夢見がちな日々





コンクリートの階段を登る。
晴れているのにどこか湿って見えるコンクリートは、大した数のない段を上がることを億劫にさせる。それを意識してしまうと、登っている自分の足取りは年寄りのようにおぼつかなく不格好なものなのではないかと思ってしまうのだが、辺りには人影はなく仮にそうだとしても構うものかとダンと大きな足音を立てて階段を登り切った。
はぁ、と漏れた息が重い。
こんなことで息が切れることに、自分の運動不足さを思い知らされるがもちろん肩で息をするほどのことでもない。目的の部屋は階段を上がってすぐのところにあった。
緑色の塗料の施された扉は、塗り立てのころはさぞ鮮やかな発色をしていただろうと思わせるのに、目の前にある扉はところどころ塗料がはがれてしまっていてただ鉄の重苦しさを古くささを感じさせるだけのものになっている。
それに浸食されてしまったかのように、「三橋」の表札が黄ばんでいるのが余計に安っぽさを演出している。
チャイムを押すと、コンと短い音だけが一つした。
ほどなくして聞こえた軽い足音、それときしむ蝶番。そう安いアパートでもないだろうに、その耳障りな金属音が全てを台無しにしてしまっているように思えた。
片手で扉を開けて出てきたのは若い女だった。

「どちらさまですか?」

確認もせずに出てきたのなら、かなり不用心だなと思う。
小首を傾げて自分の知り合いかどうかを思い出そうとしている、その仕草までもが隙だらけだった。

「どうも」

俺は軽く会釈をした。女はそれにつられるように小さな頭を下げながら上目遣いにこちらの様子を窺っている。
俺はもう一度会釈をしながら、梅原ですと名乗った。

「うめはらさん」
「えぇと、俺、元西浦高生徒で」
「あぁ」

女の表情が明るくなった。しかしすぐに、いぶかしげな表情に変わったので、俺は何故だか怪しい者ではありませんと言うような気持ちで「三橋に会いにきたんだけど」と告げた。
西浦高校野球部エースであった三橋とは彼の幼なじみで自分の友人である浜田を通じて話す機会があり、高校生活も後半に入った頃にはわりと良く話すようになっていた。仲が良かったかと聞かれれば、まぁ普通だよと曖昧な返事しか出来ない程度ではあるが、それでも高校を卒業してからも時々連絡を取ることはあったし、浜田からの情報も入ってくる。
今回、俺がここを訪ねたのも浜田から三橋が病気で倒れたらしいと聞いたからである。
しかし出てきたのは若い女。表札をもう一度確認して見ると、そこにはやはり「三橋」の名前が表記されていた。

「三橋、倒れたって聞いて、見舞いっていうか」
「あぁ、そっか。三橋くん喜びます」

軽やかに身を扉側に避けてどうぞと、中へ促される。
おじゃましますと玄関へ入ると、花の香りが鼻腔に広がった。見ると、靴箱の上にドライフラワーが詰め込まれた、いわゆるポプリとでも言うのだろうか、そういった可愛らしい袋が置かれていていかにも女の子らしい雰囲気を感じさせていた。 そういうことには無頓着そうな三橋らしくはないその気遣いは、しかしこのいかにも穏やかそうな女にはぴったりだと思った。

「えーっとあの、いきなりで不躾なんですけど、あの、三橋の彼女ですか?」
「あ、はい」

にこやかで、とても可愛らしい。
なるほど彼女であれば、三橋と付き合っていても丁度良い関係が築けるのかもしれないと二人が並んでいる姿を想像してみる。
二人ともふわふわとした癖毛(もっとも女の方はパーマをあてているのかもしれないけれど)で、三橋の方が少し先がぱさついている。男としては細身の体も、彼女と並ぶとなかなかに男らしく精悍に見えるかもしれない。
そして二人が笑い合っていたりすれば、まさに幸せなカップルそのものだろう。きっと彼女は三橋の口下手な部分も微笑んで容認してやれているに違いない。
そんなことを考えている間に不躾に女を観察してしまっていたようで、我に返るとちょっと眉を顰めた顔があった。

「あ、すいません」
「いえ。私、何か?」
「いやいや、可愛くて三橋とお似合いだなと思って」

うっかり口説いているような口調になってしまってますます怪訝な顔をされるのではと思ったが、女はありがとうございますとくすぐったそうに笑った。
本当に、可愛い。
顔の造作がとてつもなく整っているとか芸能人の誰に似ているとか、そういった感じではまるでないのだがぱっちりとした瞳とほどほどに高い鼻と人より大きな口が丁度良いバランスで顔を作っていて、安心する顔立ちなのだ。
口調がおっとりとしているのに発音は明瞭なところも、好感が持てる。
その口調で女は「三橋くんの部屋、ここです」と廊下の突き当たり左の部屋の前で立ち止まった。
ぴったり閉められた木製のドアは、来る者を拒絶しているかのように思えて俺は一瞬逡巡して女を見た。

