隔離された物静かな空間は、かえって周囲の物音に過敏になる。
遠くの道路を走る自動車の排気音、鳥の鳴き声、ガラスのぶつかり合う音は高音でまるで様々な種類のトライアングルの合奏だ。リズムも和音もでたらめな音は、それでいて不快感はない。
確実に音を認識出来るのに、聞こえてくるのはいつだって遠いところからなのだ。
自分には関係がないことだから、多少大きな音が入り込んでこようと気にはならない。ただじっと、肘を腿につけて少し前屈みになった状態で音を聞き分け、身の回りはしんと静まりかえっていることにささやかな優越感を覚え浸る。
そこにいる間は眉間に皺を寄せるようなことは何一つ無く、遠い音と近くにある寝息にだけ耳を澄ませていれば良かった。 鳥が窓の外で一際甲高く鳴き声を上げた。
泉は視線を上げ、窓の外を見やる。
窓にほど近い木の枝に留まっている一羽の鳥が、胸を反らせてさらに鳴く仕草を取る。その鳴き声に、控えめな物音とこんにちはと鳥ほどではないが高い声が重なった。

「毎日来てますね」

スライド式のドアを開けてするりと入ってきたのは、薄いピンクの制服を纏った看護士だった。少し染めているのか小綺麗にまとめられた髪の色は茶色い。きっと、勤務外の彼女はごく当たり前の今時の女の子なのだろう、と泉は思った。それは思っただけで、特別な意味も感情も無かったが、ただ漠然と泉はそう思って目の前の看護士の私服を想像した。
背中まである髪には緩やかなウェーブがかけられている。流行り物のスカートは、歩くたびに浮き上がってすれ違う男の視線を持って行くことに一役買うのだ。そして肩の細さを主張するための薄手のカーディガンは淡いピンクか白。ヒールの細いサンダルも、自らのか弱さを引き立てるアイテムの一つに違いない。
具体的に服装を思い浮かべてみると、それは彼女にとても良く似合っていた。
世間一般的には可愛らしい女の子。男が無意識のうちに優しさを向けてしまう対象だ。
しかし、泉は彼女に話しかけられることをあまり得意としなかった。
高い声は女性らしくて可愛らしいが、何度か顔を合わせるうちにところどころ敬語の抜けた口調で、それが許されることを前提に話してくるところが馴れ馴れしくて癪に障った。

「毎日じゃぁないですよ」
「そうだったっけ。ううん、そうかもしれない。それじゃぁ、ほぼ毎日ですね」

にっこりと笑う。
泉も笑みを返した。
すると彼女はますます機嫌良く笑みを深めて、泉の真横に並んだ。そして、今日は具合が止さそうですねと視線をベットに向けて言う。

「そう見えますか?」
「えぇ、今日は、とても。見えませんか?」
「そうですか。俺には、正直昨日との違いは分かりません。分かるなら、ちょっとは見舞いのしがいもあるんですけれど」

まだまだ修行が足りませんね泉さん。
彼女はそう言って、弾けるように笑った。
シンとした白い空間に、その声はとても良く響き渡った。
軽やかな看護士の声はきっと患者を励ますものなのだろう。しかし、泉は視線をベットに向けたまま、胸の辺りをぐるりと渦巻く土の混じった重い泥水のような感情を覚えた。
彼女にしてみればたわいもない冗談だったのだろう。しかしそれは、明らかに相手に享受してもらえるであろうことを前提にしたものだ。だから享受出来ない泉にとっては、冗談もただの鬱陶しい雑音でしかなかった。
あなたがこいつの何を知っているって言うんですか?思わず出かけた言葉の飲み込んで、泉は修行が足りませんか参ったなぁ、と曖昧に笑うだけに留めた。
それから五分ほど深みの無い話を彼女が一方的にしていたがふとベッドに付属しているデジタル時計を見て、あらと小さく声を上げた。

