C ityの境界線、先は 土 の中
さてここはどこだろうか。 瞬きをして目を開いたその瞬間、目の前にあったのは見知らぬ風景だった。 何の変哲もない街の風景は、人が行き交い車や機械の喧噪がこだまする、典型的な都会の風景だ。 ここが日本だということだけは分かるがそれ以外のことは何一つ分からぬままとりあえず道の真ん中にいることに気づいて、邪魔にならぬよう端へと避ける。丁度段差のようになっている部分に腰掛けて、落ち着くために顔を伏せて視界を遮断する。 一体自分が何故この場所にいるのかを思い出そうと記憶を辿ってみるが、辿る以前の問題で昨日何をしたか朝何時に起きてどうしてこの服を選んだか、何一つ思い出せることはなかった。 そしてふと思えば、自分が何者なのかも分からない。 それに気づいた瞬間、見開いた目から僅かに涙が滲んだ。悲しいとか怖いということではなく、驚いたことによる反射だった。それから少しずつ心臓の鼓動が大きくなり体温が上がり、首筋が汗ばむ。今目を瞑れば、気絶してしまうに違いない。 自分が男だということはかろうじて分かったのだが、僕なのか俺なのか、そんなことすら分からなかった。 何か手がかりになるものはないかとポケットを探ってみると、薄い財布と携帯が出てきた。財布は革の二つ折りで特に柄もないシンプルなものだった。 携帯も、塗装の剥げ具合から新しくないことは分かるが、やはりシンプルでどちらもなかなか好ましいものだ。 最も自分の持ち物なのだから、好みの物を持っているということは当たり前のことだ。記憶が無くなれば趣向やしゃべり方とか、そういったものが一切変わってしまうというわけでもなさそうである。 加えて、携帯を開いて迷うことなく自分のプロフィールを見つけられたので、一般的な知識も失われてはいないようだった。 プロフィールには花井梓という、華々しい名前と自宅、携帯の電話番号とメールアドレスが記載されていた。 なるほど自分は花井梓か、と口の中で声を出さずに呼んでみるが馴染みはまるでない。他人事のように、この名前でからかわれて嫌な思いをしたことが小さな時にありそうだなと思っただけだった。 合成音のカッコウの鳴き声が不意に耳に入ってきた。近くの信号が青に変わったのだ。 顔を上げて周りを見回してみる。やはり、見覚えはない。しかしそれは自分だけで、他の人間は皆目的があってここに来て、この道を歩いているのだ。 自分の手元には携帯と財布だけ。ここにある番号にかければすぐにでも身元も何もかも分かる。路頭に迷うほど、せっぱ詰まった状況ではない。 それなのに、不意に不安に押しつぶされそうになってしまった。 確かに手元にあるのは花井梓の自宅の番号ではあるが、今の自分にとっては他人の家も同然だ。 通話ボタンを押しかけていた指を止める。もう少し気持ちを落ち着けてからにしようと、それは逃げ以外の何でもなかったがそう思うことでしか不安を押さえつけることは出来そうになかった。 情けない程に緊張して、ポケットに入れずに持っていた財布を落としてしまって、これもまた情けないほどに慌ててそれを拾おうと屈む。 二つ折りの財布はあっけなく開けて、中身をばらりと通行人に晒していた。 会員証のようなカードが数枚と小銭。レシートをため込む人間ではないらしく、散らばってしまったにしてもそう恥ずかしい内容ではなかった。 そこに、小さなティッシュの包みが混じっているのを見つける。田舎のおばあちゃんが飴を包んでいそうな、安っぽい印象しかないその包みはだからこそ開けることに何の躊躇もなかった。 ティッシュの表面はけば立っていない。多分まだ新しいのだ。 手応えは無いに等しく、中央にわずかにふくらみが確認できる程度だった。 掌に乗せて風に吹き飛ばされぬように指で囲いを作り、ゆっくりと慎重に開けていく。 薄い茶色の束。光に反射して所々が白く光るその光沢の加減は、絵筆の毛のように見えた。実際に触れば指先に何本がかへばりつき、その感覚はまさに絵筆の毛先そのものだった。 お守りだろうか。 思いつく変わったお守りといえば、兎の足ぐらいだがこれもそういった類のものだろうか。いや、ひょっとしたらおまじないかもしれない。名前が名前だけにとても女々しい趣味を持った男で、恋のおまじないなんてものにはまりこんでいるのかもしれない。 指先についたそれを親指で挿んで転がしながら、ぼんやりと可能性を考えてみるが正しい答えなどが分かるはずもないのだ。 ただ不精者とは思えぬ整頓された財布の中身にあまりにも不似合いな包みは、自分にとってとても意味とか価値のあるものかもしれない。 多分誰にも理解はされないのだけれど、自分にはとても大切なものだったのだ。そう思うと、訳の分からない毛束に愛おしさすら感じられてきて、そっと元通りに包み直して財布にしまい込むのも開ける時以上に慎重になった。 そしてその作業は自分を落ち着かせることにも役だった。 本当にお守りなのかもしれない、と驚きと安心感に包まれて財布にしまった包みに視線を落とす。 まだ何一つ解決していない状況で、思いもがけず訪れた安堵感だった。 だから不意に震えて着信を告げる携帯電話に驚くこともなく、おそらくは普段と変わらぬようにディスプレイに表示されている名前を確認して迷うことなく電話に出た。 泉孝介。 聞き覚えも見覚えもない。 聞こえてきた高めの柔らかい、それでいてどこか棘を感じさせる声にも聞き覚えはない。 早口で泉孝介は「見つかった?」と主語もなしに聞いてくる。何がだか誰がだか、全く検討も付かずに言い淀むと惚けてる場合じゃねぇよ、と辛辣な口振りでたたみ掛けるように言われてしまう。 「ミハシの行きそうなところなんて、この辺かじゃなきゃ群馬しか思い浮かばないし。でも、群馬はないよなぁ」 上擦る声に、心底心配している様子が伺える。 「花井さ、ホントに居場所知んないの?最近割と仲良かっただろ、お前ら。阿部が嫉妬するってのは別にあいつが過剰なだけだから良いんだ。だけど、俺とか田島とかまでちょっとムッてしたんだ。やっぱ、仲良かったよな?なぁ、知らないの?」 責められた。 そしてそれには懇願の色も混じっていた。 「知らないよ」 そう、答える。 知らないったら知らないのだ。 第一、今は自分が僕なのか俺なのか、そんなことすらも分からないのだからミハシだなんてヤツのことを知るわけもない。 知るわけもないけれど、あの茶色の毛。 「あのさ、ミハシは薄い髪の色してるよなぁ?」 「は?なに、見つけたの?」 「ううん、探そうと思ってみたら髪の色がミハシは薄いんだなってふと思ったんだ。それだけ」 あっそう、と素っ気ない返事のあと電話はあっけなく切れた。 財布の中にしまった包みを思う。 あれがミハシの髪の毛であるという可能性を考えるのはどうだろうか。 どうやら自分とミハシは周りが嫉妬する程に仲の良い関係だったようだ。それだけ嫉妬をされるということは、ミハシを好ましいと思う人間が多数いたということだ。そして自分もミハシを特別な存在として想っていたとすれば、独り占めをしたくなってどこかにかくしてしまったのかもしれない。 誰にも教えるつもりはないのだろう。 少しの油断で露見することも恐れて、自分もその場所へは二度と行かないつもりなのかもしれない。 その為に記憶すら失ってしまったのだとしたら、そいつはちょっとしたロマンだなと思う。 有り得ない話だけど、あり得たら本当にちょっと格好いい。 |