とりあえず、いってみよーか!
雨が降っていた。 朝からしとしとしとしと。どうせ降るなら、派手に降ってくれた方が気持ちが良いのにと、三橋は朝起きてから丸まったままになっている毛布の上に座ってぼんやりと思っていた。 練習はなくて、だからといって出掛ける予定もない。 野球以外の趣味なんて持ち合わせていない三橋は、雨も降ってしまっては外で練習も出来ないからただ部屋の中でぼうと時間をつぶすより他にすることがなかった。 雨音に耳を傾けていると、体中が暖かくなってきて眠気に包まれる。 このまま眠ってしまっても良いかも。 そう思った時、ぶるりと尻が震えた。驚いて腰を上げると、携帯がメールの受信を告げるライトを点滅させながら、振動していた。 いつの間にか、下敷きにしてしまっていたようだ。 慌てて携帯を手に取って開くと、受信ボックスには「榛名さん」の文字があった。 榛名さん! 三橋は、思わず姿勢を正して正座しながらメールを開く。 榛名とメールアドレスを交換してから、ちょくちょくメールのやり取りがあるので珍しいことではなかった。ただいつも榛名からばかりなので、悪いなぁと三橋は思っていたのだけれども、だからといって自分から話題を振るようなことが三橋に出来るわけもなく、いつも榛名のメールに返事を返すばかりだった。 せめて今日は、少し長めに返事を送ってみようか。 そんなことを思いながら本文に目を通して、三橋は大きな瞳をさらに見開いて喉の奥を痙攣させた。 『今すぐ来て』 何事か、と三橋は驚いたあまりひゃっくりが止まらなくなってしまった。 けれど、そんなことを気にもとめずひっくひっくと喉を震わせながら、慌ただしく着の身着のままで部屋を飛び出して階段を駆け下りる。 母親が、物音に居間から顔を出して「どうしたの?」と聞いてくる。 三橋はちらりとだけ母親を振り返り、「ちょ、ちょっと出掛けてくるっ」とだけ言って靴もつっかけただけで外に飛び出した。 母親が慌てて追ってくる。 「晩ご飯はいるのー!?」 「あとで、連絡、するっ」 切れ切れに言いながら、日常だと三橋は思う。 日常なのだ。だから、三橋がどれだけ慌ただしく出掛けても、母親はあんなありふれたことしか聞いてこないのだ。 だけど、きっと榛名さんは日常にはいないのだ。 三橋は考えて、胸が不安に軋むのを確かに感じた。 榛名が三橋にメールをしてくることは珍しくはないけれど、あんな風に三橋を頼るようなことを送ってくることなんて今までには一度もなかったのだ。 だから三橋はぜいぜいと息を荒くしながら走った。 途中で、自転車に乗ってくれば良かったと思ったのだけど、それでも引き返すことはしないでひたすら走り続けた。 見慣れた景色が、ちょっと見慣れない景色に変わる。けれども、知らない景色ではない。 三橋は慎重に道順を思い出しながら、速度は緩ませずに進んだ。 ところ狭しと並んで建っている団地のうちの一つ、すぐ傍に公園のある棟の五階が榛名家である。 階段を一気に駆け上がって、「榛名」の表札を見つけたところで漸く三橋はがくりと膝を曲げて息をついた。 肩で息をしながら、普段の三橋では考えられないぐらい臆面もなくチャイムを鳴らした。 ポーン、とシャープの掛かった音がして、三橋が大きく二回深呼吸をした時に鉄のドアが素早く開かれた。 外に建っている人間のことを考えていないような乱暴な開け方に、三橋はぶつかりそうになってしまうところだったのを寸でのところでかわした。 「あれ?」 出てきたのは榛名本人だった。 呼びだしておいたくせに、酷く意外そうに目をまるく広げて三橋を見ている。 「あ、は、榛名さんっ」 息切れで掠れている声で三橋がやっと名前だけを呼ぶ。 「ほんとに来たんだ」 「だ、ってメールが。