るビー玉


  風呂上がり。鏡が湯気で曇っているのを、泉は掌を車のワイパーのように滑らせて拭いた。火照った体からはまだ湯気が出ている。しとどに濡れた髪をタオルで拭きながら、その隙間から除く自分の目を鏡越しにじっと見つめる。
見慣れているはずの自分の顔は、目を中心に見ることでまるで見知らぬ人間のもののように見えてくる。もちろんそれは錯覚で、実際我に返って改めてみればそれは自分の顔以外の何者でもない。
パチリ。
瞬きをして、まぶたが上がる瞬間にかすかにする水音に眼球には水分が不可欠なのだなと思った。
常に潤って光る眼球は、しかし完璧ではない、と泉は思う。
白目の部分に放射線状に赤く血管が浮き出ているのが気に入らないのだ。
さっき目を擦ったからだと分かってはいても、真っ白ではないことが気に入らなくて透き通った焦げ茶の虹彩は綺麗でも満足出来ない。
じっと、瞬きをせずにいるとツンと冷たい空気が眼球に直に当たる感覚を覚えて、それからすぐに痒みに似た耐え難い痛みが眼球全体を襲った。
乾燥から保護しようとしてか、涙があふれてくるがそれでも泉は我慢をして目を開き続けていた。
次第に目が充血してきて、うっすらとではあるが全体が赤く染まる。
それでも、瞬きはしない。
痛い、熱い、と泉は思う。
目元にはれぼったい熱を感じて、涙がついにぼろりと眼球からこぼれ落ちた。
その衝撃は微々たるものであったが、痛みに耐えていた泉には大層なものに感じられてぼろり、ぼろり、と涙を流す為のように瞬きを繰り返してしまう。
痛い、痛い、泉は思う。冷たい、冷たい、と頬を流れる涙が空気に冷えていくのを感じた。
涙は頬から顎を伝って、鎖骨の辺りに落ちた。
まだうっすらと濡れている体に落ちた涙は、水と同化して馴染んでしまったのですぐに見分けが付かなくなってしまった。
あぁ、とため息を一つ。
あーあ、と長いため息を続けて一つ。
鏡の中の顔は、半眼で弛緩しきったような表情をしていた。
その表情の中、本来ならば瑞々しさに光っているはずの眼球がまるで光を帯びていないことを心底嫌だと思って泉はきつく目を閉じた。
蛍光灯の白い光がまぶたを突き抜けてくる以外には、何も見えなくなった視界の中であぁと再びため息を吐いた。見えないはずの視界、真っ暗な中に漫画の擬音文字のように「あぁ」という太字が浮かんだ気がした。
泉は、チームメイトの三橋のことが好きだった。いや、今でも好きだ。
最初は友情で、それから母性愛が芽生えた。
その時点で自分が三橋に対して過保護過ぎるのだと疑問に思うべきだったのかもしれないなと気づいた時には、泉は三橋に対して疑いようのない恋愛感情を抱いていた。
まるで中学生の初恋のように、何気なく体の一部が触れるとドキリとしてしまう。そのとき同時に感じるもう一つの感覚は、背筋を粟立たせる、ようするに欲情という感情。
抑えきれなくなることを恐れながら、しかし離れることも出来ずに泉はずっと保護者的なスタンスを守り続けてきていた。
それは自分でも見事と褒め称えることが出来るほどに完璧な擬態で、自分の中に「保護者」という念を置いて三橋に接していればどれだけ異常な構い方をしたとしても誰にも怪しまれることはなかった。
しかしそれは、三橋と二人きりになった途端にいとも簡単に崩れてしまったのだ。
たまたまそのときは田島がいなくて、たまたま二人で連れ立ってトイレへ行った。するとたまたま帰りがけに通りかかった担任に、暇だと決めつけられて授業で使うプリントをコピーするように頼まれた。
それだけのたまたまが重なって、印刷室には泉と三橋の二人だけという状況が出来上がった。
手際の悪い三橋の手つきは既に苛立つものではなく愛らしいと思える状態にあった泉にとって、二人きりという状況は非常にマズいものだったのだ。
唐突に口にした、好きだ、という告白を、三橋は最初は訳が分からず見つめ返してくるだけだった。
つまり男が女を、女が男を好きなように三橋のことが好きだよ。
そう言うとようやく理解出来たようで、慌てふためき逃げるように後ずさりながら涙目になってしまっていた。そんな姿ですら可愛いとしか思えず、逃げられそうになっていることには苛立ちもしなかった。
三橋、と名前を呼んで近づいた時、怯える三橋の目と自分の目が合った。それはほんの一瞬のことであったのに、とても印象に残った。
白目部分には血管の一本だって浮き出てはおらず、薄い色の虹彩ですらはっきりと良く栄えていた。それが、涙で潤みきらきらと光るのだ。
泣かせるようなこと言ってごめん、だけどこれが俺の本心なんだ。ただ言ってしまいたかっただけなんだ。
そう言って三橋を宥めたが、後半部分はただの強がりだった。
本当は、気持ちを伝えたからにはそれなりの答えが欲しかったし、何より三橋とは両想いになりたいと強く願っていた。しかし、無理強いをさせて嫌われてしまえば、それは何よりも耐え難いことだからと自分の理性をフル動員させて必死にその言葉を口にしたのだ。
三橋は、何も言わずに口を愚鈍に閉じたり開いたりを繰り返しているだけだった。
悪意じゃないってことだけ分かってくれたら良いんだ、と言ったそれも強がりだ。
三橋は結局泣き止むことも、答えをくれることもなかった。
良いさ別に、内心で強がってみせて泉は気にするなよと笑ってみせた。
目を細めて、ようやく、ぎこちなくではあるけれども笑った三橋の顔を思い出す。
涙が眼球を覆うように溢れていた。
細められたせいで白目部分は隠れ、茶色の虹彩が目立つ。
あの目。
泉は、閉じていたまぶたを開き、もう一度鏡を真っ正面から見据えた。
きっと自分が三橋の中で一番好きなのはあの目なのだ、と思う。
きらきらと光る、まるでプラスチックのボールのような目はとても綺麗だった。
だから欲しいな、と単純に願った。
すぐに血管の浮き出る神経質そうな自分の眼球の代わりに三橋のものを入れたら、どんなに素晴らしいだろうかと考える。
三橋の目を通して世界を見る。
鏡を覗けば、三橋の目を通した自分の姿が映る。その鏡の中、自分の目にあるのは綺麗なまぁるい三橋の目だ。
あぁ、欲しいな。
流れる涙ですら、三橋の目を通してだというのならごめんなさいと断られた時に涙を流すことになったとしても耐えられるから、と泉はうっとりとして自分の目は見ないようにとまぶたを閉じた。







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