明日は三橋が来ると告げると、それじゃぁ準備しなくちゃねと姉は芝居めかせて腕まくりをした。家事を一手に引き受けてくれている姉はまだまだ遊びたい盛りのはずなのに、文句も言わずに俺の弁当を作ってくれて汗と土塗れのアンダーや靴下を毎日洗ってくれる。寄り道はスーパーの買い物とかクリーニングとか、家事の延長線上にあることだけ。 毎月それなりに父親から貰っているこずかいだって使う暇もないのだと思うと、好きなように野球をしていることに罪悪感を覚えることがある。 その分たまの休みにはその分うんと姉を休ませてやりたくて、まずい手つきで料理や掃除、洗濯をしてみるのだけれど、それを一緒に洗っちゃダメだとかそれじゃ塩辛くなっちゃうよだとか言われて、結局はかえって手間をかけさせている気がする。 だから、友達が一人来るぐらいで気を使ってなど欲しくはない。 出来すぎた優しい姉としての行動は、弟としてとても自慢出来ることであると同時に罪悪感を助長させられることでもあるからだ。 別にもてなすとかそういうことしなくて良いからね。 姉思いの弟の気持ちに見せかけて言った言葉の裏には、構わず放っておいてくれと言う自分勝手なものが潜んでいる。 とても良く出来た姉は、だからこそたまにとても鬱陶しく感じる時がある。 年の割に素直な性格をしていると自負はしているが、それでも年頃だ。友達同士で話している間に不意に横入りをされることは例えその話を聞かれていなかったとしても、居心地が悪いし過剰に腹立たしく感じるものだ。 何もしなくて良いからね、と言った俺の言葉に笑って応えるくせに、何を作ろうかなと独り言を言うのを見て俺はカッと感情が高ぶるのを必死で抑え込んで知らんふりを決め込んだ。 何度言おうとどうせこの人は優しさと紙一重の自分本位な思考回路に忠実に動いて、三橋をもてなすことを止めることはないに決まっている。そう確信をして、俺はそれ以上何も言いはしない。それは、姉に対して苛立つことを避ける為だ。 母親代わりを務めてくれる姉を、疎ましく思うような事は昔から自分の中であってはならないことなのだ。 完全な家族像なんて今時あるわけがない、在るのは「当たり前」か「普通」の家族像なわけで、それが正しい訳ではないとしっかりと分かっているくせに、あの家はお母さんがいないからねと言われるたびに、劣等感が膨れあがっていく。 別に不幸なわけではない。父親は仕事で家にいないことが多いが、それでも決して子供の存在をないがしろにするような人ではない。むしろ、家を開けてしまうことを申し訳なく思ってくれる、優しい父親だ。 姉は穏やかでしっかり者、弟は年相応に生意気だけれど聞き分けがないわけではない。絵に描いたような良い家族じゃないかと、おこがましい程に思うことだって少なくはない。 けれど、母親はいない。 優しい家族だが、完全ではないのだ。 しかしそんな不完全な家族である自分たちは、それを補う為に姉が母親を演じることで保たれている。 二役をこなす姉は、とても偉い。尊敬すべき存在だ。姉がいなければ、うちの家族は「普通」を見せかけることすら出来なくなってしまうのだから、そんな大切な存在の姉に対して負の感情を抱くということはあってはならないことなのだ。 それは、幼い時から自分で決めた信条だった。 三橋くんの好きなものって何かしら、と聞いてくる姉に俺はさぁね野球が好きってことは確実だけれどね、と冗談で返して苛立ちを紛らわせて笑った。 I DID NOT LIKE YOU.I DID NOT LIKE YOU.I DID NOT LIKE YOU.I DID NOT LIKE YOU.I DID NOT LIKE YOU.I DID NOT LIKE YOU.I DID NOT LIKE YOU.I DID NOT LIKE YOU.I DID NOT LIKE YOU.I DID NOT LIKE YOU.I DID NOT LIKE YOU.I DID NOT LIKE YOU.I DID NOT LIKE YOU.I DID NOT LIKE YOU.I DID NOT LIKE YOU.I DID NOT LIKE YOU.
