泣き叫ぶと良いんだ
泣きわめくと良いんだ
きっと引き留めることなんて出来やしないけど
せめて無様な姿を憶えててくれりゃ良いんだ
紅潮する頬と喘ぐ呼吸とだらしのない鼻水に涙に呼ぶキミの名に必死で無様だけど
だけど好き!好きやむっちゃ好きやねん!
ゆったりとした風が吹いていた。海が近いわけでもないのに、ほのかに潮の香りがすると織田は思った。 気怠い雰囲気を纏いながら辺りを包むように吹く風に、織田はまどろみを覚えながら息を吸い込む。まだ真夏には少し早い時期、激しく動きさえしなければ汗もかかない季節だ。しかし織田の額にはうっすらと汗が滲んでいる。 特別汗かきだというわけではない。つい今までキャッチボールをしていたのだ。 肩で息をしながら、壁にもたれかかる織田はやれと年寄り臭いため息を吐いて額の汗を拭った。 潮の香りが、辺りに充満する。 ひょっとしたら潮じゃなくて汗の臭いかもしれない、と織田は汗に湿った自分のシャツを掴んで鼻先に押し当てて嗅いでみる。当然、湿った空気にわき出る汗のせいでしっとりと湿っているシャツからはムンと鼻腔を塞ぐほどの臭いがした。 汗の臭いは刺激臭という程のものではなかった。しかしそれは織田自身がそう思っているだけで、例えば電車に乗りでもすれば隣のOLに眉を顰められるのだろう。 そんなことをぼんやりと考えていた織田は、ふと地面に向けていた視線を上げて前を見据えた。 そよぐ風に髪を漂わせる少年が、不安げにこちらを見てくる視線に気づいたからだ。 「三橋」 名を呼ぶと、肩を揺らして敏感に反応を示す。その手にはグラブがはめられていて、もう片方の手で持つボールはいつでも投げる準備が出来ていると言わんばかりにしっかりとした形で握られている。 「疲れてないんか?元気やなぁ」 気怠げな声で言う。 三橋は小さく頷いて、様子を窺うように上目遣いで織田を見ている。 今日織田が三橋と会うのは、実に二ヶ月ぶりのことだった。まだ高校に入学したてのころ、練習試合で互いを見知った二人だったがその時はそれだけで特別な印象などは大して残ってはいなかった。 せいぜいが面白い投手がいるなと織田が記憶に留めた程度で、三橋に至ってはぼんやりと織田の長身を覚えているだけだった。 しかしある時電話越しに叶と三橋が喧嘩をしたのだ。たわいもない喧嘩は、三橋が群馬に来たにもかかわらず叶に連絡を寄こさなかったとかそんなことだった。三橋にしてみれば、練習のある叶を思いやってのことだったのだが、それを言ったところで叶の怒りは収まらず感情のままに、そこが部室であることも気にせず電話口に怒鳴っていたところを織田が抑えたのだ。 一方的にまくし立て電話を切ろうとした叶に、それはちょっと酷すぎるやろと慌てて携帯を取り上げたのはわずかに印象に残っていた気の弱そうな三橋の姿が思い浮かんだからだ。 邪魔をするなと言った叶に逆らい、長身をいかして携帯を高く上げた状態で大丈夫やでどうせすぐに機嫌治るし、とフォローを入れてやったのがよほど嬉しかったのだろうか。後日叶から番号を聞き出したのか三橋から電話がかかってきた時には、織田はすっかりそんなことがあったということも忘れていたので驚いて素っ頓狂な声で応対してしまったのだ。 途切れる言葉と小さく不明瞭な声は、とても聞きにくいものだった。電話越しに、何度も聞き返しながら礼を言われているらしいとようやく分かった時にはため息すら出た。 そこで終わればまた織田は三橋のことは忘れて、ただ野球に明け暮れる毎日を送っていたのだろうが、織田は正直なところ投手としての三橋に興味があった。 話は分かりにくいので、何かを聞き出すことは難しいだろうと思った織田はメールアドレスを交換してその後律儀に何度か積極的にメールを送り続けた。 今後の対策にしたい、と思っていただけのはずだったのだ。 それが三橋本人への興味に変わり、気づくとそこには恋情が絡み始めていたのだ。完全に自覚したのは三橋が西浦の誰かの話をする時、自分だって同じ学校だったら同じチームだったらと拗ねてそこに出てくる名前のチームメイト達を憎らしく思うようになってからだ。 男同士なのに、と悩みはしたが気持ちが収まることはなかった。