九月。
暦の上ではどうであれ、気温はまだ三十度を示すし湿気もまとわりつく。
人と同じ空間にいることすら嫌になるっていうのに、
君とだけだったらべたべたくっついて一日を過ごしても嫌じゃないんじゃないかなぁ・・なんて。

滲みると思ったら猫の爪痕。

飲みに行かないかという泉の電話での誘いに、俺はまたかと眉をしかめて返した。九月も後半、そろそろ夕方には涼しい風の吹き始める時期になっていた。
だからどうだという訳ではなくて、未だ長い夏休みをバイト以外に特別な予定を入れずにだらだらと過ごしている俺は、正直なところとても暇ではある。だから、泉の誘いもバイトじゃない日にしてもらえさえすれば、なんの問題もなく乗ることが出来る。
それでも、俺は渋った。
その雰囲気は受話器越しに泉にも伝わってしまったのか(そもそも隠すつもりもなかったけれど)、嫌そうに言うなよとからかうような口調で言われた。

「嫌ってんじゃないんだけど」
「嫌なんだろ」
「えー・・・まぁ、ぶっちゃけ」

最近外出るのとか面倒なんだよねー、と軽い口調で言ったがそれはその場しのぎにもならなかった。
クツクツと喉で笑うような声が聞こえて、「三橋のこと話されるのが嫌なんだろ?」と図星を突いたことを言われてしまう。前回の飲み会で、泉は三橋を連れてくると言っていたけれども、結果的には泉一人だけが来た。酒の席は苦手だし、古い付き合いで積もる話しもあるだろうから的なことを言われたらしい。
別に積もる話しなんてないよなぁ、と泉がそれを笑っていたので、俺もないないまるでないと返した。
では、結局泉の言う「三橋」が俺の知っている「ミハシ」だったのかというと、それはもう確定だった。
泉が高校時代の写真を持ってきて見せてくれたので、間違いない。
それから散々、俺の知らない三橋のことを話されて(名前の漢字だってこのとき始めて知った)何も自分のことを話さない三橋をなんとなく本当の猫のようにバックグラウンドのない人間だと思っていたので、普通に家族もいて友人もいるという事実に少しがっかりして、それから何でも知っている風に話す泉に嫉妬した。嫉妬して、だけどそれを悟られることが嫌でガバガバと缶ビールを呷って、結果潰れた。最悪だ。
そういうことだから、出来れば泉とは飲みたくはない。腰を据えて話す機会も、あまり作りたくはない。

「別に、泉のことが嫌とかではないんだけれどね」
「分かってるよ。単に、お気に入りの三橋のこと話されるのが嫌なんだろ?っていうか、最近三橋はそっち行ってる?」
「先月は三日ぐらいいたけど」

卓上カレンダーを見て、もう九月かぁと続ける。
そろそろだとは思うんだけど、と付け足したのはささやかな見栄だ。
泉はそんなことにはまるで頓着した感じもなく、そっかと短く答える。

「なんかあった?」
「いや、なんもないけど。あったらこんなぼんやりしてらんないよ。三橋、すごいマイナス思考だから、冗談じゃなくて自殺とかしかねない奴だから」
「でも、なんかあったんじゃないかなって心配はしてる」
「・・・最近、うちの方にも来ないからさ」

ぼそりと低く言われたので、声がとても近く、耳に吐息が掛かるのではないかという気分にさえなった。
愛の囁きみたい、と冗談を言おうとしたけれど、泉の声は普段にはない硬質なものだったのでちょっと考えてから止めることにした。
なんとなくちょっと可愛いんじゃないの?なんて思った。元々は後輩の泉は、それなのに最近ちっとも後輩らしくなくて俺が虐げられていると感じることばかりだった。それが、こうして他人に心を砕いている様子を目の当たりにすると、ふとまだ先輩と呼ばれていたころを思い出して懐かしさがこみ上げてくる。
なんて、余裕で俺がいるのも決して三橋のことを気にしていないからではない。

