4時21分ごろの話





「ようするに、大事に思ってるってことだ」

空になったペットボトルを机の角にカツンカツンとぶつけながら、吐息混じりに栄口は言った。
言われた阿部は、眉間に皺を深く刻み器用に方眉だけを持ち上げて不本意そうに違ぇよと返した。

「大事なエースだよ。最初と違って、今はあいつのこと勝たせてやりたいって思う。でも、そんだけだ」
「ムキに反論するなよ。阿部が聞いてきたから答えたのに」

コン、と一際高い音があがる。勢いをつけてペットボトルを机の角にぶつけたのだ。うるさい、と阿部が不機嫌に言う。
ごめんねつい、と栄口はそれをさらりとかわす。
素直になられると弱いのか、阿部はちょっと気まずそうに視線を落として、まぁついやっちゃうよなと見え透いたフォローをした。
心にも無いことを、と思いながらも栄口は笑いながらついやっちゃうよなと返して阿部の神経を逆撫でするようなことはしない。

「別に俺、変じゃないよな」
「少し過保護だと思う時はあるけど、阿部にしたらそれは三橋が投手だからなんでしょ?」

そうだよ!的を得たと言わんばかりに、阿部は似合わない満面の笑みを浮かべた。

「やっぱりお前に聞いてみて良かったよ。サンキューな」
「良いよ。阿部がそれで納得出来たなら」

おう出来た出来たすごいすっきりしたよ。阿部は上機嫌に、もう一度サンキューと軽い口調で言った。





吹き荒ぶ北風は鋭く冷気を剥き出しになっている顔や服の隙間から入り込んでは、肌を凍えさせる。
赤く染まった指先はかじかんで、土で汚れていることも相成って滑りが悪く心地悪い。
それは、部員全員が思っていることなのは間違いないだろう。飛んできたボールを受け損ねて、さらに地面に落ちたところを拾おうとして指先で弾いてしまった泉が寒ぃ!と苛立たしく叫んだ。
猛者と名高い(誰も口にはしないが、それは確実に全部員に共通している認識だ)監督すら、そうねぇ今日はかなり寒いよねぇと肩をすくめて白い息を吐きながら弱々しく言う。大抵の日は動いている間は寒さを意識しないでいられるのだが、今日の寒さは尋常ではなかった。
予報では夜雪だってさ、と怒鳴るように言ったのは田島だ。
そばかすが目立たなくなる程に鼻頭を赤く染めているのに、それでもまだ他の部員に比べたら寒さを感じさせない様子でいることに、花井が子供は風の子って田島っぽいよなとため息混じりに言う。

「さ、今日は少し早く上がるようにするから集中!」

監督のよく通る声に、ハイとオスの混じったような野太い返事がグラウンドに響いた。

「フォームもさ、ぎこちないよね」

ピッチングマシーンの順番待ちをしながら水谷が情けない声で言った軽口に、普段ならしゃべってんなよと諫める花井が珍しく割り込んで来て同意した。

「今日ばっかりは、打てないのは寒さのせいって言っても嘘じゃないよな」

なぁ阿部、と横で黙々と素振りをしている阿部に向き直って花井は言うが、俺は打てたぜと実に尊大な返答に苦々しい顔をしてムカつくなぁと毒づく。
しかし阿部はそんな非難を気にした様子もない。涼しげな表情は、花井をさらに苛立たせるものだったが、ふと視線を脇に向けた瞬間その表情が強張る。

「肩冷やすなって言っただろ!」
「あ、阿部く、ごめ、」

阿部の怒鳴り声に三橋が寒さと怯えに肩をすくめて、小さく謝罪の言葉を口にした。
謝ってねぇで上着持って来い、阿部が怯える三橋に構わず怒鳴り声で命令するように言う。泉はため息を吐き、三橋が動くよりも早く上着を持って来て手渡してやり、田島が心配してんだってさ三橋の体調、と既にお決まりになった通訳も兼ねたフォローを入れる。

