|
千代は雨が好きではなかった。 夏の熱気を冷ましてくれるのは有り難いし、薄暗くどこかアンニュイな風情のある情景を造り出してくれることも千代にとっては好ましいことだ。 しかし、どんなに涼しく心地よくなったとしても、その風景に酔いしれたとしても、癖のある猫っ毛は、湿気でみっともなくふくらんでまとまりを無くしてしまう。 ただそれだけの理由で、千代は雨が好きではなかった。 朝から降り続ける霧雨は、しとしとと微量なのにちっとも止む気配を見せない。 あーあ、と千代の口からため息がこぼれる。 午後まではなんとか持ちこたえてきたのに、霧雨の吹き込む渡り廊下の掃除当番のせいで台無しだ。 雨なんて大嫌いよと、空を見上げて睨み付けてもそれを聞き入れてくれる神様などはいないし、よしんば存在したとしてもこのクレームは神様に届く前に受け付けとか秘書とか、そんな部位のところでかき消されてしまうに違いない。 神様は非常にお忙しい方でございます。髪が雨でまとまらなくて困る、でしたっけ?そうですねぇ、そのクレームですと優先順位は九千七百三十二番目ってとこでしょうか。え?いつになるのか?それは、お答えしかねます。なにせ、神様は非常にお忙しい方でございますから。 千代の想像の中に出てきた受付だか秘書は、いけ好かない顔の中年オヤジだった。 (まったく、どこの世界もお偉方は融通が利かないんだわ) 一人で勝手に想像したことで勝手に憤りながら、千代は癖の目立ってしまった髪を手櫛で左右に分けた。 まだ一つに括るのには短い髪は、二つで左右に結んでも後れ毛が落ちてきてしまう。 手早さも上手くまとめるコツの一つだ。 慣れた手つきで髪をゴムで括り、生え際をピンで留める。 完璧とまではいかないが、それなりの出来に千代は一人心地ににんまり笑った。 「あ、しのーかが思い出し笑いしてる」 不意を突かれて、びくりと肩を上下させた千代に笑い声が降ってくる。 「水谷くんかぁ。びっくりしたなぁもう」 胸に手を置いて怒ったように言う千代に、水谷はへらりと笑ってごめんごめんと軽い口調で謝ってくる。手にはゴミ箱が持たれている。 水谷の隣には、その影に隠れるようにして三橋がいてやはりゴミ箱を持って、様子をうかがうようにちらりと上目遣いで千代を見てペコリと頭を下げてきた。 色素の薄い髪の毛が、いつもよりも強く波打っている。 そういえば、と千代は思い当たった。 あまりにも見慣れていて失念していたが、三橋だって癖毛で猫っ毛だ。 多分、髪が細いのだろう。まるでかつて流行ったソバージュパーマをかけたように、一定間隔で波打つ髪は、千代の湿気で膨らむ髪とは違い癖が強くなっているのにボリュームはない。 「いいなぁ」 ぽそりと呟くと、その対象ではない水谷がえ?と聞き返してきた。 「うん、三橋くんの髪。私もね癖っ毛なんだけど、三橋くんはボンってなっちゃわないんだなぁって思って」 「しのーかは、ボンってなっちゃうよね確かに」 「シャンプーとかも、色々試してるんだけどね」 駄目みたい。 そう言って苦笑すると、水谷が女の子はタイヘンだとおどけた口調でからかう。 「女の子はタイヘンなんです。男の子はいいね」 「いやいや。男の子だって、髪を気にするさぁ。人にもよるけど、三橋だって朝から髪気になってるよ。なぁ?」 話を振られて三橋は挙動不審に目線を動かして、それでもようやく頷いて返す。 そんな動作ももはや慣れたもので、微笑ましさすら感じて千代は三橋を見た。 おどおどとした様子も、新学期当初に比べれば大分落ち着いてきたように思える。少なくとも、部活での三橋は以前よりもずっと人の輪に入り込むようになったし(というか、周りが三橋を構い倒すのだけれども)(それに反応出来なかったのが初期で、今はたどたどしくもきちんと反応する)マネージャーの千代とも少なからず会話を交わしてくれるようになった。 「三橋くんも、私みたいにする?」 ちょっと、冗談だって言えるようになった。 三橋が、つり気味の目を見開いてうえぇと不可解な声を上げるのを、千代は笑ってほらと自分の左右に分けた髪の房を掴んでちょっと持ち上げる。 それを見た三橋は慌てて首を横に振ったのに、水谷がおもしろそうだと後押しをする。 「いいじゃん。三橋だって、ゴミ捨て行って、髪濡れるのやだって言ってたじゃん」 「し、しばったって、ぬれる・・よ」 「おお、確かに」 水谷は当たり前のことをいかにも失念してましたとでも言うかのように、大げさに額を叩く。 それを、千代がでもねと受け取る。 「落ち着きはするよ。