会って、あの挙動不審とも言える言動をもう一度目の当たりにすれば気持ちは覚めるかもしれない。そう思って会いに行ったのに、結果的には告白をしてしまったのだ。 驚いた三橋の顔を見て、織田も驚いた。まさか言ってしまうとは、と口元を抑え動揺のあまり謝罪の言葉を口に出しさえした。 それを三橋は冗談だったんですか、と堅い声で聞いてきたのでもちろん本気だと返すとなら嬉しいですとはにかんで告白を受け入れられた。 いわゆる遠距離恋愛の上に、互いが練習に追われる日々なので滅多に会えないであろうことは予想の範疇だった。 実際に、この一年で会ったのは数える程度だ。 それでも最初は楽しかった。会いたいなぁと電話越しに言うと三橋の照れたような沈黙がこそばゆく幸せだと、そんな甘ったるいことを思えるぐらいだった。 織田は練習が休みの時は、三橋の練習がある日であってほんの数時間しか会えないと分かっていてもなるべく埼玉へと足を運んだ。 三橋が群馬に来たことは、実は今回が初めてだ。 今までに一度も来たことがなかったのは、まだ三星にわだかまりを感じているからだろうと解釈をしてみてはいた。しかし、それには努力も必要なことだった。 来てくれと、頼むようなことは一度もしていないがだからといってただ自分が会いに行くのを待たれるばかりという状況では三橋の気持ちを疑いたくもなってしまう。 ホントに俺のこと好きか?と聞いたことを、責められるいわれはないと思っている。しかし、失言であったとも織田は思っている。 そうして思い悩み落ち込むばかりで、練習でもヘマを繰り返す。もう十分だ無理だと、思った時織田の三橋への気持ちは急激に冷めていった。 別に嫌いになったわけではないのだ。ただ、特別な存在としては思えなくなっていた。 メールをする回数も著しく減っていた。話題に困る。ただただ疲れるだけの関係を続けることなど到底不可能だと思った織田は、今回三橋が来ると聞いた時もこれで最後だと心に決めていた。 多分、三橋も少なからず別れを切り出すつもりでいるのではないかと感じていた織田は、やはり男同士の恋愛などは不毛なのだと吹っ切れてあと何年後にネタとして笑い飛ばせるだろうかとそんなことを考えて三橋が来るまでの日を待っていた。 ただ別れるとは言っても、友人として付き合い続ける分には良いのではないかと未練がましいことも同時に考えていて、実際に三橋に久しぶりに会ってみると今度は愛おしさがこみ上げてきてしまったのだ。 久しぶり、と会った三橋は早々にグラブを取り出してキャッチボールがしたいと言い出した。 滅多に自分から何かを提案することのない三橋のその誘いに、やはり普段とは違う心持ちなのだろうなと寂しさが募った。 ボールを投げるフォームとまっすぐ見据えてくる視線に、一年前の試合を思い出す。構えたところに確実に投げられてくるボールに、捕手ではない自分でも鳥肌が立つ。そして、紅潮していく頬に指を這わせたいと、不意に思った。 別れるつもりでいたはずなのに、もしかしたらその気持ちこそが勘違いで本当は三橋だって別れるだなんてことは微塵も思っていないのかもしれない。 そう自分勝手な解釈を付けながら、そんな結論もありだなと少しだけ舞い上がった。 「三橋は投げるの、好きやなぁ」 しゃがみ込んで見上げると、付き合わせてごめんねと弱々しく謝られた。その態度は奥ゆかしいというよりも卑屈だ。 引きつらせた喉に、骨がうっすらと浮かび上がっている。 緊張しているのだ。 そう思ったら、織田はとても悲しくなってきた。 付き合って一年も経つのに、結局自分は三橋の気持ちを落ち着けてやるような存在にはなれていないということなのだと、三橋の話題に良く出てくる阿部や栄口といった明らかに信頼されている面々を疎ましく思う。 「俺も相当の野球好きやけど、お前のそれは尋常やないな」 「これしか、ない、から」 「十分やろ。何一つ持ってない人間もいっぱいおるで。好きなことはあるしある程度何でもこなせるけど、でも夢中にはならへんって人間、いっぱいおるで」 「でも、特技とか趣味とか、そういうのじゃなくて。は、話し方とか、そういう、の、誰でも出来るのに、俺、俺は出来ない、んだ、」 ボールを握る指が白く変色している。