猫が鳴いた。
朝練の為に赴いたグラウンドには珍しくまだ誰もいなかった。朝靄に霞む景色は陰鬱であると同時に、気温の涼しさから爽やかにも思えるもので、その矛盾を自覚しながらも、それが心地良い。
詩集好きの女のように、気持ち良いなぁなんてことを思って更に気分が良くなる。
太陽はまだ上がりきっておらず、グラウンド端のフェンスには朝顔がツタを絡ませながら紫の花を咲かせている。
一人でなければ感じることのない情緒は紛い物に違いないのだが、やはりそう悪くはない。こんな中なら映画のように気取った朝食を食べるのだって悪くないと思った時、不意にカシャンと軽い音がして振り向いた。音に対してではなく、誰かが来たということへの反応だ。しかし顔を確認するよりも先に顔面に生暖かく湿ったものが押し付けられた。
まずそれが何か判断するよりも先に、口の中に柔らかい毛が入り込んだことに顔を背けて唾を吐き出した。
猫だよ猫。
田島がゲラゲラと笑いながら両手で持ち上げた猫を、再び顔面に押し付ける勢いで近づけてくる。口の中に残る毛を舌を出して指で摘みながら、空いている方の手で払うように拒否を示す。
田島は冷たいなぁとやはり笑いながら言う。
それに賛同するようにタイミング良く猫は鳴いた。媚びたような鳴き声は高い。
改めて見ると小さな体に幼さの残る面構えだった。野良猫を見ることは珍しくないが、子猫となるといつ見たのか思い出せない程に珍しくつい口の中に残る不快感も忘れてまじまじと眺めた。
可愛いだろ、と田島は人よりも丸い眼孔の中のやはり丸い眼球をくるりと動かしてこちらを見てくる。何故だか得意気に口角を上げていた。
それを見て可愛くないと言えばそれは嘘になる。
正直なところ猫が好きなわけではないが、そんな自分のような人間ですらつい目尻を下げてしまう魅力が子猫にはあった。
だからと言って素直に可愛いと言うことは、しないのだけれど。まだ舌にへばり付いている細い毛を、ペッと唾ごと吐き出す。

「どっから連れて来たんだよ」
「うち」

実に簡潔に田島は答えた。
普段からうるさい印象のある田島が、実はそう口数が多いわけではないと言うことに気付いている人間はどれだけいるだろうか。声とリアクションの大きさに錯覚を起こしてしまうだけで、田島は決してお喋りタイプではないのだ。
脈絡なく中身の無い話を良くすることも事実だから、たまに自分でも田島の認識を改めてようと思うことがあるが、ふとした時に淡白な言葉を口にするからやはり自分の中での田島は人が思うよりも素っ気なくて落ち着いている。
多分、興味の範囲が極端に狭いのだと思う。
興味がなければ切り捨てるような態度を取るのは、あまりにも子供じみたことだ。
それでも人当たりは悪くないから、立場は保てる。

「お前得だよな」
「何が?猫飼ってることが?」
「違う」

否定の言葉に、にゃぁと猫が非難するかのように鳴いた。
一瞬、瞳が細く収縮する。
そういうところが猫は気に入らないのだ。

「猫はどうでも良いよ」

言ってみて、我ながら素っ気ないなと思った。泉はクールだからとかなんとか、苦笑いで言われるであろう自分の評価を容易く想像することが出来る。
そこに嫌悪の念は無いにせよ、人当たり良くもないとされてしまうに決まっている。田島なら、本当にお前は自由だなぁなんて笑われるんだろう。
なんという対極。

「へーんな泉。勝手に不機嫌になっちゃって、そーゆうとこ猫みたいだ」
「だから猫はどうでも良いって」
「ヒユだろ」

こいつの話はしてないよ。
田島は言いながら猫を抱き直す。小さな頭が田島の肩に、丁度顎を乗せるような形になる。濡れた鼻頭を頬に擦り付ける猫に嫌がることもなく、むしろ当たり前のことのようにその仕草を気にかけすらしていない。
自分なら舌打ちの一つでもして、濡れた箇所を丁寧に拭うだろう。

(全く持って逆だ。真逆。野球部って共通点なけりゃ話なんてしなかったな)

根本から田島を否定してみるくせに、羨ましくも思う。自分のやりたいようにして、人間付き合いは良好、好きなことは得手。
にゃぁにゃぁにゃぁ。
不意に訴えるかのように猫が連続して鳴き声を上げた。
なんだよー腹減った?抱っこ疲れたか?それはまさに猫なで声だった。
普段の喉が絡まったような、いかにも体育会系男子の声からは一変した声はぼんやり柔らかい。田島らしくないが、それは本人を知ってる上での感想だ。
優しげな声はそれはそれで妙に甲高いわけでも芝居めいてもおらず、あたかも普段からその調子で話しているかのように自然だった。

