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三橋は電車の振動の度、胃の中身を戻しそうになっていた。 極度の緊張状態ならともかく、普段乗り物酔いをする体質ではない。しかし、隣に立っている中年男性からひっきりなしに匂ってくるのはきつい煙草の匂い。 おそらくは周りも三橋と同じような、心地悪さを感じているのだろう。斜め横にいる女性はハンカチで口元を覆っている。 三橋も、手で匂いを少しでも遮断しようと試みたのだが、既に気分が悪くなってからしたのではあまり意味がなかったようで、息をする度喉の奥が痙攣する感覚に、涙まで滲んできてしまう。 最寄り駅までは、あと八駅。 とてもじゃないけれど、冷や汗とうっすら暗くなる視界では、耐えきることは出来そうにない。 目的の駅ではないけれど、とりあえず降りてしまおうとした三橋は、混み合った乗客に遮られてなかなかドアにまでたどり着けず、無理に動いたことでかえって気分だけが悪くなってしまった。 電車がホームに滑り込み、ドアが開く。 人の流れに乗って、出てしまおうと思ったのに人の出入りは少なくて、三橋はちっともそこから動けずにいた。 声を出したら吐きそうで、すいません、と断って道を空けて貰うことも出来ない。 いっそこのまま倒れてしまえば、誰かが駅員を呼んでホームに担ぎ降ろしてくれるだろうか。ちらりと考えて、しかし倒れた拍子に吐いてしまいそうなので、それはすぐさま三橋の脳内で却下された。 自分の吐瀉物なんかの上に倒れるのは、冗談じゃない。 (あ、でも・・・このままだと、吐く、かも・・) 肩からずれ落ちた鞄を拾い直す気力もなく、えづいてしまうのを必死で留めようとする。周りの乗客は、そんな三橋の様子に気づいて少しづつ逃げるように距離を取った。 僅かながらに空いた空間を不振そうにのぞき込んだ一人乗客が、あっと声を上げた。 「三橋」 名前を呼ばれたのが分かっても、三橋は顔を上げることも出来ずに、ただどう息をしても良いかも分からず、口を開けて浅い呼吸を繰り返す。 それに合わせて上下する肩に、ポンと手が置かれた。 「酔ったのか?」 「は、はるな、さん・・」 「顔真っ青じゃんかよ」 慌てたように目を見開いて、榛名はゆっくりと三橋を引き起した。 「出るぞ。いいな?」 三橋が首を縦に降ったのを見て、床に落ちている鞄を自分の肩にかけた榛名は声をやや荒げて通りますと、乗客達の間を拭うようにドアへと向かう。 発車ベルが鳴ったのと、二人がホームに足を付けたのはほぼ同時だった。 「おー、ぎりぎり」 平淡なその言葉に続けて、少し低くした声で「大丈夫か?」と声を掛けられて、三橋は小さく頷いた。 「すいませ・・」 「いいって。それより、座ってなよ。なんか、冷たいの買ってくっから」 三橋をホームに並んでいる椅子に座らせて、ひらりと手を振ると早足で片隅の自販機に向かっていった。 あまり面識のない榛名に助けられたことが、まだ実感として脳に伝わってこない。ただただ、人に迷惑を掛けてしまったことへの罪悪感と、そんな情けない自分への嫌悪感がわき起こって三橋は俯いた。 (榛名さん、本当に・・いい人だ) 素直に好意だけを抱ければ、どれだけ楽かと思う。 それが出来ないのは、榛名がかつて阿部とバッテリーを組んでいたからだ。 阿部が榛名と三橋を比べたことなどは、一度だってない。勝手に、三橋が自分の居場所を取られることが怖くて、榛名に苦手意識を持っているだけのことだ。 隠しているつもりでも、多分隠せていない。 そのぐらいのことは、いくら鈍い三橋でもうっすらと分かっていた。 それは、阿部が極力榛名の話題を口にしないことや、それを受けて周りの部員までもがそうして気を遣ってくれていること。 申し訳なく思う反面、そうして気を遣ってもらっているのだと思うことが自惚れているのではないかと、悩みに悩んで堂々巡りだ。 ぐるぐる考えていると、不意に首筋に氷のようなものを押し当てられてひゃぁと三橋は悲鳴を上げた。 途端に、胃液が喉奥にまでせり上がり三橋は顔を顰めた。 喉もとを抑えた三橋を見て、榛名は慌てて缶ジュース(氷のようなものの正体はこれだった)を椅子に置くと、背中をさすりながらごめんと謝ってくる。 「悪ふざけしてる場合じゃなかったよな」 「あの・・・ごめんなさい」 あまりに申し訳なさそうな榛名の表情に、逆に三橋が謝り返してしまう。 