「お前ら、三橋甘やかし過ぎ」
「阿部程じゃないだろ」

泉は飄々と答えた。
三橋がいつの間にか阿部を避けるようにして、泉と田島の方へ身を寄せていた。
それを見た阿部はますます腹立たしい気持ちになって、続ける言葉も考えずにテメェと気色ばむ。
泉がたしなめるように阿部の名前を呼んで、栄口が取りなすように宥めても阿部は興奮を収めることなく三橋を怒鳴りつける。当事者じゃないとしても、近くで誰かが怒鳴りつけられていることは良い気持ちがするものではない。
泉などあからさまにムッとした表情を浮かべている。
緊張感と苛立ちの入り交じった空気の中、もういい加減にしなよ、と栄口が堅い声で言った。

「何で俺が悪いみたいな言い方すんだよ」
「どっちが悪いかなんて言及してないよ。ただ阿部が一方的なのは、見てて良い気持ちじゃない」
「言わねぇと分かんないんだこいつは。言ったって分かんねぇけど」
「おい」

栄口が珍しく太い声を出した。阿部は肩をすくめてため息をわざとらしく吐き出すと、俺が悪いんだろ、とひねた口調で言って黙り込んでしまう。
気まずい空気が流れるはずだった。
誰もが先回りしてうんざりしたが、不意にガンと鈍い金属音が聞こえたかと思うと速球が部員達の視線の前を横切った。
球は三橋に真っ直ぐ向かっていく。
阿部が三橋を呼び庇うように前へ出たが、ほんの数センチの差で球は三橋の喉元にめり込んだ。

「三橋!」

すぐに阿部がうずくまる三橋を覗き込む。
大丈夫かどこに当たったんだ、という問いかけにも息を詰まらせて苦しそうに顔を歪めるばかりで返事はない。

「暴発したんだ」

西広がこの上なく悲しそうな声で細く言いながらピッチングマシーンを見た。球出しをしていた巣山は顔を蒼白にして呆然と立ちすくんでいたが、誰も彼を責めようとは思わなかった。
これは事故なのだ。とても運が悪い、そして遺憾な事故だ。

「三橋くん、立てる?」

駆け寄って来た監督に聞かれて、三橋はわずかに頷くとよろりと立ち上がった。阿部がその脇を素早く支える。

「喉に当たったんだわ。声は出る?痛みは?」

三橋は首を緩く降ると、それから激しく咳き込んだ。そしてその衝撃すら耐えられないらしく、大粒の涙をポロポロ零した。

「とりあえず、保健室連れていきます」

阿部はそう言うと、監督の返事も待たずに三橋のわきの下に自分の肩を滑り込ませる。

「私も行くわ」
「監督は三橋の家に連絡してください。連れてくのは、俺がやります」

決して不躾な口調ではなかった。しかし、自分以外は来るなと言外だが明らかに訴えていた。監督は一つ頷いて、後で行くわとだけ言って携帯電話を取るためにベンチへと向かった。





「三橋は今日休みだよ」

朝練にも姿を見せなかった三橋の様子を尋ねに九組まで来た阿部は、半ば思っていた通りの答えを田島から聞き出して、以前桐青の試合後に自分のメールには返信が無かったことを思い出して苦々しく歯を噛みしめた。誰にも連絡をしないぐらいに具合が悪わけでもなし、どうしてあいつはこうすぐにばれる嘘を吐くんだ、とそれは三橋にとってみれば嘘でも何でもなく、ただ連絡をする相手としてクラスメイトを選んだだけなのかもしれないのに勝手に思い込んで阿部は一人で苛立った。
そしてその思いを隠すことなく、俺には何の連絡も無かったのにと口にした。

「三橋からじゃないよ。おばさんから。俺、クラス一緒だからさ」
「別に、そんな風に慰められなくても良いんだけど」
「そういうんじゃなくって。説明しただけだろ」

どうしてそうひがみっぽいのかなぁ、と田島が少し苛立ったように言ったことを阿部が真っ向から受け止めてムキになる。

「ひがんでねぇよ。お前がわざとらしく説明なんかしてくるからだろ」
「だから、そうやってすぐに他人を疑ってかかるのが困るって言ってんじゃん」
「困るなんて、今初めて言っただろ」
「じゃぁ、困るって思ってた。思ってる」
「なんか腹立つな」

