ここのところずっと水谷は寝不足だった。 野球部に所属している彼は、日々練習に明け暮れてくたくたの体を引きずって帰宅する。風呂に入って遅めの夕飯を食べれば、疲れた体は満足感と共に睡眠欲を訴え始めてくるから、いつだってベットに潜り込めばすぐに眠り込むことが出来ていた。 朝になって、まだ寝ていたいなと思うことがあってもそれは惰眠をむさぼりたいという怠惰の感情であって身体的に影響を及ぼす不足ではなかった。 水谷にしてみれば、そう思ってしまうことが寝不足の証明なのだと信じていたところがあったが、ここ数日でその認識は打ち消された。 ここ数日の間、いくら寝ようと思っても眠れない日々が続いてたからだ。 眠気は通常通り襲ってくる。ものの数秒うとうとしてすぐに意識は閉じられる。 しかし、その後ですぐ息苦しさに目を覚ますことになる。 当初、水谷はそれを寝苦しさと理解した。不意に目を覚ました時、ぐっしょりと汗で体中が濡れていたからだ。気持ち悪いなぁ、なんて思いながらも再び目を閉じてすぐに寝入ってしまった。 しかし翌日も、水谷は同じように夜中に息苦しさを感じて目を覚ました。今度は目を覚ましても、息苦しさは続いていた。 視界は真っ暗だった。夜中なのだから、当然だ。しかし水谷は、そんなことすらも不安要素にしか捉えられない程に混乱していた。 体が動かない。息が苦しい。所謂金縛りという現象が、一瞬脳裏を過ぎったその瞬間水谷は今までに感じたこともない恐怖にかられることになった。 そんな馬鹿なあるわけがない、と恐怖心を打ち払うために必死で頭の中で繰り返すが、体が動かぬという事実はそんな水谷の虚勢をいとも簡単に崩していく。 暗がりが、自分の知っているものよりもずっと深く黒く見えるのは錯覚なのか、それとも「何か」が自分の目の前にいるからなのか。そんなことを考えては、ますます恐怖心ばかりを増長させる。 三日目には、もう目を開けることを止めた。 堅く目蓋を閉じたまま、動かぬ体と息苦しさに耐え半ば気絶するかのように意識を無くし朝を迎えた。 ある日水谷は最近自分に起こっている出来事を友人達に話すことにした。心霊現象だと思い込むよりも、もしかしたら自分でも気付かない悩みがあって、精神的に自らが引き起こしていることなのかもしれないと思ったからだ。 人に話すことで少しは気が楽になるだけでも。 そう考えた水谷は、部活動が終わってから部室で着替えをしながら皆にその話をした。 「馬鹿じゃねぇの」 真っ先にそう言って水谷を馬鹿にしたのは、阿部だった。 もっとも彼はいつだって水谷のことを少し軽んじてみているような態度を取っているので、水谷がその言葉を特別悪い意味に捉えることはなかった。 むしろ、無視をされる法がよっぽど水谷にとっては耐え難いのことなので罵倒の声であっても、きちんと関心を向けてもらえたことに安心した。 「本当だよ。寝てるとふっと苦しくなって、体動かないんだって」 「馬鹿な上に痛々しいやつだなホントにお前はよ」 「馬鹿な話してるって自覚はあるもん。あるけど、マジ困ってるんだよ」 阿部が鼻で笑う。そして、その薄く笑った表情のまま、馬鹿馬鹿しい有り得ないだろなぁ?と皆に同意を求める。反応はまちまちだった。 現実的ではない、見たら信じる、なんとなく信じてる。様々な反応はそのどれもが予想できる範疇にあったが、田島があまり信じていない風だったのには皆が意外そうに目を見開いた。曰わく、人間の方が怖いからだそうだ。 「だってほら、幽霊が人間を殺すのより、人間が人間を殺したりすることの方が怖いだろ」 「なんか、意外」 「あ、今俺のことバカにしたね?」 