「だから張り切らなくて良いって言ったのに」 「だってお腹空いちゃうでしょう、男の子は」 「コンビニ寄って来たし、そんなに三橋だって長居はしないよ。予定あるみたいだし」 ダブルブッキングされちゃったのね。揚げたてのからあげを山盛りにした皿を渡されざまにいかにも悲しそうに言われて、最初から丸一日の約束ではないと言うことを説明した。 あらそうなの、と言う口調はやはり憐れみに満ちていた。 いかにも女性めいた大袈裟な言動には慣れていたけれど、そんな姉を見た三橋に部屋に入った途端に謝られてしまったのには辟易した。 こういうとき普通は、悪いね気を遣わせてなんて言いながらも顔は緩く笑って悪びれないものだと思う。それは別に失礼な態度ではなく、この年頃の男のごくありふれた様式美だ。しかし、三橋は本気で謝る。 むしろ謝られたこちら側が気を遣わないといけなくなる程に、頑なに卑屈に謝る。 本当に面倒な奴だなぁと思う反面、それでこそ三橋らしいと微笑ましくもなった。しかし、いつまでもこうして謝られることは喜ばしいことではない。 時間は限られている。特別な事など何も無いたわいもない雑談しかしないだろうけれど、昨日から楽しみで仕方がなかった時間だ。 「三橋、そんなに謝らないでよ。姉ちゃんのあれは、嫌みでも何でもないんだから」 「で、でも、言われてみれば、俺、俺のくせに、約束重ねて、」 「最初から予定があること前提で、約束の時間が重なったわけでもないのに何をそんなに謝るの?」 「だって、お、俺なんか、が」 「馬鹿だなぁ。友達と約束するのに良いも悪いもないよ。三橋にとっても俺にとっても、都合が良かったから、こうやって約束して会ったんだし。三橋が悪く思う必要なんてこれっぽっちもないよ」 ぐじぐじと拗ねたことを言う三橋に、どうでも良いじゃんそんなこと、と言って話を切り上げられたらどれだけ楽だろうかと思う。そう出来ないことを前提に考えるということは、とても虚しい。 気が長い方だと自負している自分ですらこんなにもじれて面倒くさいと思ってしまうのだから、阿部が常に三橋に苛立っているという事実も仕方がないことなのかもしれない。最も俺としては、そうして阿部が三橋に苛立って苛立って、そのうち本気で三橋を一度殴りつけでもしてくれたら有り難いものだ。 阿部のことを怖がって自分を頼ってすがりついて欲しいな、というのは俺の密やかな願望だったりする。 「三橋、とにかくさ、姉ちゃんが何言おうと俺は三橋を嫌ってないんだから良いじゃない?」 むしろ好きだとか独り占めしたいとか、そう言った本音は押し隠して「良い人」たる所以の笑顔を浮かべる。三橋は単純だから、独特の声を出して笑うと俺も好きだ、なんて人の気も知らずに言う。 うん俺もだよ。本音を冗談めかすことの、なんと自虐的なことか。さぁ気を取り直して、と俺はさらに笑みを深くした。 三橋はこっちが笑えば笑ってくれることを知っていたからだ。 「さ、栄口くんは、ほんとに、良い人、だ」 はいはいありがとうそんなに誉めないでよ照れるよ。上辺では笑い続ける。 内心では、良い人じゃなくなったら俺の価値は無しか、と皮肉る。全頭葉の辺りが膨張していくような感覚と、そのせいで頭部全体に襲ってくる圧迫感。それは三橋が言った良い人と言う言葉を反芻しては意地悪く皮肉を内心に吐き捨てる度に激しい頭痛として積み重なっていく。それでも三橋の機嫌を損ねてしまわないように笑顔を貼り付けている自分は、世間的に言う馬鹿な男なのだと思う。