阿部の声が一段と低くなる。
そこで不穏な空気を感じ取った泉が、もめるなよと仲裁を買って出る。

「あくまでも連絡事項として言うけど、三橋、喉大丈夫だってよ。ただ、やっぱ声はあんまり出さない方が良いから今日は休みだってさ」
「お前には聞いてない」
「でも、そういうこと聞きに来たんだろ。明日は来るみたいだし、それでもう良いじゃん」

こじらせるなよ、という泉の口調はどちらかと言えば辛辣なものだった。それでも、普段の彼に比べれば、気遣いなのかそれは幾分か抑えたものだった。
もちろんそれに気づけないほど阿部は迂闊ではなかったが、ただ感情の高ぶりを抑え切れないのは阿部の性分でもある。

「だから、聞いてないんだよ」

憎らしげな阿部の言い方に、泉は思い切り不快感を顕わにしたため息を一つ吐いた。

「三橋のこと心配なのは分かるよ。でも、お前だけが心配してるんじゃないってこと、理解しろよ」

阿部が保健室にまで三橋を連れて行った後、自分では判断しかねるからという養護教員の言葉により三橋は最寄りの病院に行くことになった。顧問の志賀の車で移動する際に、阿部は自分も付いていくと言い張ったが、とにかく今は残りなさいと強く言われて仕方なしにグラウンドへ戻った。そしてそのまま三橋からの連絡はないまま、今に至っている。
そのことを阿部自身が酷く不満に思っているのだろうということは、泉だけではなく田島も、そして今朝になってから状況を聞かされた浜田ですら感じ取ることが出来た。
ただ、さぞ三橋のことが心配で不安で、だからこうして周りに当たり散らすような態度でも仕方がない、と許容出来る程大人でもないのが高校生だ。
八つ当たりするなよ、と泉が先ほどよりも強めた語調で言った。

「みんな不安なんだよ。それなのに、お前がそうやってイライラしてたら、余計に雰囲気悪くなるだろ」
「だって、あいつが怪我したのは俺のせいだ」

泉は口をぽかんと開いて、素っ頓狂な声で何言ってんだよ、と呆れ返った。
状況を思い返して、阿部の責任となるべき箇所は一つだって無い。というか、誰かを責めたてるべきではない。あれは不幸な事故でしか無かった。

「誰のせいでもないだろ」
「いや、あれは俺のせいだ。俺があの時ほんの一瞬、三橋を庇うことをためらってなけりゃ、あいつは無事だったはずなんだから」

阿部のその言葉に、泉は思わず馬鹿じゃないのかと投げ捨てるような口調で言っていた。

「庇ってたら、お前が怪我してただろ。誰もが無傷ってのはありえなかった事故なんだよあれは。言い方悪いけど、それがたまたま三橋だったってこと」
「それでも、俺が庇うべきだったんだ」

阿部は低い声で呟くように言った。小声とは言え、その言葉はしっかりと泉の耳に届いていたので泉はふとこの男は不幸な現状に嘆く自分を演じて酔っているだけなんじゃないかと思った。
実際、そのぐらい大袈裟に阿部は三橋の不幸を嘆いてみせた。

「俺が怪我をしたって良かったんだ」

馬鹿だな阿部。
珍しく険のある口調で田島が言った。

「馬鹿って言うか、お前ちょっと自分勝手過ぎるよ」
「お前に言われたくないね」
「だって、阿部は三橋が怪我するのは嫌で、だけど自分が三橋の為に怪我をしてそのことで三橋が泣くのは構わないって言うんだろ?むしろ、それを嬉しいとすら思うんだろ?俺はさすがにそこまではやりきれないね」

その言い草があまりにも辛辣で、普段は嫌みも皮肉も縁のないような田島だからこそ威力があった。

「過保護だよ阿部って。あんまり三橋のこと、大事にしすぎるなよ」

してねぇよ。
阿部が言う。
してるね、と田島はやはり辛辣な口調で返す。

「してねぇよ」

阿部は繰り返して言った。

「してねぇだろ。自分で言うのもなんだけど、俺あいつには相当怒鳴るし。まぁそりゃ怪我したし、多少は面倒見てやろうって思ってるけど。でも、それは大事とかってんじゃなくて・・・違うだろ」