「心配しなくても、他のところとかに行ってる可能性もあるんじゃないの?」

と、俺は思ったのだ。
どうも放浪癖があるらしいと教えてくれたのはそもそも泉なのだし、実際に三橋は猫のようにふらりといなくなる。ならば、自分たち以外の居場所があったとしても(それはとても嫌だけれども)不思議ではないのではないか。

「携帯は?」
「出ない」
「じゃ、駄目じゃん」
「駄目じゃん、じゃないって。大体、浜田は三橋のこと心配じゃないの?」
「心配だよ。でも、心配してない」
「なにそれ」

呆れた、というよりは冷たい響きのある声だった。

「だからさ、心配なんてしようと思えばいくらでも出来るよ。でも、三橋は放浪癖あるんだろ?だったら、他の場所にいるってことだって十分に考えられることじゃない?俺は、その可能性の方が高いと思ってるだけだよ」
「・・・その他の場所ってのがあるとして。そこが危ない場所だったら?」
「場所っていうか人か?例えば、ホモだとか?」

自分で言ったことに派手に笑い声を上げる。っていうか、それ俺じゃんと笑ったことには、我ながら自嘲に満ちていたが、泉はそれをからかいも貶しもせずに、そうだねと平然と返してきた。
そうだねじゃなくて、と逆に呆れてしまう。

「あのねぇ。泉も、心配してるってわりには、随分と落ち着いてるように思えるけど?こういうのはさ、お前不謹慎だぞとかなんとか怒鳴ってさ」
「冗談ならそうだけど。お前が本気なら、そんなことはしないよ」
「俺、そんなこと言ったっけ?」

わざときょとんとしてやった。
実際に、口に出して言った覚えはなかった。気に入っているとは言ったが、まさかそんな、三橋のことを好きなんだよ、だなんて。男なのに男が好きなんだよ、だなんて、そんなこと軽々しく公言出来る程図太くもない。
だから、俺は泉の言葉にまるで見当が付かないというような演技でもって対応した。
泉が、馬鹿だなぁと電話口の向こうで吐息を漏らすように言った。

「お前って嘘は吐けないよ。そりゃホモがどうとか、そんな冗談は一度ぐらい誰でもあるだろうけれどさ。浜田の場合って、もしも自分が本当にその人間のこと気に入ってて、それがただの友情とかだったら絶対にそういう方向に話を持っていかないよ。純粋に気に入ってるから、それが周りから見たらどれだけ過剰だとしたって、お前はだって気に入ってるんだもん好きなんだもんって、ケロッと言うだろうよ」
「そうかなぁ。買い被りすぎじゃない?」
「そうだとしたら、やっぱりさっきのは質の悪い冗談ってことになるけど?」

それで良いのかと、泉は聞いてくる。
それはちょっと意地の悪い質問なんじゃないかなぁ、と俺は苦笑した。したって、顔が見えないのだから泉はただ俺が押し黙っているだけだと思っただろう。
だから俺は、もしかしたらねと、曖昧な返事をした。

「たまにしか会ってないんだよ。三橋が色々進んで自分のこと話してくれるわけでもないし。まぁ、好きだよ。そのうちそういう意味で好きになるかもしれない。でも、今はどうかなぁ」

曖昧だ。言い訳じみている。
自身で痛々しいと思いながらも、ここで素直に自分の気持ちを打ち明ける気分にはなれなかった。
情けないもので、確かに俺は嘘が下手だから泉の飄々とした態度の裏には、全部分かっているんだぞという思惑がありそうで怖かった。
早めに電話を切り上げる為に、何か上手い言い訳はないかと考えあぐねていたら不意に物音がした。

「あ」
「何?」
「三橋、だ」

俺は、立ち上がって二歩、その場から動いた。

「うん、三橋だ。な、泉。心配することないんだって、三橋、うちにいるからね」

早口で言う。
泉が、たまには俺のとこにも来いよって言っておいてよと言うのに、最近はあまり泉のところへは行っていないということを思い出して優越感を覚えた。





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