オレ、おれ、びっくりして・・・っ、ひゃっくりが止まらなくて、あぁ・・あれ、今、は止まっちゃった、みたいですけ、ど・・」 しどろもどろに言いながら、普段と何ら変わらない様子の榛名に三橋は首を傾げた。 「あの、榛名さん。げんき・・で、す?」 「元気だったら、来なかった?」 口角を挙げて、悪びれずに榛名が言う。 「あっは。まさか、本当に来るとは思わなかった」 陽気にケラケラと笑い声を上げたかと思うと、次の瞬間には三橋を抱きしめる。 両腕が三橋に巻かれたことによって、ドアを支えるものが無くなり二人の肩口に鉄の重みがのし掛かる。 「榛名さん、肩、が」 本当は放してくださいと言うつもりだった。 榛名にとっては些細な暇つぶしだったのかもしれないけれども、三橋は本気で心配して来たのだ。それを笑って、まさか来るなんてと言われてしまって、三橋は泣き出したくなった。 だから、拒絶するつもりだった。 それなのに、口をついて出たのは拒絶の言葉ではなくて、泣き声でもない。 榛名の肩のことだった。 「あぁうん、肩」 榛名は短く頷いて、三橋を抱きしめたまま素早く玄関へと一歩後ろに下がった。 ドアがゆっくりと閉まって、雨音が今までよりもずっと遠くになる。 その僅かに聞こえる雨音以外には何の物音もしない空間で、三橋は感じる榛名の体温に急に恥ずかしさを覚えて必死で逃れようと身を捩った。 しかし榛名はそれを良しとはせずに、三橋を抱きしめている腕にさらに力を入れて押さえ込む。 体格差もあって、そうされてしまうと三橋にはもうどうにも出来ない。 恥ずかしさと、からかわれたのだという絶望感と悲しさがごっちゃになって混じり合う。ぐるぐると、脳内を駆け回る感情の行き先が怒りなのか悲しみなのかも分からないままに、三橋はついに涙腺を緩めて涙をこぼしてしまった。 「どうして泣くの?オレは嬉しいのに」 そういう榛名に、なんて自分勝手な人なんだろうかと三橋は初めて榛名を憎らしく思った。 離してください触らないでくださいオレのことなんてもう構わないでください。 そう言ってやると意気込む。 意気込むだけで、言葉になんて出来やしないと分かっていても三橋はぼろぼろ泣き崩れながら、だけど言ってやるんだ、とまた意気込む。 「泣き止めって言っても、お前どうせすぐに泣きやまないからそのままでも良いよ。とりあえず、聞いて」 榛名の手のひらが頭上に乗せられて、ポンと慰めるように優しく叩かれる。 「オレね、勝負に出ることにしたんだ。っつーのも、そろそろ色々限界で。待ってたり我慢すんのってオレ向いてないんだよね、やっぱりさぁ」 不意に、体を無理矢理離されて顎を両手で救うように持ち上げられる。すると、榛名と目線が合う。 「でも、当たって砕けても嫌だから賭けたの。メールして、三橋が来たら言う。来なかったら、諦め・・・はしないけど」 あは、と軽く笑う。 「諦めないけど、とりあえずはお預けって決めたの」 何のことを言っているのか、三橋にはさっぱり話しの流れが読めなかった。 しかし、榛名は自分が話せていればそれで満足らしく、親指で頬に流れる三橋の涙を拭いながらにこりと笑った。 (なんで、ここで笑える、の) 三橋は、その時初めて自分の感情が怒りでも悲しみでもなく、悔しいのだと気が付いた。 ムキになっている自分が馬鹿みたいだと思えば思う程、榛名はそんな三橋の神経を逆撫でするかのようににこにこ笑う。 止まらない涙を、何度も指先で拭われる。 そのたびに、三橋はその余裕を見せられることが悔しくて、一層涙を流すのだ。 「は、はなして、くだ、さい」 口を開くと、しょっぱさが広がった。 頬も、乾いた涙のせいで強張った感じがした。 