「いやいや、見直す方向で」 ふーん。田島は自分から突っかかったくせにどうでも良さげな反応をしてそっぽを向いてしまう。 本当に気まぐれなんだなぁ、と水谷が思っていると同じことをいつの間にか隣に立っていた栄口が呟いた。 「気まぐれだね」 「え?」 「田島だよ。気まぐれだよね」 うんそうだな、とっても気まぐれだ。オカルト話が苦手らしく、見るからに青ざめた三橋にちょっかいを出している田島に視線を向けたまま水谷は返した。 「ああいうのは強いよね。絶対信じないものは怖がらないから」 「栄口は、信じてるの?」 「どっちかって言えば信じない。でも、完全に無視出来る程の度胸もないよ」 「じゃ、俺が話したことは?信じる?」 「うーん、まぁ半々。自分が水谷の立場に置かれたら怖いと思うし」 それに、と栄口は言いかけたところですっと息を吸い込んだ。 視線は田島と三橋を見ている。見てもないうちから怖がってんなよほらお化けなんてないさウソさって歌もあんじゃんバッカだなぁ水谷がビビり過ぎてるだけだって。田島が三橋に諭すように言う声が聞こえていた。 それでも怖がる三橋に、田島がヒャァと素っ頓狂な声を出して脅かす。三橋の足下には硬球が一つ。 踏むぞ、と水谷は思った。 多分、栄口もそう思ったのだろう。そして田島の悪ふざけを止める言葉を発する為に息を吸い込んだのだ。 「こらぁ田島。悪ふざけんなっていつも言ってんだろうが」 「んだよー泉だってする時あんじゃん」 「少なくとも、ボールが転がってるようなとこではしないね。絶対」 泉は硬球を拾い上げて、視線が合った栄口にそのまま投げてきた。 大した距離でもない上に緩い弧を描く球は取れないはずがなく、栄口は見事に片手で受け止める。 「先、越されちゃった」 「泉、すっかり九組のお目付役だからね」 「最近いっつもだよ」 いっつも先越されちゃうよ。そう言って栄口は乾いた声で笑った。 別に大したことじゃないはずなのに、栄口はわざわざ繰り返して言った。 落ち込んでるの?こんなことで?呆れと驚きから言いかけた言葉を、すんでのところで呑み込んで何食わぬ顔で栄口を見た。 おおよそ高校生らしからぬ公正さと落ち着きを持っている、というのが水谷の栄口に対する評価だった。いささか神経の細い部分はあるが、それを差し引いたところでマイナスになるわけでもない。それ故に、自分の役割を誰かに取られたからと言ってそれを気にしたり、ましてや口に出すはずがないと、水谷はそう思い込んでいたのだ。 実際、今だって拗ねているわけではないのだろう。先にも感じたように、どちらかと言えば落ち込んで見える。 ただ、いずれにしても栄口はこうしてあからさまに自身の心配をさせるようなタイプではなかったはずだ。 だから、水谷は軽口の一つも叩くことが出来ずに愚鈍にその場に立ちつくして栄口を眺めている。 そこで何も言わずに話を逸らすことが出来れば良いのに、水谷はこういった時話題転換をさせることが非常に下手だった。 「役目取られるの、嫌なの?」 「・・・・逆撫で上手だよね、水谷って」 「・・・・すいません」 俯き加減に小さな声で謝罪を口にした水谷に、栄口はいかにも人好きのする笑顔を向けて「気にしてないよ」と返される。 「嘘だぁ。怒ってるだろ」 「怒ってないよ。水谷がこういう性格だってことは、分かってるんだから。どうしようもないことで腹を立てても仕方がないでしょ」 「わ、辛辣」 うふふ、と栄口は笑っていたので水谷はそれが彼なりの冗談で、自分に気を遣わせないようにしているのだと思った。 