密室、開くドアは無い。
そこは酷く静かな空間だった。窓からの日光を受けて白く反射している床には、埃の一つもなく、同様に白いカーテンやベットカバーも皺どころか乱れの一筋もない。 正しく白いその空間は、視界がおかしくなりそうだと浜田は思った。しかし、そんなものは慣れていけばなんとかなるだろう。 外の音も入り込んでは来ないここは、外界の煩わしさとか、怒りとか諦めとか、そういったものから自分を解放してくれるような気がした。 持ってきた鞄を床に置いて、そっとベットに座ってみる。みるみるうちにスプリングが音を立てマットが沈む。完璧の白を築いていたベットカバーに皺が幾重にも刻まれた。 そうして、ぐるりと部屋の中を見回すと改めてその白さに目を奪われる。 でもまぁ、良いんじゃないでしょうか、と浜田は内心でこっそり満足した。 その時に不意に吐いてしまったため息は、足の先から頭の上までしびれるような寒い日に、息を吹きかけながら熱いスープを口に含んだ時のような暖かい気持ちに似ていた。 うん、悪くない。 目を閉じて今までの自分の環境を思い出して、比べてみる。すると、胸の肋骨の裏辺りにポンと膨らんだ大きな風船のような満足感を覚えることが出来て、浜田はますます気分が良くなった。 十秒ほどそうして満足感に浸っていただろうか、ゆっくりと目を開けるとまず明るさに目が眩んだ。それから、目を閉じる前まではいなかった三橋が部屋の隅に立っているのを見て「やぁ」と声をかけた。 「久しぶり」 前に会ったのは三日前だった。 久しぶりというにはちょっと大げさな期間だが、しかしその間に色々なことがめまぐるしく展開してうんざりするぐらいに疲れ切っていた浜田にとっては、三日間が何ヶ月にも感じられていたのだ。 だから、実際にはたったの三日でも、久しぶりと言いたい気分だった。 三橋が返事を返してこないので、浜田はもう一度しっかりと三橋の顔を見ながら「久しぶり」と同じことを繰り返した。 うん、と小さく三橋が頷く。 始めての場所に不安そうに身を縮めて、時々大きな瞳を忙しなく動かして辺りを窺うように見回す。 頼りない仕草だ。けれど、それはこの場所にとても良く似合っていると、浜田は思った。 「何してたの?」 「色々。色んな人のとこ、行ってた、よ」 「西浦の?」 うん、とまた頷く。浜田はそっかぁ、と言ってちょっとの間懐かしさに浸った。 西浦高校の野球部の部員たちとは浜田が応援団を作ったことで、親しい付き合いを続けていた。彼らは皆一様に気の良い人間で、それぞれに優しかった。 素直に優しい者、不器用に優しい者、無邪気に優しい者。皆、浜田にとっては大切な友達だった。 高校を卒業して二年が経った今だって、浜田は彼らのことを友達だと思っている。 「みんな、元気だった?」 「病気とか、怪我とか、そういうのはない、よ。でも、心配、してた」 「優しいんだなぁ」 言ってから、阿部だけは心配なんかしてくれていないだろうけれどと浜田は思う。 誰よりも三橋のことを信頼して気に掛けていた捕手に、ここに来る前に一度だけ罵られたことがあったからだ。 憎らしげに顔を歪めて、大層凶悪な顔つきで暴言を吐かれた。それは異常な勢いだったが、言っていることは世間一般的に見ればごく当たり前のことだった。だから、このキ○○○野郎、と出版コードにひっかかるあの言葉をぶつけられた時も、浜田はまるで腹が立たなかった。むしろ、申し訳ない気持ちで一杯になりながら、本当にごめんと謝りさえした。あの時、花井が横で宥めていなければ一発、いやもしかしたらそれ以上殴られていたかもしれない。 そう思ったら、浜田は自分の頬がぼわんと熱い痛みに包まれたような錯覚を覚えた。それには、少しだけ切なさも混じっていた。 阿部は、本当に三橋のことが好きだったのだ。 それが友情か親愛か恋情かは、当人ではない浜田には分からない。けれど確かに言えることは、阿部が三橋を特別視していたということで、自分達の関係に横槍を入れるような人間のことを絶対に許しはしなかったということだ。 だから俺は嫌われてるんだろうな、と浜田は申し訳ない気持ちを持ちながらも、自分の中の阿部が厭う部分を無くそうとは思わなかった。 阿部は浜田が三橋の話をすることが、気にくわないのだ。高校時代には、そんなことはなかった。元々、浜田は三橋の幼い頃を知っていたから、そういった部分では阿部が知らない三橋の話題を持っているのは至極当たり前のことだったからだ。それが、いつしか阿部に逆転されてしまっていたのだけれど、少しだけ寂しく思っただけでだから阿部に嫉妬をしたり憎く思ったことは浜田にはない。 それで関係は保たれていた。