三橋は思い出せる限りのことを脳裏に並べ立てていた。
自分の名前と年、家族構成に学校はどこで趣味は何か。好きな食べ物に苦手な動物クラスメイトに部屋の中、無造作に思い出される事柄はまず映像として浮かぶので、止めどないその量についに説明する為の言葉が追いつかなくなる。
ボキャブラリーの貧困さに喘ぎながらどうにかして言葉にしようとする間にも、記憶は止めどなく三橋の脳裏を埋め尽くしていった。
穴の開いた紙パックからネクターがトロトロと零れ出るような、粘つく感覚が一つ何かを思い出す度に三橋の意識にまとわりつき息苦しさすら覚えさせる。
記憶を持つということは、こんなにも苦しいものだったのか、と三橋は息を吐き出しながら思った。その息は吐き出し切るよりも前に押し戻されてくる。
苦しさに目の前が白く染まるが、そもそも記憶が映像として映る以外に視覚が捉えるものが今までないことに気付いて三橋は慌てた。
知らぬうちに失明でもしているんじゃなかろうか、と胸の真ん中を重く不安の拳で叩かれる。
肋骨が揺れる程の衝撃は自身の鼓動だと分かっていても、意識して静めることも出来ずに三橋は歯ぎしりをして必死に酸素を循環させようとした。記憶は溢れ出し、中学時代の誰にも存在しないものとして扱われていたこと、高校に入ってからのチームメイト達との充実した日々が交互に浮き上がっては三橋の呼吸器官にドロリとへばり付く。
苦しい、と悲鳴を上げたつもりでも微かに空気が口から漏れるだけだった。
がむしゃらに喉元をかきむしりたい衝動も、意志とは相反して緩慢にしか動かない体では叶わなく、指先だけが動く手応えはただそれだけで三橋の状況は何一つ改善することはない。
一体どうして自分はこんな状況に陥っているのだろうか。
動く指先は何にも触れず、絶えず浮かぶ記憶がかえって孤独感を助長するばかりで、三橋は苦しさの中にツンと切ない痛みを覚えた。
喉が痙攣する。
泣き出す寸前の感情はただでさえ脆い三橋の精神を瞬く間にえぐり取り、幾筋もの涙を目頭と目尻から流してこめかみを伝わせる。
お父さんお母さん修ちゃんルリ阿部くん田島くん浜ちゃん栄口くん花井くん水谷くん沖くん巣山くん西広くん監督先生篠岡さん。
名前を連ねる。
誰でも良いから、この途方もない苦しさと孤独から救い出して下さい、と三橋は歯ぎしりの合間に乞う。
声は出ず、もはや呼吸すら危うい。ぐるりと目玉がひっくり返る感覚は、しかし視界に映る確かなものが何一つ無いので錯覚かどうかも分からない。
だから頬にぴしゃりと平らなものが当たった感覚にも、三橋はぼんやりとそれを認識するだけで特別な感情は持たなかった。
二回、三回、水が当たって弾けるような感覚は頬を震わせる。
どうせこれも記憶の一部に違いない。
三橋は、頑なに目を閉じて疎ましさに眉を寄せた。
泳げるようになったばかりの小学低学年の頃、父親にプールに投げ飛ばしてもらってはしゃいでいたことを思い出した。 多量な水量は表面に当たると、バチンと痛みを全身に広がらせた。痛さよりも楽しさが勝っていたから何度も繰り返しせがんだが、本当はお父さん心配だったんだよと聞いたのはつい最近になってからだ。
優しく微笑む父親の顔が浮かび不意に切なさと懐かしさが込み上げてきて、三橋はさらにきつく歯ぎしりをする。しかし父親の笑みは一層穏やかさを湛え、折れてしまいそうになっている感情を揺さぶり続ける。鼻腔の奥に痛みが走った。お父さん!思わず叫ぶ。
するとその途端に、頬に当たる感覚が一層強いものになる。
三橋!
それは俺の名前だ。
三橋はうっすらと目を開けた。
まだ辺りは白い靄がかかっているだけで、何も見えない。

「三橋」

だからそれは俺の名前だよ。
頬が震えているから声にならないのだと思い、三橋はついに指先だけではなく全身を動かした。
腕が持ち上がり、柔らかい棒を掴む。視界が開ける。

