「死ね、死んでしまえ」 淡々とした口調で吐き捨てられた。 俺は泣いて言う。 「なんでそんなこと、言われないといけないんだ」 幼い子供のように、泣きわめいて叫んだ。 「自分のしたことを、よく思い返してみれば良いよ」 泣いている俺を、冷たく見て言う。あぁ、なんて、なんて切ない。 俺には思い当たる節がないし、何よりも君にそんなことを言われる真似をするはずがない。 だって、俺は誰よりも君が好きで。だから、君に嫌われるようなことだけは、絶対にしないと心に決めているのだから。 「もう知らない。死んでしまえばいい」 愕然とした。 それこそ、本当に死んでしまいたいと思った。 あまりの清々しさに目も眩む 授業の終業チャイムにたたき起こされた俺は、夢見の悪さを誤魔化す為に大きく伸びをして体をほぐした。 まるまる一時間寝ていたようだ。 ちょっと目を瞑るだけのつもりだったのに、図太くも夢まで見てしまった。 毎日の過酷と言っても過言ではない練習量が、相当堪えているのかなと一人心地にため息を吐きながら黒板を見ると、さっきまでの授業内容がまだ消えずに残っていた。 夏目漱石の「こころ」の一節が書き出されている。 かすかに記憶にあるその授業の内容とは裏腹に、俺の机の上の教科書はヴィクトリア朝のイギリス紳士のような髭の落書きが施された他の著者の紹介ページが開かれていた。 どうして著者近影の写真は髭一つで、こうもひょうきんなものになるのだろうかと、俺は脱力にも似た気分で薄い笑みを浮かべながら乱雑に教科書を閉じて机にしまい込んだ。 「なににやけてんの?」 不意に上から駆けられた声に、思わず肩が揺れた。 栄口が、いぶかしげに俺を見下ろしてきていたので「あなたのことを考えてたの」と巫山戯て返すと、気色悪ぃと笑われた。 「てか、うちのクラス来んの珍しいじゃん」 「やー、数学の教科書忘れてさ。持ってる?」 「あるよ。俺置き勉しまくりだし」 「まじで?助かりマス」 両手を恭しく差し出す栄口に、見返りはあるかねと悪代官さながら偉そうに言うと、ではこの百万ドルの笑顔でとにっこり微笑まれる。 馬鹿馬鹿しいやり取りなのは十分に承知の上だから、かえって悪ノリ出来るのかもしれない。 うやうやしく教科書を渡しながら、俺はさらに巫山戯るつもりだった。 けれど、次の言葉が出なかったのは栄口が、 「お前は何様のつもりだよ」 と呟いたからだ。 一瞬、冗談の枠内なのかと思った。 流れからいって、それはそう不自然ではなかったし。何より、栄口は相変わらず優しそうに笑みを浮かべたままなのだから。 「お前ってホント、要領良いよね」 受け取った教科書を適当にめくって、さっき俺が開いていた(ちょっと涎の跡もついてる)立派な髭の落書きのある著者近影を見つけて、くっだらねぇと大口を開けて笑う。 あぁ、冗談の続きか。 俺はそう判断して、にへらと緩く笑って応えた。 「俺、お前のそういうとこすごいと思うけど、軽蔑する」 ニコニコ笑って、わぁ辛辣なジョークだねと小突いてやれたらどれだけ良かったことだろうかと思う。 でも、出来なかった。 俺がいくら馬鹿な人間だとしても、ここまであからさまにやられて他人の冗談と本気を取り違えるようなことはしない。 「俺、なんかお前にしちゃった?」 ごめん、と謝る。 理由も分からぬうちに謝っても、それは謝罪にはならないのだろうけれども栄口が八つ当たりをするということはあまり想像が出来ないし、人の良い栄口とお調子者の俺なら、多分非は俺にあるような気がしたからだ。 いつも穏やかな栄口が、見下すように俺を見てくる。 ただもう、それだけで堪えた。 「ホント、ごめん」 「水谷、何で謝ってんの?」 「だって、お前が俺のこと軽蔑するって。俺、何かしちゃったんだろ?自覚なくても、気分悪い思いさせたなら、やっぱ謝りたいよ」 「あっは。お前って、ホント要領良い」 栄口は、拍手をしながら人を小馬鹿にしたようなおどけた口調で言った。 