これから警察に行って簡単な事情聴取を受けることになるってさ」 「あの、俺ら罪とかにはなんないですよね?」 不安そうに問う水谷を、養護教員がそれは大丈夫だと優しい口調で答えてくれる。 「あの場にいた先生方も一緒に行くから。疲れてるだろうし、そんなに時間は取らせないって警察も言ってたわよ。相手の身元も明らかになってるしね」 「そうなんですか?」 「そうなのよ、花井くん」 嘆くように呟いて、彼女は当事者だから教えておくわねと言った後で他には不用意に話さないようにと三人に約束させた。 というのも、あの変質者かと思っていた男はこの学校の三年生で、軽いいじめの対象になっていた生徒だったらしい。霊感があるのだと嘯いていたことが切欠で、クラスの一部の男子生徒たちから集中的ないじめ(とはいっても、暴力的なものではないらしい)をうけていた。 「それって、なんか聞いたことあるんだけど」 水谷の言葉に、阿部と花井も同意した。 「あれ、ほら掲示板の」 「霊感少年T」 花井、阿部と交互に言うと、養護教員があら知ってるの?と意外そうに言って、あの話もいじめグループがからかいの種にでっち上げで書いたものなのだという。 「だから実際に、あそこに書かれた方法で殺してしまいたいと思ったんだって。でも怖くて出来なくて、でも気持ちは抑えようがなくて、だから放火でもしてやろうと思ったらあなたたちが来たって、そう言ってるらしいわ」 「そんな思考だから、いじめられんだよ」 辛辣に言い放つ阿部を、養護教員は少し咎めるような顔つきで見てからけれども仕方がないとでも言うかのように深いため息を吐いた。 「中に溜め込んじゃうばっかりの子も、いるのよ」 「分かってますけど。だけど、それは甘えだ」 「阿部」 「だって、これでもし学校の管理責任がどうとかこうとかマスコミに言われるようになって、学校全体の風当たりがきつくなってさ、試合に出られなくなったらどうするんだよ?腹いせに放火でもしてやろうかなんて、そんな馬鹿馬鹿しい理由で行動したヤツのせいで野球出来なくなったらどうすんだよ」 「だけどねぇ、阿部くん」 「俺は、絶対に勝たせてやりたいヤツがいるんです。そいつも結構暗くてイライラするやつなんだけど、すごい努力家で。だから、勝ってそいつに自信を持たせてやりたいんです」 教員の言葉を遮って勢い込んで言う阿部を、花井と水谷は曖昧な笑みを浮かべつつ顔を見合わせて相変わらずだなぁと、やけにのんびりした気分になった。 なんというか、めまぐるしい非常識の中で、こうして相変わらず自己主義三橋主義の阿部の言動を見ていると、ようやく日常に戻れたのかなと安心すらして出来てしまうのだ。 「先生、阿部のこと怒らないでやってください。こいつは、これで真剣なんです」 「怒らないよ」 言って、立ち上がる。 「まだここにいてね。今、一回職員室行って先生達呼んでくるから。そうしたら、一緒に連れて行ってもらうからね」 はぁいと、胡散臭いぐらいによい子の返事をする水谷と花井。阿部だけは、若干ふて腐れた風に小さく呟く程度に返事をした。 それでもよろしいと、満足げに頷いて養護教員は出て行った。 再び三人だけになった保健室で、水谷がぽつりと呟く。 「やっぱ、一番怖いのって人間かも」 「うん」 花井が神妙な顔つきで頷いた。 「幽霊だって、もとは人間なんだもん。突き詰めれば、結局俺らが怖がってるのは人間なんだよね」 花井は長身を折り曲げるようにして屈めて、椅子に座りながら言った。 椅子がきしんだ音を出して、数秒の間が三人の間に広がる。 「俺さぁ」 阿部が、ぽつりと不明瞭な発音で言う。視線は、包帯の巻かれた腕に落ちている。 「いつも、水谷に死ねとか言ってたけど。死ぬなんてこと、そんなに楽しそうでもねぇなって今日思った。簡単に口に出して良いことじゃないって思った」 「でも、阿部が本気で言ってるんじゃないってことぐらい、俺分かってたよ」 むしろそうじゃなかったら哀しいけど。 からりと笑って言う水谷に、阿部が少しだけ呆れた表情を見せる。それから、しかめ面になる。 「だけど、もう言わない。言ったら、今日のあの三年となんも変わらない人間になる気がしてヤだから」 「なんないんじゃないのかなぁ。だって、俺らには野球っていう生き甲斐があるじゃないの!なんて、クサイけどねっていうか青春っぽいけどね!」 水谷は自分で言ったそばから照れて、茶化した風にして自身の発言を笑い飛ばした。少し明るい雰囲気になったことにつられて、花井が「田島ならここで、甲子園絶対行こうな、だよ」と続ける。 「や、行くけどな。甲子園」 真顔の阿部に、花井が苦笑して水谷は大げさに身震いしてみせる。 「青春しちゃう阿部ってのが、一番怖いかもぉ」 そう言った水谷と、同意した花井。 それぞれに、阿部の上履きが片方ずつ投げつけられた。 |