「起きた?」

視界一面に広がるのは白だった。ただ、浮き上がる程にはっきりとした白は、先ほどまでもぼんやりと曖昧なものとは明らかに違う。
ゆっくりと眼球を動かすと、白の中に木目調の棚が唐突に現れた。三橋はそれを見てようやく安堵の息を漏らした。
それから、自分が掴んでいる「柔らかい棒」が人の腕だということにも気付いて、顔を上げた。

「起きたね」

三橋は頷いて、それから目の前で自分を見下ろしてくる男の腕から手を離した。
黒目がちの目は男のわりにはっきりと大きく、黒髪とも相成って中性的な雰囲気を携えていた。

「あの、」

男はにこりと愛想の良い笑みを浮かべて、三橋が話した手の上に自身の手を重ねる。
関節の目立つ細く長い指だった。
男同士が手を重ね合っているという、奇妙な状況に三橋はハッとして手を引いたがそれは驚きからで嫌悪感の類は一切覚えなかった。むしろ乾いた男の手は心地良く、伝わる体温の温さは羊水に浸って揺れる胎児のような安堵感を三橋に与えた。

「あの、」
「誰かなんて、聞かないでよね」
笑った顔はどこか皮肉的で、まるで端から誰かと問われることを分かり切っているようにも見える。実際に三橋は、目の前の男は誰なのかまるで思いつくことが出来ずにいた。
しかし男の頬にかすかに痘痕があることに気付いて、三橋は一人の友人の名を口に出した。

「泉くん」

それはクラスメイトでありチームメイトの名前だ。
冷めた発言と態度を取ることが多い彼は、それでも口下手の上に異常に人見知りをする三橋の面倒を良く見てくれていた。ちょっと冷たく見えるけど本当は、優しいのだ。三橋はそう信じて止まなかったが、実際に泉は三橋にのみにその優しさを向けている節があった。もちろん、三橋自身がそれに気付いたことはない。
ただ与えられる優しさを享受して、特別扱いをされていることも知らないからたまにちょっとでも素っ気なくされると全てを否定されたような絶望感を味わってしまう。
友情だって言うならそれってちょっと変よ、と言ったのは従姉妹のルリだった。
こんなことを言われるぐらいなら話すんじゃなかったと後悔をしたことも思い出して、目の前の男を改めて見上げる。 面影はあるが、三橋の知る泉の容姿よりぐんと年上に見えた。

「人違い、とか思ってないだろうな?」

男は(まだ泉とは確定していない)、またも三橋の思考を読み取ったかのようなことを言う。

「人違い、じゃない、の?」
「じゃないよ。泉くんです」
「でも、お、大人みたい、だ」
「俺はまごうことなく、三橋の知ってる泉孝介だよ。大人びて見えるのは、成長期だからかなぁ」

有り得ない。
三橋は思わず口に出して否定した。
うん有り得ないよね。
泉はあっさりと肯定する。

「だけど、あり得るんだよ」

矛盾を口にする声は、慰めるように優しく落ち着いた低音で、有り得るんだよと繰り返した。
あぁとても良い声だ。三橋はうっとりとそんなことを思ったが、それで疑いを解消出来るほど間が抜けてもいなかった。
有り得ない、と故意的に高い声色を作って言いながら、まっすぐに視線をぶつける。

「有り得る。三橋、小説の中の探偵だって有り得ないものはないって言ってるじゃないか。あぁ不思議なものだったかな」
「し、知らない、」
「そっか。俺も、きちんと読んだことはないんだけどね。でも、ようするにどんなに有り得なく思えることだって、ちゃんと説明が付く世の中だってことだよ。説明の付かないものはないってことだ」
「だけど、人がちょっとの間に著しく外見が変わるなんて。整形したって、限界はあるで、しょ?」

三橋の疑わしげな視線を真っ向から受け止めて、そうだねぇと頷く。やはり、これは泉ではない。三橋は確信した。
どこか冷めていて大人びた言動を取ることの多い泉は、それでも所詮は高校生だったからだ。つんけんしていたのは余裕の無さを隠すためだったのだと、三橋がそこまで具体的に感じ取っていたわけではないが、少なくとも目の前の男よりもずっと感情の起伏が激しかったと認識していた。

「泉くん、じゃ、ないでしょう?」
「泉くんだよ」
「だって、有り得ない」
「だから、有り得るんだよ。ちょっとの間っていうのが、三橋を疑心的な気持ちにさせているのなら、それはすぐに解決出来る」

