小さな虫達が視界を横切る。 図鑑には載っていないその虫達を、見てよと幼い頃に母に言ったことがある。 あれはなんて名前なの?と聞いた。 母は虫なんて見えないわよ、と笑っていた。最初は母の小さな戯れで見えないふりをしているのだろうと思っていたが、何度も繰り返し虫のことを告げ続けるうちに母は笑わなくなってしまった。 ある夜父がひっそりとした声で、嘘はいけないことだと諭すように言ってきた。 すぐに虫達のことを言っているのだろうとピンと来て、嘘など吐いていないのに信じてもらえなかったことが悲しくて泣いた。しかし父はそれを贖罪の涙と思ったらしく、分かったのなら良いんだよと見当違いの慰めの言葉をかけてきた。 両親には見えなかった虫は、小学生になってからますます良く目にするようになったがクラスメイトも教師もまるで見えていないように振る舞っていたので、自ら虫のことを口にすることはなかった。 ただ一度、教室中に息をすれば入り込んできてしまいそうな程の虫が充満していた時、気分が悪いのかと覗き込んできた隣の席の女の子に聞いてみたことがあった。彼女は首を傾げて、嫌いな虫がいたの?と辺りを見回した。 その彼女の喉には小さな虫がびっしりとこびりついていたというのに、まるで気が付いた様子がない。それからは本当に、虫のことを人に話すことはなくなった。 中学に上がってから、虫が人の体の一部にまとわりついている時は、その部分が病んでいるのだと気付いた。インフルエンザの時期になれば、教室中が虫で溢れかえるし、骨折をしているクラスメイトがいれば患部が真っ黒になるほどの虫が付いていた。 それを払い落としてやると、怪我は1日で治り、風邪程度であればその場で回復した。試したことはないが、癌やエイズですら治ってしまうのだとしたら自分は医者として大成功を収めることが出来るのではないかと考えて、真剣に進路をそこに向けようと思ったこともある。 しかし、動機があまりにも不純過ぎた。医大や国家資格に受かる程勉強することは嫌だったので、結局家族や友人の些細な風邪や怪我をこっそり治してやるぐらいしかしていない。特に、年の離れた弟の悠一郎はとにかく落ち着きがなく、探検だと林を駆け回り田んぼの泥に足を突っ込むそのたびにどこかしら怪我をした。 どうせ大した労力でもないから、毎回虫を払ってやっていたけれどその頻度の多さのせいで悠一郎は自分が治癒能力に長けているのだと勘違いしてしまったのだ。 これは危ない。そう思ったのは、癖になってしまうかもしれないと言われた肩の歪みを治してやった時に悠一郎の言った一言だった。 俺は運が良いし怪我も病気もゲンミツに治るから大丈夫なんだぜ。どうだスゴいだろう、なんて中学生にしては子供っぽい威張り方だった。 治る怪我でもしないに越したことはないという注意力が、完全に欠落してしまったらしい。高校に上がってからも落ち着きのなさは収まらなかった。野球をしてるんだったら、怪我に気を付けることも選手の務めなんじゃないかと諫めたこともあったけれど、悠一郎はでも治るんだもんと聞く耳を持たない。 教訓を兼ねて治さずにほったらかしてやろうかと思ったこともあったが、野球が出来ないと塞ぎ込む様子を見たらつい治してしまった。 所詮、兄バカなのだ。 さて、そんな弟が相変わらず小さな怪我を繰り返し作りながら、ここ2日程とてつもなく落ち込んでいる。 怪我をした様子はないし、部活にも行っているのにどうしたのかと思っていると訳を知りたがっていることに勘づいたのか、三橋が野球が出来なくなっちゃうかもしれないんだ、と低い声で言ってきた。 「みはし?三橋って野球部の三橋か?」 「そうだよ三橋って言ったら三橋しかいないだろ」 「知らねぇよそんなお前ルール。それで、何で三橋が野球出来なくなるんだよ」 「怪我したんだ。ピッチングマシーンの球が暴投して、それって俺が球入れしてた時で、三橋の右目に当たってあいつ眼下骨折しちゃったんだ」 俺のせいみたいなもんじゃん。悠一郎は呟いた。 低くこもった声はあまりにも弟らしくない。同情と憐憫の気持ちがわき起こる。 多分自分が虫を払ってやれば、三橋の眼下骨折とやらも治るのだろう。 実は兄ちゃん怪我や病気を治せるんだ、なんて言ったとして空気が読めないやつだと思われるだけなのだろうけど、実際にやってみせたらそこには完治した三橋と言う事実だけが明白にあるはずだ。 「三橋を連れて来いよ。俺、治せるぞ」 「兄ちゃんさ、俺バカだけど今のが質悪い嘘ってことぐらい分かるよ」 「うん言われるだろうなって、予想はしてた。けど、マジなんだって。なぁ、お前の怪我も風邪もすぐ治ってただろ?」 「兄ちゃんが治したって言うのかよ」 「そうだよ」 悠一郎の目つきが暗くなった。 睨まれるのであれば、まだ覚悟は出来ていた。しかし無表情に、じっと床を見る目は、焦点が合っているのかも分からない。 虫が一匹、二匹と湧いて出る。黒い塊のようになった虫達はぞろりぞろりと悠一郎の腕を這い上がり、首筋から頭全てを覆ってしまう。 「医者でもないのに治せるなんて、そんなこと信じない。信じないけど、万が一本当だとしたら俺は、絶対に、三橋を連れては来ない」 「お前、ずっと罪悪感抱えてくつもりかよ?嘘だと思ってても良いよ。良いから、連れて来てみろって」 やだよ。 悠一郎は単調に言った。 「俺のせいなんだ。だから責任取って一生そばにいてやらなくちゃいけないんだ。三橋はきっとそのことに罪悪感を覚えるだろうけど、それで良いんだ。それが良いんだ」 何言ってんだよ、と肩を掴む。頭を両手で掴む。虫は俺が触れてさり気なく払った部分から散っていくが、すぐにまた群れで這い上がってきてしまう。 「落ち込んでただろ?良くないだろそれって。俺、兄としてお前が一生罪悪感に苛まれるなんて嫌だよ」 兄ちゃん。ゲラリ、と喉を震わせて悠一郎は笑った。 「俺が落ち込んでたのは、三橋と野球が出来なくなっちゃうからでさ。この状況にじゃぁないよ」 虫が這いずり廻る。いつの間にか上半身までも埋め尽くし、尚も虫はゾゾゾと動き増える。 「嬉しいよ。三橋と一生いる口実が出来たことが。だから、兄ちゃんの言うことが本当だったら困るから、連れては来ないよ」 悠一郎は虫に覆われて黒い大きな塊へと変貌していく。 必死になって払おうと、何度も何度も悠一郎の体のあちこちを叩くように払った。 「兄ちゃん、なんか気の狂った人みたいだよ」 気味悪ぃ。 笑い声に黒い塊の上部がぽっかりと丸い赤を見せた。 濡れた赤が舌だと分かったのは、笑い声に合わせてその赤がうごめいたからだった。 狂ってるのはお前だよと言うと、「狂ってたって、これからの俺の人生バラ色だ」そう怒鳴るように言ってまた赤をうごめかせて笑った。 俺は、弟をこんな風にしてしまった「三橋」を心底憎く思った。 しかしそれと同時に、野球にばかり夢中でそれを抜きにしては他人に関心を持つことなど無かったといっても過言ではない悠一郎が野球抜きにでも一緒にいたいと思う相手がどれほどのものかと興味が湧いた。 ぞろりと、虫が耳たぶの後ろから這って出てくるのを感じた。 |