人の神経を逆撫でするような態度を栄口が取ることは、普段滅多にない。いや、滅多にないというより、始めてだ。少なくとも、俺は見たことがなかった。 「そうやって、物わかりが良いふりして手玉に取るわけですかぁ」 穏やかな口調には、明らかに皮肉の意が込められているのが分かる。 オレの渡した教科書で肩を叩きながら、栄口はにっこりと口元に笑みを浮かべたままでオレを見下ろす。 辛辣だ。 喉の奥に走る嫌な乾きを誤魔化すように、口内に溜まった唾を飲み込んだ。 途端に頭痛にまで襲われる。 「栄口」 名前を呼ぶと、それだけで虫ずが走るとでも言いたいのだろうか。眉を顰めて、けれども目線は合わせてくれないのがとても悲しかった。 それでもオレは、どうにか堪えて三度目の謝罪をする。 「ごめん。オレ馬鹿だし、無神経なところもあるし。だから、それで無意識にお前のこと怒らせちゃったんだろ?」 「そうだね。それは、まぁ間違ってない介錯だよ」 「何が悪かった?」 聞くと、栄口はケラケラと声を上げて笑った。 そして、 「自覚すらないっ」 吐き捨てるように言われる。 「この浮気男め」 と畳みかけられた。 浮気だって?と俺は驚きのあまりわざとらしい驚き方をしてしまった。それを栄口がさも不愉快だとでも言わんばかりに、手に持っている俺の教科書を丸めて肩をポンポンと素早く叩く。 俺はと言えば、軽薄そうに見える外見に自覚はあるものの浮気と来ると思い当たることがなくて一体何のことなの、と間抜けに上擦った声で聞くより他になかった。 「浮気って俺がしたの?誰に対して?」 「またまたすっとぼけちゃって」 「ちょっと、冗談じゃなくてさ。本当に、俺、心当たりないよ」 「前者に?それとも後者に?」 「・・なんで?」 「なんでもだよ」 急いた声だった。ちらりと視線を上げたので何かと負えば、その先には時計があった。そっか、休み時間、と俺は我に返ったような感覚でハッとした。 それと同時に、阿部と花井がいないという現状にも気づく。 珍しい。腹でも減って購買行ったのかな、なんて思って早く戻ってきてくれよと念じる。阿部はともかく花井ならば、仲裁に入ってくれたりするんじゃないかなという打算があったのだ。 だから自然と、俺も時計を気にするようになった。それを目ざとく栄口が見つけて、気もそぞろだねと芝居のかかった言葉回しで言ってくる。 「動揺してるんだよ」 「ホントに動揺してたら、そんな軽口出てこないでしょ。あーぁ、」 ため息の後、栄口の言った言葉。それに俺は耳を奪われ、目を見開き、栄口を凝視した。 三橋が可哀想。 そう言われたのだ。 「ど、うして三橋なの?」 声がまたしても上擦る。貧乏ゆすりなどは癖ではなかったはずなのに、座っている足が小刻みに震え始める。それを止めようとしても上手くは行かず、栄口が馬鹿じゃないのかというような目つきで俺を見てくるのを見て、なおのこと震えは止まらなくなる。 「隠してるつもりだったのかもしれないけど。お前が三橋とお付き合いしてるってことは、部員みんな知ってると思うよ」 お付き合いしてる、の部分は囁くように言ってくれたのは、周りの耳を気にしてくれてのことだろうか。 確かに俺と三橋は一般的に言う「恋人」という間柄だ。だけどそれは、平凡な高校球児がする平凡な恋愛じゃなくて、同性愛というちょっと特殊なものだ。 特殊という風に、本人達が言い表してしまっては元も子もないとような気もするけれど、俺としては自分達の関係が未だ世の中では認められがたく、偏見の対象にもなるのだということを踏まえた上で付き合っていきたいと思っている。それは三橋にも言って、納得してもらっている。 だけど、というかだから、二人だけでひっそり付き合っていこうね誰にも言わないでという約束もしたのだ。元々三橋はああいう内に篭もりきりのような性格だから、他人に言わないで済むのならその方が良かったらしくて、あとは俺がどんなに三橋を独占したくても我慢して人前ではただの友達のように接していけば良いだけだったので、そう難しいことではなかった。