だから言ったんだよ。
そう呆れたように呟かれて必死で謝っても振り返ってはくれなかった。
だって仕方がなかったんだよ。と言い訳をする。
だってそうでもしなけりゃ、あいつはきっとこっちをちらりとも意識しちゃくれなかったんだから!
俺、こないだ誕生日だったんだよね。 連れ立ってトイレに行った三橋と並んで手を洗っていた時、田島はふと思いついたかのように言った。 田島の言葉に三橋はピタリと手を洗う動きを止めると、それからおそるおそるほとんど変わらない位置になる顔を見上げてか細い声でごめんなさい、と謝った。 「ごめんじゃなくて、おめでとうじゃない?」 「でも、お、おれ」 言葉は途切れてしまう。 うつむいて、今にも泣き出しそうなぐらいに肩を竦めて縮こまる。 田島は素早く手の水を切ってその肩をぽんと軽く叩いくと、そんなに深刻になるなよと笑った。 「分かってるって。自分の誕生日は祝ってもらったのにとか、プレゼントなくってとか。そういう感じなんだろ、三橋」 「ご、ごめん、なさい」 「だから謝るなよ」 そんなことどうでも良いんだから、と言ってしゃがみ込むと俯いている三橋の顔を真下からのぞき込む。まばたきもせずにじっと見上げる。 目を細めて自己嫌悪に陥っていた三橋は、その瞳に驚いたようにして目を瞬かせた。 「いんだって本当に。そんなに他人の誕生日って覚えてるもんじゃないだろ?俺だって、三橋の誕生日を知ったのは偶然なんだから」 だから気にするなよ。 ゆっくりと立ち上がる。 従順な犬のようにその仕草を三橋が視線で追う。その目に、隠そうとして隠し切れていない絶望が浮かんでいることを田島は見逃さなかった。 それどころか、思惑通りとうっすらほくそ笑む。 田島は三橋の誕生日を知ったことを偶然だと、敢えて口に出したのだ。その口調は、そんなことは大したことではなくどうでも良いことなのだという誤解を三橋に持たせることを計算されていた。 三橋は人より何倍も卑屈なくせに、自己中心的で自己愛も強い。もちろん、本人がそれをそうと自覚してはいないのだろう。だからこそ、三橋は俺なんかと細々とした声でつぶやいては涙を簡単に流す。それが他人にとって、どれだけ居心地の悪いことなのかということも考えずに、自分の都合でだけめそめそと泣く。 野球部の面々はそんな三橋を許容出来ているから良いが、まず間違いなく社会では通用しない。 相手に好かれる嫌われるという問題以前で、上辺だけであっても適当な付き合いを求められるようになる。はっきりとした話し方が好まれるとされていて、目線を下げずに爽やかで明るくいることが求められる。 野球のことばかり考えている田島が、「社会」だなんてまだ先のことを思うようになったのはふとした教師の雑談からだった。今は良いが、そのうちおまえらも苦労するんだぞと教師は笑って言ったがその口から出てくる例え話はきっと彼の体験談であり本音だったのだろう。 普段は聞いていてもすぐに忘れてしまう教師の話に、田島はなるほどそれは確かに大変なことだと感想を持った。感想を持つということが、田島にとってどれだけ珍しいことかというと読書感想文を書くにあたって、原稿用紙一枚に満たない文章は全てあらすじだったということがあったぐらいである。 その田島が「それは大変なことだ」としみじみと思ったのだ。 そのことを思い出して唇を両端に持ち上げたまま、田島は薄い唇を前歯で噛んだ。視線は合わせないように田島をこっそり見ていた三橋が、そうして下手な兎の顔真似のようになった田島の表情にクフリと笑い声を漏らす。 「なんだ。笑ったね」 それは責めている口調ではない。そのぐらいは三橋にも分かるようで、ごめんと謝る口調は先ほどのものとは種類が違う。 「さっき俺が誕生日のこと言った時も、そのぐらい笑ってくれりゃ良かったのに」 「だって、俺、い、祝えなかった、から」 「何でそんなに気にすんのかなぁ。別に、だったら今祝ってくれりゃ良いじゃん。おめでとうございましたって、過去形だって別に悪くないだろ?」 「でも」 三橋は言葉を止めて、視線を忙しなく彷徨わせる。男としては大きめの目が、そうして焦点もろくに合わせずあちこちへと動かされるととても目立つし、奇異に映る。 特に三橋の瞳の色は薄く、ぼんやりと茶色がかかっているので、それは田島に西洋人形のまぶたの部分のカラクリを思い起こさせて尚のこと奇妙な印象を与えるのだ。 