榛名が、そんな三橋の言葉をまるで聞いていないかのように、やはり笑みを浮かべたまま涙を拭う。 「放してください」 「やだ。放したら、三橋帰る気だろ?」 ぎゅうぎゅうと、締め付けるように抱きしめられる。 窒息してしまいそうだ。 榛名の胸板に顔を押しつけられるような形になっている三橋は、隙間からようやく細い呼吸をしながら思った。 ここで自分が窒息死したら、榛名さんてば殺人犯だ。死因は何らかの形で口を塞がれたせいでの窒息死。抱きしめただけなのに、なんて証言して、抱きしめたぐらいで人が死ぬものか殺意があってやったのなら分かるけれどと、警察の取調室で胡散臭く言われるのかもしれない。 いくら証言しても、疑いは晴れない。だって本当に、榛名さんは抱きしめていただけだから。 だけどそうなったら、この悔しさも少しは晴れるかもしれない。 三橋は一通り思って、なんて暗い思考回路だろうかと自嘲する。 そうしている間にも、榛名はずっと三橋を抱きしめたまま、放そうとはしない。 「三橋」 胸板が僅かに動いた。 低くて男らしいくせに、粗野な感じのしない声が胸板から振動と共に聞こえてくる。 まるで、耳元で囁かれているような感覚に、心拍が走っていた時よりも派手に胸を叩く。 あんまりにも派手に心拍数が上がったものだから、三橋は驚いて慌てふためき乱暴に榛名の腕を引き離して顔を上げた。 (あ、また視線、が) 「好きだ」 逸らそうとした顔を、両手で掴まれて三橋は真っ正面から榛名のと向き合う形になった。 同じつり目でも、三橋のものとは違って我の強さの現れている瞳にはからかいの色などはまるで見られなかった。 だけど、嘘が上手い人だから。 三橋は榛名を見上げたまま、ぽろりと新しい涙をこぼした。 泣くなよと榛名が、責めるように言う。三橋は、それにさらに怯えるように肩を竦めて泣いた。 榛名の舌打ちが聞こえて、やっぱり嘘だろうなと思った時、今まで以上に悲しくなった。 「好きだ」 「分かんない、です」 「なんだよ、単純な言葉じゃんか」 「でも、分からないです。榛名さんの、本気が、分からないです」 「本気だよ。本当に、好きなんだ。だから構うんだよ。お前が泣いたって、止められないぐらいにからかって構い倒したりするんだよ。だから、今だってお前がどんだけ嫌がって泣いたって、受け入れてもらえるまでは、言うこと止めない」 吐き捨てるように言うくせに、指で再び涙を拭いてくれる仕草だけは妙に優しくて、そのアンバランス加減に、三橋は本当に訳が分からなくなってしまう。 三橋が榛名をいい人だと思うことはたくさんあったけれども、優しい人だと思ったことはなかったのだ。 気まぐれに優しくされて、その時もいい人だなぁと感激はした。けれど、「優しい人」にはなり得なかったのだ。 けれども、今の榛名に対して三橋は優しさを感じていた。 ぶっきらぼうな優しさで、ひょっとしたらそれは今までにも与えられていたのに、あまりにも愚鈍で気づいていなかっただけなのかもしれないと思った。 明らかに、三橋の中での榛名に対する印象が変わってきていた。 好きだよ、と声が降ってくる。 「う・・受け入れるまでって。オレ、が聞き入れても、受け入れなかった、ら?」 「大丈夫」 そう明朗に言って、榛名は珍しく朗らかに笑った。 「だって、お前もオレのことが好きなはずだから」 「分かんない、です」 困惑した。 本当に何をどうしたら良いのかも分からなくて、だからといって何もしないでいることも出来ずに下唇をきつく噛む。 榛名の指が、その唇を庇うようになぞる。 流されてしまいそうだ、と三橋は思った。 だけど、流されてしまっても良い、と思った。 殺されてみて当てつけるよりも、こっちの方がずっとハッピーエンド。 |