男はそう言って、壁のカレンダーを指差した。白い壁には、飾り気がない日付だけが並ぶカレンダーが掛けられていた。そこで初めて三橋は、ここは自分の部屋ではないどこか見知らぬ場所だということに気づいた。
見回しても見覚えはなかったが、独特の間取りと機具に、ここが病院の一室だということはすぐに理解出来た。
三橋が男の顔を見やると、先ほどまでの優しさだけの笑みに少し愉快そうな色を滲ませてほらとカレンダーを見るように促される。

「何月だと思ってた?」
「夏、夏休み、」

カレンダーは12月を示していた。
三橋は崩れ落ちそうになる上半身を必死で支えると、歯の根がかみ合わず普段にも増して不明瞭になる舌回しでずっと寝ていたんですか、と尋ねた。

「寝ていたね。昏睡と言うべきなのかもしれないけど。だからさ、有り得なくないだろ俺が成長してるのだって」

高校生は成長期なんだから。
男、泉はそう言ってシシと悪戯めいた表情で笑った。

「なんで」
「お前がここにいる理由?俺も詳しくは、知らないんだ。ただ、今こうして三橋が起きて、話してられることが嬉しいよ」
「うん、でも、」
「良いじゃない。また、明日でも先生やおばさん達に色々聞けば。今は、良いじゃない」
「う、ん、」
「ねぇところで、うなされていたね。嫌な夢でも見たの?お父さんって、寝言言ってたけど」
「・・・苦しかったよ。良く分からないけど、途方もない空間に置いてけぼりにされてしまっていて、誰もいなくて、苦しくなってきて、」
「おじさんだけに、助けを求めた?」
「みんなに、」
「俺にも?」
「そういえば、ごめん、なさい、」
「俺は含まれないんだ?」

泉の掌が三橋の頬をするりと滑る。乾いた掌は相変わらず心地良く感じられたが、ちくりと顎の辺りを刺す小さな痛みに三橋は眉を顰めて視線を下げた。

「寂しい。俺を頼ってくれなかったなんて」

泉の短い爪が、顎に食い込んでいる。しっかりと指先を目視することは出来なかったが、それでも指の角度は明らかに顎で留まっているから間違いはない。

「痛い」
「ごめん。三橋が起きて嬉しくて、緊張して、力が入っちゃった」
「ちょっと、びっくりした」

ちょっとだけかぁ。
少し残念そうな声だった。
泉は首を擡げて、ちょっとだけなんだなぁと繰り返す。
力無く目蓋を下げ半眼で、口元だけを緩ませた表情は三橋の知る泉の面影が無い訳ではなかった。しかし、同時に見たことのない表情だと違和感を激しく感じる。

「ほんとに、別の人みたいだ」
「でも別人じゃないよ」

泉の静かな諭すような声頷くと、瞼がスルリと下りてきた。
首が揺れて、慌てて開けた目はぼんやりと熱っぽい。眠いの?泉が問う。
三橋はそれに再度頷いて答える。
瞼がさらに重く三橋の眼球を覆う。次に開いて見る風景も、既にぼやけて曖昧でしかなかった。

「ごめん、眠くて、」

気にすること無いよ、と泉が振った手は、はたして本当に振られていたのかそれとも三橋の視覚の歪みかは分からなかった。ただ三橋は快く眠り許諾してくれた泉に対して、良い人だなぁとおなじみの感想を持ちうつらうつらと生暖かい眠気の波に身を任せ始めた。
ぼやける視線が無意識に室内をうつろに見回す。ふと、カレンダーが目に止まった。

十二月。
室内では感じられない冷気が外では吹きすさんでいるのだろうか。クリスマス前の陽気な街は、案外嫌いじゃない。うっすらと口だけで笑ったことに気付かれたのか、泉が嬉しそうだねと話しかけて来る。

「うん」

暢気に構えていられるのは、半年間の昏睡状態をまだ実感していないだけかもしれない。三橋はそう自己分析をしたがそれでも気分が落ち込むことは無かった。
そういえば今日は何日なんだろうと、思い立って口を開く。欠伸が続けて二つ出る。途端に眠気は、異常な強制力で三橋を追い立て始めた。
カレンダー、十二月、月火水木金土日、情報だけが無秩序に入り込んでくる。曇った窓ガラスに指紋が二つ、シーツの皺、黒髪、点滴、また、カレンダー。

(今年は、)

思考回路に膜が張る。
三橋は考えかけたことを放棄して、目を閉じた。
またね。
泉が囁く声は何故か泣いているように聞こえたが、三橋はもはやそれを疑問にも思わず全てを閉じた。




それからそれから




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