不意に同意を求めるように視線を向けられて、泉はさぁと素っ気なく答えることしか出来なかった。
阿部が過保護であるかどうかなど、そんなことは考えたこともなかったからだ。考えるまでもなく、阿部は三橋に対して異常な執着心を持っていると泉は思っていた。

(意識してないんなら、そんなに質の悪いこともない)

ムキになって阿部を煽ってしまう田島もまた、泉にとっては馬鹿じゃないのかと言うべき対象だった。
阿部に三橋を構うなと言えば言う程、阿部の短気な性格上ますます三橋に構うようになることは目に見えている。

「まぁ、三橋も本調子じゃないんだろうし。そっとしといてやるのが一番だと思うけどね」
「そんぐらい、俺だって分かってる」

阿部が自信ありげにそう答えた横で、田島が怪しいもんだよと笑いを含んだ声で言っていた。






「一時間目二時間目三時間目昼休み五時間目放課後」

部室で着替えをしていた時、不意に横で泉が言った言葉に栄口は動作を止めた。

「何それ?」
「阿部がうちのクラスに来る時間帯。毎日、エブリディ。もー鬱陶しくてたまらない」
「練習中見てるだけでも相当だと思ってたけど、そんなに頻繁だったんだ?」

最近人気を巻き返した某タレントのように片仮名英語を交ぜつつ言う泉の言葉には、その語感裏腹におちゃらけた様子は全く感じられない。
深くため息を吐く泉の視線の先には、三橋の荷物を持って歩く阿部の姿がある。

「あそこまでかいがいしいのは、ちょっと異常だろ」

鬱陶しいし、と泉は低い声で嘆くように言う。
三橋の喉にはまだ赤黒い痣が残っているが、声を出すことにも支障はないようで様子を見ながらということを前提に、練習にも一日休んだだけですぐに復帰した。
もちろん、皆がどことなく三橋の体調を気遣う場面はある。しかし、それはあくまでも時々、さりげなくといったものであって、阿部が休み時間毎に七組を訪れては調子を尋ねたり、部活の行き帰りは荷物を持ってやっているということは誰が見れも明らかに行き過ぎた行為だ。

「あんまりしつこく来るから、うちのクラスのやつにお前ら出来てんじゃねぇのなんて言われてたけど、阿部ってば全然自分の異常さに気付いてないみたいで、何言ってんだコイツみたいな顔してたんだよね。三橋も無駄に優しい阿部に怯え切っちゃってるのに、断れなんてしないから無駄に精神すり減らしてるって感じで、痛々しいったら無いよ」
「まぁ、優しくすることが悪いわけじゃないんだけどね」

とげとげしく捲し立てる泉に、栄口が苦笑気味に言う。

「優しく接するってことと、まとわりつくって言うのは違うだろ」
「泉は、阿部が三橋にまとわりついてると思ってるんだ?」
「お前は思わない?」
「三橋が本当に嫌がるんならね」

二人の視線の先には、三橋が阿部に恐縮しきっている姿がある。三橋の極端に小さな声は聞こえないが、地声からして大きい阿部の声は聞こえてくるので断片的ではあるがそこから会話の流れが分かる。
俺が良いって言ってんだよ、と阿部が苛立ったように言っている。
大方、鞄は自分で持つと言い出した三橋に阿部が反論したのだろう。

「嫌がってるじゃん」
「いやでも、三橋の内面は分からないしね」
「何で栄口、そんなに阿部のこと庇うわけ?」
「阿部のことなんか庇わないよ。でも、三橋が良いんなら俺は何も言いたくないし否定するつもりもないってだけ」
「三橋、嫌がってるように見えるけど」
「どっちも、感情表現が下手な奴らじゃない?」
「なんか、やっぱり阿部に肯定的だなぁ」
「違うって、」

苦笑して言いかける栄口の言葉に、阿部の大声が重なる。その大声が一層三橋を怯えさせているのだとも気付かない様子は、いっそ滑稽な喜劇にも思えた。違うんだって俺はね、と栄口が改めて言いかけた時不意にパシン、と軽い音が響く。
栄口は口を開いたまま動作を止めた。
頬を抑える三橋と、腕を上げたままの阿部。どちらも呆然として立ちつくしているが、さらに栄口を含む全部員がその様子に唖然とする。
数秒間の沈黙の後、最初に我に返ったのは田島だった。

