オープンマイ



真っ暗だ。
何も見えない。
そう思った時、ふと肩に触れる体温があった。
最初はそれが体温だとは思わず、何か得体の知れない怪物なのではないかと身を竦めて慌ててそれから距離を置いた。それに一瞬暖かさが離れた。
戸惑っているような気配を感じ、そこでようやく「誰だ」と尋ねることが出来た。
息を吸い込む、かすかな吐息が頬に当たった。けれど、返事はない。
もう一度「誰かいるんだろ」と尋ねる。
逡巡するように空気が曖昧に動く。

「あの、大丈夫です、か?」

か細く、泣き出しそうな程に不安定な声だった。高い声だったが、女ではないなということだけがかろうじて分かる。
一体何が起こっているんだろうかと、辺りを見回そうとして初めて自分が横たわっているのだと気付く。
何も見えなくても体を起こすことは学習された動作なので大した苦労はいらないだろうと思ったのに、ぐらりと脳が揺れるような感覚に吐き気をもよおし満足に起き上がることが出来なかった。前かがみに倒れ込みそうになったところをそっと脇で支えられて、反射的にありがとうと言った。
すると、ごめんなさいと消え入りそうな声で予想だにしないことを言われて思わず「は?」と素っ頓狂な声を出してしまった。

「ご、ごめんなさ、い」
「いやあの、すいません。そういうつもりじゃなくて」

しどろもどろに言いながら、なんのつもりじゃないのか自分でも分からないくせにと情けない気分になる。相変わずぼんやりとすら光の見えない視界に、パチリとまばたきをしてみる。
やはり、何も見えない。

「あの、何かあったんですか?」
「た、倒れたんです」

それは予想が付いていた。
大きく頷いて一息置いてから、それで、と詳しく話してくれるように促した。繰り返し、倒れたんですと声が降ってくる。俺が、と言いかけて僕がと言い換える。

「僕が倒れたのは分かりましたけど。そうじゃなくて、状況が知りたいと言うか…」
「状況で、すか?」
「電車乗ってたのは覚えてるんです。途中気持ち悪かったんで、多分それで倒れたんでしょうけど」

なんで真っ暗なんですか?聞くとしんと静まり返った。憶測でしかないが、戸惑っているようなそんな雰囲気に感じられた。妙なことを言ったつもりはない。しかし不気味なぐらいに静かだった。
有り得ないことだけれどもと前置いて、ひょっとして俺は死んでしまったのだろうかと不安にすらなった程だ。俺は死んで、ここはあの世で。あの世なんてどんなところか知らないから、もしかしたらこうして暗闇ばかりが続くところなのかもしれない。そして俺は今、この不安定な話し方をする人間をあてがわれて、人間性を見られているのかもしれない。所謂、閻魔様の裁判。
繰り返すが、もちろん有り得ないと思っていた。
思っていたから、突然今までとはまるで違うトーンの声で「お友達、目が覚めたみたいだね」と聞こえてきた時には「すいません」と主語のない曖昧な謝罪をしながらニヤニヤと自身の子供じみた誇大妄想を恥じて笑った。
元気そうじゃないかと、壮年らしい男の声が言った。
そして説明を求めるよりも先に、今まで話しをしていた男よりもスムーズかつ分かりやすく状況を教えてくれる。
それによると、駅で倒れた俺はそのまますぐに救急車で最寄りの病院にまで運ばれたらしい。その時に居合わせた、今横にいる少年(ここで始めて、どうしようもなく説明下手な男の大まかな年齢を知ることが出来た)が一緒に付き添ってきたのだということ。
それから、倒れた原因はストレス過剰によるものだということも、男は教えてくれた。

(ということは、この人は医者なんだな)