(もちろん、俺自身の理性や忍耐というものは多いに必要とされたけれど) 俺は机の下で震える足を手で掴みながら、栄口を見上げた。 「あのさ、黙ってて欲しいんだ」 「黙るもなにも、みんな知ってるって言ってんだろ」 「みんなって」 「うるさいなぁ。みんなはみんな。三橋のこと大事に思ってるようなやつは、みーんなお前と三橋のこと、勘づいてるよ」 バンバンバン、と机を手のひらで勢いよく叩く。周りが何事かと視線を向けてくるが、その時栄口は素早く普段の笑顔を浮かべていたので、すぐに皆なんだ冗談かと興味をなくし自分たちの会話に戻っていく。 栄口は、そんな回りの反応に照れたように笑った。 「三橋のことになると、ついムキになっちゃうなぁ」 冷静に判断出来なくちゃ駄目だよなぁ、と笑いながら言っているわりには、さっきから一度だって俺の話をまともに取り合ってくれていない。 「とりあえず、阿部も花井も本当かどうか探ってるだろうし。今はまだ、疑惑だしね」 「へぇ?」 だから本当に何のことなの?と上擦った声で格好悪く情けなく聞く。栄口は、いやねそれがさと、平然と切り返してくる。そういうところが、とてもアンバランスだなと思う。 平静を装おうとして失敗していたり、それが成功していたり、その繰り返しの結果が今の栄口のアンバランスさなのだとしたら、それはとても怖いことだ。 怒るなら怒るで良い。平静を装い続けるのなら、それも良い。 けれど、それが上手くいかないでいる状態だけは止めて欲しいと思った。キレちゃったりして、俺に怒りが向けられている以上はキレた状態でも俺にその矛先は向くわけで。そうしたりしたら、今時刃物で斬りつけられるようなことがあったって全然珍しくない(そう、物騒な世の中だ)んだから、俺だって他人事ではないだろう。なんて、そんなことを考えて本気で不安になる俺の矮小なことよ。栄口ごめん。そういうつもりがなかったら、本当にごめんよ、と内心でだけ謝っておく。(だけど、理不尽な言いがかりをつけられていることに関しては、少し腹を立てたままなんだけど) 栄口が、そんなことを考えている俺の内心を知ってか知らずか、飄々と「それがさ、お前が女の子とデートしてるとこ三橋が見ちゃったらしいよ」と言った。 「なんだそれ」 呆然としながら、取り繕うことも忘れてただ口をついて出た疑問の言葉に、栄口が「浮気なんじゃないの?」と素っ気なく答えてくる。 「浮気じゃないよ」 浮気じゃない。俺は繰り返した。 だけどそれは、心当たりがまるでないかというとそういうことでもない。 中学のころのクラスメイトに偶然会って、それでちょっと一緒にお茶なんかしたことが三日ぐらい前にあった。多分、そのことなんだろうなと思いながら、それは全然そういうのじゃないんだよと栄口にも弁解する。 それに対して、栄口は「俺に言われてもしょうがないんだけどさ」と笑った。 「ただ、三橋はそれで泣いてるし、阿部や花井は本当かどうか確かめた上で本当だったら許せないって息巻いてるし」 「栄口は?」 「俺は、まぁ、」 「俺のこと怒ってるんじゃないの?」 「苛つくかそうじゃないかで言えば、正直すっごい苛つく。でも、チャンスでもあるわけだよね。三橋のこと、こっちに向かせるさ」 「いやでも、別に浮気じゃないからさぁ。浮気するつもりなんて毛頭ないし」 「でも、三橋はそういう現場見ちゃってるわけだし。もう、水谷の言葉なんて信じないんじゃないの?」 そのぐらいの取り乱しようだったよ。 楽しそうにそれ言うのはちょっと不謹慎なんじゃないかな、とか。なんでそんなに嬉しそうなの、とか。 思うことも言いたいことも山ほどあったけれども、それらは頭の中に次々と出てきては全て言葉にはならずただ悶々とした感情として俺の中に埋没していってしまう。 曖昧に気づいてしまった、栄口の三橋への気持ちを確証に変えたくはない俺は、限りなく無意識に近い意識の中でそうした答えを導き出してしまうようなことを口に出して言いたくはなかったのだ。 