「お前何やってんだよ」

憤りを顕わにした低い田島の声は阿部に向けられたものだったが、それを聞いて我に返ったのか、三橋は見開かれた目に涙の膜を作ってくしゃりと顔を歪めると俯いたまま部室を飛び出した。
追いかけようとする阿部を、栄口が素早く腕を掴んで制する。

「俺が行くから」
「お前、関係ないだろ」
「阿部が行ったところで、逃げられるだけだよ。こういうときは第三者の方が良いと思うし、何より今この状態でお前を三橋と会わせたくはない」

明らかにムッとした様子の阿部だったが、それでも怒鳴り出さなかったのは自分に非があると自覚していたからだろう。栄口はそんな阿部を一瞥だけすると部室を後にした。
ドアを開けた途端、栄口の頬に冷気が叩きつけられ筋肉が強張る。駆けだしたことで、その冷気はさらに激しく顔や手などの露出した部分を冷やしていく。寒いというよりも痛いとすら思う程の気温の低さに、栄口は思わず有り得ないよと吐息に近い声で呟いた。途端に、白くなった息が風向きとは逆に進む栄口自身の顔を覆った。
三橋の行き先に心当たりが無いまま、白い息を小刻みに吐きながら校舎へと向かう。校内であれば探しきれない範囲ではないと思っていたので、行き先が分からないことは悩む材料には成り得なかったがそれでもそれなりに広い範囲ではある。時間が経てばそれだけ三橋のマイナス思考は助長されてしまっているだろうから、出来るだけ早く見つけなければならないという焦りに駆られる。
おそらくは興奮しているであろう状態で、わざわざスパイクを脱いで校内に入りはしないだろうと考えた栄口はまず校舎の周りから三橋を探すことにした。
返事を期待せずに三橋の名前を呼びながら、四方を見渡す。
犬や猫でもあるまいし、と思いながらも生い茂った草をかき分けもした。そうしたのは、単なる思いつきだけではなく三星との試合前、三橋が草むらにうずくまっているところを阿部が見つけたという話を思い出したからだった。

(結局、阿部か)

意識はしていなくても、三橋のことを考える時その根底には常に阿部の一言が引っかかってくるということに、栄口は改めて気付かされた。最近になってようやく分かるようになってきたと思っていた三橋の素直とは言い難い感情の浮き沈みすら、阿部の偉そうで全てを知り尽くしたかのような口調が反芻され解説のように脳裏に浮かんでくるのだ。自分が理解したのか、阿部の言葉によってそう思い込んでいるだけなのか、それすらも分からなくなってしまったことを悔やむよりも阿部がどうしてそこまで三橋のことを語れるのかということに対する嫉妬と嘲りが湧き上がる。

(お前が三橋の何を知ってるって言うんだ)

今だってこうして、身勝手な感情で三橋を振り回して追い込んでいる。
しかし栄口は、三橋もまた阿部に理解されることを望んでいることに気付いていた。理解されたいと願っているからこそ、こうして自分の意志が通じなかった時には逃げ出す程に取り乱すのだ。
自分が傷つかないように保身をしているくせに、阿部のような辛辣な物言いを無意識のうちにする人間の近くを離れない。 優しく慰めてくれる相手だっているのに、阿部を選ぶのだ。
それこそ最大の愛情表現だと、おそらく向けられている阿部も向けている三橋本人も気付いていないに違いない。

「三橋」

草むらに身を丸く縮めて隠れていた三橋を、ようやく見つけた栄口はそっとその背中に手を置いた。

「戻ろう。誰も三橋が悪いだなんて思ってないよ」

慰めでも何でもない、それは事実だった。
一方的に阿部が腹を立てて手を上げたのだから、これほど酷い八つ当たりもない。栄口はほらおいで、と子供をあやすような柔らかい声で三橋に語りかけた。
三橋は首を横に振るだけの子供じみた仕草で拒否を示すと、ますます小さくうずくまる。

「三橋」

呼びかけには応じない三橋の腕を強引に掴んで引き起こす。こういうとき大抵は相手の気が済むまで一緒に待ってやるのが栄口の行動パターンであったから、三橋は多少乱暴とも感じられるその行動に驚いて涙目を大きく見開くと栄口を凝視した。