尋ねることは愚問なのだろう、と俺はただ礼だけを言って黙り込んだ。
それと同時に、スラスラと状況説明をしてくれるこの医者が、この暗闇については何も口にしないということは何も見えないのは自分だけなのではないだろうかという考えに行き着いた。
そうすれば、先程の男の妙な沈黙も納得出来るし、気絶をするほどのストレスだ。目が見えないということが、ないとも限らない。
もやもやと、そんなことを考えているとその沈黙を上手く拾って医者はさらに、倒れた時に頭を打った可能性があるので検査をするよとフランクな口調で言ってきた。
ドラマなどで良く見る、患者を緊張させない為の方法だ。俺はそんなことを思いながら、その前に親に連絡をして欲しいと頼んだ。
言ってしまってから、しまったと思ったのは紙に書いてくれと言われる可能性が高いことに気づいたからだ。目が見えなければ、物を書くことは不可能だ。
ここは病院で目の前にいる男は医者のはずなのだから、その症状を訴えれば何の問題もない。それは十分に解っていた。
それでも、言いたくはなかったのだ。ひょっとしたら、とっくに医者は分かっているのかもしれないとも思った。
なにせ、医者だ。
目の見えていない人間の視点というものは、素人目に見ても不自然に違いない。意識をすればするほど、寄り目になっているのかもしれないが視力がないのでそれすらも分からない。
とにかく、医者が気づいていようがいまいが、自分からはそのことを打ち明ける気にならなかったのだ。
内心で自分の迂闊さに舌打ちをしたが、時既に遅しでもちろんそのつもりだよと、医者の隙のない親しみのある口調が降ってくる。
気づいていなければ筆記用具を手渡されるだろう。気づいていたら、そのことが話題に出るだろう。
どちらにしても好ましくはない。

「あの、携帯、を」

どうにもならない状況に苛々ばかりを募らせていると、不意に遠慮がちな声と共にふわりと、申し訳程度に肩に触れられる感覚があった。
耳元で囁かれる声は、妙にカラカラとしていて聞き取りにくかった。しかも近くで話されている分、その滑舌の悪さが目立ってそちらばかりを気にしてしまうから話されていることが入ってこなくなってしまう。
悪いんですけど、もう一回。
そう頼むと、萎縮したように声はしぼんでしまったが、繰り返してくれないわけではなかった。

「携帯、の、プロフィールを」

見せたら。
本当に、遠慮がちに言われた言葉に俺は飛びつくようにしてそうしてくれと答えた。
なかなか気が利くじゃないかと、偉そうなことを思いながら男への心証をぐんと上げる。
医者は素直に携帯にある電話番号と名前を書き取ったらしく、連絡が取れたらまた来ると言って早々に去っていった。
また、二人きりになった。
なんとなく、口を開かないでいたら瞬く間に気まずい沈黙が広がってしまった。ここが病室なのだということを知ったせいもあって、イメージの中にある真っ白で不自然に整った部屋を思い浮かべることでなおのこと沈黙が重苦しく感じられる。
あの、
と、耐えきれずに口にしてみたものの特に聞きたいこともなかった。
しかし、男はしっかりと意識をこっちに向けている。

「えーっと、あの、年は?」

しどろもどろになりながらの質問は、言ってみるとくだらなくも不自然ではない出来だった。しかしまだ少し相手の意表を突いてしまった部分があるのではないかと、理由として声が若く聞こえるからと続ける。

「十六です」
「あ、ほんとに若いんだ。俺も一緒。高二?」
「い、一年、です」

ふぅんそっか、と敬語ではなくした口調を男が不満に思った様子は感じ取れなかった。
俺、市原。と苗字だけの自己紹介をすると、相手は三橋ですと名乗りながらも馬鹿正直にさっき携帯のプロフィールで見てしまいましたと告白してくる。
そんなことはどうでも良いよむしろありがとうと言ったら、大げさに恐縮された。
それから、俺も前にありましたから、とほとんど聞こえないような小さな声で続ける。

「あったって?なにが?」
「め、目が見えな、く」
「ストレスで?」
「そう、です」

消え入りそうな声。
気の強い人間ではないだろうと思っていたが、これだけ不安定そうな性格でストレスまで抱え込んでしまったら自殺という言葉が頭を過ぎらないとも限らないのではないかと、下世話なことまでを考えてしまった。
実際、最初の一言目から三橋は覇気に欠けていた。失礼な話、要領もあまり良くはなさそうだ。それでいてさっきの気の利きようは、自分の経験から来ていたことなのかと、妙に納得をしてしまった。

「目が見えなくなるのって、結構良くあることなわけ?俺、高校生で男のくせにストレスってのとか、結構本気で恥ずかしくってさ」
「良くあるか、は、わ分からないです。でも、俺、も恥ずかしくって。情けないと思った、し、俺は夜だったんですけど。あ、朝になってもダメで、誰にも言えなくて」
「で、どうしたんだよ?すぐ治った?」
「三日ぐらい。別に、痛いとかはなくて、で、でもすぐにばれちゃって。いとこ、に部活辞めろって言われたりもし、した」