浜田はあくまでも、三橋の兄的存在であり、阿部と三橋の関係には口出しをしない。ただ見守るだけの存在なんだよと、それは浜田自身があえてアピールしていたことであった。 けれど、実際には見守っていたことなどは一度だってなかったのだ。 阿部が三橋を特別視するように、三橋もまた阿部を特別視している様子から必死に目を逸らしていた。 俺にとって三橋は弟みたいな存在で、だからつい気にしてしまったり色々考えたりしてもどかしい気持ちになるのだ。浜田は、そう自分に言い聞かせていた。言い聞かせていたということは、つまり自身の気持ちを強制的にその方向に持っていかなければ、本心が垣間見えてしまうという自覚があったからということになる。 何故本心を隠す必要があったのか、などということを問答する必要はなかった。単純に、浜田は三橋のことが好きだったのだ。ただそれは、好きだという気持ちだけで、手を繋いで街の中を歩きたいとかセックスをしたいとか、そういうことではなかった。浜田は自分のその感情に満足をしていたのだけれど、阿部は三橋のことをぐいぐいと引き込んでいってしまって、あの二人だったらひょっとして恋人になり得るのではないだろうかと思わせる程に二人だけにしか分かり合えない世界を確立していっていた。 阿部は自分達に都合の悪い人間を除外していっていたし、三橋は飼い慣らされた小鳥のような曖昧な判断力しか持っていなかったから、それが彼にとって最良かどうかなんてことは周りが考えるだけ無駄なことであった。 阿部にとっては「三橋の為」という自負が世界の全てて、三橋にとっては「阿部」という存在がアイデンティティの確立を証明していたのだから。 だから、浜田は阿部に対して自分は無害なのだというアピールを欠かさなかった。恋人になりたいわけじゃない。けれど、傍にはいたい。 それには、いかにして阿部に気に入られるかが(最悪、無害なのだと無視すべき存在でも構わなかった)重要だったのだ。 (もっとも、今はそんな必要はまるでなくなったんだけどね) 相変わらず、居心地悪そうに隅に立ったままの三橋を手招きして、横に座るよう促す。 三橋の雰囲気が控えめであることを証明するかのように、ベットは軋まなかった。 「そういえば、おばさんは元気だった?」 「家には、か、帰ってない。つ、つら、くなるから・・」 「そっか。本当にずっと、帰ってないんだね」 言うと、三橋は目を伏せて俯いた。 高校時代には少し赤らんだ健康的な色をしていた肌が、今は驚くほど白い。 さらりと長めの髪が揺れると、その下からは日の光を透してしまいそうな程に白いうなじが覗く。あぁ、こんなところにも「白」があった。 そう認識したら、視界がチカチカと点滅し始めた。三橋を縁取る輪郭が、淡くなって消えそうなほど細くなる。 駄目だ、消えるなよ。 慌てて、目を瞬かせて手の甲で強くこすった。違う、そんなことよりも引き留めなくては。名前だ。そう、名前を呼んで引き留めなければ。 「三橋」 浜田は、焦って名前を呼んだ。子供の頃、人混みでうっかり手を離してしまった母親が、どんどん人波の奥に遠ざかっていったことがあったことを、名前を呼びながらふと思い出して、泣きたくなった。 その焦りと切なさに、とても酷似していたのだ。 三橋は、浜田の心情になどまるで気づいていないようにただぼんやりとどうしたのと見上げてくる。 「目が馬鹿になった。三橋が、チカチカ光って、またどっかに消えちゃうんじゃないかと思ったんだ。びっくりしたけど、でも、そんなわけないよな」 「ハマちゃん。それは、ち、ちがう、よ」 三橋は、とても悲しそうに言ってから、口を横にきゅっと結んだ。 なんだよー、泣くなよー。少し茶化すようにして浜田が慰めるのに、三橋はそれらの言葉を聞き入れもしないで、やっぱり悲しそうにしているだけなのだ。 「三橋廉っていう人間は、もう、消えちゃった、んだよ。半年前に、事故で。お、葬式、だって・・」 「そうだよ、事故に遭ったよな。俺だって、葬式には参列したよ。でも、消えちゃってないだろ?今、俺と一緒にこうして会話をしているのは、紛れもなく三橋廉じゃないか」 「は、ハマちゃんだけなんだよ。オレのこと、見えるって、話しが出来るってい、言ってるのは、ハマちゃんだけなんだよ。だから、こんな、とこに、」 言葉を句切って、色素の薄い瞳がぐるりと部屋を見回した。 白い。どこを見ても、黒ずみの一つもない真っ白。 その中で、浜田と三橋の存在だけが彩りを持っている。それは、浜田にとってはとても素晴らしくて特別なことのように思えた。 やっぱり、悪くはない。病室とは言うけれど、ここに病の気配などは微塵も存在していない。 