「いつまでも拗ねてたって仕方がないだろ。どう考えたってお前は悪くないんだからさぁ」

瞬きもせずに栄口を見上げていた三橋は、強い語調に表情は変えずに器用に涙だけをぼろりと落とす。小さく肩をすぼめてさめざめと泣く三橋は、とても憐憫に見えてそうして泣くことによって相手を責めているつもりなじゃないだろうかと、そんな考えが栄口の脳裏をちらりと過ぎった。
決して相手は責めない。しかし、何よりも態度は雄弁に相手の非を責めたてる。

「ずるいなぁ」

栄口は何気ない口調で言った。
決して傷つけるつもりも嫌みを言うつもりもなかった。それでも人一倍被害意識の激しい三橋にとっては、十分過ぎる程の責め言葉だったようで、背中に置かれた栄口の手を拒むように身を捩らせると見せつけるようにはらはらと涙を流して泣きじゃくる。

「泣かないでよ。そういうつもりじゃないんだ。ごめんよ、そうじゃなくって、俺だって三橋を責めるつもりなんか微塵もないんだからさぁ」

弁解の言葉も虚しくごめんなさいと謝罪をされて、栄口は絶望的な気持ちになった。

「俺は、三橋を慰めたくて探しに来たんだよ。だから、ねぇ、泣かないでよ」

栄口の言葉は既に懇願だった。
阿部が来ても気付かずに、三橋が阿部を見て栄口には視線を向けもしなかったことにも気付かずに栄口は泣かないでくれと言い続けた。

「三橋」

阿部の上擦った声にようやく栄口がその存在に気付いたが、阿部もまた栄口の方は見向きもせずに三橋だけに視線を向けていた。

「悪かったよ」

普段の不遜な態度は影を潜めていて、あまりにも阿部らしくない殊勝な声色だった。気持ち悪い、と栄口が内心で思ったことに反して、三橋は感極まったかのように何度も頷く。

「心配だったんだお前のことが」

阿部がそう言う。
だったら俺だって三橋のことが心配だったよ、と栄口は思った。心配が行き過ぎて我慢もせずに手を挙げる阿部と、じっと待って耐える自分とではどう見たって自分の方が相手のことを思い計っているじゃないかと思うのに、その気持ちは優越感を持つにはほど遠い落ち込みを感じさせていた。

「結局、阿部は三橋のことが大事ってことだろ」
「だと思う」

前に言った時はムキになって否定をしたくせに、と栄口はささくれ立った気持ちのままけれどそれを表面には出さずに、だよなそう思ってたよと笑った。

「無自覚ほど人と傷つけるものってないよね」
「面倒かけて悪かったよ」
「本当にね。好きって感情に意地張るもんじゃないんだって」
「悪かったって。俺、三橋のことはエースとしてじゃなくて友達としても好きだよ。前にも既に言ってたくせに、変な意地張ってた。なんか、友情とかって暑苦しくて恥ずかしいからさぁ」
「別に、恥ずかしいことじゃないでしょ」

表面上では淡泊に言いながら、内心でこの野郎この大馬鹿野郎と盛大に毒を吐いた。

「良いじゃん。友達としても大事なんだろ」
「そうだよ」

繰り返すなよなんか恥ずかしくなっちゃうだろ、とぶっきらぼうに言う阿部に三橋は泣き顔を弛めて小さく笑みを浮かべていた。相変わらず朗らかさとはほど遠い笑みだったが、三橋らしいそれは栄口が見て和むには十分だった。しかしそれと同時に、笑みを浮かべさせたのは自分ではないのだと思うと衝動的な苛立ちが筆頭に来る。

(ここまで来て、これだけ騒いでおいて、まだ「友達」だとか言うわけだこいつは)

盛大にため息を吐く。だから悪かったよ、と謝罪されることがまたさらに栄口の腹立たしさを助長させるのだ。
ごめんなさい、と三橋までが阿部に続いて謝罪をする。お前がする必要はないよと言うけれど、その声が少し上擦ってしまっていることに気付いて慌ててごまかすために咳き込んだ。
 








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