声が揺らいだ。
泣き出すのか、と思ったがその後で啜り声やしゃくり上げる音は聞こえなかった。
安堵したのと同時に、中途半端にプライベートを聞かされてしまって、正直面倒くさいなと思う。
ただでさえ話題はストレスだ。それに加えて、ストレスの原因をちらりとでも漏らされてしまったら、気を遣って慰めるより他にない。
面倒だ。心底思った。
しかし、さて何と言って慰めようかと、同時に考えている。割と真剣に考えているくせに、どれだけ考えたって出てくる言葉はみな、陳腐で上っ面のものでしかない。
普段聞かされて、何てくだらなくて空回りしている慰めなんだろうかと思っていた言葉の数々と比較しても大差のない、重みのないことしか浮かばない。

「部活って、なに?」

そして口に出してみれば、慰めの言葉ですらない。
あまりにも愚鈍過ぎる自分の神経に、思わず死んでしまいたいと内心で呟いてみるが言ってしまった言葉を取り消しに出来るわけでもない。

「ごめん。突っ込みすぎた」
「だ、だいじょう、ぶです。嫌じゃないです」

それから、

「野球部、です」

の言葉。
あ、俺も。
音は既に出来上がっていた。あとは喉を滑り上がってくるだけだったのに、それが叶わなかったのは先程の医者が戻ってきたからだ。
お母さんがすぐに来るって言ってたよ、とやはりその声は親切を惜しみなく見せつけたものだった。
医者は三橋に対して、だから君はもう帰っても大丈夫だよと声をかけた。
馬鹿野郎、と咄嗟に口に出さなかったのはすんでの所で思いとどまれた忍耐力故だ。
まだ話は続いてるんだよ、と見えない視界で医者を睨み付ける。
三橋のような人間に、そんな風に言えば残りますだなんてことは言えようはずもない。
案の定、三橋はほんの一瞬、一呼吸分だけの間を空けてそれじゃぁ帰りますと弱々しく答えた。
待ってくれ、と言えるはずもなかった。
お大事に、なんて意外にも礼儀正しく言って残した三橋に、まだ良いじゃないかと引き留めることは出来なかった。
ありがとう、とおざなりに礼を言うことしか出来ない自分が情けなかったけれど、もしも引き留めたとしてまた三橋のトラウマについて蒸し返すのかと思ったら引き留めることなんて到底出来るはずもなかったのだ。
それじゃぁ、と曖昧な挨拶を交わす。
空気が動く。気のせいかもしれないけれど、すぐ傍にあった暖かさが離れていくように感じられた。
ドアが開く音、きぃと軋む音がしてそれからパタンと丁寧に最後までドアノブから手を離さなかったのであろう三橋の姿を想像してみる。

(あぁ、三橋って顔も知らないけど。きっと始終自信のなさそうな顔をしてるんだろうけど。眉は下がってるかもしれない。目線は合うことがないのかもしれない。野球部だって言ってた。部活を辞めろだって、そりゃ野球部でのことってことなんだろうけど。大丈夫なのかよ。お前、大丈夫なのかよ)
キリ、と腹痛を覚えて体を丸めて呻く。
医者が、どうかしたのかいと聞いてくる。どうかしたって、どうかしてるからここにいるんだろうにと捻くれた答えを言ってやろうかと思ったが、あまりにも子供じみているからと思いとどまった。
ちょっとだけお腹が痛いですと、素直に答えておく。

「ところで、君の目ね」

ストレス性のものだから、あまり心配しなくても大丈夫だよ。
医者が言っている。けれど、そんなことはどうでも良かった。
あれほど嫌だとか恥ずかしいだとか思っていたことなのに、言われてみると案外どうでも良かった。
それよりも、気にすべきことが出来たからだ。
そうですか、と上の空でかろうじて返事をしたことは覚えている。医者がそれを不安ととったのか、反抗と取ったのかは知らない。
けれど、その返事をした後でさらに大丈夫なんだよと言い募る医者を心底うるさいと感じながら、俺は大丈夫なのかよと三橋のことを考えていた。
腹が痛い。
再び呻いて、吐き気が込み上げてきてからそれが腹痛ではなく、所謂胃痛なのだと気づいて俺はさらにキリキリと断続的な痛みを覚えて呻いた。








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