泣き出しそうな三橋を尻目に、浜田はにっこりと笑みを浮かべた。 「三橋、俺のことを哀れんでるの?だとしたらそれは、間違ってるよ。俺はね、嬉しいんだよ。三橋のことを見えると言って会話をしていると言って、狂っているよと噂され続けることにはうんざりだったんだ。花井が、気を遣ってあまりその話題には触れないようにしてくれているのも、泉があんたは馬鹿だねって切なそうに言うのも、阿部がお前の存在をちっとも信じてないことも」 全部うんざりだったんだよ、と言って浜田はちょっとだけ泣いた。 顔面が膨張していくような感覚。上がっていく体温。滲んだ視界には自分のすぐ横に三橋が座っていて、酷く悲しい気分の中それだけはとても嬉しかった。 「俺は三橋以外の幽霊なんて見たことなかった。でも、すぐ信じたよ。むしろ、嬉しいと思って、だからみんなに話したんだ」 「でも、だって、それは、やっぱりおかしいんだ、よ」 「どうして?三橋は三橋だろ?お前の存在を証明するものは、お前を知っている人間がそれを証明することじゃないか。だったら、昔から付き合いのある俺が認めてるんだ、お前はやっぱり三橋廉で間違いないんだよ。俺はね、お前のことを見えないふりを続けて生きていくなんてことは出来ないよ」 「オレ、う、嬉しかったよ。ハマちゃんだけが、オレのこと、見つけてくれて。でも、だから、オレの存在が異常で、それに対応してくれるハマちゃんも、異常だって、思われたのも、わ、分かるんだ」 膝の上で両手を拳にしてきつく握っている三橋を、浜田はそっと慰めてやりたくて肩を抱き寄せようとした。 けれど、動かした腕はそのまま空を切って、自分のところへだらりと返ってくるだけだった。 浜田は、へらりと脱力したように笑って「こういう体質だと思えば、幽霊も人間も、その境界は曖昧なもんだよ」と言った。 「俺はもう、一生ここにいることになっても構わないと思ってるよ。親には迷惑かけることになっちゃうけど、でも、そこはさ、この病院は軽度の患者には働き先の斡旋もしてくれるって言うし、多少はなんとかなると思うからさ」 「や、めて、よ。ありがと、ありがとう。でも、ハマちゃんの人生を壊すの、は、い、嫌だ。オレ、ハマちゃん好きだ。だから、オレのこと無視して、ちゃんとした、せ、生活、を」 「嫌だ。俺はお前のことが好きなんだ。だから、絶対に存在を否定するなんて、阿部のようなことはしたくない」 「あ、阿部くんは、なにもわるくない、よ」 「知ってるよ。今の世界中どこを探したって、阿部が悪いなんて言うヤツはいないだろうね。だけど阿部は、三橋を見つけてやれなかった。俺、しか、見つけてやれなかった」 言葉にして見たら、自分だけという状況にとても優越感が持てた。この感情は、果たして正常なのか異常なのか。浜田は考えようとして、そんなことは無駄なことなのだと思い直した。 この場所に来てしまった時点で、浜田が何を考えようとそれは「患者」の「症状」でしかないのだ。一般的にまともなことを考えたり言ったりすれば「回復の兆し」で、本音だとしても一般的には非常識なことであれば「病状に変化無し」。それだけのことだ。 「ねぇ、三橋。三橋は、例えば高校の時に、俺がお前に告白をしていたら、受け入れてくれたかな?」 「わ、わかんない、よ。でも、ハマちゃんのこと、オレ、好きだ、」 「そっかぁ」 押せばどうにかなってたかもしれないなぁ、と一人心地に呟いてため息を漏らす。 「だけど、俺やっぱり、お前のことどうすれば良いのか分からなくなってたかな、その場合は。手を繋いだりセックスをしたりって、触れあうようなことは望んじゃいなかったんだ。でも、望んでないっていうのは、お前のこと汚すのが嫌で、自分のこと押さえ込んでただけでさ。もしも、お前が生身のままでいたら、いつかは俺、お前のこと襲っちゃってたかもしれないんだ」 「そんなこと、ハマちゃんだったら、絶対に、しない、よ」 「するよ。だって、したかったんだもん。でも、今はそれは絶対に叶わない。俺がどれだけ気持ちを募らせても、お前は汚されることなくずっと俺の好きな三橋のまんまなんだ」 良く分からないよ、と三橋が呟いた。 そうして否定されることは、浜田にとっては有り難かった。自分の思い通りにならない三橋は、確かにそこに妄想じゃない三橋の存在を感じさせてくれるからだ。 だから、幸せだ、と浜田は思った。 そんな気持ちの中で、完璧だと思っていた白い空間を象っているはずの壁に、雨粒程度の小さな滲みを見つけてしまい、急激に気持ちが冷めていくのを浜田は冷静に感じ取っていた。 最初の差し入れは、白いペンキにしてもらおうと決心をした。 |