「入って良いの?」
「お見舞いなんですよね?三橋くんも喜ぶと思いますよ」
「いや、でも」

言葉を濁す。
浜田から聞いた話によれば、三橋は拒食症なのだ。
もちろん、見舞うつもりがあったから訪ねてきたわけなのだが、部屋の前に立ったことで全身を湿り気のある空気に包まれて毛穴という毛穴をふさがれてしまったような、妙に息苦しい居心地の悪さを覚えた。
実際にそういった人間を見たことはないが、メディアから得た情報での患者はとても悲惨な見目になってしまっているらしいし、そんな姿を昔を知る人間、ましてやものすごく仲が良いわけでもない自分に見られることは嫌なのではないだろうかと不意に思ったのだ。
しばらく黙り込んでいると、女は聡く俺の思考を見抜いたのかやけに明るい声で「それなら、まずお茶でもどうですか?」と勧めてくれた。
正直長居をするつもりはなかったのだが、すぐに思い切れる気もせずにいた俺にとっては願ってもない申し出に、返事一つで素直に甘えることにする。

「お茶って言っても、ティーバッグなんですけれど」

そう冗談のように言って笑いながら三橋の部屋の向かいに位置するリビングに通されると、そこも玄関と同じ花の香りがほのかに香っていた。
白い壁紙に合わせたように、家具や調度品も白を基調としたものが多く見られるその部屋は、とても落ち着いた空間に感じられた。
促されるままに小さいソファに腰掛けると、すぐに目の前のテーブルにマグカップになみなみと注がれた紅茶を出される。おなじみの紅茶の香りと湯気が、強張った体を緩くしてくれてようやくまともな息継ぎが出来た気がした。

「いっぱい注いじゃってますけど、別に憎茶とかじゃありませんから。今日はまだ寒いし、いっぱいの方が暖かいかなって」
「あ、うん、そういうの全然知らない人間なんで。むしろ、自分でもこのぐらいたっぷりの方が好きだし」

お得な感じがするでしょ、と言うとアハハと軽やかに笑われた。
そのまま雑談に入ろうとすればいくらでも出来たことかもしれなかったが、俺はどうしても三橋のことが気になってしまっていたのでまだ笑みを含ませた表情でいる女にところでと三橋の話題を振った。

「人づてに聞いたんで気を悪くしたら悪いんだけど、三橋は拒食症で倒れたって聞いたんだけど」
「人づてって言うと、」
「浜田って、知ってる?」
「三橋くんの幼なじみですね」

今でも時々メール交換してるみたいです、と弾んだ声で言う。その声に違和感を覚えてしまったのは、三橋の病状の悲惨さとはかけ離れた明るい声だったからかもしれない。
健気に明るく振る舞っているのだとしたら、自分の出した話題はとても無神経なものだ。見舞いに来ているのだから三橋の病状を気にするのは別にそれ程不躾なことではないと思いつつも、今ひとつ踏み込んでは聞きづらい。
そんな調子なのでつい、二人はいつから付き合っているの、などという話題にすり替えてしまった。
女は大学に入るちょっと前からです、とその話題の転換を気にした様子もなく答えてくれた。

「最初私が好きで告白して、付き合えるようになってすごく嬉しかったんですよ。大学に入って三橋くんが一人暮らし始めたから、良くご飯作りに来ました。三橋くん、いっぱい食べてくれるから私も嬉しくてどんどん料理覚えたりして」
「だよなぁ。実際何度か見たことあるけど、良く食べてた」

あれ結局拒食症に話が戻るのかなと、少し身構えたが依然女は朗らかな表情だ。

「いっぱい食べてくれるから、ついいっぱい作りすぎることばっかりになっちゃって。だけど三橋くんは、全部食べてくれるんですよ。いつも、優しいから、全部食べてくれるんですよ。本当はもうお腹いっぱいで、吐いちゃうぐらいなのに」

女はうっとりと視線を斜め上に向けてはにかんだ。
マグカップを両手で包むようにして持っていたので手のひらが汗ばんできていたが、女の表情に明らかにそれとは違う嫌な汗が滲むのが分かった。

「三橋、吐いてたの?」
「吐いてました。ごめんねって謝りながら、吐いてました」

私嬉しくって。
女は確かにそう言った。

「普通はいくら彼女の為って言っても、吐くまで食べないですよね?でも、三橋くんは食べてくれたんです。だから私、作りました。そのたびに三橋くんは吐いて、吐いて、さすがに心配になってきてもう吐かないでって私お願いしたんです。そうしたら、今度は食べられなくなりました」
「ねぇちょっと、あんた、言ってることの意味分かってる?」

冗談なら笑えないよと言った俺の顔はひきつっていただろう。しかし女は相変わらず朗らかな笑みを浮かべたままで、分かっていますよと平然と答えた。

「食べられなくなってからは、三橋くんどんどんやせていってついに倒れちゃったんです。それからは私毎日ここに通ってるんですけど、実はかなり幸せなんです。好きな人の看病をしてるのが自分だけって、特別な感じがするじゃないですか。本当は三橋くんがここにいるのって誰も知らないはずなんですよ、入院してるって言ってあるから。なのに浜田さんにメールしちゃってたんですね三橋くん。ウメハラさんも来ちゃったし、もうみんなに知られちゃいますね。やだなぁそれ、すごくやだなぁ。みんな私のことおかしいって言うに決まってますもん、ただ三橋くんを独り占めしたいだけなのに。看病だってちゃんとしてるんですよ?最近はちょっと食べられるようにもなったんですよ?悪いことしてるわけじゃないのに、みんなはきっと私と三橋くんを引き離すんでしょ?いやだなぁ、ウメハラさん絶対みんなに言うでしょ?困るなぁ、このまま帰られたら困るなぁ」