まとめちゃうわけだし」 「おお、それも確かに」 大げさだなぁ。 千代は思って、小さく苦笑した。 別に鬱陶しいと思う感情はないけれども、多分水谷以外の人間がやったらさぞかしわざとくさくてくさいものになるんだろうなぁと思う。 水谷がやるから許せるのは、いわゆる人徳というものなのかもしれない。 そういえば、三橋に対してここまでくだけた口調で茶化したり冗談を言うのも、水谷ぐらいだ。 田島も確かに三橋に対して遠慮がないけれども、彼の場合は多分、冗談じゃなくて本気だ。 そう考えると、水谷くんは得だなぁと千代は思う。 その茶化して至極軽い口調で、やってもらえよと押し出された三橋は、結局千代に髪をゆだねている。 三橋の髪の毛は、柔らかかったけれども手入れが行き届いているとは言い難いものだった。 見た目だけで勝手に最高の手触りなんだろうと想像していた千代は、少しがっかりしながらもまぁ、男の子の髪の毛なんてこんなものか、と納得した。それに、さわり心地が良いとはいえないところが、掠れてささくれ立った変声期途中の声の感じにも似ていて、なんていうかセクシーだ。 こっそり悦に入っているのをまたしても水谷が「思い出し笑いしてる」と指を指してくる。 「違うよ」 言いながら束ねた三橋の髪が、するりと指の間から抜けていく。短髪ではないのだけれど、髪を結うには長さが足りないのだ。 ゴムで結うことは諦めたことを三橋には告げず、千代は制服の裏ポケットから予備で持ち歩いているアメピンを取り出す。 前髪を手櫛で後ろに掻き上げて、手早く端からピンで留めていく。 「思い出し笑いじゃないからね。ちょっと、うらやましくて微笑ましいだけだよ」 「って、どーゆーこと?」 「水谷くんと三橋くん、仲が良いなぁって。うらやましくて微笑ましいの」 「しのーかだって、オレらと仲良しだよ」 「ありがとっ」 水谷の視線が、千代の手元を追った。 三橋の前髪はすっかり上げられて、つるんとした額が丸見えだ。 千代が思ったよりもずっと、おでこが広いねと言うと三橋は恥ずかしがって顔をうつむけてしまった。 「うん。こんな風に、三橋くんの髪の毛いじらせてもらえるぐらいに仲良くなれて、本当に嬉しいよ」 「あらま、マネージャーはエースがお気に入りですか?」 「レフトの水谷くんも、お気に入りですよ?」 「いやいや、ありがとうございますぅ」 両手を合わせて頭を軽く下げる。 やっぱり大げさだなぁと、今度は口に出して千代は笑った。 「感激すべきことがあって、それを抑えずにいられましょうか。否、出来やしませんとも」 「あっはは。大げさだよ」 千代が大声で笑うのに、水谷が悪のりをしておぉ三橋の髪の仕上げも最高に素晴らしいと、まるで貴族のような口ぶりで言った。 前髪を上げてピンで留めただけの髪型は、けれども三橋の印象を変えるには十分だといえよう。普段は隠れている額が出ているだけで、明るい印象になる。それに髪を上げて、若く見えるか老けて見えるかと言えば、三橋は前者である。 水谷の言葉に、三橋が恐る恐る自分の頭に手を伸ばした。 「あ、あんまり触らないでね。ピンで止めただけだから」 「へ、変じゃない・・?」 「全然。自分でやって言うのもなんだけど、すごく良いよっ」 すごく可愛いよ。 続けてそう言おうとして、寸でのところで飲み込んだ。 男に対しての褒め言葉には、あまり相応しくないと思ったからだ。 咄嗟のことで、妙な間の空き方になってしまい三橋が不安そうに眉をしかめた。 しまった、と千代が後悔しきるよりも先に、水谷のあっけらかんと明るい声が響いた。 「三橋、それ、すっごく可愛いよ」 男に対しての褒め言葉じゃないのに。絶対に、喜ばしい言葉じゃないはずなのに。 水谷が言うと、三橋はうひ、と彼特有の声で笑って頬を赤らめる。 (可愛いなぁ) まさにそれは恥じらい、という表現が相応しい。 千代はしみじみ思って、それから少しだけ卑怯だぞと水谷を恨んだ。 ふと、そこで水谷と視線が合う。 「あ、しのーかが今度は思い出し怒りしてる」 指指さないでよ、もう悔しいなぁ。 声には出さずに心の中だけで恨み言を言って、千代はそれからやっぱり雨は嫌いだなぁと空を見上げた。 (あーあ、神様さんざんです。雨をなんとかして下さいなんて言わないから、せめて男女間の友情と男同士の友情を区別しないでくださいな) そうしたらきっと、水谷のように三橋に冗談が言えるのだ。 水谷にしたように恥じらって意識してもらえるのだ。 (そしたら、クラスが違うのに一緒にゴミを捨てに行ったり出来るんだよね) |