おかあさんって良いにおい。
洗濯してるにおいかな。

きみってとっても良いにおい。
欲情させるにおいだね。




ぼんやりとソファに寝転がって、まどろみながらテレビを眺める。
夕方の番組などは滅多に見ないので、何をやっているのかは検討も付かない水谷はそれでも適当に回しているうちに昔ちらりと見たことのあるドラマの再放送を流している局に決めてしばらく持ちっぱなしでいたリモコンを床に置いた。
そのままでいると、不意に台所の物音に耳が反応した。
それは別に考えるまでもなく、母親が夕飯の支度をしている音であったのだが、そんな時間帯に自分が家にいることなど有り得ないと言っても過言ではないほどに久しぶりのことだったので何だか少し感慨深い気持ちになって、水谷はそんな自分を少し照れくさいと感じた。
上半身を起こすと、忙しく動く母親の半身をちらりと見ることが出来た。
昔は良くあの隣にまとわりつくようにして学校であったことを話したりしていたなぁ、と思い出す。危ないからどいていてね、と言われてもお母さんでもねあのね、と時には簡単な手伝いをして喋り続けた。
特に、その日良いことがあったりするとその行動には拍車がかかっていた。

(お母さんかぁ)

いつの間にか、そうやって呼ぶこともなくなっていた。
周りが皆、そうやって呼ぶことを恥ずかしいと思うようになっていって、それに流されるように水谷もまた「お母さん」と呼ぶことに躊躇いを覚えたのだ。
本当は別に呼んでいても良かったのだ。
小学生の頃、周りでそろそろ「お母さん」と呼ぶとからかいの対象にされる雰囲気が広まってきたころ、水谷はまだ呼び方を改めてはいなかった。
友達の前で呼ぶことはさすがに無くなっていたが、家では呼んでいて、母親もそれを分かって敢えて友達の前でその部分を指摘するようなこともなかった。
マザコンかな、と自覚したくなるほどにそういう時の母親のことが好きだった。だからこそ、「お母さん」と呼ぶことを止めようとは思っていなかった。
しかし、小学校中学年になった時担任に母親の話をしていた時のことだった。
水谷は「お母さんが、」と話を切り出した。
それを聞いた担任は、「まだお母さんって呼んでるのか」と笑って言った。
からかうつもりがあったわけではないと、水谷は今だからこそ思っているが、当時はかなりショックを受けたのだ。
自分はまるきりダメな出来損ないだと否定された気すらして、泣き出したくなるのを堪えることに一生懸命になった。
ただ、当時の担任を恨むつもりはない。
結果的に、呼び方を変えたのは自分の意志であったし、本当に呼び続けたかったのなら他人である教師の言葉などは無視出来たはずだからである。
けれど、子供に言って良いような言葉でもなかったのではないかとも思う。

(だって、女の子はお母さんって今でも呼ぶでしょ?ママって言う子だっているのに、男は何でダメなんだろうね)

男だから、と言われてしまえばそれまでだ。
男らしくないから、というだけの理由なのだろうし、現に皆がその考えに疑いを持つことなく母親の呼び方をぞんざいなものに変えている。

(あぁ、でも三橋は)

朗らかに息子の友人を迎え入れてくれる三橋の母親と、その隣にいる三橋が「お母さん」と何の躊躇もなく自分たちの前で呼んでいたそのときの声を思い出す。
三橋が言う「お母さん」という響きはとても自然なもので、からかうだなんてことは微塵も思わなかった。
三橋が「お母さん」と呼ぶ。「なぁに」と柔らかい声で返事が返ってきていた。

(羨ましかったのかな、多分)

水谷は、もう一度台所の母親を見た。
小さな体は、昔はとても頼りがいのある大きなものに見えていた。
細い腕は、自分では持ち上げられないフライパンを持ち上げたりするのことの出来るたくましいものに見えていた。
水谷はおもむろに立ち上がると、台所へと足を向ける。
母親らしい勘の良さで振り向くと「お腹空いた?」と聞かれた。
母親は水谷を見上げて、自分は見下ろしている。