笑っている。
とても可愛らしい笑みだ。
いつの間にか手に握られている包丁ですら、雑貨品に見えてしまうぐらいに完璧な笑みだった。しかし、それは俺に向けられている凶器であるという事実も、俺はきちんと把握できていた。
マグカップが床に落ちて紅茶が一面に広がる。女の持つ包丁の切っ先が、あと数センチにまで迫っている。
パッパラーパラパラ、パッパパララン。
コンバットマーチだ。頭の中でコンバットマーチが鳴り響いている。
甲子園に行って応援したときのことを走馬燈として思い出したのだろうか。いや、そういえばあいつらは甲子園に行けたんだっけ?とどうにも上手く思い出せない。
思い出せないというよりも、真っ白だ。
コンバットマーチは鳴りやまない。まだ刺された痛みはないのに視界が暗く染まっていく。女の姿がかき消えて、一瞬の暗闇の後ですぐにまぶたの向こうが白くなった。
目を開けると、枕元の携帯が朝を告げて鳴り響いていた。アラーム音はコンバットマーチに設定してある。
ようするに、夢だったのだ。










その日の放課後、浜田が野球部に顔を出すというのに何となく梶山も連れ立って三人で一緒に行くことになった。
今朝見た後味の悪い夢は、誰かに話して笑い話にしてしまいたかったのだが、あまりにも酷すぎる内容に引かれてしまいそうで言えずじまいのままだ。
しかし、三橋のことなどは本当に浜田の幼なじみで野球部のエースという認識しか持っていないのにどうして夢になど出てきたのだろうかと不思議で仕方がない。
第一あの女は、一体誰なのか。
付き合っていた彼女ではない。今までのクラスメイトでもない。
それなのに、今でもはっきりと思い出せる程に女の顔は明確に夢の中に現れていた。
不思議だ不思議だと重いながらぼんやり歩いていると、不意に浜田が立ち止まって「お疲れっ」と歯切れの良い声で挨拶をした。
反応が遅れた俺は肩口を浜田にぶつけてからようやく足を止めた。

「お疲れ様です」

返ってきた声は、今朝さんざん聞いたあの穏やかで朗らかな声だった。
顔を上げる。
そこにあったのは、やはりあの女だ。
両腕に洗濯済みのタオルや救急箱などをたくさんに詰めた大きなカゴを引っかけて、さらに手にもビニル袋を持っている。
どこから見ても立派なマネージャーだ。
浜田がカゴを一つ持ってやったので、必然的に並んで歩くことになる。俺と梶山も何も持たずいいるわけにはいかないので、それぞれ俺がもう一つのカゴを、梶山がビニル袋を持ってやることになった。

「どうもありがとうございます」

まさに夢の中で見たあの笑顔だった。しかし、実際にはあんなことが起こりうるはずもなく、俺は非常に申し訳ない気持ちになって顔を直視出来ないままに別にとぶっきらぼうに答えることで精一杯になっていた。
グラウンドに入り、荷物をベンチの上へ並べて置くと女は梶山の降ろしたビニル袋から大ぶりの紙袋を取り出す。
それを持って小走りで休憩中で捕手の阿部となにやら打ち合わせをしている様子の三橋のところにまで行くと、はいとその袋を差し出す。

「調理実習でいっぱいクッキー作ったからあげるね」

俺らの分はぁ?と間延びした抗議をしたのは茶髪の、レフトの、確か水谷だったと思う。
三橋くん体重落ちちゃったからいっぱい食べないといけないんだって。だから今日は三橋くんだけ特別なんだよ。
媚びた口調ではなく、三橋の体重云々についても周知のことなのだろう。
水谷も本気で言ったわけではないようで、次は頼むよと軽く言ってすぐに引き下がった。
大袈裟に感激してみせる三橋が一枚口に運んでおいしいと、たどたどしく言う。
女は笑いながら「本当?それじゃぁ、また作ってこようかな」と媚びた口調ではなく、どちらかと言えばさばけた調子で言って笑う。

「なんだよお前ずっと見てさ。もしかして篠岡さんのこと好きなの?」

浜田の言葉と梶山のからかう視線に、俺は大きく頭を振った。
正夢になるわけがない。なるわけがないのに、夢だと割り切れずにとても不安で仕方がない。
別に三橋のことなどほとんど知りもしないし、会話だってまともに続けられる自信はない。それなのに、これからはちょくちょく気に掛けていかないといけないなと思うその気持ちが「俺が守ってやらなくちゃ」という独りよがりの感情の上にあることに気づいた瞬間、朝から続いていた気分の悪さと感情の混乱が頂点に達したのか激しい吐き気を覚えた。









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