「私、そろそろ行かなくちゃ」
「検温とか、良いんですか?」
「実はまだ検温の時間じゃないんです。また、後で来ますね」

媚びた視線だ。
泉は内心で舌を出しながら表面上では何食わぬ顔顔でお疲れ様ですとひっそりと言った。コツコツと、彼女の靴が鳴らす音が病室に響く。
それじゃあまた後で。ドアが入って来た時と同様に、スルリと開く。もはや泉はそのドアが開いてから閉じるまでの間隔すら覚えていたが、この時はその間合いが普段と違っていた。看護士と入れ違いに一人、男が入ってきたからだった。

「仲良いじゃないか」
「来たのかよ」

泉は来訪者の男を見もせずに素っ気なく言い放った。男はそれを気にした様子も無く、来たよと平然と答える。脱色された髪は癖毛で毛先は奔放に散っている。ラフなTシャツとジーンズという出で立ちは彼自身を適当に見せているが、そこに気だるさや愚かさはなくむしろ気さくで、好印象を一見して他人に与えられる雰囲気を纏っている。
こういう人間は得だよな、と泉は会う度に僻みと羨望の入り混じった感情を覚えるが、当然口にしたことはない。

「邪魔だったかな」
「邪魔だよ」

男の言う皮肉に泉はにべもなく答えた。

「あぁ、やっぱり仲が良いんだ」

浜田。泉は密やかに男の名前を呼んだ。
静まり返った病室に馴染む声は、長い間通っているうちにそう変わったのかもしれない。

「邪推しても、俺は墓穴なんて掘らないよ。まぁ掘るところもないけど」
「別に、悪気があって言うわけじゃないよ。ただお前があんまりにも長い間三橋にばかり執着してるのを見てると、何だか可哀想な気がしてさ」
「望んで来てるんだ。お前のそれは、要らぬ世話だよ」

泉は素っ気ない口調とは対照的な、柔らかな手つきでベッドに沈んでいる三橋の髪を撫でた。浜田はそれをプールにある水を眺めるようにして見た。
当たり前のことなのだ。プールにある水ではなく、グラウンドにある土や糖の入った飴玉でも、なんでも良い。泉が三橋に関してだけは人が変わったかのように、優しく労るように、羊水の中にいる胎児をさらに真綿で囲んで保護するように扱うのは既に親しい人間の間では当たり前のことなのだ。
そう認識はしているというのに、浜田は三橋に触れる泉の手を掴んで引き離したくなるのだ。ただそれはせずに、名前を呼んで意識を自分へと向けようとだけする。浜田がこうするのは今回が初めてのことではなかったが、今までに一度だってそれが報われたことはない。返事はしたとしても、泉の意識は三橋にしか向かない。
それは、高校卒業間近の、まだ肌寒い空気の残るある日から変わらない。

「あのさ」

浜田は三度名前を呼んでも泉の視線すら自分に向かないことに痺れを切らして、やや強い語調で切り出した。
勿論、泉はまだ三橋だけを見ている。

「あのさ、三橋の具合って良くないんだろ?」
「うん」
「治らないのかな」
「その程度での話なら、とっくに治ってるよ」

ただ目が覚めない。起きてる間隔が短くなってる。囁くように泉は言った。しかし、その声や表情に悲壮感はまるで無かった。
浜田は思わずお前って薄情だなと吐き捨てて、それから直ぐに恥じ入ったように肩をすくめて謝った。

「ごめん」
「別に、気にしてないよ」
「俺が気になったんだ。毎日見舞いに来てる泉に言うことじゃなかった」

別に、と泉は繰り返した。
一度も浜田を見ることもなく、三橋の髪を撫で、頬に触れる。せめて愛おしそうにでもしてくれていたら、浜田が不意に疑問を感じることもなかっただろう。無表情に近い淡白な表情には、愛おしさどころかただ一握りの友情すら感じることが出来なかった。
眺めた分だけ、浜田の中で疑問は膨らんでいく。あの日から、長い間隔でぼんやりと、しかし褪せることなく感じていた疑問だ。