それでも田島は、そういう三橋を見てマイナスの感情を持つわけではない。 奇妙だと思うこそすれ、それは他の人間にはない特徴で「三橋らしい」ことであるから好ましい。 じぃとその様子を眺めていた田島は不意に、もう!とジレンマを抱えているかのような声をあげて三橋に抱きつく。 不意打ちを受けてしまった三橋がよろめいて、洗面台に背骨を軽くぶつけて呻いた。 すぐさま謝った田島だが、それでも三橋から離れようとはしなかった。背中にまで精一杯に腕を伸ばして巻き付けるようにしている姿は、どこか子供が大事なおもちゃを離すまいと握りしめている様子に似ている。 「三橋」 耳元であるのにもかかわらず、田島ははっきりと通る声で名前を呼んだ。鼓膜に響く声量に、三橋が素早く瞬きをして少し仰け反った。 「世の中はキビシイよ」 唐突な話題に、三橋は高い声でえ?と首を傾げた。キビシイんだよ、と田島が繰り返す。 「先生がこないだ言ってたの、三橋聞いてた?うん、聞いてなくても別に良いんだけどさ。何を言ってたかって言うと、社会に出ると色々大変なんだってことだったんだ」 三橋を抱きしめたまま、相変わらず声量も落とさずに田島は続けた。 「つまり、今の俺らの社会なんてちっちゃいもんで、実際にはもっと大きくてキビシイ現実があるんだぞってことを先生は言いたかったんじゃないかって思うんだ。そうしたら、三橋はすごく大変じゃんかって俺思ったんだよね」 「お、おれ、が?」 「だって、悪い意味じゃないよ。悪い意味じゃないけど、三橋は人と視線合わせることがほとんどないだろ?声も小さいし、自分に自信ないしすぐ謝る」 「ご、ごめ」 「ほら」 「う」 「俺は良いんだよ。そういう三橋も好きだから。でも、社会に出た時にそれでやっていけるかどうかって話になると、きっと三橋はすごく苦労するんじゃないかって俺思ってさ。先生の話、なるほどなぁ大変だよなって思った」 遠慮のない田島の発言に、三橋は今にも泣きそうな表情を浮かべていた。おそらくこの場に泉がいれば、拳骨の一つも食らっているだろう。そのぐらいに、三橋の背負っている雰囲気は悲惨なものに感じられる。 それなのに田島はケロリとして、笑みすら浮かべていた。 「他人事なんだけどね」 素っ気なく言い放ってそれでさ、と田島は口元をいっそう三橋の耳元に近づけて、今までとは違う内緒話をするような囁き声で言葉を区切って言った。 「誕生日プレゼントの代わりに、俺が言うこと真似して繰り返してくれる?」 目尻をしっとりと濡らしながら、三橋がゆったりと顔を上げた。 「く、繰り返せば、ゆるして、くれる、の?」 ゲラリ、と田島は声を上げて笑った。 「許すもなにも!」 突然の大声に驚いて、その拍子に浮かべるまでにとどめられていた涙がぽろりと頬を伝った。泣いちゃったの?と聞く田島に、泣いてない、よと反論する声は言葉に反して震えている。 それにも関わらず、田島は笑みを絶やさずにその様子をさも嬉しそうに眺める。三橋がそのことにショックを受けているのは表情を見れば一目瞭然なのに、そうして三橋が涙を流せば流すほど田島は上機嫌になっていくようだった。 「ずっと一緒にいて」 「え?」 「繰り返すの。はい」 「ず、ずっと一緒に、いて」 従順に繰り返す三橋に、まるで犬を扱うかのようにヨシ、と満足げに田島は呟く。 それじゃぁ、一生大事にしてやるよ。 押し付けがましい口調だった。 ただ繰り返しただけなのに、と三橋は内心思っていた。けれど同時に、多分これは俺の意志で言った俺の言葉になるんだろうなという認識もあった。 「三橋はこんなんだから、社会に出たら苦労するだろ。だから俺が一生守ってやるからね。誰にも泣かせないし誰にもちょっかい出させない」 「でも」 「ん」 「でも、く、繰り返しただけ、なのに、俺」 「だけど、三橋が自分で言った言葉だろ?」 あぁ、やっぱり。 田島のことが嫌いなわけではないのに、三橋は泣き出したい気持ちになった。 それを隠すために(きっと泣けば、理由を聞かれてそれに正直に怖いからだよと答えてしまう自分がいるだろうということを、三橋にしては珍しくも先読みすることが出来たからだ)遅くなったけど、でも、誕生日、おめで、と。そう言って、必死に笑った。 |