女に入れ込んで身持ちを崩す情けない馬鹿な男となんら変わりはない。相手がチームメイトの男なんだから、むしろ質が悪いぐらいだ。 それを自覚しながらも、俺はやっぱり三橋の機嫌を取ることは止めない。 野球と授業のとりとめのない話をしているうちに、あっという間に時間が過ぎてそのうち三橋がそわそわと時間を気にする素振りを見せ始めた。上目遣い気味に机の上に置いてあるデジタル時計を見ては、素早くその視線を俯かせる動作を繰り返す三橋に、俺はその時計を壁に投げつけて壊したい気分になる。 「三橋、そろそろ時間?」 「あ、」 まるで疚しいことを隠しているような態度で、三橋は口を噤む。 「(何だよ悪いことしたみたいな顔しちゃってさ)三橋、またなんか罪悪感感じてるんでしょ(そんな顔するぐらい俺に悪いと思ってるなら、いっそのことこのまま嘘吐いてもう一個の約束断ってくれよ)」 「そ、そんなこと、ない、よ」 「なんだ。残念」 三橋が困惑することを分かっていて、わざとからかう。 案の定、忙しなく眼球を動かしてけれど自分とは絶対に視線を合わせない不自然な態度に陥った三橋を、冗談だよと宥めて退席を促してやった。 予報では雪とか言ってるし気を付けてね、なんてまるで母親のようなことを言いながら玄関で三橋を見送る。 あらまぁ、もう帰っちゃうの?と姉がリビングから顔を覗かせて慌ただしく玄関まで出てきた。 途端に萎縮した三橋に、姉は脳天気に笑いかけてまた来て頂戴ね今度はご飯も食べていって欲しいわ、とそれはやはり皮肉でも何でもないのだけれど、三橋にとっては重い言葉を口に出す。 あからさまに落ち込んだ様子の三橋に小声で他意はないんだよ、とフォローするけれど多分明日もう一度言ってやらなくちゃ三橋は気に病み続けるだろう。 どことなくしょんぼりと丸まった三橋の背中を見送りながら、姉さんはにっこり笑顔を浮かべたまま、同じくにっこり笑顔のままの俺に「三橋くんのこと大好きなのねぇ」と言ってきた。 「何だよ、子供に言うみたいに言うなよ」 「だって、見てて恥ずかしくなっちゃうぐらい、必死なあなた初めて見たから」 「高校生にもなって大好きとか、男相手に(そう、友達だと思っていれば)普通思わないよ。大体、必死って何?」 「あなたすごく良い子で朗らかだけど、意味もなくずっと笑ってられるような子でもないでしょ。だけど、三橋くんと話している時はいつも笑うから。ほら、昔から相手の機嫌取るような時は辛抱強く笑う子だったじゃない?」 「機嫌取る時なんて、大抵みんな笑うんじゃない?しかめ面で機嫌なんて取れるわけないんだし」 照れなくても良いじゃない。別に照れてないよ。照れてるじゃないの。ループしたやり取りをして、いい加減そのたわいもない姉弟のじゃれ合いにも疲れて苛立ってきた時、姉はでもね、と一層穏やかな声色で切り出した。 「でもね、駄目よ。本当に三橋くんのこと好きになったりしたら。三橋くんとじゃ、ちゃんとした家族作れないでしょう」 「何言ってんのさ、姉ちゃん」 「ふふ、冗談よ。あんまりあなたが三橋くんのことお気に入りみたいだから、言ってみただけ。そんなこと、あるわけないものね」 「・・・姉ちゃんこそ、早く結婚して幸せになりなよ」 まだ早すぎるわと笑う姉。 別に俺は、この野郎無神経なこと言いやがってあんたみたいな無神経な女はどこかにいなくなってしまえ、とか思ったわけじゃない。 だって、姉に対して負の感情を持つようなことがあってはいけないのだ。姉を否定するということは、この家族の形までもを崩してしまうことになる。 「良いんだよ。姉ちゃん、俺のこととか気にせずにさ、嫁行って幸せになってさ。ホント、俺のこととか気にしなくて良いんだ」 だから早くね、と言うのと同時に完璧に浮かべていたはずの笑みの、右の頬がひくりと大きく痙攣した。 |