「ねぇ、小さいよね」
「えぇ?」
「背、俺が越したのっていつだっけ?」
「中学生の頃にはもう大分伸びてたねぇ」
「うん」

話しながらも、母親の手は忙しく動いている。
鍋が二つ湯気を噴き、まな板の上で野菜を手際よく切っている。そのすぐ横にはボウルの中でポテトサラダにするつもりなのかマッシュポテトがまだ半分形を残したまま入っていた。
水谷は、何気なくそのボウルを手にとって「つぶすの?」と聞いた。
驚いた顔で見上げてくる母親に、少し恥ずかしさがわき上がる。

「暇だしね」
「珍しいなぁ。珍しい、久しぶりだわ。フミキに手伝ってもらうのなんて」

お母さん嬉しくなっちゃう、と冗談めいた口調で言う母親に照れ隠しで大げさだなとわざと素っ気なく返した。
でも嬉しいものなのよ、物騒な世の中でうちの息子は健全に育ってくれてる証拠みたいだしねと続ける母親が、割と真面目な顔をしていたことに少し驚いて親の気持ちっていうのは子供には本当に理解出来ない部分があると水谷は思った。

「ほんと大げさなことばっか言う人だね、おかあ、さん、は」
「あらぁ、びっくり」

母親の手が止まった。
水谷は顔を背けて、何事もない風を装ってポテトをぐいぐいと潰す。

「何だろうね、いきなり。フミキ、何か気まぐれ?それとも打算?」
「んー、気まぐれかなぁ」
「びっくりしたわよぅ。ずーっと言ってくれなかったじゃないの」
「や、三橋が言うからさ、今言ってみたらどんな感じになるのかなって思ったんだよ。ついでに、三橋の気持ち分かったりしたら、チーム的にも喜ばしいんだけどねとか、思って」
「今時、ちゃんとお母さんだなんて呼べる子がいるのね」

すごいわ、と感激して見せて、その調子のままであまりべちゃべちゃにしないでねと水谷の持つボウルを指さしてくる。
ボウルを傾けて見せると、それで良いよと手を伸ばされたので手渡す。その時に、思いの外指が細くて、しかもガサガサに荒れているのを見つけてしまってますます幼い頃の「お母さん」への感情が蘇ってきてしまう。

「おかあさんって言えなくなってから、わりと何で言えないのかって思ってたんだけど、そう思うのってマザコンだから?」
「どうだかねぇ。ただ、呼ぶことがおかしいとはお母さんは思わないよ。三橋くんはどうなのか、聞いてみたら?」
「そんなの、聞けないよ」
「どうして?」
「恥ずかしいから。三橋になんて、聞けないよ」

友達じゃないの、と母親が笑いながらマッシュポテトの入ったボウルにマヨネーズを入れてかき混ぜる。
ツン、と酸っぱい臭いが鼻腔の奥を突き刺した。慣れれば食欲をそそる匂いなのだけれど、最初の瞬間だけはどうにもダメだと水谷は顔を背ける。
しかし、ニチャニチャと出来上がりの料理とはほど遠い不衛生で嫌悪感さえ感じる音に、水谷はうんざりしてこれだから料理ってのが好きにはなれないんだなと適当な理由を頭で述べてみた。

(だって適当とかゆるいとかって、俺の特技だもの。甲子園目指したりして、似合わない有り得ないって本気で言われるぐらいに、そういう適当さって俺らしいでしょ。でもそれなのに、そのノリで三橋に本音は話せないんだよな)

「友達だから無理なんじゃないの。そういうの言えないじゃん、高校生にもなってさ」
「何言ってんの。好きな子にバレるわけでもないんだから」

味見してみて、とスプーンにたっぷりとポテトをすくって水谷の目の前に突き出してくる。
受け取って、いつもと同じ味、と素っ気ない返事を返す。

(だけどねぇ、ちょっとおかあさん!その一言はいらなかった。好きな子だから言えないってことに気づいちゃったじゃないの!ねぇちょっと。ねぇねぇねぇ!)









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