目頭がツン。
鼻の奥もツン。
涙がにじむ。
鼻水も出る。
大丈夫?と笑ってティッシュを差し出された。
うん大丈夫。
あ、あなた僕が泣いてると思いましたか?
違うの違うの、わさびが辛かっただけ。
(表現て紙一重だよね)




真夜中水面には誰の顔が

昼休み。
水谷と泉は、トイレで偶然出くわした。
泉は明らかに嫌そうな表情をし、水谷は奇遇ねぇとしなを作って茶化す。それに泉がますます拒絶を示した。
それでも用を足さないわけにはいかず、嫌がる泉を水谷が半ば強引に押し切って並んで用を足し終えた。ちくしょ、と吐き捨てるように泉が呟いた。水谷はそれを聞いているのかいないのか、まるで意に介した様子を見せることもなく、そういえばさとゆったりとした口調で切り出した。
なんだよ、泉は不機嫌に眉を顰めた。
言いだしたくせに水谷は、泉の言葉のあとううんと一瞬考え込むようなふりをしたあげくに、逡巡までしてそれからようやく覚悟を決めたと言わんばかりに深呼吸をした。

「三橋のことが」

意気込んで言う水谷を、泉が、あ、と短く声を発して制した。

「言わないで良いよ」
「え」
「言わないで良いよ」

訳の分からない顔でただ泉を眺めるだけの水谷に、泉は同じ言葉をもう一度、つまり三度続けて繰り返した。

「なんで?」
「言わないで欲しいから」

水谷の問いに大して変わりのないことを言って、泉はケラリと笑った。それでいて、どこか剣呑だ。
笑っているのに、だ。
おかしい、と水谷は首を傾げた。
泉の機嫌が悪くなるということは、そんなに珍しいことではない。むしろ、しょっちゅうそんな調子で何かと水谷は怒鳴られたり、冷たい視線を向けられたりしているから、今回の泉の態度だってただ不機嫌になってくれていれば別段気にもしなかっただろう。
それなのに、泉は笑っているのだ。
笑っているのに、機嫌が悪そうなのだ。
なんて恐ろしい。
水谷は大げさに芝居のかかった口調でこっそり心の中で言った。

「悪いね」
「え?」

心中のつもりが口に出していたのかと慌てたが、続く言葉に水谷の早とちりだと分かった。

「言葉、遮って」
「聞きたくないんでしょ?」
「うん。聞きたくない」
「なら、仕方がないんじゃない?」
「お前って、軽いな」

泉は、少し苛立ったように言って水谷の方を拳で押した。
わ、汚い。泉、手、洗ってないでしょ。
非難めいた口調で言った水谷は、お前もだろと返されて確かにと素直に頷いてはにかんだ。

「お前が照れ笑いしたって、ちっとも可愛くないっての」
「じゃ、誰なら可愛いのさ」
「少なくともお前じゃない。阿部でもない、浜田でも田島でもない」
「栄口?」
「似合うだろうけど、俺はそれを可愛いとは評さない」
「じゃ、マネジ」
「そりゃ女の子だから、可愛いんじゃないの?」
他人事だ。
いや、他人なのだけれど。
水谷は、ふふんと鼻で笑って俺知ってるよと人差し指で泉の眉間を突いた。
汚ねぇ、と振り払われた手をさすりながら、さっきの仕返しだよんとおどける。

「割に合わない」
「仕返しとは、リベンジ。何倍にもなって返ってくるというのが、セオリーなのですよ」
「テメェは何様だ」
「阿部様もどきとでも」

あっはっは。
大げさに一人で笑う水谷に、「阿部に言ってやろ」とほくそ笑む。
そこで水谷は慌てるようなことはなかった。阿部を茶化したことが本人の耳に入れば、普段から何かと阿部を苛立たせている水谷のことだ、まず間違いなく阿部の鉄槌の一つや二つは喰らうだろうと泉は思う。
水谷だって、自分が阿部を苛立たせる存在だということにぐらいは気づいている。いくらゆるそうに見えても、そこまで愚鈍ではない。
だからこそ、泉は敢えて阿部の名前を出したのだ。
それが、

「じゃ、俺も言ってやろ」

と平然としているから、泉は気に入らない。

「俺がどうだって阿部に言うんだよ?」
「あぁ、阿部に言うつもりじゃなかったけど。まぁ、それでもいいけど」
「だからなにが」
「泉って、三橋のこと、好きなんでしょ?」

だからそれ、バラそうと思って。
ケタケタと、子供めいた甲高い笑い声を上げて水谷は再度「好きなんでしょ?」と小首を傾げて訪ねてくる。
おねだりをするような態度だが、それはやはりちっとも可愛らしくなどない。
黙り込んで嫌悪感だけを露わに水谷を見ている泉に、水谷はギャハと吹き出すように笑った。

「そんなに嫌わないでよ」

いくら泉のキモチを知ってるからって言ってもさ。
笑う。ゲラゲラ笑う。
笑い方のバリエーションが多いやつだな、とぼんやりと泉は思う。別に、それ以外のことでは何も水谷に対して思うところはなかった。ただ敢えて付け足すのであえば、鬱陶しいなぁといったことぐらいだろうか。

「水谷こそ、好きなんだろ」
「うん、好き。三橋のことも、泉のことも」
「冗談じゃない」
「本気よ?俺はぁ、三橋が好きだから三橋のことを好きな人全員が好きなの」

余裕だな、と憎たらしげに泉が吐き捨てた。
うふふ、と気色悪い程におっとりと水谷が笑ってそうでもないよとやはり余裕のある態度で言う。

「あ、そうそう。さっき言いかけたことね」

泉はもう止めるつもりはなかった。というか、今更三橋がどうだああだと水谷の口から聞こうが聞かまいが大して変わりはないだろうと思ったのだ。
好きにするが良い、と投げやりな態度で先を促す。

「三橋のことが好きだったらごめんって言おうと思ってさ。俺、三橋と付き合うことになったんだ」
「あぁ、そう」

案外冷静だった自分を、客観的に見て少し意外だと驚いた。

「つまり、最初の切り出し方から今までの会話までは、全部お前の冷やかしだったってことだ」
「そ。泉って、冷静だけど真面目に三橋のこと好きっぽかったからさぁ。ケンセイしておかないとやばいかなって思って」
「別に、そんなんされたって三橋はお前と付き合うって自分で決めたんだろ」
「もちろん。無理強いはしてません」
なら仕方がない。
やはり泉はあっさりと言った。
水谷が泉はホントに大人だなぁと、嬉しそうに言ってでも良かった認めてもらえたみたいでと泉の気持ちを茶化すような自身の振るまいをまるで棚に上げて満足げに頷いた。
そんな水谷の言葉に、泉は素っ気なく大人じゃねぇよ高校生だと揚げ足を取る。
ついでに、弛緩しきった水谷の顔面をまだ洗っていない手で掴んでやった。

「わ、汚ねっ」
「こんぐらいはさせとけ」

言いながら、泉は不意に冷静でいられる自分の感情の基に気づいた。
諦めるつもりなんて端から無いなのだ。一生で誰か一人だけとしか付き合ってはいけないなんて、そんな決まりもないのだから、今から奪いにかかれば良いのだとごく自然に思っていたのだ。
どんな手でも使って。

「これより汚い手もあるよねって」

まぁ、そういうことだよね。
一人心地で言った泉に、水谷は不可解な表情で「インドの不浄の手とか?」と見当違いなことを返してきた。









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