もやもやと据わりの悪い感情を、唾を飲み込む行為で抑え込む。 「・・・ちゃんと話せば、三橋だって勘違いだったって気づくよ」 「そうかなぁ。それが嘘じゃないって保証も確証もないのに?」 「だって嘘じゃないんだから、嘘じゃないって言うしかないじゃないの」 「そうだよねぇ。信じてもらえると良いねぇ」 他人事だ。 にっこり浮かべている笑みは、とても優しい穏やかなものであるのに、どこか余所余所しくも思えた。 そうなのだ。さっきから一度だって栄口は、困った顔をしていない。普段は俺の相談事に、それは大変だねと一緒に眉をしかめ悩んでくれるというのに、今日に限って栄口は一度だってそんな風に親身になって悩んでくれる素振りを見せてくれていない。 だからやはり、他人事なのだ。 酷いなぁ、と思った。俺の言い分全然聞いてくれねぇで、別れろ別れろみたいに嬉しそうにしちゃって。 いやでも、栄口からしたら浮気めいたことをしていた俺の方が酷くて嫌なヤツなのか。 そう思うと、とても絶望的な気分になった。 せっかく押さえ込んでいた好ましくない感情が、まだふつふつと湧き上がってくる。 涙さえ出てきそうになって、もうどうにでも好きなように思ったら良いよと投げやりな気持ちにすらなる。 だって、疑惑なんてものは真実を突き止めようとするから正しい答えが出せるもので、逆にはなから「真実」を一つのものに決めつけてしまっていたらそれを裏付ける為の証拠のみを探して突き進んでいくことになる。 だったら今回の場合、俺は疑われたまま、やっぱりお前は酷いヤツじゃないかと言われて、それで終わりじゃないか。 「あのさ、栄口は俺が浮気したって思ってるの?」 「ぶっちゃけ、どっちでも良いかなぁ」 にっこりと笑って、さっきも言ったけどと前置かれる。 「どっちであれ、チャンスなんだよね。俺にとっては」 「そうかそうか。友達がいのないやつだなぁ」 つまりチャンスが巡ってくるなら、嘘でも俺が浮気していた方が都合が良いってことかよ、と内心毒づく。 だけどそれを表に出してしまうのは悔しかったので、俺はとりあえず笑って言ってやった。まだ余裕ぶっこきまくりで二人の仲だって全然すぐに元通りになるんだぜと内心で至極痛々しい虚勢を張る。(それが虚勢になってしまうっていうのは悲しいことだけれど、良くも悪くも三橋は素直だから今の状態では一方的に俺の浮気を信じ込んでいるに違いない) 「でも俺、栄口にチャンスあげるつもりはないよ」 「与えてもらおうとも思ってなかったけどね」 「うん。とりあえず、三橋に話聞いてもらってくる」 「信じてくれなかったら?」 「そうだなぁ。信じてくれなかったら死ぬとか、言ってみようかな」 「言うからには、本気でしてよね」 にっこり笑顔は相変わらずで、ただとても辛辣な響きのある声で言われる。 冗談だったらそれ、すっごい質悪いよと言われてしまって、実は冗談半分でしたなんて言えやしない。 今は下手なことを言って、栄口の機嫌を損ねるのは得策ではないと思うのだ。三橋は栄口にとても懐いているから、きっと今の俺と栄口の言葉とだったら栄口のを信じるんだろう。あぁ、なんて悲しい!寂しい!こんなにも三橋のことを好きなのに! 俺は、はいよ、と適当な返事をしてそれじゃぁ屋上へ行こうか三橋も連れてと提案した。 飛び降り?と聞かれたので、一番即死出来そうでしょと笑ってやる。 すると、そうだね。だけど、トラウマにはなっちゃうかもね、三橋の、と言う。 おいおい、これ以上俺にどうしろっていうの。これだけ覚悟決めているっていうのに、どうしてもっと俺を追いつめようとするの。 いっそのこと、お前のこと突き落としてやろうか。 不意に、さっき見ていた夢を思い出した。 死んでしまいたい。だけど、それ以上に目の前のこいつを殺してやりたい。 邪魔するなら、ホント、殺してやりたい。 (怖いのは。キレるのは。アンバランスなのは。全部俺の方じゃないか) |