それに、きょとんとあっけにとられたような顔をして、榛名は興味深そうに三橋を凝視した。 そして、訳も分からないのに、三橋は反射的にまた謝ってしまう。 「本当に、良く謝るんだな」 言いながら差し出された缶ジュースは、部活でもおなじみのスポーツ飲料だった。 恐る恐る受け取って、プルタブを開ける。ほのかな甘い香りに、ほんの少し三橋の気分も晴れたような気がした。 「ありがと、ございます」 「いやいや。だってさぁ、お前本当に死にそうな顔してたんだもんよ」 たいしたことじゃないからと、笑ってみせる榛名は阿部の話す人物像からはほど遠いほどにさわやかで優しい。 「具合悪い時ぐらいはさ、でかい顔で路開けてもらえよ」 それが出来ていれば、苦労はしていない。 俯くと、榛名がだからぁっと声を荒げた。 意志の強そうな双眸がつり上がって、三橋は思わずひぃと怯えたような声を喉の奥で出してしまう。 それを榛名が怒鳴ろうとして、しかし思い直したかのように大きなため息を吐くと声の調子を和らげて「ガムが」と言う。 「が、ガム?」 「ガムが、なくってさ。なんてゆーか、中毒状態?無いと落ち着かないんだよね。だから、イライラしちゃっててさ」 「大変、です・・ね?」 「お前の乗り物酔いほどじゃないけど」 茶化すように言ったのは、多分三橋を怯えさせないようにという、榛名なりの気の使い方だろう。気心が知れたような態度が嬉しくて、三橋は「ウヒ」と笑って缶ジュースを一口飲んだ。 喉に通る冷たい液体が、気まぐれだとしても胸やけのような心地悪さを和らげてくれる。 大げさに呼吸をして顔を上げると、榛名とばっちり視線がかち合った。 「まだ、気分悪い?」 「良くなった・・ですっ」 首を激しく左右に振って言う三橋に、榛名は少し疑うように眉を顰める。 「本当に?さっきも言いかけたけど、具合悪い時は、遠慮とかする必要ないんだからな」 「あの、でも。ほ、ほんとに、気分大丈夫で、す・・。あの・・」 言葉を止めて、何か言いたげに口ごもる。 「なんだよ?」 「あの。め、迷惑かけちゃって、ごめんなさい」 缶を持つ指の関節が白い。がちがちに肩を強張らせて頭を下げる三橋を見て、榛名はやれやれとぞんざいに首を回してため息を吐いた。 「迷惑なぐらいなら、最初から手貸さないって」 「でも・・」 「俺、結構我が儘なんだ」 三橋の言葉を遮るようにして、脈絡ないことを言う。 訳が分からず付いて来れていない三橋は、挙動不審に眼球を忙しなく左右に揺らす。幾分か気分が良くなったとはいえ、さっきまでの具合の悪さですっかり緩くなった涙腺が刺激されて視界が滲む。 それを見た榛名がまた、あぁと嘆くようなため息を吐く。 「自分にその気がなけりゃ、知り合いだからってだけで助けたりしないよ。しかも、ガム噛めなくてイライラしてるってのに、さ」 「ご、ごめんなさ・・っ」 「じゃなくて。俺が言いたいのは、こんな我が儘な俺が、お前を助けたんだからもっと遠慮しないでりゃ良いんだってことなの」 きょとんと、三橋が目をまあるく見開いた。 「だからさ、」 榛名は、何度目かのため息を吐いて、けれどもどこかおかしそうに口の端を上げて笑みを浮かべながら、 「深読みして良いんだよ。これ」 と一言。 三橋の手から缶が落ちる。 軽い金属音がして、コンクリートの地面に滲んでいく。三橋は、トットッ、という液体特有の音を聞いたような気がしたのだけれども、駅の構内でそんな小さな音は騒音にかき消されてしまうはずで、まずそんなことがあるわけがない。 (あぁ、心臓が) 聞こえたのは、自身の鼓動だ。 三橋はこの瞬間、初めて榛名と阿部の二人を引き離して意識している自分に気づいていた。 ただその意識というのは、三橋の居場所を脅かす存在だった榛名が一変して居場所そのものになったから、というもので。 決して、彼の言葉そのものに対するものではなかった。 (榛名さんが、俺のこと・・すきなら。榛名さんの一番、阿部くんじゃない・・) 興奮していく自分を、身勝手とどれだけ心中で罵ろうともそれを口に出して伝える勇気などはまるでない。 泣き出す三橋を、榛名が慌てて宥める。 返事を急かすわけじゃないから、と優しく言う。 (ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい) 不意にまた吐き気を感じて、三橋は身を縮めて涙を浮かべた。 榛名の心配する声に、まるで拒否反応を起こすかのように三橋は大きくえづいた。 |