「あのさ」
「何だよ」
「三橋が病院に運ばれた日、お前も病院にいたよな」
「いたら悪かった?」
「何で都合良く居合わせたのかと思って」
「あの時、三橋と一緒にいたのが俺だったからだよ」

泉はそう誇らしげに言った。
それが浜田をどうしようもなく苛立たせた。
七年前のあの日、三橋が心肺停止の状態で運ばれた時。首には手の痕が鬱血して残っていたらしい。それは三橋が自ら絞めた痕なのだと警察の見解が出た時、三橋を知る人間はそんな馬鹿なと驚き絶望した反面で、どこか納得もしてしまっていた。泉もその場にいたということで、取り調べを受けたが首には三橋自身の指紋、爪の間にも泉を疑うべく証拠は無かった。
世間的に、泉は不運にも友人の狂人じみた自殺現場に居合わせてしまった少年で落ち着いたのだ。しかし、浜田は漠然とした疑いをその時から、むしろ時間が経てば経つほど大きく膨らませていた。

「三橋が、こんなことになる前に止めれば良かったんだ」
「止めることなんて、出来なかったよ俺には」

泉は三橋の頬に触れていた手をそっと離しながら言った。
離れた手を、泉は自身の喉にかける。親指で喉仏を圧迫して、ぐぅと呻き掠れた声を出す。

「俺、三橋の後を追おうと思うんだ」
「まさかお前、そんな、馬鹿な冗談、」
「本気だよ。し、ってるだろ。俺が、どれだけ、みはしをすきか、」
「知ってる。だけど、この冗談はつまらない。止めろよ」

浜田の制止の言葉はその意味を持たずに病院に響くばかりで、泉はいよいよ息も絶え絶えに顔を苦悶に歪ませた。浜田は茫然と立ち竦んで、狂気じみた泉に恐れすら感じていた。質の悪い冗談だと確信出来るのに、赤黒く染まっていく泉の顔がそれを安易に認めさせない。
消毒液の匂いと、遠くにあるざわめき。とても平和だ。
それなのに、目の前では苦悶に喘ぐ狂った友人がいる。
浜田はついに目を逸らして止めろと怒鳴ると、あとは崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。その時、ヒッヒッと甲高い音が浜田の鼓膜を震わせた。
音は、笑い声だった。

「ほら、何も出来ないだろ」
「泉、お前」

騙したのか、と責めると証明してやったんだと悪びれもしない。

「だから仕方がなかったんだよ。三橋が、自ら招いた結果だもの」
「やっぱりお前って薄情だ。酷いやつだ」
「それ、良く阿部が言われてたなぁ」

懐かしむ表情は、まだ赤黒く息も荒い様子にあまりにも不釣り合いだった。

「なんか、腹立たしいよお前」
「思いたいようにどうぞ。俺は、三橋が何時までも夢見心地で、何年経ってもあの時のままでいることは、そう悪いことじゃないと思ってるんだ。悪夢にうなされてても、その夢でどうしてか俺にだけは助けを求めないことも」
「自虐か」
「全然。何度も何度も何年も、三橋は意識下に俺を置かない。だけど、それで良いんだ」

三橋が小さく身じろぐ。あぁ四日ぶりに起きるかもしれない、と泉は独り言を言う。既に浜田の存在は無いも同然の振る舞いだ。
そっと三橋を撫でる指先が、不意に首にかかり締め付けた錯覚を浜田は見た。
色の付いた、鮮やかな錯覚に浜田は身震いをして、同時に激しい怒りを覚えた。

「本当は、お前がけしかけたんじゃないかって、ずっと思ってたんだ俺」
「三橋が、俺を裏切ったらそうするかもね」

そうしたのか、と浜田は低く呻くような声で言った。泉はヒッヒッと引きつり笑いを上げて、さてねと嘯いた。
本当のところは、結局誰も知らない。









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