本当に本当に良い奴なんだな、と水谷は同い年の友人に尊敬にも似た感情を覚えたが素直に口に出して伝えられるはずもなく、あくまでにひっそりと思うだけで外面では合わせて笑うだけだった。 「今日は夢見ないと良いね」 あぁ本当に何て良い奴なんだろう。 水谷は感激して栄口に抱きつこうとしたが、ニコニコと愛想良い笑顔のまま力強く体を押し返された。 そしてその夜、水谷はまたいつもの息苦しさに襲われた。 今までは全体的に息苦しさを感じていただけだったのに、今回は明らかに首を締め付けられる圧迫感があった。 ぐぅ、と呻いた水谷。喉仏を圧迫されて額の辺りがぼんやりと重くなる。 目を開けていないはずなのに覚える眩暈は、既に脳に酸素が行き渡っていないことを示していた。死ぬ、という言葉が朧気な意識の中に流れた。 死ね、とその意識に答えるかのように声が響く。,br> 死ね死ね死ね死ね! 連呼される悪意に、水谷は息苦しさからではない涙を浮かべた。 自分のことを否定されて、せっぱ詰まった状況にも関わらず酷く心を傷つけられたのだ。 (悲しいなぁ誰だか知らないけれどこんな風に死ねだなんて軽々しく言い続けるなんて俺は俺で一生懸命に生きているのに死を望まれるほどに疎まれることなんてきっとしていないのにどちらかと言えば嫌われるタイプじゃないはずなのに) そうして考えている間にも、水谷の首は締め続けられていた。 「そういうところが嫌いなんだよ」 聞いたことのある声だった。 「三橋聞いてよ、昨日もまたいつものになっちゃってさぁ」 怯える三橋に、ある意味人なつこく、ある意味鬱陶しく水谷は芝居めいた大きな動作で昨晩起こった出来事を事細かに話し始める。 怖かったよー、と抱きつきすらする水谷に三橋が一層怯えた様子で目を瞬いた。 「怖かった、」 「そう、すごい怖かったの」 「あ、危ないんじゃない、の?」 「そう危ないの。だから、慰めて抱き締めて」 あくまでも冗談のつもりで水谷は言った。 三橋がスキンシップを軽々しく他人と取らないであろうことは十分過ぎる程に知っているつもりだったから、絶対に有り得ないと自信を持って言える要望だった。 (これでもしも、本当に抱き締められでもした日にはきっと心臓発作を起こして死んでしまう) そんなことを考えていたが、案の定三橋はうろたえるばかりで決して水谷に触れてはこなかった。 もちろん分かり切っていたことなので、水谷は三橋のそんな態度に落ち込むことも失望することもなくへらりと緩い(だらしない、と評されることの多い)笑みを浮かべていた。 三橋が怯えた様子でいることを懸念するでもなしに、所謂「空気読めない」態度で笑みを浮かべ続ける。そうすると、そのうち三橋もぎこちない笑みを返してくれるようになる。 その瞬間、水谷はまるで猫を手なずけた時のような単純な満足感を得ることが出来る。 「わざわざ怖がらせるんじゃないよ。三橋が嫌がってるじゃないの」 そんな声も聞こえない。 三橋三橋俺すっごく恐がりだから話す時は抱きついちゃうかもごめんね。って、言う前から抱きついてるよねごめん! そんな事を、三橋が反応を返すよりも前にずらずら言葉にする。 「ちょっと、聞いてるの?」 「うっさいなぁ、栄口は」 「あぁもうホントに」 そういうところが嫌いなんだよ。 笑っている栄口。 辛辣なことを言うなぁ、なんて苦笑しながら言う水谷。 (あれ?あれあれあれ?夢と同じじゃないの。同じ声じゃないの) そんなものは偶然の一致だと一蹴したいのに、アンダーで隠れている首にうっすらと残る痣に片手で触れながらその手が震えるのを感じた。 |