わずかに震える拳に、痛々しさすら感じた。 抱きしめてやりたい。 そう思って伸ばし駆けた腕を、慌てて引っ込める。そんなことをしてしまえば、きっと別れることなど出来なくなってしまう。 別れるつもりでいたくせに、こうして考えることの矛盾を女々しく思い情けなさが募る。 「三橋のコミュニケーション能力って言うんやろか、そういうのは、確かに秀でてるとは言わんよ。けど、誠意が大事なんちゃうかな」 「ある程度は、で、出来て当然、だ。だって、そういうのって、社会的常識って言う、んだ。おれ、そういうのがダメだから、あ、阿部くんにも、」 「それは、あの男が短気だからやろ?」 言葉を遮って言う。 驚いたような、泣き出しそうな表情で三橋に見上げられることに居心地の悪さを感じた織田は、気紛れに背中をガリガリと掻いて言葉を続けた。 「気にすることない。分かりにくいこともあるけど、そんなもん理解しよう最後まで聞こうと思ってれば、分かることのが多いで。阿部がキレるんは、短気やから。それだけや」 「阿部くんは、いい人、だよ」 いよいよ今にも泣き出してしまいそうな表情だ。 しかし割と普段が気弱な表情でいることの多い三橋なので、本当に泣き出す寸前なのか見分けることが難しいものだった。 同じ学校で毎日会っていれば今頃分かるようになっていたかもしれない、などと思いながら、結局織田には三橋の感情を深くまで読み取ることが出来ず「泣くな」と若干上擦った声で言って慰めることしか出来ない。 項垂れている三橋の、首筋が白い。 ほんの少しだけだ、と自分に言い聞かせて織田が指先でだけかすめるように触れてみる。上がる肩。呼吸困難のような音を出して息を吸い込んだ三橋が、ぎこちなく首を回して織田を見る。 (あぁ、愛おしい) 別れたいという気持ちは、消えてなくなってしまっていた。もう二度と三橋と別れたいなどと思わない、とは織田も言い切れないと思っている。 それでも、そうした度に歩み寄り合いながらやっていければ良いのだ。 「なぁ三橋。俺な、これからは、もう少し頻繁に会いにいこうと思ってるで。お前がこっちに来なかったこと責めるような言い方したんは悪かった。会いたいんやったら、自分から行くべきやんな?」 「ご、め、」 「謝らんでくれな。別に皮肉でも何でもないんやから。本当に、俺がお前に会いに行きたいだけのことなんやから」 織田は必死だった。 早口にこれからのことを話し続けて、自分には別れる意志などはなくなったのだということを言外に表す。 不意に触れたままだった指先を三橋に掴まれる。 三橋はいつの間にかグラブを外していたようで、皮製品独特の匂いが鼻腔を通り抜けた。あぁ愛おしい。とても愛おしい、と織田は感情を噛みしめる。 「なぁ三橋。野球は、ボールがあって道具があって初めて出来るものやろ?どっちかだけじゃダメやろ?そしたら俺らもそういう風にはなれへんのかな」 三橋ははにかんで、とても素敵な表現だ、というような事を途切れ途切れに言った。 むしろ言い出した織田の方が、その比喩を乙女趣味だと笑い飛ばしたい気分になっていたにもかかわらず、三橋は素敵な表現だね、と繰り返した。 「だけど、人と野球は、や、やっぱり違う、よ」 そう単純なことばかりじゃない、と三橋らしくなく淀みのない口調で言って外していたグラブを織田に渡してくる。 それは織田が三橋にプレゼントしたものだった。所詮高校生の小遣いで買える程度は合成皮革が限界だったが、それでも割と良いものを選んだつもりだった。軽めのグラブは自分の使っているミットとは異なっていて、レジに持って行くまでの間にもなんだか重みがなくて使い勝手が悪そうだなと思いながら買ったものだ。 「一度でも思ったら、それは、きっともう、だ、ダメなんだ」 「俺は会いに行くで」 「もうすぐ夏大、だ」 織田の言葉を無視して、三橋はそう言ってはにかむ。 グラブは織田に渡されたまま、返して欲しい素振りも見せない。 自分は使うことのないグラブはきっと部屋で埃を被るだろう。 油分で光るグラブは、徐々に埃にまみれてべたりとけば立った表面を見せ始めるのだ。それを見るたびに心苦しくなるであろう自分の心情を想像して、織田は泣き出したくなった。 |