「お前動物好き?」
「ウチにいっぱいいるからね」
「好きだろ」
「うんだから、ウチにいるしね」

猫の喉をさすってやる田島に、猫は従順な態度でごろにゃぁと甘える。

「練習始まる前に置いて来いよ。あぁ猫はそこらに放しても大丈夫か」
「まだちっちゃいから、それは無理」
「じゃ、」
「後で三橋に見せるんだ」

悪戯を企む子供のように歯を剥いて笑って、早く来ないかなぁとフェンスの向こうに目を向ける。
待ち遠しくてたまらないと言わんばかりの田島は、今日が普段と何も変わらない休日の一つに過ぎないとは思っていなさそうなことが気に入らなかった。自分のテンションは低くも高くもなく、タカヤでもなく(つまらない冗談だ。ちっとも面白くない)三橋は動物あんまり得意じゃないだろ、と指摘する声も平坦だ。
田島の眼球が回る。
実はそうでもないんだよ、と笑った。

「苦手だけど慣れたいんだよ三橋は」
「三橋が言った?」
「言ってた」

田島があやすと、猫の喉が鳴る。
うっとりと目を閉じて田島の指先を堪能する猫は、しかしこちらが手を出すと牙を剥く。
慌てて手を引っ込めたけれど白い線が一本、手の甲に走った。じわりと赤く腫れ上がって、それはあっという間にみみず腫れになったが、田島はごめんの一言も無しに嫌われたねと可笑しそうに言う。

「別に、俺は良いんだけどさ。三橋にもこんな調子だとヤバイんじゃないの?落ち込むよあいつ」
「そしたら泉がなぐさめてやれば良いだろ」
「は?何拗ねちゃってんのお前」

だってさ、と田島は頬を膨らませるという幼い感情表現をした。

「どうせ何かあった時に逃げ込むのは泉の方にだもん」
「何だそれ。本気で拗ねてるのかよ」

別に拗ねてなんかないよ、と言う口調は剣呑としていて自らの言葉を裏付けることが出来ていない。

「お前は得だよね。ものすごく優しいってわけでもないのに、三橋に懐かれて頼られてさ」

みみず腫れに細く刺すような痛みを覚える。盛り上がった皮膚はケロイド跡のようにも見えて気持ちが悪いが、田島の劣等感に満ちあふれた言葉に比べればマシだと思えた。
聞き慣れない田島の愚痴めいた言葉の羅列は、あまりにも似つかわしくない。何か裏でもあるんじゃないかと勘ぐってしまうが、それは考えすぎなのだと分かったのは「泉が同じクラスじゃなけりゃ良かったのに」という言葉を聞いたからだ。

「泉も浜田もいるからダメなんだよ。俺だけだったら良かったのになぁ」
「何を馬鹿なこと言ってんだよ。俺は、お前の方こそ得だなと思うんだけどね」

それは本心だ。
けれど口角は上がって、頬は弛緩していく。田島はこの表情に気づいて、唇を尖らせるとチョッ軽く下を打ち鳴らして不快を表した。
猫がそれを遊ぶ合図とでも思ったのか、どこか嬉しそうに前足で田島の肩を三度、じゃれつくように叩く。

「うるさいなぁ」

田島はじゃれつく猫を鬱陶しげに睨んだ。
あ、こいつも人の子なんだ、なんて当たり前のことなのだけれどそんなことを思った。
思って、顔が緩むのなんのってもう!

最高の優越感。
(猫がいつの間にか田島の腕をすり抜けて地面をよたよたと歩いていた)(いいさ好きなだけ遊んでいけば良いよ。お前のおかげで田島の弱い部分を垣間見ることが出来たしね)(何考えてるのか分からない怪物みたいな部分があるように感じてたけど、そんなのナイナイ。あるわけがない)(こいつの精神面の弱さと稚拙さと言ったら笑えて仕方がないぐらいだ)(相変わらず緩む頬。猫は気まぐれに俺の足にすり寄ってくる)(口からはみ出てる半透明の茶色いそれは、羽だ。昆虫の羽。見事なまでの弱肉強食。とてもグロテスクだけど)(人間同士の感情だって、そうとうグロいよホント)




新作のホラー映画もびっくりのグロさだよね。



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